さよなら、尿管結石ババア

ナッツ

第1話

 それはまさに、雷が落ちたかのような激痛だった。

 クリーニングしたばかりのスーツに皺が寄るのも構わず、俺はオフィスの床に倒れ、のたうち回った。腹の中にウニでもいるのか? 顔中の全ての穴から液体を垂れ流しながら、俺は痙攣的に手足をひくつかせる。

「誰か救急車呼んで!」

「黒田先輩! しっかりして下さい」

 口々に何か言いながら、同僚たちが駆け寄ってくる。気絶寸前の激しい痛みの片隅で、こりゃ俺のクールなイメージは丸つぶれだな、とか、まだ午後の仕事用の営業資料を作り終わってないのに、とか、妙に冷静に考えていたのを覚えている。そして、もうひとつ。歪んだ視界の片隅に、とんでもなく違和感のあるものを捉えて、俺は思わずつぶやいた。

「なんだ……お前」

 俺の所属する営業部は体力的に大変ハードな部署であり、自然と他の部署に比べて年齢層が若めになっていた。加えて、得意先を回ることが多いという特性上、たいていの人間はスーツを着ている。だから、俺を取り囲むスーツの男女の中に、ヨレヨレしたTシャツを着た、腰の曲がったババアが混ざっているのを見て、俺は目を疑った。あまりにも異色だったのだ。

 ババアは憤怒の形相で俺を見下ろしている。なんとも不吉な目つきをしていた。本能的な恐怖を覚え、俺は這いずるようにして奴から離れようとした。

「動いちゃだめです、黒田さん……ババア? え、何言ってるんです?」

 そのあたりから記憶がない。俺はびっくりするほど大量の涎を垂れ流しながら、白目をむいて気失ったのだそうだ。


「尿管結石ですね。腎臓と膀胱の間の管に、カルシウムでできた石が詰まってしまう病気です。激痛を伴うことが多いので、痛みの王様、なんて呼ばれることもあります」

「はあ……」

 俺が白目をむいている間に、舞台はいつの間にか病院へと移動していた。左腕には点滴がつながれ、そのお陰なのか、腹の痛みは嘘のように収まっている。頬が少しカピカピするのが気になったが、それ以外に異常はなく、何とか午後には仕事に戻れそうだと思った。

「石はだいたい8ミリくらいの大きさで、自然排出が期待できると思います。水分をたくさん摂って下さい。石の溶解を促す薬と、痛み止めを処方しますので……」

 俺とたいして年齢の変わらなそうな医者が、テキパキと処置について説明している。稼いでんだろうな、とか、アタマいいんだろうな、とか、ぼんやり考えているうちに、ふと疑問が頭をもたげた。

「すみません。幻覚なんかも、尿道結石で起こる症状なんですかね?」

「……は?」

 明らかに、何いってんのコイツ、という顔であった。きまりが悪くなった俺は頬を拭いながら、「やっぱり何でもないです」と答える。数秒の妙な沈黙のあと、医者が再び、淡々とした口調で処置の説明を続けた。ぽたり、ぽたり、と落ちる点滴を眺めながら聞き流していると、意地でも見ないようにしていた皺だらけの顔が視界を占領した。

「おい。医者の話ちゃんと聞きな」

「ひっ、喋った」

「喋っちゃ悪いですか」

 医者はいたく気を悪くした様子で顔を上げた。

「いえ、先生のことじゃなくてですね。その」

 俺はあわてて、しどろもどろになりながらも考えを巡らせた。クールになれと、己に言い聞かせる。

「この部屋にいるのって、先生と私の、二人だけですか……?」

 医者は目を見開いた。訝しげにゆっくりと周囲を見回して、最後に、変な生き物でも見るような視線を俺に戻した。

「あっ、やっぱり何でもないです」

 ブルドッグの干物のような顔で俺を睨みつけている老婆の姿は、どうやら俺にしか見えていないようだった。しかし、「変なババアが見えるんですけど」などと話そうものなら、きっと心療内科行きになるだろう。会社に戻れなくなってしまう。それだけは避けたかった。

 医者は溜息を一つ吐く。

「黒田さん。あなた、最近の体調はどうですか? 顔色も悪いですし、血液検査の結果も芳しくありません。食事や睡眠はきちんとしていますか?」

「あっ。はい。バッチリですよ」

 俺は即答した。微熱が続いているとか、固形の便を久しく出していないとか、口内炎が3つほど出来ているとか、変なババアの姿が見えるとか、馬鹿正直に答えるほど愚かではなかった。四半期に一度の全社会議を数日後に控えており、俺はそこでプレゼンターを務めることになっている。同期で最も早く主任に昇進した俺に敵意を持つ人間は少なくないため、徹底したデータ収集と質疑応答のシミュレーションを持って望む必要があった。きちんとした食事や睡眠? そんなものはファンタジーであった。

 半笑いの俺を見て、再び医者は溜息を吐いた。

「お大事に」


***


 未完成の資料で何とか営業先での仕事を終え、オフィスに戻った俺を、同僚たちは驚いた顔で出迎えた。電話で回復した旨を連絡したはずだが、情報が錯綜し、何やらヤバイ容態だという噂が広がっていたらしい。

「心配したんすよ。意識不明の重体だとか、いやもう死んだらしいとか色々で」

「普通に生きてるわ」

「なんか、救急車の中で内臓ぶち撒けて死んだって噂もありましたし」

「数時間でそこまで悪質な噂が広がるのかよ。俺嫌われてんの?」

「はは。まあ、お元気でよかった。じゃあ資料の添削お願いできますか?」

「ほいほい」

 時計は21時を回っていたが、オフィスにはまだ十人程度の人間が残っていた。すでにタイムカードを処理しているため、つまりサービス残業中のため、食事や休憩は各自適当にとっている。やや弛緩した空気の中、キーボードを叩く音と、紙の資料をめくる音が耳に心地よい。

 後輩の資料を修正し終えた俺は、ようやく自分の仕事に取り掛かる。ここから終電までの二時間で、どこまで集中できるかが勝負だった。

「おい」

 しかし、低いしゃがれ声が集中を妨げる。ババアは俺のデスクの横に仁王立ちし、威圧的に俺を見下していた。

「水は飲んだのか。薬はどうした。飲めと言われただろう」

 無言で缶コーヒーに口をつけると、途端にババアは額に青筋を立て、唾を飛ばして怒鳴った。

「こ、こ、この馬鹿者が。医者の話を聞いてなかったな。コーヒーはしばらく避けろと言われただろうが。無能が。イカレポンチが」

「う、わかった、わかったって。情緒不安定かよ」

 ババアの怒りの激しさに圧倒された俺は、マグカップに白湯を入れてデスクに戻る。本当は白湯など好きではなかったが、ココアだの緑茶だのを持っていってまたブチ切れたらと思うと怖すぎた。白湯をすすりながら横目で伺うと、ババアはまだ怒りでハアハアいっているものの、文句をつける気はなさそうだった。俺はパソコン画面に視線を戻し、何気ない調子で問いかけた。

「あんた、怨霊ってやつか? 病院で俺に取り憑いた幽霊か何かか?」

「えっ。俺のことっすか」

 隣の席の後輩がぎょっとしたように俺を振り返ったので、手を振ってこちらの話だと誤魔化した。ババアは凄まじい存在感を放っているので、自分にしか見えていないということをつい忘れてしまう。後輩は「こっちの話ってどっちの話だよ……まじ怖え……」と小さく呟きながら自分の仕事に戻っていった。

「あんたはどう思うんだい」

 ババアに問い返されて、俺は肩をすくめた。考えてみれば、ババアを最初に見たのはこのオフィスで倒れた瞬間だったような気もする。すると、病院ではなく、取り憑かれたのは会社ということに……?

 頬に何かが触れた気がして横を見た俺は、思わず小さく悲鳴を上げた。

「ひい」

 五センチと離れていない至近距離に、ババアの鬼の形相が迫っていた。ババアは食いしばった銀歯の間から絞り出すようにして問いかける。

「お前さん。わしがここにいるのが嫌なんじゃろ。消えてほしいだろう」

「あっ。いえ。特には。全然いてもらって構わないっていうか」

「消えてほしいだろう」

「消えてほしいっす」

 つい正直に答えてしまった俺の言葉に、気分を害したのか納得したのか、どちらともつかない様子で頷くと、ババアは皺だらけの顔面をさらに皺くちゃにし、歯を剥き出してこう言った。

「だったら、まずは水をたくさん飲むことだね」

 俺は目を見開いた。

 ババアの言葉から、頭の中でひとつの仮説が組み上がっていったのだ。

 ババアが現れたタイミング。俺にしか姿が見えないという事実。「自分を消したければ水を飲め」という言葉。

 同時に、医者が病状の説明の中で見せてきた画像も脳裏に浮かんだ。俺の可哀想な尿管に詰まっているという結石……薄汚れた茶色で、ゴツゴツと尖り乾いたそれは、目の前のババアに似ていないこともなかった。

「あんたの正体は……俺の尿管結石の擬人化……?」

 ババアは問いかけに答えることはなく、ただ意味深に皺を深め、俺を見返すばかりであった。

「狂ってやがる……」

 あまりの現実に打ちのめされる俺に、後輩の恐恐とした呟きは耳に入らなかった。


***


「うおわあああッ!」

 翌朝の六時半、1LDKの部屋に俺の悲痛な叫びが響き渡った。

 六時半。六時半である! 始発はとっくの昔に出ている。まとめなければならないデータが山ほどあるというのに、粉々に破壊された電子式の目覚まし時計は、俺を起こしてはくれなかった。当然である。

「あんただな、時計を壊したのは!」

 半泣きで髭を当たりながら猫背のババアに怒鳴り散らすが、ババアは昨日と変わらず、意味深な無表情で俺を見返すばかりであった。

「わしにはそんなことできんよ。自分でやったんだろ」

「ふざけんじゃねえ、どうしてくれんだよクソババア」

「な、何だと。お前。く、く、糞餓鬼が。ションベン小僧が。イカレポンチの分際で。煮て喰ったろか」

「嘘ですすんません。ああもう。クソッ」

 唐突にぶち上がるババアの怒りのボルテージに気圧されて、俺は責任の追求を諦める。頭がくらくらするが、それどころではなかった。

 洗濯物の山の中から、まだイケそうな靴下を引っ張り出した。ハンカチも同様だ。ただし、ワイシャツの皺は営業マンとしては致命的なので、こればかりはクリーニング屋でアイロン済みのものに袖を通す。慌ただしくスーツや腕時計を身に着け、鞄の中身を確認していると、背中越しにババアが問いかけてくる。

「始業は9時だろう。まだ少し寝ててもいいくらいだろうが。あんた、四時間しか寝てないよ」

「それだけ寝りゃ十分だ。ていうか、仕事があるんだよっ」

「あんたそのネクタイしていくのかい。火の元は? ちゃんと確認しな」

 騒いでいるババアを無視し、俺は部屋を飛び出した。駅まで猛ダッシュだ。途中、ふと気になって振り返れば、ババアはミイラ化したラムちゃんの如く俺の後を飛んで付いてきていた。俺は泣きたくなった。俺とあたる君と分けたものは、一体何だというのだ。

「会社についたら水飲みな。あと、何か食べんさい」

「うるせえな」

「あ?」

 満員に近い電車の中で、ババアは数人のおっさんと重なり合ってケルベロスのような形態になっている。俺は目をそらしながらボソボソと口にする。

「朝飯はいつも食わない。眠くなるのが嫌だからな。まあ、水はあとで適当に飲むさ」

「わしに消えてほしいんなら、あんた、もっと真面目にやんな」

 心外である。医者に寄越された薬はきちんと飲んだし、ババアに怒鳴られるままに昨晩は寝るまでに2リットル近く水を飲んでいる。言い返そうとした瞬間に電車がカーブに差し掛かり、おっさんたちの体重を背中に受けた俺はエビのように反った。近頃、こういう時に踏ん張りがきかなくて困る。だから混み合う時間帯に電車にのるのは嫌だったのだ。

 この事態を招いたババアの顔を睨みつけると、ババアは無表情に俺の顔を観察しているようだった。

「ひどい顔色だね。あんた、熱あるんじゃないかい」

「駅まで猛ダッシュさせられたせいでな」

「……」

 ババアは珍しく言い返さなかった。じっと俺を観察するババアは不気味ではあったが、顔を背けるのは癪で見返していると、ふと、昨日よりも奴の目玉が大きく見えることに気づいた。確か、深い皺に埋もれて、垂れ下がったような目元をしていたはずだった。頬のラインも昨日よりも張りがあり、赤みがあるように見える。気のせいだろうか、これは……。

(少し、若返っている?)

 見れば見るほど、そんなふうに感じた。

 尿道結石の化身たるババアが若返るということ。それはつまり、結石が小さくなっていることを表しているのではないか。

「会社になんて行かないで、家帰って寝たほうがいいよ、お前」

 顔とは真逆にファンタジーなことを言い出すババアに、俺は乾いた笑みを向けただけだった。


***


「先月はなんで目標達成できなかったの?」

 黒縁メガネの上司が、ボールペンでこめかみを押しながら問いかける。これは苛立っている時の上司の癖であった。俺は努めて淡々と、冷静に状況を報告した。

「はい。製品の実績がまだ乏しく、口コミによる評価も少なかったため、他社に競り負けてしまうパターンが多かったです。しかし、徐々にフィードバックも集まってきているので、今後はアピールしやすくなっていくかと思われます」

「今月は? 今何パーセント?」

「……40程度です。しかし、」

「はあ? 駄目じゃん、もう下旬に入ってるんだけど。見通し甘すぎ」

 いやいやをするように首を振りながら上司は俺の言葉を遮り、大きく息を吐き出した。そこから説教が始まる。要領が悪い。態度が悪い。そもそもお前は役職と給料に見合う仕事をしていない。なんか調子に乗ってるんじゃないの? あとネクタイの柄も変。滾々と続く上司の説教は、昼休みを告げるチャイムが鳴った後も続いた。俺は軽いめまいと、微かな下腹の痛みを覚えながら、直立不動のまま上司の言葉が尽きるのを待った。

 ようやく解放されそうな雰囲気になってきた時、ふと、上司は思いついたように言う。

「そういや君、昨日医者にかかったんだって?」

「は」

 一瞬「大事には至りませんでした。ご心配をおかけしました」という言葉が胸をよぎったが、口にする前に、

「平日に病院なんていいご身分だよね。そういう贅沢は、もうちょっとマシな仕事ができるようになってからしな。ほら、さっさと戻って仕事、仕事」

 と吐き捨てる言葉に遮られた。

 俺は内心で苦く笑う。一瞬でも気遣いの言葉をかけられるかと想像した自分が滑稽だったのだ。大人なのだから、自分の心配は自分でするのが当たり前である。俺は一礼してさっさと自分のデスクに戻った。

「あの男、偉そうだね。昼休みに入ってんのに休ませないのは法律違反なんじゃないのか。わしはああいう男が一番嫌いなんだよ」

 後ろでブツブツと憤慨しているババアを無視して、俺はスリープ状態になっていたPCを起動させた。

「あ、黒田さん戻ってきてる。大変っすねエリートは」

 コンビニのビニール袋を下げた後輩が、皮肉なんだか本気なんだかわからないことを言いながら席についた。俺はPC画面を注視したまま、肩をすくめるだけで返す。

「あ、そうだ。お前ミーティング用のスライド、そろそろ完成してないとまずいだろ。後で見てやるからメールで送っとけ」

「え? いや、いいっすよ。今回は佐々木さんあたりに確認してもらうっす」

「なんでだよ」

 うちの会社にはメンター制のようなシステムはなく、誰がどの社員の教育係か、というのは所謂暗黙の了解で成り立っているようなところがある。席が近かったこともあり、この後輩のフォローは基本的に俺の仕事であった。

 後輩は気まずそうに頭をかいていたが、ふと俺に向き直ると、神妙な顔をして言う。

「黒田さん、最近忙しすぎですって。土日も出てきてるの、俺知ってるんすよ。また倒れたらどうするんすか。そのへん、佐々木さんはまだ余裕ありそうだし……」

「はあ?」

 同期の佐々木は、確かにどこか余裕のある奴であった。残業時間も少なく、さわやかで、顧客回りも俺ほど靴底をすり減らしている様子はないのに、成績はいつも上々である。要領がいいのだろう。要領も態度も悪いと、上司からお説教を受ける俺とは正反対のタイプということだ。

 この後輩、俺から佐々木に鞍替えしようと目論んでいるのだろうか。ぱっとしない俺よりも、佐々木に付いた方がこの先のサラリーマン人生安泰だ、とか考えているのだろうか。嫌な想像に、自然と口調が刺々しくなる。

「余計なお世話だ。そういう心配は、もうちょっとマシな仕事ができるようになってからするんだな」

 知らず、先程の上司と同じ言い回しをしていた。後輩は一瞬むっとした表情を見せたが、小さく「っす」と返事をし、俺の言う通りに資料を添付したメールを寄越す。

「今の言い方はないんじゃないかい」

 背中から掛かるババアの声を無視し、ファイルを展開した。悪くはないが、所々でわかりにくい表現やデータの考察不足が見られた。修正履歴付きで内容を直し始める。

「あんた、昼ごはんはどうするんだ。また食べないつもりか」

 後輩にメールを返した後は、自分の発表用資料を作成する。全社会議は明後日に迫っていた。もう一刻の猶予もない。俺は充血した目を瞼の上から揉み、強くなってきた下腹の痛みを誤魔化すためにロキソニンを煽り、キーボードを叩き続けた。

 この日も終電ギリギリまで仕事をしたが、いつも何やかんやと話しかけてくる後輩との間に、会話は一言もなかった。


***


 人通りのない帰り道を、夜風に吹かれて歩く。頭がくらくらした。足を一歩踏み出すごとに、体が地面に沈んでいくような感覚を覚えた。それを、歯を食いしばって耐える。体調が悪い? 贅沢な! と、脳内で上司が嘲笑った。まあ、実際にはそんなことは言われていないのだが。

「おい、何か食べな。外食でいいから」

 一日無視していたにも関わらず、ババアはまだ一人でわいわいしている。ファンタジーなことを言っては、噛みつきそうな顔で俺を睨みつける。ババアに噛まれたら俺もババアになるのか? 下らない妄想が頭を過るのは、疲れているからに他ならない。

 飯を食え。もっと寝ろ。明日は会社休め。タバコやめろ。あと、ネクタイも買い換えろ。空中を漂いながら、念仏のように唱え続けるババアに辟易し、ついに俺は奴に向き直った。

「俺は頭も要領も悪いからな、出世して金を稼ぎたけりゃ、頑張るしかないんだって! 寝たり食ったりしてる暇があったら働かなきゃいけねんだよ! あんた、俺の代わりに仕事してくれるわけ?」

 ババアは一瞬、きょとんとした顔をした。俺の方は怒鳴った反動で、全身から力が抜けそうになった。しばし見つめ合ったあと、ババアは心底不思議そうに口を開いた。

「お前さん、なんでそんなガムシャラになるんだ?」

「……は?」

 今度は俺のほうがぽかんとしてしまった。

「いい部屋に住んで、貯金だってそれなりにあるだろ。どうしてそこまで必死になる? あんた、なんのために働いてるんだ」

「……うるさいよ」

 力なく言い返した。営業マンの端くれとして、「うるさい」など反論として最悪の言葉のチョイスだと思うが、それ以上頭が回らなかった。疲れて頭が回らないから説得力のある反論が思いつかないのだ。そう信じたかった。

 内心静かに動揺する俺をよそに、ババアはババアで勝手にヒートアップしていく。

「自分でわかんないのかい! それでボロボロになって、阿呆なんじゃないか」

「勘弁してくれよ……」

「ろくに寝ない。飯も食わない。人の気遣いは突っ返す。あんた、一体どこに向かってるんだい!」

「……」

「このままじゃあんたね、駄目になるよ! ガタガタの体抱えて、一人ぼっちで、」

「うるせえッつってんだろ!」

 先程よりも大きな声が出た。目が眩みそうになったが、なんだかもう止まらなかった。

「余計なお世話だ、気持ち悪いんだよお前! 俺がボロボロになろうが死のうがあんたには関係ないだろうが! 頼むからもう消えろ。今消えろ! そらッ!」

 ババアに向かって自動販売機で買った水のボトルを投げつけた。当然、ボトルはババアの体を素通りし、背後にあった塀にぶち当たる。それでも構わなかった。鞄を投げつけ、ライターを投げつけ、履いていた革靴も両方叩きつけた。続けて靴下も脱ごうとして、バランスを崩してその場にへたり込む。

 座り込んでハアハアと息をついているうちに、少しだけ冷静になってきた。何やってんだろう、俺。どんなに追い詰められても、流石にこんな荒れ狂う変態みたいなマネはしたことがなかった。ここにいたら通報されかねない。阿呆みたいに喚いてしまったせいだ。

 ああ、限界なのかもしれないな。

 どこか他人事のように、初めて俺は思った。

 塀に手を付き、靴を履き直しながら上目でババアを伺った。間違いなくブチギレるだろうと思ったのだが、意外なことに奴は静かに、歯がゆそうな面持ちでこう告げただけだった。

「わしだってさっさと消えたいよ。せめて、寝る前に水と薬くらいは飲みな。馬鹿野郎が」


***


 痛みの王様、というフレーズを考えたやつはどこの誰だろう。きっとセンスに溢れた尿管結石患者だったに違いない。激痛と呼ぶにあまりに相応しいこの激痛に、ぴったりの名称である。

 二度目の発作が起こったのは、最悪なことに通勤途中の電車の中であった。午前三時ごろに、冷や汗にまみれて飛び起きた瞬間から嫌な予感はしていたのだ。大量の水と薬を飲み、ベッドに戻って布団にくるまったが、結局明け方まで眠ることは出来なかった。何とか宥めすかして出勤し、ついに電車の中で「ドカン」だ。ひとたまりもなかった。

 痛みでのたうち回り、勢い余ってゲロまで吐いた俺は、すみやかに病院へと救急搬送された。命に別状はない、病院へ行くほどのことではない、そして、俺は会社に行かねばならない――。何とかそう訴えようとしたのだが、泣きながらゲロを吐きながら捲し立てる言葉が聞き入られるはずもなく、錯乱していると判断されたのだろう、俺は鎮静剤を打たれて意識を飛ばした。

「正直、来院されてもできる処置は無いんですよ。水をたくさん飲んで排出を促して下さい」

 目を覚ました俺に対して、クリニックの医師や看護師たちはどこか冷たかった。結石が自然排出できるサイズであれば、命にかかわる病気ではないためだろう。そう言ったのに、回りの人間が俺を救急車に押し込んだのだ。

 点滴が終わったら帰ってよいということ、そして痛み止めとして即効性のある座薬を追加で処方する旨を説明し、医者はさっさと出ていった。


「申し訳ありません、体調を崩しまして。ええ。回復したので、今から出勤を、」

『いや、君はもういいから。休みなよ』

「は――」

 無断欠勤となってしまったことを詫びるために電話したところ、上司にあっさりと告げられて俺は絶句した。明日の全社会議はどうなる? それに、営業予定の担当エリアを放置することになってしまう……。

 ぐるぐると考えを巡らせる俺に、上司は淡々と話し続けた。

『午前中のうちにね、君の仕事はメンバーに割り振ったよ。会議のプレゼンターは佐々木に担当してもらう。資料は共有フォルダに入ってるやつでいいんでしょ?』

「は、はあ」

『少なくとも今日と明日は病欠扱いにする。本番で今日みたいなことになっちゃ、課全体が迷惑するんだ。わかったね』

 そう告げる上司の声は、いつもどおりそっけなく嫌味っぽかったが、さほど棘は感じなかった。呆れられたのか。もはや無関心なのか。

 電話を切った後、俺はしばらく呆然としていた。やがて、ゆっくりと簡易ベッドに横たわる。腕に繋がれた点滴の管が揺れた。頭の中に空白が広がっていた。


 ――ミーティングの設営完了しました。

 ――余裕がある人、悪いけど鈴木の資料準備を手伝ってやってくれ。印刷機の調子がおかしいらしい。

 ――A社のヒヤリング行ってきます。


 寝転んだまま、所属チームのグループラインを見るともなく見る。オフィスの営みやざわめきがそのまま伝わってくるようだった。そこに俺がいないというのは奇妙な感じだ。ちらほらと、俺の仕事を割り振られたらしい社員のメッセージも混ざっている。頭がぼんやりして、いたたまれないという感情すらどこか遠かった。

 とてつもなく大事なものを失ってしまったような喪失感と焦り、そして奇妙な開放感が同時にあった。何もすることができないのに、グループのラインから目を離せないでいる。

 すると、ババアのシワシワの手がそっとスマホの画面を隠した。

「いや、でも……」

「でもじゃないよ」

 力なく抗議する俺に、ババアの声がやけに優しかった。ババアは腰をかがめて、俺の顔を覗き込む。

「もっとちゃんと、あんたに気をつけるよう伝えるべきだったよ。可哀想に。痛かっただろう?」

 それ見たことかと、得意そうな顔をしているかと思いきや、ババアは自分が痛い思いをしているかのように表情を歪めていた。そのせいか、いたわりの言葉がやけにすとんと胸に落ちる。強張っていた心が溶け出していくのを感じた。ああ、俺は本当に、疲れていたのだ。

 目元に涙が滲むのを見られたくなくて、俺は顔を背けたまま「うん」とだけ答えた。

 

 平日だけあり、病院の待合室は空いていた。

 泌尿科を訪れているという恥ずかしさから、前回は終始うつむいて呼ばれるのを待っていたが、今日はあまり気にならず、見るともなく周囲を見回した。この曜日、この時間に泌尿科などにいる人間で、サラリーマンは少数派だろう。自分がぼけっと待合室に腰掛けている事実は、なんだか夢の中のように現実感がなかった。

 部屋着のような服装の人間がほとんどの中、ふと、灰色のスーツを着た女性が受付に向かうのを見て仲間意識を覚える。顔はよく見えなかったが、自分と同年代くらいに思えた。もしかして彼女も尿管結石でぶっ倒れたのかもしれない。お大事に。心の中で勝手に決めつけて語りかけているうちに、支払いの順番が回ってきた。

 夢見るようなぼんやりした足取りで帰宅し、ベッドに潜り込んだ。

 癖でスマホに手を伸ばそうとしたが、ババアに再び「寝な」と命じられ、命じられたという事実におかしな安心感を抱きながら、俺は深い眠りへと落ちていった。


***


 貧困、というほどではなかったが、俺の家はあまり裕福ではなかった。

 田舎だったせいもあるだろうし、父親がころころ仕事を変えていたせいもあると思う。冬は隙間風が入り込む古いアパートに、父親は何をしていたのか、滅多に帰ってこなかった。

 俺の母親は体が弱かった。体は弱いが気丈な人だった。朝から晩までパートで働いて、きつかっただろうに弱音一つ吐かなかった。体調を崩してもなかなか俺に悟らせず、「お金がもったいないでしょうが」と医者にも行かなかった。気の強いところは、思えばババアにちょっと似ているかもしれない。

 いつかお母さんに楽をさせてあげたい。一生懸命働いてお金持ちになって、お母さんを守ってあげたい。

 俺はそんな風に考えて、まあ、それなりに頑張った。

 しかし残念ながら母は長生きできなかった。もともと体が弱かった上に長年の貧乏生活が祟ったのだろう。ろくに孝行も出来ないうちに、母は死の床についた。

『アタシのことはいいから、あんたは自分のことを考えんさい。どうもあんたは自分のことを適当にしがちだからね、心配だわ。風邪引くんじゃないよ』

 母はそんなことを言っていた。最期までサバサバした人だった。


 すまん、母ちゃん。不摂生のせいでしょっちゅう風邪も引いてるし、近頃では尿管結石などというおぞましい病にかかってしまった。タバコの本数は増える一方だし、微熱が出るし、下痢も止まらん。あと、母ちゃんのために頑張って働こうとしていたこと自体、スッカリ忘れていたんだ、俺は。

 懐かしい声に、馬鹿野郎、と言われた気がした。


 ***


 重いまぶたを開けると、部屋の中がオレンジ色に染まっていた。病院から帰って数時間か、と思いきや、スマホを見て日付が変わっていることに気づく。24時間以上眠っていたということか。どおりで頭がすっきりしているはずだ。

 ベッドの下には、病院の帰りに買った2リットルのペットボトルが空になって散乱していた。

「起きたかい」

 逆光のせいか、ババアの顔はあまりババアっぽく見えなかった。俺の母親が死んだのと同年代か、せいぜい少し年上くらいに見える。また若返ったのかもしれない。やはり、ほんの少しだけ母に似ていると思った。

 散らかったペットボトルを見遣りながら、俺はババアに聞いてみた。

「もしかして、あんた、水飲ませてくれたりしたの?」

「はあ? お前さんが無意識で飲んだんじゃろ」

 そっけなく帰ってくる言葉に問い返そうとしたところで、インターフォンが鳴り響いた。宗教勧誘か何かか? と訝しがりつつモニターを見ると、帽子を被った兄ちゃんが元気よく挨拶してきた。

「黒田さんのお宅ですね? 出前の品をお持ちしました!」

 よくわからないままオートロックを解除し、玄関先で受け取ったそれは、ホカホカと湯気の立つ煮込みうどんであった。支払いはクレジットで済んでいるということで、兄ちゃんは爽やかに立ち去った。

「え、注文したの?」

「だから、アンタが無意識で注文したんじゃろ。さっき電話しとったよ」

 しれっとしているババアに言い返そうとしたのだが、それどころではなく、俺は手にしたうどんから目が離せなくなっていた。思えば、まる二日ほど何も食べていなかったのだ。激しい空腹感を今更のように自覚した。

 いそいそと器をテーブルに置き、割り箸を割っているところで、再びインターフォンが鳴り響いた。

「ネットスーパーです。ご注文の品をお届けに上がりました」

 鶏肉、豚肉、キャベツにホウレン草にトマト缶。米5kgに、さまざまな調味料。惣菜も数点入っていた。ふた抱えほどもある大量の食料品を置いて、配送員のおっちゃんはさっさと帰っていく。

 ずっしりしたビニール袋に囲まれて、俺はまたしても、じっとりとババアを見る。

「さっき登録してたじゃろ。無意識でな」

「ああ、そう」

 俺は反論を諦めて部屋に戻った。あたたかく香る湯気に胸がときめく。まずは、このうどんを片付けなければいけないだろう。


***

 

 土日に出社しないのは実に久しぶりのことである。

 大抵は土日のどちらか、最近に至ってはほぼ両方出勤し、何やかんやと仕事を片付けていたのだ。外回りやメール対応がなくなる分、週末はデスクワークが捗るのである。

 木曜、金曜と病欠してしまった以上、土日は行ったほうがいいのでは……という気持ちもあったが、ババアの「馬鹿が。休日は休むもんだよ」という一言に押される形で、俺は土日をスウェットで過ごすことに決めた。単に、迷惑をかけて休んでしまったため、社員の誰かと顔を合わせるのが気まずかったというのもある。迷いを断ち切るべく、手持ちのスーツは全てクリーニングに出してしまった。これでようやく腹が決まった。

 昼まで寝たあと、俺は猛然と部屋の片付けを始める。寝不足が解消されて視界がクリアになったためか、家の中が異常に汚く見えだしたのだ。なんだこの豚小屋は。俺はこんなところで暮らしていたのか。


「燃えるゴミとプラスチックゴミは分けな」

「ほら、ここにも埃がたまってるよ」

「そんなに入れたら洗濯機が壊れるだろうが。色物は次にしな」


 ババアの偉そうな指示の下、俺は黙々と手を動かした。職場のことを考えたくなくて、逃げるように掃除に打ち込んでいたわけだが、意外なことに、俺はだんだんと楽しくなってきていた。久しぶりに「生活」というものをしている気がした。俺は掃除機をかけ、濡れ布巾で床を拭き、コロコロでカーペットを綺麗にして、スポンジでシンクを磨いた。溜まっていたゴミは、実に大サイズのゴミ袋5つ分になった。

 掃除の後は料理である。ネットスーパーで買い込んだ食材のうち、日持ちしないものから消費していくことに決めた。豚肉たっぷりのカレーに、ありったけの野菜を放り込んだポトフ。米は一気に三合炊いて、食べ切れない分は冷凍することにする。現場監督と化したババアは、隣でああしろ、こうしろと指示を飛ばしているが、俺とて料理の経験がないわけではない。自分でも意外なほどに難なく包丁を扱いながら、学生時代に、母の代わりに台所に立ったことを思い出す。「いいからアンタは勉強でもしてな」と怒る母と、喧嘩しながら料理を覚えたものだ。

 懐かしい記憶に、ふと口元が緩む。自分の原点ともいえるような思い出を、どうして俺は、今まで振り返ろうとすらしなかったのだろうか。

「なにニヤニヤしてるんだい。気持ち悪いねえ」

「いいだろ、別に」

「別にいいけどね。とにかく薄気味悪いんだよ、アンタは」

 何か普通にひどいことを言うババアの声は、掠れてもしわがれてもおらず、また少し若返っているように聞こえた。

 出来上がった料理をテーブルに並べるころには、すっかり夜になっていた。網戸にしているベランダから涼しい風が吹き込んでくる。俺はコップに麦茶をつぎ、ゆっくりと食事をとった。腹の中に、穏やかな熱が満ちていく。生きている、という感じがした。

「そろそろ窓閉めな。風邪ひくよ」

「あー」

「おい」

 無意識にタバコに伸びていた手を、ババアが鷹のような目で見咎める。俺はちょっと肩をすくめて、大人しく手を引っ込めた。不思議と、そんなに吸いたいとも思わなかったのだ。

 そんな自分がおかしくて、俺はまたちょっと微笑んだ。


***


「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」

 月曜日。朝一で上司のもとに向かい、開口一番で謝罪した。上司は指を組み、長々と息を吐き出した後に、眼鏡越しに俺を睨めつける。

「わかってると思うが、大事な会議を体調不良で欠席って、社会人として失格だからね」

「はい、すみませんでした」

「体調崩すくらい頑張る俺かっこいいとか思ってない? 傍から見ててかなりキモいよ、そういうの」

「いえその、申し訳ありませんでしたッ!」

 三十分ほど説教を食らったあと、俺はやっとのことで廊下に逃れた。背中にじっとりと汗をかいていた。上司の言葉は、過剰な悪意に満ちている一方で、大筋は正論なので心にくることが多いのだ。

「むかつく男だねえ本当に!」

 などとわいわい騒ぐババアの言葉を聞き流しながら歩いていると、前方からもうひとり、会いたくないが会わねばならない人物が歩いてきた。

 なんと声をかけるか、一瞬こちらが躊躇っているうちに、その人物は俺に気づいて馬鹿でかい声で話しかけてくる。

「あっ、黒田じゃん! 尿管結石の調子どう? 血尿とか出た?」

「あんまでかい声でその話するなよ、佐々木……」

 廊下を歩く社員たちが、振り返ってこちらを伺っている。営業課の黒田といえば出世頭のイメージがあっただろうと自負しているが、それはもう過去の栄光となった。今の俺は「尿管結石の黒田」だ。いや「血尿の黒田」かもしれない。

 俺のイメージダウンを加速させる佐々木に一言言いたい気持ちはあったが、やはり、筋は通さなければいけない。俺はさっと頭を下げた。

「金曜はすまなかった。ろくに引き継ぎもしないで、発表を押し付けてしまって」

「あっ。それは大丈夫。資料めっちゃよく出来てたし、質疑応答用のメモも完璧だったから、話すだけなら何も問題なかったよ。むしろ、いいとこ取りして悪いなって思ったくらい。頭なんて下げないでよ」

 促されるままに顔を上げると、佐々木はあっけらかんと笑っていた。どこまで本気なのかわからずに戸惑う俺に、佐々木はぐっと一歩距離を詰めて耳打ちをしてきた。

「ねえ、今ブッチーに怒られてきたでしょ」

「ブッチー? 何それ」

「柳原課長補佐だよ。黒縁メガネだからブッチー」

「お前な……」

 佐々木のこういう軽薄なノリが、俺はどうにも苦手であった。いや、正直に言えば、軽薄なのに仕事はしっかりこなし、周囲の信頼を得ている様子が妬ましいのかもしれない。

 複雑な思いで苦笑していると、佐々木はさらに声を潜め、秘密めかしてこう言った。

「あたしもしょっちゅうブッチーに怒られるんだよ。数えてみたんだけどさ、うちの課だと、あたしと黒田がダントツで怒られてる。ブッチーって性格悪いけど仕事できるだけあって、見る目はあるよね」

「はあ?」

 言っている意味がわからずに首を傾げると、佐々木は目を丸くし、唇をとがらせた。

「ブッチーに怒られると出世するってジンクス知らないの? あたしらライバルだねって言ってんの」

 じゃ、血尿出すのもほどほどにしなね! かなりの大声でそういうと、佐々木は派手なネイルを塗った爪をひらひらさせて去っていった。

 しばし呆然と廊下に立ち尽くしていた俺に、ババアが感慨深げに言う。

「同僚に恵まれてるじゃないか」

「……デリカシーは無いけどな」

 

***


 時刻は20時過ぎ。全社会議が終わったからと言って仕事がなくなるわけではなく、休んでいた間に溜まっていた書類もあって、俺は黙々とキーを叩いた。ババアにキレられないよう昼飯も夕飯もちゃんと摂ったためか、さほど疲労感もなく、もうすぐ終わらせる目処が立ちそうだ。一人、また一人を社員たちがオフィスを後にする中、しかし俺には、仕事の他にどうしても今日にやらねばならないことが残っていた。

「何をうじうじしてるんだい。ほら、言っちまいな」

 焦れたようにいうババアに背中を押され、俺は視線を画面から話さないまま、ようやくぼそりと口にした。

「……悪かったな、伊藤」

 声が小さいよ! と横でババアが怒鳴り散らすが、幸いにも後輩の耳には届いたようだった。

 隣の席の後輩は肩を揺らした後、やはり画面から目を離さずに問い返してくる。

「あ、休んでる間の仕事っすか? 俺は別に、そんなに大したことは……」

「いや、それもあるが」

 ここで有耶無耶にしてはいけない。俺は腹にぐっと力を入れ、覚悟を決めてひといきに謝罪した。

「俺の体調を気にしてくれたお前に、ひどい八つ当たりをしてしまったことだ。お前の言うとおりにするべきだったよ。反省してる」

 一秒、二秒。沈黙が続き、耐えかねて後輩の方を見ると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらをガン見していた。なんだこいつ。つっこもうとした言葉は、後輩の素っ頓狂な叫びにかき消された。

「エエエエーッ!?」

「うるさっ。何だよ」

「いや、どうしたんすか。キャラじゃなくないですか。普通にびっくりしますよ」

 早口でワタワタとまくし立てられて、だんだんとバツが悪くなってくる。というか、こいつの中で俺はそんな「謝らないキャラ」だったのか。 

 後輩は頭をかき、まだ落ち着かないように言葉を続けた。

「まあ、確かにあの時はちょっと、この血尿クソヤロウと思いましたけど」

「そんな事思ってたのかよ。ていうか、血尿の噂広めたのお前だろ」

「それに、変な柄のネクタイしてんなって、正直思ってますけど……」

「え……?」

「でも」

 いつもお喋りなこいつにしては珍しく言葉に詰まった後、後輩はやや照れ臭そうにこう言った。

「まあ、俺、黒田さんのこと尊敬してなくもなくもなくもないんで。平気っす。今後はお体大事にして下さいっす」

「……何だそりゃ」

 俺は再び画面に向き直った。背後でババアが「照れてんじゃないよ!」と笑っている。うるせえ、と心の中で言い返しながら、俺はごくごくと白湯を飲んだ。

「マジでびっくりしましたよ。何か心境の変化でもあったんです?」

 背後でゲラゲラ笑っている口煩いアドバイサーのせいである。しかし、そう言ったらせっかく解消された気まずさが怒涛の勢いで盛り返してきそうなので、俺は「さあな」とだけ答えたのだった。


***


 環境が同じである以上、生活を大きく変えることは難しい。特に俺はややブラックな会社に勤めていることもあり、滅多に定時では上がれないし、仕事の量は多いし、ついでに残業代はつかない。クソである。しかし、辞めることはできないし、辞めようとも思わない。結局俺は、働くことが嫌いではないのだ。上司に以前嫌味を言われたとおり、頑張る自分というものが好きなのかもしれない。

 それでも、意識の持ちよう一つで変えられることも多少はあるのだ。例えば食事を抜かないこと。流れてくる仕事を意地になって引き受けたりせず、適当に割り振ること。土日に休むことに変な罪悪感を抱かないこと。「ババアに怒鳴られないために」と生活を少し変えていくごとに、以前にはなかった豊かさのようなものを、俺は得つつあったように思う。

「黒田主任、ちょっと感じ変わりましたよね。彼女でもできました?」

「いや。尿管結石ができたんだ」

「……健康大事ですもんね。そういえば、前よりも顔色がいい気がしますよ」

 そのとおり、俺は健康体になりつつあった。体重は数キロ増え、めまいや立ちくらみが無くなり、毎朝適度な硬さの大便をしている。尿に血が混じる頻度も減っていた。

 すべて「ババアに怒鳴られないように」するための選択の、積み重ねによって得られた結果だった。

 近頃ではババアはあまり怒鳴らなくなり、怒鳴る用事がないせいか、会社にもついてこなくなった。日に日に若返り、柄にもなく儚さを増していくババアの姿に、俺は小さな不安と諦めを抱いていた。


***


「帰ったか」

 ビニール袋をガサガサさせながら戸を開けると、ババアが廊下に仁王立ちしていた。

「た、ただいま……」

「おう」

 ぶっきらぼうに返事をして、ババアは居間へと歩き去っていく。俺がいない昼間は一体何をしているんだろう? そのあたりは完全に謎だった。

 俺はババアの背中を見るともなく眺める。今朝よりもまた若返っているようだった。ぎりぎり「お姉さん」といっても差し支えないくらいの年齢に見えた。尿道結石おねえさん――それはそれで狂気を感じるので、ババアと呼び続ける他なかったが。

 考え込んでいると、ババアが唐突に振り返ったので、俺はどきりとして立ち止まる。

「今日はひと駅分早く降りて、残りを歩いて帰ってきただろ」

「え。なんで分かるのさ」

「偉いじゃないか。運動不足は体に悪いからね」

 ババアがにっこり笑うのを見て、俺は照れくさいような切ないような、複雑な気持ちになる。

 俺は冷凍してあったご飯をレンジで温め、手早く味噌汁を作った。おかずは帰り道にスーパーで買った惣菜だ。ババアに怒られないよう、青いものもチョイスした。平日は一から料理を作る余裕なんてないのでこんなものだが、それでもババアは「偉いじゃないか」と微笑む。

 俺はババアに見守られながら仏頂面で食事をとった。認めるのは癪であるが、ババアに褒められるのが嬉しくて、奴の言いつけを守っている節があるのだ。それがわかっているから、ババアはニヤニヤ笑いをやめない。

「まったく。餓鬼かね、あんたは」

「うるせえなあ」

 口答えしながらも、声には笑みが含まれた。ああ、悪くない、と思ってしまう。ずっと欲しかった何かが手に入りかかっているような、もどかしい感覚があった。


 顔をあげると、ババアはまた少し若返っていた。すっかり綺麗な姉ちゃんである。ババアに対して「好みのタイプだ」などと思ってしまう自分が嫌で視線をそらし、お茶を飲んでスマホをいじる。また視線を上げると、ババアはさらに若返っていた。

「ババア、なんで……」

「おや。分かってるんじゃないのかい?」

 ババアは目を細め、薄く笑いながらそう言った。

 小馬鹿にするような口調であったが、どこか柔らかく、優しさを感じる言い方であった。俺は口元を歪める。片手を下腹にあてがい、倒れて以来常に感じていた鈍い痛みを感じ取ろうと意識を集中させる。無駄なことだ。しかし、無駄だとわかっていても、言わずにはいられなかった。

「消えないでくれよ……」

「何いってんだか。あんたはもう大丈夫だよ」

 ババアは肩をすくめ、そっけなく言った。俺は思わず首を振る。テーブルに肘をつき、そっぽを向いているババアに、俺はぼそぼそと語りかける。

「大丈夫じゃない。俺にはあんたみたいな奴が必要……なんじゃないかと思う」

 伝えるべき言葉をうまく紡ぐことが出来ず、俺は唇を噛んだ。

 本当はずっと考えていたのだ。母という指針を失った俺が、何を求めつづけてきたのか。今の自分に必要なものは何なのか。

 ババアがふっと笑う気配がした。視線を戻すと、ババアはまた若返っている。瞬きの間に、ババアの姿が変わっていく。もはや中学生くらいに見えた。

 ババアはテーブルに肘をついたまま顎をしゃくる。

「我慢しないで便所に行きな」

「え……」

「え、じゃないよ。今度は膀胱炎になっても知らないよ」

 そんなことまでわかるのかと、俺は溜息をついた。

 水をたくさん飲む分、当然トイレに行く頻度は上がる。しかし、実を言うと俺は会社からずっと小便を我慢していた。変態と罵りたければ罵るがいい。完治が迫っていることを悟った俺は、おのれの尿管結石との別れを惜しんでいたのだ。

「膀胱炎は、困るな……」

 俺はのろのろと立ち上がる。便所に向かう道すがら、頬に涙が伝うのを感じた。泣くのは子供の頃以来だな、と思いかけて、俺はゆるく首を振る。最近、何だかんだで泣きまくっているではないか。床をのたうち回りながら、大の大人が滝のように涙を流した記憶は抹消したいところであったが。

 いずれにしても、俺は泣きながら放尿した。

 息子の内部に一瞬引っかかりを感じた後、それは勢いよく飛び出した。米粒ほどの大きさの、薄く茶色がかった結晶は、便器の中で一瞬舞ったあと、手を伸ばす間もなく自動洗浄で流れていった。

「ババア」

 呼びかけてみたが、居間からはもう、誰の声もしなかった


***


「一体何だったんだろうな」

「はい?」

「いや。こっちの話です」

 すっかり独り言が癖になっている俺に、医者は完全に引いている様子であった。エコー検査の結果を説明する椅子の位置が、通常に比べて微妙に遠い気がする。しかし、おかしな患者を持ってしまった彼の苦労も、今日で終わりのはずだ。俺の尿管に詰まっていた結石は綺麗に排出され、腎臓に新たな石ができている様子もないらしい。血液検査の結果もずいぶん良くなっているという。

 今後の生活の注意を医者が説明するのを聞きながら、頭の片隅では、俺はまたババアのことを考えていた。

 結局、ババアとは一体何者だったのだろう、と思う。ババアは、本当に尿管結石ババアだったのか? タイミング的に奴の正体を決めつけてしまっていたが、時間が経つにつれ、俺の中では違和感が大きくなる一方だった。

 ババアは常にキレていた。俺の不健康、不摂生に対して、鬼の形相でブチ切れ続けた。そして、ババアに怒られるまま、命じられるがままに、俺はどんどん健康になっていった。

 尿管結石が、果たしてそんなことを望むのだろうか?


「知らないよ。あんたが無意識でやったんだろ」


 目覚まし時計の破壊に始まり、水分の補給や眠っている間の買物。ババアによる干渉に憤る俺に、ババアは繰り返しこう言った。当時は誤魔化しているだけだと決めつけていたが、今になって、それは正しかったのかもしれないと思う。

 不健康で破滅的な生活に危機感を覚えた俺の無意識が、生活を正すため、イマジナリーフレンドならぬイマジナリーババアを作り出した。イマジナリーババアという無意識に促されるままに、俺は生活を改めていった。心理学など学んだことはないが、ありえない話ではないような気がした――。

「いやいや、だとしたらババアの外見とキャラクターはどっからきた? 俺のオリジナルか?」

「はあ?」

「いや。こっちの話です」

 医者はちょっと病みそうな目つきで俺を数秒眺めたあと、深々と溜息を吐いた。十中八九、精神に問題があると思われているだろう。

 しかし、気を取り直したように診断結果に目をやり、問題がないことを確認すると、やがて小さく頷いた。

「受付に戻ってくださって結構です。今回は薬の処方もありません」

「ありがとうございました。あの、変な患者ですみませんでした」

 俺の謝罪が意外だったのか、医者は目を丸くした。そして、小さく肩をすくめると、疲れたように微笑んだ。

「いいんですよ。最近、変わった患者さんには少し慣れてきましたから」

 医者というのはつくづく大変な仕事なのだろう。お大事に、という声を背に、俺は軽い足取りで診察室を後にした。

 今は金曜の午後である。時間がかかると見て午後いっぱい有給をとってしまったが、思いがけず暇になってしまった。今日は天気もいい。さて、何をして過ごすべきか。

 清々しい気分で支払いを済ませた俺は、クリニックを一歩出たところで、見覚えのある灰色のスーツ姿が目に止まって何気なく振り返る。

「えっ……」

 そして、雷に打たれたような衝撃を受けて棒立ちになった。

 駐車券を取り出そうとしていた手元が狂い、その場に小銭をぶち撒けてしまう。すれ違いかけていたスーツの女性が、クリニックに向かう足を止めて振り返り、そのため俺とまともに目が合った。

 驚きに見開かれる瞳。長めの髪の毛。少し顎の尖った顔立ち。その人物は、まさに――。

「にょ」

「尿管結石ジジイッ!?」

 俺よりも先に、目の前の綺麗な女性は、天地が割れるような大声でそう叫んだ。

「へっ?」

「あっ……いや、すみません! 何でもないです! ごめんなさい」

 女性ははっとしたように口を抑えて謝罪した。頬がみるみる赤くなっていく。少し涙ぐんでいるのは気のせいだろうか?

 女性は気まずそうに小銭を拾いながら、「ちょっと知り合いに似てたもので」と早口で言い訳する。俺も慌ててその場にかがみ込み、「すみません」などと言いながら自分でも小銭を拾う。そして、ちらりと女性の横顔を伺った。途端にあふれだす予感に、胸が高鳴り始める。

「あの、前にも受付でお見かけしましたよ。通院されてるんですか?」

「えっ。ええ、まあ」

 当たり障りのない世間話をしようとして、暴投してしまったことに気づく。ここが泌尿科のクリニックであることを忘れていたのだ。自己嫌悪でうずくまりたくなったが、幸いにも、女性はくすりと笑って混ぜ返してきた。

「実は、私もお見かけしたことあります。救急車で運ばれてきましたよね」

 今度は俺が赤面する番であった。俺の人生の中で、確実にワーストスリーに入る酷い姿を、好みの異性に見られていたというのは救いがたい。

 呻く俺を気の毒に思ったのか、女性は「お互い様ですから」と舌を出した。実にチャーミングな仕草である。

「その、やっぱり尿管結石で?」

「あっ。やはりあなたもですか」

「めちゃくちゃ痛いですよね」

「本気で死ぬかと思いました……」

 一体何を話しているのやら。声を潜めて話し、しゃがみこんで小銭を拾いながら、俺は頭の中で、また目まぐるしく考えつづけていた。

 ババアは、どうしてこの女性とそっくりの姿をしていたのだろう。

 最後の晩、俺はババアに「あんたみたいな奴が必要だ」と言った。俺を大事にしてくれる誰か。俺が大事にしたくなる、その笑顔のために頑張ろうと思える誰か。そんな誰かが、俺の人生には必要だった。

 小銭を受け取る手が触れ合い、女性ははにかんだように笑った。きっとこの人は、見かけによらず気の強い女性なのではないかと想像する。今は綺麗な黒髪も、だんだん白髪が増えていって、いつかは鬼の形相の白髪ババアになるのかもしれない。しかし、それもまた、ちょっと楽しそうだと思った。

「あの。良かったら、もう少し話しませんか……?」

「……ここではちょっと」

「えっ。あっ。そりゃそうですよね。泌尿科の前はやばいっすよね」

 女性が吹き出し、つられて俺も笑った。こんなに笑うのはいつぶりだろうかと、頭の片隅で俺は思った。

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さよなら、尿管結石ババア ナッツ @natsu0116

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