2, Bottom Fish

 何もない洋上を船が走る。よく海の色を「紺碧こんぺき」と言うが、陸地を離れて沖合に出て初めてこの色は分かる。この色は底知れぬ深さがある青さなのだ。今日は気持ちのよいくらいの快晴で、波もあまりない。船での調査にはうってつけの天気だった。さすがに東京湾から外洋に出ると波が出てくるが、それでも以前調査したときの荒れ模様に比べれば天国と地獄だ。あの時は船酔いに苦しめられ、調査中に嘔吐おうとしてしまい、助教授にサンプルを汚したとめためたに怒られた。俺の苦い思い出の一つだ。


 ここは東京湾の沖合、俺は大学院生として助教授の生物採集の手伝いとして大学の調査船に乗り込んでいた。調査船といっても230トン程度の小型の船だ。何も知らない人が見れば漁船だと思うことだろう。もっとも、漁船も調査船も海の生き物を捕るのだから似るのも当然かもしれないが。


「君、私の部屋から図鑑、全部持って来てくれ。青いコンテナに入っているから」


 時代を感じる分厚い眼鏡をかけた中年の男性が胴長どうながを履き、甲板かんぱんでひたすら何かを待っている。うちの研究室の助教授だ。うちには教授・助教授一人ずつ所属しており、准教授は空席、あとは学生だ。よく日焼けしている助教授は俺のことを「君」と呼ぶ。親しみを込めてではない。名前をまだ憶えられていないのだ。かといって嫌われているわけでもないと、俺は思っているが。


 船室へと戻り、言われた通りにコンテナを持って甲板かんぱんへと向かう。ひどい重さだ。分厚い図鑑が何冊も入っているのだから。腕を痺れさせながら甲板にあがったころには、助教授が待っていた「それ」が海底から戻って来た。船の上に吊り上げられ、海水がしたたり落ちる。


 ドレッジだ。


 ドレッジとは、海底を引きずって基質や生物を採集する箱型の道具のことだ。中にきっと、この海域の底生生物が入っている。そのうちヒトデを調査するのが助教授、巻貝をやるのが俺の「仕事」だ。


 ドレッジがクレーンで船上に下され、その中身を特大のバットにぶちまける。


「この瞬間は楽しいな、宝探しだ」


 助教授はにこにこと軽口を叩いている。俺も一つ目の前にあった貝殻の破片を拾い上げると、小指の先ほどの小さなタコが滑り落ちてきた。


「見て下さい。こんな小さなタコが貝殻に隠れてましたよ。かわいらしい!」


 まずはざっくりとバットに空けられたものを観察し、少しずつ砂利を分けて隠れているものを探していく。リンボウガイというトゲが発達した巻貝が多い。


「こんなところにもゴミがあるぞ、嘆かわしいなぁ」


 助教授はそう言って、缶ビールの缶と大きな塩ビのパイプを取り上げた。こんな大きなパイプがよくドレッジに入ったものだ。


 その時だった。助教授が拾い上げた塩ビのパイプから何か銀色のものがずるっと落ちた。


「あっ!」


 思わず声を上げる。それには見覚えがあった。銀色の髪にきらめく鱗、魚にしてはあり得ないことに腕を持ち、少女のようで魚のような顔を持っている。真っ赤な目が開き、周囲を確認するように動いた。生きている。


 あいつだ。あいつが生きていたのだ。


「なんだこれは……!」


 助教授が驚きの声を絞り出すように吐き出す。俺はそいつを知っていた。二年前に、夏の臨海実験場で拾ったことがあった。俺が人魚だと思った生き物だ。あいつと同一個体なのだろうか、同じ種類の別個体なのだろうか。まるで分らないが、顔の様子や体つきなど以前見た印象とまったく同じだった。あえて言うならば一回りほど大きい。成長したのかもしれない。


「君、三リットルのサンプル瓶をくれ! すぐだ!」

「は、はい」


 助教授に指示された通り、三リットルのサンプル瓶を出す。使用目的は明らかだったので、三分の二ほど海水を入れておいた。助教授はそこに慌ただしく人魚を入れた。人魚はするりとサンプル瓶に入っていき、いつしかそうしていたように、ゆっくりと瓶内で回転している。どことなくぬらぬらした腕は左手の小指がなくなっていた。サメか何かに襲われたのだろうか。真っ赤な目は以前と同じ、内部のタペータムがきらきらと日光を反射している。

 瓶の中でふわりと銀色の髪が広がって、顎のあたり、ヒトで言うと耳の下のあたりに赤い筋が何条が見えた。あれがえらだろうか。だとしたら、この人魚はえら呼吸をして海中の酸素で呼吸していることになる。いや、もし、肺も持っていればえら呼吸と空気呼吸の併用の可能性もある。ただ、えらを持っているとしたらヒトからは進化的に距離のある生物だろう。


「君、君、聞こえているのか! 実験室の水槽は動いているか?」


 つい人魚に見入ってしまっていて気付かなかった。慌てて返事をして、実験室の様子を見に行く。その途中、二年前のことを思い出していた。あの時は、コーラか何かの瓶に入った人魚を見つけた。その時、一緒にこの人魚はヒトの負の感情を食らうとか、そんなことが書かれた手紙も瓶に入っていた。そして、実際に俺が抱え込んでいた重たい感情がなくなるのを体験したのだ。もっとも、それが人魚のせいだったかは分からない。だが、俺の気持ちが軽くなった後、人魚が入っている瓶の水は汚れ、いくら水を替えてもきれいにならなかった。あの時、結局俺はあの人魚を逃がした。いろいろ思ったことはあるが、ある感情がなくなったということは、自分の感情がコントロールされているみたいで不気味に思えたからだ。あいつには、ヒトの心をコントロールする力でもあるのだろうか。


 実験室に入ると水槽はあったが、水が入っていなかった。海水を入れ、エアーレーションなど必要なものを設置して水槽を稼働する。水温と塩分をチェックしてから、甲板かんぱんにその旨を報告しに戻った。


「分かった。ありがとう。ちょっとここを頼む。ドレッジの中身を分けておいてくれ」


 そういうと助教授は人魚の入ったサンプル瓶を持って慌ただしく実験室へと行ってしまった。


 あの人魚にはもう二度と会わないと思っていた。根拠はないが、そもそも会ったこと自体がとんでもない確率の出来事だと思っていたからだ。

 俺はなんとなく怖かった。あの人魚がヒトの感情をコントロールするとしたら、何かが起きる前に助教授から預かって自分が管理すべきではないか。何かある前に逃がした方が良いのではないか。助教授が持っていて大丈夫なのだろうか。


 その後、二度目のドレッジが終わっても助教授は甲板かんぱん上に戻ってこなかった。ドレッジの投入・引揚は船員がやってくれるから助教授はいなくても問題ない。だが、その後の生き物のソーティングにはいてもらわないと困る。結局、俺ができることをしておくしかなかった。

 一度、トイレに行こうとして実験室の前を通ると、助教授は水槽の前に座って人魚をじっと見つめていた。俺も声をかけるために実験室に入ろうとしたが、その時携帯電話が鳴った。洋上では携帯の電波が届かないのだが、ここは陸地から電波が届く距離だったのだろう。電話に出ると母親からだった。なんでも祖母がめでたく退院することになったらしい。一時はかなり危ないと言われ、入院も長引いていたため驚いた。てっきり、もう病院から出られないのではないか、出られるとしたらそれは亡くなる時ではないかと思っていたのだ。電話の向こうの母の声もいつになく弾んでいた。だが、そんな電話の最中であっても、俺は実験室の人魚のことが気になっていた。



   >゜))))彡



 夕食前には船は東京湾内へと戻り、千葉県の某湾内で停泊し、ここで一夜を明かすことになった。外は波も小さく、ほとんどいでいるといっていい。午後五時になり、夕食の時間になった。船の夕食は早いのだ。ふと、食堂に行くと助教授の席が空いていた。いつまで経っても現れず、船員に促されて俺が部屋も呼びに行くことになった。その途中、実験室の横を通る。室内をのぞいてみるとなんとあの人魚を入れた水槽がなかった。大きな水槽ではないが、水を入れるとかなりの重さになるはずだ。


 慌てて助教授の部屋へと走り、その扉をノックして声をかける。電気はついていた。


「先生、夕食に来ないんですか? みんな心配してますよ!」


 返事がなかった。もう一度呼ぶ。すると鬱陶うっとうしそうな口調で返事があった。


「飯はいらん。悪いが放っておいてくれ」


 俺はその言い方にカチンときた。


「先生、今日のドレッジのサンプルもそのままじゃないですか。困りますよ!」


 返事がない。俺は強めにノックした。


「それにあの生き物はどうしたんですか? 実験室にいないんです」


 やはり返事がないのでもう一度繰り返した。もっと大きな声で。


「あの生き物はどうしたんですか!」

「うるさいな! 君には関係のないことだろう!」


 この一声で俺は完全にキレた。


「あの変な生き物はどうしたんですか? 船室に水槽を持ち込むなんて船が揺れたらどうするんです? 実験室に戻して下さい!」


 気が付くと俺は思いっきり助教授の船室のドアを叩いていた。


「先生! いい加減にして下さい! それを、それを俺にも見せて下さいっ!」


 ふと横に人の存在を感じ、我に返った。


「何かあったの?」


 通りすがりの船員が怪訝けげんそうにこちらに問いかける。


「あ、あ、すいません、ちょっと研究のことで……」

「そうか、大変だね」

「すいません」


 船員はいたわるような顔をして行ってしまった。毎年、この調査船にはたくさんの学生が乗り込む。きっと研究のことで教授らとてんやわんやした者もいたのだろう。船員に謝ると俺は食事に戻ることにした。さすがに大騒ぎして船員に迷惑をかけるわけにはいかない。


 何を熱くなっているんだ、俺は……



   >゜))))彡



 その日、俺は自分の船室で眠れずにいた。一つにはあの人魚がどうなったか気になっていた。そして、なぜあんなに助教授に怒りが湧いたのか。それが分からずにいた。以前、あの人魚と関わった時、あの人魚を逃がす気になったのは、人魚に心を操られたからではないかと疑ったことがあった。それは本当に小さな疑いだったのだが、俺も助教授もこんなにも人魚に執着するのは、やはり何かあるのだろうか。そう思うと怖い。怖いのだ。


 ふとガシャーンと何かが割れる音がした。次いでガンガンと乱暴に外への階段を駆け上がる音がした。音がしたのは助教授の部屋の方だった。


 何かあったのか!?


 俺は寝間着代わりのジャージのまま慌てて部屋を飛び出した。船室から外へと続く扉が開いている。助教授が外に出たのだろうか。急いで扉へと続く階段を駆け上がる。


 その時、外からドボンと重い物が飛び込んだような音がした。


 まさか!?


 外に出る。時間は朝の四時、日は昇っていなかったが、空はかなり明るくなっていた。だが日はまだ差し込んでいないため、海面は暗い。波が黒かった。


 ドキリとした。心臓が止まったと思った。その黒い海の中に、船から五メートルほど離れた位置に二つの真っ赤な光があった。人魚の目だ。あの赤い目が周囲の光を反射して光っているのだ。

 

「お前……なのか?」


 いつの間にかそうつぶやいていた。きゅーんと聞きなれない声が海に響いた。人魚の真っ赤な目がにいっと笑ったように見えた。そして、赤い光は黒い波間へと消えていった。遠くには陸の地形が見える。うちの大学の臨海実験場はすぐそこ、その沖合に船はいる。あいつは帰りたかったのだろうか。


 ふと足元に何かあることに気が付いた。助教授が履いていた靴が片方だけ転がっていた。それが何を意味するか分かった時、俺は悲鳴を上げた。


「誰か! 先生が、先生が落ちた!」


 俺は必死に船員を呼んだ。後になって助教授の部屋を訪ねたが、誰もおらず、部屋の中で水槽が割れて海水まみれになっていた。



   >゜))))彡



 太陽が昇る。まだ助教授は見つかっていない。助教授は人魚に操られて、逃げるために利用されたのだろうか。人魚を連れて海に飛び込んだのではないだろうか。俺はそうとしか考えられなかった。一体、助教授の行動や感情のどこまでが自身のもので、どこからが人魚に操られたものだったのだろう。


 自分でもあの人魚に対して執着する行動があったことに気が付いていた。あれは本当に俺が望んだ行動だったのだろうか。


 ひょっとしたら、助教授ではなく、俺が操られることになっていた可能性もあったのだろうか。あの時、助教授ではなく俺が人魚を拾い上げていたらどうなっていたのだろう。怖くて海が見れなかった。またあの真っ赤な目を見つけてしまいそうで見れなかった。あの鳴き声が耳から離れなかった。

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Bottled Fish テナガエビ @lake-shrimp

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