What a beautiful world

大天使 翔

What a beautiful world

 人はいつか必ず死ぬ


 たとえどんな凄いことを成し遂げても、どんなにいい仲間を持っても結局最後は死ぬ。そして、死んだ後のことは誰も知らない。


 最近俺は、そんなことをベッドの中でうずくまって考えてしまう。とてつもなく怖い。「死」はいつも俺たちのすぐそばで潜んでいる。布団の中から暗い部屋をのぞき込んだら、「死」が俺を襲ってくるような気がする。


 延々と誰も答えられない問いを続けながら、いつの間にか朝を知らせる鳥の声が外から聞こえてきた。朝になると、まだ気分が楽になる。ベッドからゆっくりと体を起こし、しばらくガラス戸から淡白い空を見つめる。


 学校に行く支度を整えると、心に重たい「何か」を背負って俺は自転車のペダルをゆっくりと踏みしめた。


 青い空はまぶしいくらいに太陽に映され、白い雲は一つもない。俺以外には絶好の通学日和だろう。通学路はゴールデンウィークの土産話で盛り上がる生徒達で溢れていた。俺はその光景を横目に、人と人の間をするすると通り過ぎていく。


「何でみんな笑っていられるんだろう」


 不意に出た言葉が、俺の心をまた重くした。以前は、俺もあんな風に誰かと笑ったり、楽しい時間を過ごしていた。でも、「死」のことを考えると、あと何回笑えるんだろうなどと考えてしまう。そうだ、「死」のせいだ。「死」なんてなければ・・・。


(お前なんて、死んじまえ!)


 あの時の出来事がフラッシュバックした。



 この学校のバレー部は弱く、いつも区大会では3回戦どまりが関の山だった。俺と龍と薫が入部したときは部員がギリギリ試合に出られる人数で、俺たち3人は3年生が退部するとすぐ試合に出場した。


 ポジションは背の高い龍がウィングスパイカー、器用な薫がセッター、運動があまり得意じゃない俺は余ったところに入れられた。3人ともノリで入部したけれど、試合に出てバレーの楽しさを知っていくうちに、どんどんその魅力にハマっていった。何度も負けたけど、その時は別に悲しくもならなくて、ただ純粋にバレーをできるのが嬉しかった。


 でも、先輩たちが受験勉強でバレー部を辞め、俺たちの代になってから、バレー部内の人間関係は変わっていった。


 新入生が6人も入部すると、バレー部員全員が試合に出られるということも少なくなり、半年も経つとレギュラーメンバーも固定されていた。高身長の龍がレフトのエーススパイカーで、キャプテンの薫がセッター、俺は下手だが前々からやってみたかったウィングスパイカーのポジションに入った。


 弱小チームなので、上級生がポジションを先に選んで、下級生は上手なやつから順にレギュラーになる、という雰囲気だった。だから俺よりもバレーが上手くなった下級生がいても、俺はウィングスパイカーとしての練習ができていた。


 だが俺は、下手なのにレギュラーに入れてもらっていることにどこか肩身の狭さを感じていた。


 そんなある日、俺はけがをした。不慮の事故だった。練習試合で1年生がサーブカットを弾いてしまったボールを、俺は必死に追いかけた。取れるかどうか微妙なボールだったが、その日試合でいいところが無かった俺は、ダイビングレシーブをした。そして、体育館の壁に激突した。頭を強く打ち、俺は救急車で運ばれた。


 結局頭を四針縫い、手首の筋を痛めたくらいで思ったよりも重症ではなかった。けがをしていても練習中の球拾いくらいはできたのだが、俺はその間家でゲームをして過ごし、ついに一度も練習を見に行くことは無かった。肩身の狭さから解放された俺は、練習に行かなくていいことを嬉しく思っていたのだ。


 でも、けがが治った後久しぶりに練習を見に行った俺は、その光景に愕然とした。俺のポジションに1年生が入っていたのだ。しかも、そいつは明らかに俺よりも上手く、完全にこのチームのウィングスパイカーになっていた。このチームに俺は必要なかった。


 その日以来、俺は薫に言い訳をし、練習をサボることが多くなった。そんな俺を見かねたのか、龍がある日、校舎の裏に俺を呼び出した。


「おい進、何で練習に来ないんだよ。とっくにけがは治っているだろ?」


「・・・なぁ龍、俺ってこのチームにいる意味、あるのかな?」


「あ?」


「俺はもう少しで3年生になるっていうのにバレーは下手くそで、試合ではいつもみんなに迷惑をかけて。1年生からはなんであいつがレギュラーなんだって目で見られて。どうせお前も薫も、俺なんていらないって思っているんだろ!」


「・・・だったらなんで練習サボってんだよ。お前下手くそっていう自覚があるんならもっと練習しろよ!・・・ああそうだよ。俺はなぁ、いつもお前のプレー見ててムカついてたんだよ。下手なくせにしゃしゃりやがって!お前の言う通りだ。みんなお前がけがでいない間、せいせいしてたよ。これでレギュラーになれるチャンスが増えたってな!」


 俺の中でふつふつと湧き上がってきたものが、全身をめぐった。そして、そいつに身を任せた俺の身体は、ただ目の前の人間を傷つけるためだけに機能した。


 気づいたら俺は、そばにあったコンクリートの破片を手にとり、龍の身体めがけて投げつけていた。破片は龍のおでこにがつんと当たり、切り傷のようになって額から血があふれ出した。痛がる龍を見ながら、俺はしばらくそこから一歩も動くことが出来なかった。


「・・・お前が悪いんだ。人の気も知らないで。お前は背も高くて、レシーブとかも上手くて、何だってお前の方が俺より出来ていた。だから、お前が悪いんだ・・・。お前なんか・・・死んじまえ!」


 俺はそう言い放つと、龍を残してその場から逃げ出した。



 あの出来事以来、俺の心の中に「何か」が現れた。


 心の底では何故自分がこんなにも苦しんでいるのかが分かっていた。でも、それを言ってしまうと、心の中の「何か」はもっとどろどろになってしまいそうで、俺は心の中でさえも言うのをためらった。そして、その思いを振り切るように上り坂を力強く漕いだ。


 学校に着いた。駐輪場に自転車を置くと、バッグを背負い、俯きながら早歩きで教室へ向かう。


 教室に近づくほど、俺の足取りは重くなっていった。ホームルームの開始五分前だからか、教室の扉を開けると、まだ来ていない友達が来たかを確認するため、何人かがこっちを振り向く。でも、このクラスで俺にそのまま声をかけてくる奴はいなかった。


 ただ一人を除いては。


「あ!おはよう、進」


「うぉっ・・・お、おはよう」


 後ろからいきなり大きい声で話しかけたのは、薫だった。ひょろっとした体つきで、肌が透き通るように白い。


「顔色悪いけど・・・大丈夫?」


「・・・あ、ああ」


 俺は、目をそらして言った。


「・・・今日部活あるけど、どうする?」


「まだ怪我が完治してないから行かないよ」


「・・・・・そっか。」


 薫は、少し寂しそうな笑顔で俺の目を見て言った。


「来れるようになったら、いつでも来てよ。みんな待ってるから。龍のやつも、きっと」


 それらの言葉には、相手をいたわるような優しい思いがこもっていた。俺と龍の間に起きたことを知っているんだろう。


「・・・わかった」


「じゃあ、僕はまだやることがあるから」


「おう」


 そう言うと薫は廊下を走っていった。真面目なやつだ。大方、学級委員の仕事があるのだろう。薫の姿が見えなくなるまで見送ると、俺は教室に入り、窓際の席についた。


 心の中の「何か」が、少し軽くなったような気がした。


 


 俺は授業を終えると、龍達と顔を合わせたくなくて、すぐさま教室を出た。家にも帰りたくなかったから、学校を出て目の前の道を通学路とは逆の方にハンドルを切った。


 どれくらい漕いだだろうか。今は大きい横断歩道の信号にひっかかり、立ち往生している。信号が青になると、横断歩道は人々の雑踏に包まれた。さすがにこの人の多さでは漕いで渡るのは無理なので、自転車から下りて渡った。道路に映る俺の影は、いろんな人に踏まれて消えていく。ふと空を見上げると、いつの間にか夕焼けの赤い空を白くどんよりとした暗い雲が覆っていた。


 これから帰る気にもならない。もう、「あの場所」からは遠く離れてしまって、また必死にペダルを漕ぐ必要もなくなった。俺は、とぼとぼと道沿いを俯きながら自転車を引いて歩いていた。車が横の道路を走る音も、通り過ぎる人の笑い声も、今は俺を置いて行ってしまうように聞こえた。


 地面の茶色いレンガがポツリポツリと黒っぽい色に所々変わっていった。それはまるで俺の心のようにどんどん茶色いレンガを飲み込んでいく。辺りを見回すと、信号待ちの車のみで、歩道には誰もいない。辺りはすっかり暗くなっていた。


 頬や腕を滑り落ちていく雨。濡れる心配をしていないからか、案外気持ちいい。外でシャワーを浴びているような気分だ。


 俺はなんだか、車のエンジン音を消したくなって、車があまり通らなそうな裏道に入った。降りしきる雨が、だんだんと強くなっていく。とても静かだ。足を前に運ぶ度、地面に叩きつけられた雨音だけが、俺の心を捉えていく。


 路地を抜けると細い道路があり、奥には橋がかかっていた。その橋の下には雨のせいで増水した川が流れている。どうやらここは河川敷のようだ。足が無意識に橋まで動いた。


 橋の真ん中に着くと、俺は自転車をゆっくりと停め、手すりに体重を乗せて川を見下ろした。垂直に見下ろすとかなり高い。雨の影響で増水した川の流れは、周りの土砂も巻き込んでさらに強くなっているようだ。こんなところから落ちたら、きっと助からない。


 心の中の「何か」がずっしりと重くなった。心臓がバクバクと激しく鳴っている。俺のびしょ濡れで重たい両足は自然に浮いて、その手すりを乗り越えた。狭い足場に足を寄せ、柵にしがみ付いて手すりをぐっと掴んだ。半歩も移動していないはずなのに、ごうごうと流れる土砂の音は、さっきよりもよりいっそう強くなったように思えた。


 俺は目を閉じた。もし死んでしまっても、俺の体は砕けて細かくなって、目に見えないほど小さくなっていって、それがいつしか魚に食われて、その魚の栄養になって、またその魚が人に食われて、それが赤ちゃんを作るエネルギーにもなって・・・。そうやって、命は循環しているんだ。また俺も、きっと何かの一部になる。


「だから、きっと大丈・・・」


 飛び降りようと力を緩みかけた瞬間、俺の心と身体が急に重く、固くなった。


「うわぁ・・・うわああああああぁぁぁ!」


 向きを変えて川の方を背にした。膝が柵に当たり、カンッと暗闇に金属音が鳴り響いた。戻ろうと足を動かそうとするが、震えて思う通りに動かない。俺は頭を真っ白にして必死に手すりを乗り越えた。


「ハァ・・・ハァ・・・」


 ゆっくりと吐息を漏らしながら、膝を抱えて体を震わせていた。力を緩めたあの刹那、脳裏に、俺が川に落ちて、身体がぐしゃぐしゃになって、血がいっぱい出て、俺の生首がこっちを冷たくなった眼差しで見ている光景が映し出された。それを見たら、俺の身体は全く動かなくなってしまった。これが本物の恐怖と言うのか。


 目頭が、熱くなった。こぼれ落ちていく涙は、雨水と一緒に地面に吸い込まれ、声にもならない嗚咽と相まって、さらに溢れ出た。あんなに「死」のことを考えて、「どうせみんな死んでしまうんだ」とか言っていた俺はある種、「死」を望んでいた。そして「死」という面において、みんなと差別化しようとしていた。その俺が結局、死ぬのが怖かった。


 俺は一通り泣き終わると、仰向けになって空を見上げた。そこにはどんよりとした暗い空がただあるだけだった。でもその時、俺の心の中の「何か」を少し、吐き出せたような気がした。


「生きてて・・・・・よかった」


 


 橋の上での出来事から1週間が経った。やっぱりあの日からも心の中にはまだ「何か」が残っていて、俺は答えが出ないようなことについて考えながら、モノクロのような退屈な日々を送っていた。


 なかなか寝付けなかった俺は、寝るのを諦めてガラス戸を開け、ベランダに出た。晩春の深夜は風が心地よい。手すりに体を預け、ぼんやりと街を眺める。夜の街に吸い込まれそうになりながら、ベッドに入る前にLINEで薫から送られてきた言葉が、頭をよぎった。


薫:ねえ明日、バレーしない?


俺:なんだよ急に


薫:いいじゃん、気分転換にさ。最近テストで部活なかったから、体が鈍っちゃって。用事があるから、じゃあ五時に第一公園集合ね


俺:行かないよ


 俺の最後の返信から、既読はついていない。行かない返事をしたと言っても、薫からの急な誘いが俺の中で何か引っかかっていた。


 ふと手すりの下を見た。そこは小さな路地になっていて、そこを右に曲がると俺の家の玄関に行き着く。そしてたった今、その路地を自転車が駆けていった。この時間に自転車が走っているのは珍しく、俺の目はその自転車に釘付けになった。


 自転車はやがてスピードを落とし、玄関の前で止まった。家の前の街灯によって明らかになったその姿は、俺の動揺を誘った。


「え?」


 自転車から降りて玄関の前に立ったのは、バレーボールを片腕に抱えた薫だった。


「おいちょっと待て!押すな!」


 家のインターフォンを押そうとしている薫を引き止めると、俺は急いで玄関へ向かった。


「進、一緒に行こう!」


 家のドアを開けると、薫が微笑んで言った。


「バカ!何時だと思ってんだよ。5時って朝の5時かよ」


「いや~ついでに朝日も見てみたいなぁって思って。進はある?朝日見たこと」


「ねーよ。てか行かないって返事しただろ」


「え?・・・・・あ~ほんとだ」


「そういうことだ。すまんが、帰ってくれ」


 ドアを閉めようとすると、薫が俺の腕を掴んだ。


「これが謝るチャンスだよ」


「あ?」


 薫の口から飛び出したその言葉は、俺の心に引っかかり、身体の動き止めた。見ると、薫はいつになく真剣な面もちだった。


「龍も来るんだ」


「・・・だからなんだよ。行かねえよ」


 家に戻ろうとするが薫の手はしっかりと俺の腕を掴んで離さない。


「このまま逃げてていいの?・・・龍もきっと仲直りしたいと思っているはずだよ」


「・・・そんなこと思ってるわけねえだろ。俺、あいつにひどいことしちまったし。合わせる顔がねえ」


 俺の腕を固く離さなかった薫の手は、少しずつ緩んでいって、しまいには力が抜けたようにスッと離れていった。


 しかし、いつの間にか俯いてしまっていた俺の視線は、薫の拳がギュッと握り締められるのを捉えた。そしてその瞬間、薫のその手は視界から消え、肩に伝わる感触と共にその存在を認識した。


「なにくだらないこと言ってんの!誰がどう思っているかとか、関係ないだろ!」


 薫が言葉を発する度、俺の身体が揺れた。


「重要なのはこれからどうするかでしょ!」


 薫の目から、淡いしずくがじゅわっと溢れ出してきて、ほおを伝い落ちた。それと共に、薫の手も、肩から滑り落ちる。俺は突然の薫の豹変に、呆然としてしまっていた。


「僕は・・・早く二人が仲直りして、また楽しくバレーをしたいんだよ・・・」


「分かった、行く!だから泣くな、な?」


「・・・え?本当?」


「ほんとほんと!」


「・・・・・ハハ・・・やった!」


 薫は泣きながら微笑んでいた。その表情は、いつもの薫とはちょっと違って、イタズラっ子のようなあどけなさを感じさせていた。


「進ならできるよ。きっと・・・・」



 俺は自分の部屋に戻り準備を整えると、急いで階段を駆け下りた。


「準備できたぞ」


「うん、行こうか」


 俺は自転車にバックを乗せながら、ふと気になって薫に訊いた。


「・・・お前さ、なんで龍にあんなことをした俺を、そんなに気遣ってくれるんだ?」


 薫は不思議そうな顔をして言った。


「愛してるからだよ」


 唐突な体がむずがゆくなるような言葉に、俺の顔は赤くなった。


「ば、ばか!なんだよ愛してるからって・・・。もしかしてお前、そっち系なのか?」


「いやいや!違うよ。そういう意味じゃなくて。思いついた言葉が・・・愛だったんだよ。そうだなぁ。うーん・・・。ごめん。他に言葉が思いつかないや」


 そう言うと、薫は照れるように笑った。


「・・・行くか」


 こうやって誰かと話したのは久しぶりで、恥ずかしくてもどかしかったけど、その時間はとても居心地のいいように思えた。


 いつの間にか忘れていた心の中の「何か」を再び、今度は心に刻みつけるように俺はペダルを踏みしめた。


 学校のグラウンドくらいあるこの公園では、バレーボールが弾む音と、土を踏みしめる音が暗闇に交差していた。俺は薫の顔を見ずとも、その音の正体が龍であることが分かった。


「龍!」


 自転車を停めると、薫が呼びながら龍の方へ近づいていった。俺も、少し遅れて歩き出した。近くまで来ると、公園のライトの元にうっすらと見えるそのシルエットが浮き彫りになっってくる。


 黒い背景に白い文字で「排球魂」と書かれたTシャツに、学校指定の体操服。龍はスパイクの練習をしていたのか、ジャンプをしようと引いた手を止め、こっちを振り向いた。


「え!?」


 龍と目が合った。龍は驚きの声を上げると、すぐさま目をそらした。


「おい!なんであいつがいるんだよ」


「まぁまぁ。そんなこと言わずに、ね?」


「ね?じゃねえよ!・・・・たく・・・・」


 龍も、薫の魂胆がなんとく分かったようだった。龍はため息をつくと、再び壁に向かってスパイクを始めた。


「じゃ、僕トイレに行ってくるね~」


 間延びした声で薫は言った。俺の横をすれ違う時に肩を叩いたのは、きっとそういうことだろう。


 薫が去ると、龍のスパイクしたボールが壁に打ち付けられてグラウンドに響き渡り、夜の静寂に戻るというのが何回も続いた。そのリズムだけが、俺たちの時間を埋め尽くした。


 心臓がバクバクと鳴り始め、胸の中の「何か」がうねりだした。逃げ出したい衝動が、俺の全身をひた走る。


「龍!」


 俺はめいっぱい声を絞り出した。その想いは、龍の動きを止めた。


「龍・・・あのさぁ、その・・・この前はごめん。石をぶつけたこと。あんなひどいことをしたんだ。何を言っても言い訳にしか聞こえないと思う。それでも・・・俺は・・・」


 龍は、背中を見せたまま動かない。言葉が詰まった。俺は、このまま言っても無駄なんじゃないかと思い始めていた。


(進ならできるよ、きっと)


 でもその時、薫の顔が頭に浮かんだ。普段は見せなかったあの表情。薫も、俺たちの関係が悪くなっていってつらかったんだろう。それでも薫は、そんな俺を勇気づけてくれた。俺は、その思いに応えなければいけない。


 俺は龍の肩をがっとつかみ、強引にこっちへ振り向かせた。そして、そらしたい目をぐっとこらえて龍の目を見た。


「俺は・・・お前と・・・仲直りがしたいんだ。過去は変えられないし、終わったことは取り戻せない。俺がお前にしたことも許されるはずもない。でも、それでも俺は・・・」


 声が震えていた。何も考えられなかった。でも、これだけは確かだった。


「バレーをもう一度したい!」


 最後の言葉は、龍に届いただろうか。


「うわぁぁぁ・・・も~・・・くそ!」


 龍は急に自分の身体を抱きしめて、もがき始めた。


「お前、どうしてそんなむずがゆいことを正面切って言えるんだ?あーもう気持ち悪い」


 龍の顔には、笑顔があった。


「もういいよ。その・・・俺の方こそごめんな。あの時はお前の気持ちを考えてやれなくて、口から出まかせ言っちまって」


 震えていた身体が、徐々に止まっていった。


「・・・こちらこそ。けがは大丈夫なの?」


「ああ。跡は残ったけど、傷は男の勲章っていうしな」


「そうか・・・・・よかった」


「おいおい泣くなって」


 龍の目にも、涙があった。二人とも、もう訳が分からなくなって、止まらなくなった涙を、えんえんと流していた。


「ちょっと!二人とも大丈夫?」


 薫が駆けつけてきて言った。たぶん、どこかでひっそりと俺たちのことを見ていたのだろう。二人が泣きやむまでの間、薫は俺たちの背中をゆすりながら微笑んで見守っていた。


 そして泣き止むと、その心地よい間を紡ぐように、俺は言った。


「バレー・・・やるか」


「ああ」


 いつの間にか心の中の「何か」は消えて無くなっていた。



「こんなにたくさんの人がいたのか」


 ふと周りを見回すと、そこには様々な人がいた。友達同士で話ながらすれ違う女性、黒服に身を包んだサラリーマン、ランドセルを背負った小学生達。この世界には、たくさんの人が暮らしている。少し前まで、こんなことさえ見えなくなっていたような気がする。


 俺と薫と龍は公園をあとにし、自転車を引きながらゆっくりと家路を共にしていた。その間にした他愛のない話は、とても楽しかった。仲間というものは、離れていた時間が長ければ長いほど、会えた時に嬉しいようだ。


「あ、あれ」


 薫の声に反応して前を見ると、そこには車が通れるくらいの家と家の間の路地に猫が血まみれで倒れていた。自転車を停めて駆け寄ってみると、猫の死骸は思った以上にグロテスクなものだった。吐き出したのか、口元にはべちゃべちゃになった内蔵がまとわりついている。腹には轍のあとがくっきりと残っていて、腹が内蔵ごとえぐり取られていた。


 まだ血が固まっていないのを見ると、あまり時間が経っていないようだ。


「死んでる・・よな。・・・うえぇぇ」


 龍は、口元を手で抑えた。たしかに、死臭が鼻をえぐるようだ。


「・・・どうしようか。放っておくわけにもいかないし・・・」


 俺は、その猫の死体に見入っていた。


「俺もこうなることを望んでいたのか」


 なんとも言えない感情が俺を支配した。


「・・・進?」


 薫の言葉は聞こえなかった。


「この猫・・・埋めよう」


 俺は血まみれの猫を躊躇せずに抱きかかえた。血はまだ少し温かくて、猫の顔は安らかに眠っているように見えた。


「おい!進!埋めるのはやばいだろ。てか・・・そんなんよく触れるなぁ。うえっ」


 龍の言葉を無視し、俺は、路地の先にあった公園に向かって歩み出した。


「進・・・」


 公園には小さな砂場と滑り台しかなく、あとは花壇があるだけだった。俺は、花壇に行くと、猫をそっと傍らに置き、鮮やかに咲いているチューリップを根本から抜き始めた。


「進!?何やってんだよ!」


「何って・・・決まってるじゃないか。この猫が安らかに眠れる場所を作ってるんだよ」


「やめろよ!」


 薫が俺の手を掴んだ。


「なぁ・・・分かるか?この猫を土に埋めるだろ?そうしたら微生物がこいつを分解して、小さくなって、それがこの花達の栄養になるんだ!この野良猫も、死んでやっと何かの役に立つんだよ!」


 俺の目からは、涙が溢れていた。その涙は掘り返される土の中に落ちて、消えてゆく。そうだ、みんないつかは死んでしまうんだ。


「うわぁぁぁぁぁ・・・・・・・・」


 俺の無意味に動き続ける手を止めたのは、全てを包み込むような心地よい温もりだった。


「・・・・・分かるよ。悲しいよね」


 耳元で囁いたのは、薫だった。同時に、背中の温もりは薫のハグだったことに気づく。


「何もかも、死んじゃうのに・・・なんでみんな生きてるんだよ・・・」


「それはね、この世界のみんなが、そこにいるだけで、この世界の誰かに貢献できているからだよ。君も、僕も、龍も、この猫も、あの花も。みんな互いに愛し合っているんだ」


 悩みや葛藤、怒り、そして羨望というありとあらゆる死に対する感情。優しさに満ち溢れた薫の言葉は、「死」という迷宮から俺の手を引いて、導いてくれたように思えた。


「愛してるよ、進」


 そうか。俺はいつもバレーが下手だから、もっと役に立てるよう頑張ろうとか思ってた。そのうち俺は誰かと関わるのが怖くなって、逃げるために「死」を持ち出していた。


「俺はお前がいてくれるだけで楽しかったぜ。バレー。お前がいなくて最近は少し寂しかったけどな」


 龍の声が、後ろから聞こえた。照れている姿が想像できた。


 思い出した。俺が試合で怪我をして救急車で運ばれた時、虚ろな意識の中で見えていたもの。それは、こいつらの心配そうな顔だったじゃねえか。今にも泣き出しそうな顔で2人は、俺のことを必死に呼んでいた。


 俺は、存在しているだけで価値があったんだ。それはきっと、俺だけじゃない。この世界の全ての生き物に、生まれてきた時から価値があった。


「プッ・・・」


 笑いがこみあげてきた。


 こんなに簡単なことだったんだよ、世界は。俺たちは、いつもただそこにいるだけで、何もしなくても誰かに貢献できているんだ。


「二人とも!」


 俺は立ち上がり、二人に向かって満面の笑みで言った。


「いつもありがとう!」



 あれから、数ヶ月が経った。夏も終わり、涼しい季節になってくると、時折あの頃のことを思い出す。まだそれほど経っていないのに、ずいぶん前のことのように思える。


 薫は、俺のことをいつも気にかけ、「何か」から救ってくれた。龍は、あんなことをしてしまった俺を許してくれた。二人のそれは、きっと「愛」と呼ばれるものだったのだろう。


 俺は部屋のガラス戸を開けると、ベランダから夕暮れの町の様子を眺めた。この町はビルが多い分、バックに夕焼けの太陽が重なると銀河に映る星々のように輝いて見える。


 これからも俺は何かにまようことがあって、くじけそうになるかもしれない。それでも俺はこの素晴らしい「愛」を忘れずにいよう。


 俺はそう、美しいこの世界に誓った。

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