『音楽』な小説が読みたい。2

 ああああああ。終わらない。

 あれもない。これもない。あれもあったはず。これもあったはず。

 あれはどうだっけ。それはなんだっけ。


と、いつも通りの無間地獄です。漫画とかアニメとかまで広げると終わらないので、いろいろ割愛しつつ進めてまいります。




☆ピアノ


〇『蜜蜂と遠雷』(恩田陸 著 2016年)


 後々活躍する演奏家を輩出することで評価を高めつつある「芳ヶ江国際ピアノコンクール」。この注目度の高いコンクールに一人の少年が招かれた。彼こそは惜しまれつつもなくなった伝説の音楽家が発掘しひそかに指導していた『逸材』。だが音楽家の遺言めいた推薦状には「劇薬で、音楽人を試すギフトか災厄だ」と不吉な文言が。

 楽器演奏という営みを、ピアノという存在を、音楽そのものの概念すらも大きく揺さぶる彼の無邪気で天然自然な『音色』を前に、審査員たちと共演者たちは、自らの人生をすら問い直さずにはいられない――。


 今風なのにどこか懐かしい風景と人物描写。ピアノの演奏シーンの表現もさることながら、その描写と話運びで感情よりも深い部分から涙腺を刺激する「ノスタルジアの魔術師」恩田陸らしく、演奏者たちの人生をコンサートでの演奏へと集約していく手堅い構成。(色恋沙汰の寄り道もなしに)あくまで硬派にピアノにフォーカスしてコンサートを描き切った『直木賞』『本屋大賞』のダブル受賞作。


 クラシック音楽がテーマの小説故に「作中の音楽がどんな曲かわからない」という泣き所はありまして、石束は読んでいる途中に図書館にクラシックのCDを借りに行きましたがみんな貸し出し中(笑)でした。これについては「盛り上げよう」「売ってやるぜ」という企画陣営のバックアップも気合が入っており、たしか登場曲を集めたタイアップCDも発売されたはず。


 単行本の発売時、様々な年代の人が読み込んでタイトルの「蜜蜂」「遠雷」が何を指すのかと、ネットで話題にもなりました。「誰の演奏をさすのか」や「このシーンで誰それが感じた感覚じゃないか」とか。

「コンクールの『競技演奏』に殴り込む天然の天才」という、漫画分野ではある意味伝統的な構図を用いて、ストレートにわかりやすく、作者の信じる『理想の音楽』を四人の若者が演奏する姿から浮かび上がらせるという王道のストーリーでした。このあたりが沢山の人に受け入れられる一因だったのかもしれません。誰もが作品の中に入り込んで、何かを感じ、誰かにそれを言いたくなるというのは、テーマへのアクセスが明確で「すぱん」と入り込める恩田作品の共通項です。


 映像化するには色々ハードルがありそうな小説ですが「恩田陸」で「直木賞」で「本屋大賞」です。映画化しないわけがありません。

 2019年満を持して映画化。四人の演奏者の一人「栄伝亜夜」に焦点を当てての映像化で、小説のモザイク観が整理された演出になっています。演出も色々工夫されていて、四人が同じ曲を演奏しながらそれぞれに別の意味を持つという原作における見せ場の一つ『春と修羅』のエピソードは「こうきたか」と思いました。


〇『羊と鋼の森』(宮下奈都 著 2015年 )


『蜜蜂と遠雷』とほぼ重なる時期に書かれ、一年早く単行本化。先だって映画化もされました。ピアノとコンサートの裏方、調律師と呼ばれる人々の物語。


 とある放課後の体育館。古いグランドピアノの調律に立ち会うことになった主人公は調律師の仕事に心惹かれる。高校から専門学校へ進学。卒業後、楽器店に就職した彼は調律師として歩み始める。

 調律の現場に出た主人公はさまざまな出来事に遭遇する。

 ピアノに打ち込む姉妹との関わり合い。尊敬する調律師「板鳥」による一流ピアニストのコンサートでの調律。あるいは主人公自身の仕事上の迷いや失敗。

 経験がものをいう『職人』の世界で、主人公に日々突き付けられる圧倒的な力不足。戸惑いや挫折を繰り返しながら、それでも主人公は一台のピアノを挟んで演奏家たちと向かい合い、一歩ずつ理想の『音』を追い求めてゆく。

 

 演奏家と調律師、表舞台と裏方、浜松の海と雪の北海道……は関係ないか(笑)とにかく徹底的に「蜜蜂――」の裏を走る物語で、合わせ読むと全然違う話なのに同じ物語を表と裏から見てるような気になってきます。


 だれかクロスで二次小説をかいてくれないものか。




☆チェロ


〇『セロ弾きのゴーシュ』 (宮沢賢治 著 1934年)


 不器用なセロ弾き(チェロ奏者)のゴーシュはいつも楽団のリーダーに怒られてばかり。

 一念発起して練習するゴーシュだが、そんな彼のもとに、様々な動物が夜毎にやってきて、自分が言う通りチェロを演奏しろという……


『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』よりもこっちを推す人がいるくらいには隠れファンの多い宮沢賢治の代表作の一つ。

 私はアニメが先でした。

 音楽会で生で聞くと「びりびり」と肌で音を感じることがあるじゃありませんか。その時にいつもネズミの子供の治療する話を思い出します。

 インドの虎狩り大好き(笑)


 農民たちのコミュニケーションの一環として楽団と演奏会をイメージしていたからこそ、賢治世界の『音楽』の形は自然や人との対話になったのではないか、と思います。「ああだこうだとそれぞれが好き勝手言いながら、音楽を通じて人と人とがつながりあう」みたいな。偏屈で人付き合いが下手な自分と、おせっかいで口やかましく面倒な隣人たち。それでいて困った時は手を差し伸べあう。登場人物たちの姿はかつては当たり前にどこでも見られていた、今も少し地方に行けばふつうに存在している日本本来のムラの姿そのままです。


 あと今気づきましたが。

「田んぼとチェロってなんでこんなに合うんだろ……」って、『おくりびと』(映画 主演本木雅弘・広末涼子 2008年)見た時におもいましたが、たぶんこの「セロ弾き――」が原体験だ(笑)




☆ヴァイオリン


『情熱大陸』と『221B ベーカー街』(グラナダ版『シャーロック・ホームズの冒険』オープニングテーマ)と『精霊流し』しかでてこないーっ。


『シャーロック・ホームズ』読んでるとホームズのヴァイオリンが上手なのか下手なのかわからなくなってきますが、本来はそんなに気になるような話でもないように思うんです。物語においてもキャラクターの味付け程度の要素。

 であるにもかかわらず、ドラマのOP「221B――」を聞きすぎた所為でグラナダホームズの映像どころか文庫本ひらいて文字追ってる時もヴァイオリンが聞こえるようになってしまいました。

『Angel Beats!』でずっと耳の奥でピアノが鳴っているようにおもえるのもおなじかもしれません。あれだってストーリーと絡んでくるのはむしろガールズバンドのはずなのに。『鬼平犯科帳』だって時代劇なのに三味線とか太鼓じゃなくED『インスピレイション』のギターを思い出しますし。

 ことほど左様に作品イメージにおけるOP・EDの印象って強いのでありますな。


 作品のライトモチーフとして「ヴァイオリン」というイメージがある作品といえば。

 漫画だとやはり『四月は君の嘘』(新川直司 作)。とはいえヴァイオリンと相性のいいピアノの要素も多いマンガでもあります。主人公たちの関係性の表れでもあるのでしょうけれど。

 アニメならスタジオ・ジブリの『耳をすませば』にヴァイオリンの演奏と楽器製作の要素があります。が、これはアニメ化の際に付け足されたモノ。柊あおいさんの原作マンガの方はヴァイオリン要素ありません。

 ……ジブリ版『カントリーロード』はいい曲だけど、いち原作ファンとしてはあの改変は悲しい(心の傷に障るので以下略)


 余談ですが御坂美琴(『とある科学の超電磁砲』)がヴァイオリンを弾けるという話はすっかり忘れてました。アニメで見てるはずなのに。オーフェン(『魔術士オーフェンはぐれ旅』)がピアノが弾けることはちゃんと覚えていたのに。

 みとめたくないものだな。昔の記憶をより鮮明に思い出せるという事実は。


 あともう一冊。ヴァイオリンの物語、というにはファウルゾーンかもしれませんがヴァイオリンが重要な要素になる小説を。


『精霊流し』(さだまさし 著 2001年 )


 主人公『櫻井雅彦』は3歳でヴァイオリンをはじめた。何か一つ楽器を弾ければ大きくなった時に人生が豊かになるという両親の計らいだったが、雅彦はコンクールに入賞し東京の音楽家のレッスンを受けるまでになる。だが、芸道はどの道も平たんではない。彼は芸大の受験に失敗し「古典音楽から落伍」した。

 親の仕送りを断り東京で苦学しながら、彼は仲間を得てバンドを組んだ。楽器を持ち替えギターを弾き作曲担当……のようなものになった。食うに困るその日暮らしを笑い飛ばしながら、のたうつ様にさまよう様に過ぎてゆく青春の時。しかし腹は減る。彼はついにあれ程に大切だったヴァイオリンを質に入れる決心をした……


 歌手で作曲家で詩人でステージトークの達人でありながら、さらには小説家としても声価を確立してしまった偉大な……なんていったらいいんだろうこの人(笑)

 とにかくそういう人、さだまさし。


 さださんの初の小説が全八話からなる自伝的小説『精霊流し』です。『自伝的』というからには自伝ではありません。主人公の名前が『さだまさし』ではありません。でも限りなく自伝に近いというのはわかる人にはわかります。

 さだまさしさんは作曲家作詞家としてよい歌を作り歌手として歌が上手いのはもちろん、とにかくステージトークが抜群に面白い方で、歌を集めたCDが出るのはあたりまえですが、その一方でステージトーク集がCDになりかつ『噺歌集』というステージトークを活字化した本が存在している人です。

 その内容は売れる前の苦労だったり、子供の頃の思い出だったり、コンサートの旅から旅の間のエピソードだったり、身内の笑い話だったりですが、そもそもこの人の人生そのものが万里の長城でマリオカートやっているような波乱万丈っぷりですので、そりゃあもう、どのエピソードも面白い。

『ジョーズ2』やら『床屋で停電』やら何べん聞いても笑えます。このさださんの本人の思い出含めた身近な話で構成される『噺歌集』を5巻まで読んでいると(そうなのです。ステージトーク集が5冊あるのよ。この人。歌手なのに)『精霊流し』読書中、『噺歌集』で読んだ話がぽろぽろ出てるんです。具体的には『停留所』とか『ティーパック』とか『おばあちゃんのおにぎり』とか。

 本人がステージで話している思い出話が小説に出てくるんだからそりゃあ自伝でしょうが、という話ですが、そこを小説にすることでテーマを一貫させたり一人の人間を主人公とする構成を成立させたり、あるいは自分の自身の話としては、テレてオチをつけないといられないような「ネタ」を美しい物語に出来たりします。

 おそらく『決定版よりぬき噺歌集』でも『自伝さだまさし』でもなく、このテーマを形にするとき、「小説『精霊流し』」という形が選ばれたのは

「伝えたいメッセージがある。ならばそれをより美しい形で伝えねばならない」

というアーティストとしてのさださんのバランス感覚だったのではないかとおもいます。


 後は美人ヴァイオリニストとのアヴァンチュールのもとネタがどこに載っているのか確かめねば(使命感)


 音楽関係の小説とみるなら、ヴァイオリンとの出会いを描く第一話もいいですけど、やはり、彷徨と挫折と帰郷、故郷からの再起、本当は本意ではなかったフォークデュオとしてのデビュー、歴史的名曲『精霊流し』誕生、かつてヴァイオリンのコンクールを共に戦った『戦友』との思わぬ再会。という中盤。後半のモダーン・ジャズをこよなく愛する粋でカッコいい叔母さんと肉親同然の従弟とのエピソード……あたりが盛り上がります。

 とくに『精霊流し』についてのエピソードは、漠然と曲調と歌詞から想像していた背景とは違っていて、長崎の人や町や、それが醸す熱や音やにおいも一緒に風景が立ち上がってくるように感じられて

「ああ、そうか。『精霊流し』とは、そういう歌だったのか。」

と、気が付けば呟いていていました。

 音楽を描写する時。挿絵も映像も音楽もなしに歌を『語る』なら、なるほどこれしかない――と、思いました。

 この歌を生み出したこの人だからこそ到達し得た『表現』だと思います。


 音楽と出会い、それゆえに苦悩し、苦闘し、挫折して後に立ち上がり、やがて広がった世界を新たな歌とともに、歩いていく。

 そんな、現代を生きる吟遊詩人の遍歴の物語です。

 

 ※今部屋でかけているCD 『南回帰線』(さだまさし 1990)   

  精霊流し関係ねえんでやんの(笑)




☆ギター(クラシック・ギター)


『マチネの終わりに』(平野啓一郎 著 2016年)


「マチネ」とは昼正午頃に開演する舞台を称していう言葉、そして作中「午後の演奏会」という言葉にフラれたルビ。


 ギタリスト蒔野聡史とジャーナリストとして生きる小峰洋子は東京で出会い、運命的な恋に落ちた。自分自身がかくも深い恋情を抱くのだという現実に二人はそれぞれに戸惑う。しかし、一度そのことを自覚してしまったからには二人は思いを止めることはできない。蒔野は演奏家として藻掻きながら彼女とのか細い縁を得難いものに感じ、洋子はジャーナリストとして紛争の現実と向き合いながら蒔野への思いを確認し、結婚目前だった婚約を解消して彼と共にあろうとする。

 だが、40前後の多事多難な人生の転機にある彼らはすれ違いやがて一通のメールを契機として、道をたがえることになる。


 映画化されて、これがまたいい映画で。主人公の演奏シーンが絵になるんです。というかギタリストである蒔野を福山雅治さんが演じるというキャスティングなので、そりゃあもうギターもっているのが絵になるのはあたりまえですが。


 主人公の蒔野はかつて天才といわれたものの、今まさに音楽との闘いの最中にいる苦悩するギタリスト。ヒロイン洋子はジャーナリストとして、蒔野の演奏するバッハを心の支えに、報道の最前線で戦っていた女性記者。

 そんな二人がお互いがお互いを支えあう、となればハッピーエンドですがそうとはならない。奇跡のように幸せな出会いは、ガラス細工のように精緻で美しく、壊れやすく脆く儚い。

 それは蒔野が自らの演奏に納得できずのたうち回りながら、それでも求めずにはいられない理想のギターの音色のようです。


 作中、ギターの演奏シーンはもちろんですが、その他に「バッハ」について取り上げられてる部分が特に印象に残りました。

 洋子は紛争状態のバクダットの日々の中で二十代の頃蒔野が録音したバッハを聞いていて

「三十年戦争のあとの曲なんだ」

と感じてバッハが好きになったと語ります。ドイツの人口が半分になったという凄惨な戦争の後で生まれた曲なのだと。

 バッハについて無知な自分には、しかもそれがギターとなると想像すらできないのですが、このシーンを読んだ瞬間、生まれて初めてバッハの曲に明らかなキャラクターを感じました。

 のちにこの言葉は蒔野の脳裏に再び思い出されますが、それは物語の後半、作中で東日本大震災が描かれ、その無力感の中で蒔野がバッハに再び取り組むと決意した時でした。

 救いとか喜びとか悲しみとか、言葉に変換できる感情や理屈ではなく、音楽が内包する言語化し難い何かが、時代と場所を越えて共感を呼ぶ……ということなのではないかとおもいます。


 たぶんこの小説に出会わなかったら、能動的にバッハを聞いてみようとか、一生思わなかったと思います(笑)

 音楽の小説というのは時々こういう出会いの契機になることがあります。




……ああ、また5000字越えて終わらない。



 


 


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昔読んだ本、発掘記  石束 @ishizuka-yugo

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