B.B.Q大使
タキコ
B.B.Q大使
やっぱり、今日は誰もいない。
海岸線を走る鉄道の車窓が、緑深く染まった。
終点のホームに降り立ったのは、トリヰと車掌だけ。
大きなマスクを外して、トリヰは、空気を思い切り吸う。ついでに、息を小さく吐いた。
車掌のマスクの上の眼差しが、すれ違いざまに、笑っていた。微かに「おかえり」と言った気がした。
海に向かって東へ東へ、急ぐ。帰りの列車までの時間は120分。
「急用急用急用」
トリヰの駆け足がリズムを打つ。
国道から離れて、行き交う人も、車も、
今夜、この地に人人が集うことは有り得ない。
だのに、トリヰは、期待している。
あの角を曲がれば、あの歓声が、山並みにこだまするに違いない。
一つ前の同じ季節に、歓喜する人人で溢れたラグビー 場。
球技場までの道のり、直線コースをトリヰは、目をつむったまま走り出す。
波に飲まれた跡地の原っぱ。楕円の球が空高く舞う。大好きな古里に、真新しいスタジアム。
未来は始まったばかりなんだ。
まぶたを開けると、杉の木の香り。木造の椅子が整然と並ぶスタンドに、胸が高鳴る。
どうか、どうかゲームを開催して。
やっぱり、人はいなかった。
駐車場はだだっ広い空き地。なんの
がらんどうの客席。なんの遮りもなく入場できた。
トリヰは、隅っこの壁に隠れて、コンクリートの階段に座る。
目の前に、垂直に立つゴールポスト。
ゴロンと仰向けになって、空を見上げた。
楕円形の球が回転する。クロスバーの
走り出す15人。もう一度、敵陣へ。
押す押す、前へ。繋ぐ繋ぐ、横へ。それから…、押し込む? それとも、渡す?
トリヰが考える間に、足元を
風になった。
途端、そこかしこに、いい匂いが勢いよく流れてくる。すごーくいい匂い。
トリヰは、ばさりと飛び起きた。
なんの匂い?
風に揺られて漂う源は、壁の向こう側。
あ、あれだ!
トリヰは、壁の陰から
またしても、B.B.Q《バーベキュー》!
男が2人、球技場と地続きの芝の上で、B.B.Q台を広げている。
地元Kの選手かな。
この風景、最近のKの試合では、おなじみになりつつあった。試合の日は、台の数も幾らか多い。確か、地産の海鮮が売り。もちろん、最大の魅力は試合観戦。
「肉だ肉。食べろや」
「いいんすかね、バーベキューやってて。これって不要不急っすよね」
「いいに決まってる。俺がバーベキュー主任だ」
「そうっすね。体力作りってことで…」
「当然だろ。いつリーグが再開してもいいように…」
「バーベキューセットの点検っす」
B.B.Q主任の男は黙って、後輩らしき男の皿に、焼けた肉を積んでいく。
「夢でしたよ、インゴールかぶりつきのバーベキュー」
「インゴールなんだよな、すぐそこ」
「やばいっすよ。相手のゴールが決まった時に限って、無茶苦茶匂うんすよ」
B.B.Q主任の男が、手を止めた。
「だろうな。でもよ、お前はいいよな。またハーフウェイラインに戻って行けるだろ。俺なんか、ひたすら陣地で、焼き肉接待よ。分かるか、この屈辱が」
後輩らしき男は、肉を頬張る。
「そんなら、陣地を逆にすりゃいいじゃないっすか」
大味な理屈。トリヰが笑いを堪えた時、B.B.Q主任は豪快に笑った。
「そういう事じゃないだろうが。お前は、人の気持ちが分からないんだな」
東京弁だなと、トリヰは思う。
「いやー、先輩しかできませんよ。接待主任は。特別手当なんか、あるんすか」
「あるわけないだろ。…焼けたぞ、ほら、食え」
「だけんど、チームのイベントっすよね」
「K市の観光課だな」
「かっこいいっすね。観光大使かぁ」
「おまえ、本気で言ってるか? 俺は選手だ。折しも、仲間が戦ってる最中にだ、バーベキューは、ないだろ」
「折しもすよ、ビール勧められたら、どうするんすか。接待のお偉いさんに、一杯やりたまえって言われたら、断れないっすよね」
B.B.Qの2人は、トリヰに気づくよしもない。トリヰは、立ちこめる焼き肉臭に、空腹が鳴くのを
「断るだろ、ふつーは」
「そんなもんすかね」
「折しもすよ、女子会の接待が来たら、先輩がお相手するんすよね。かわいいギャル4人組なんて、どうすか、主任!」
後輩らしき男の口調に、力がこもった。
B.B.Q主任の男の返事は、反して弱い。
「ボールさばきで魅せたいだろ。自分とこのゲームでよ、肉さばきは、ないだろ。…しかも、そこ、デッドボールのライン。ボール死んでる」
ちょっと沈黙があって、炭火がパチっと音を立てた。
「先輩のキック、見たいすよ。オールジャパンのキック」
「キックできる奴は五万といるだろーよ。キッカーがフルバックしかできないんじゃ、時代遅れだな」
フルバック? てことは15番の選手?
トリヰは、首を
有名なキッカーがいた。4、5年前に、代表候補だった選手。きっとそうだ。
トリヰは、B.B.Q主任の顔を見たくて、ちょっとだけ前に、体をずらした。
「あ!」
トリヰが叫ぶが早いか、壁際の立ち入り禁止のバーが、地面に落下。ガタンと、巨大な音が、無人のスタンドに響いた。
「うあー」
トリヰの長い黒髪が、虎柄のバーの先にからまっている。
同時に、2人の男が見上げた。
黒髪を柔らかく風になびかせ、バーをぶら下げて、立ち尽くす少女。
「あの、すみません。勝手に入って、ごめんなさい! 試合は中止って知ってます。しばらく無いって知ってます。でも、もしかしたらあるかもって。あったらいいなって…思って」
2人の男は、呆然と、トリヰを見ている。
「えっと、ボールがポストの
B.B.Q主任で、キッカーで、フルバックの選手が笑った。
「Kに住んでるの?」
「高校までいました。今は大学生で、市外にいます」
2人の男は、黙って
トリヰは、慌てて言った。
「あ、ありがとうございます。観光大使やってくれて、ありがとうございます!」
楕円球が、ゴールのポストを抜けて、こちらに飛んでくる。
インゴールのこっち側からキックを見るのは、トリヰには初めてのことだった。
B.B.Q主任のキックは、クロスバーすれすれの低空飛行。ボールは回転していない。
「ロケットみたい」
鳥ではないと、トリヰは思った。
「狙いが正確だから、先輩のキック」
後輩の男は、背筋を伸ばしたまま、グラウンドの先輩キッカーを見つめていた。
西日が、スタジアム全体を包んで照らしている。
先輩キッカーが、インゴールに向かって歩いてくる。まぶしそうに目を細めた。
後輩の男とトリヰは、なぜだか、言葉を見つけられずにいた。
デッドボールラインを越えるところで、先輩キッカーのB.B.Q主任は、大笑いした。
「焦げてる、肉! お前、バーベキュー候補、失格」
ふと、B.B.Q主任の背中に、羽が見えた。大きな大きな羽。
「バーベキュー天使!」
トリヰは、心の中で、呼んでみた。
B.B.Q大使 タキコ @takiko
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