第5話
そのうちとうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたが、その辺のいのころ草は、もうすっかり黄金いろの穂を出して、風に光り、ところどころすずらんの実も赤く熟しました。
ある透きとおるような黄金いろの秋の日、土神は大へん上機嫌でした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが、何だかぼうっとみんな、立派なもやのようなものに変わり、頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質も、どこかへ行ってしまったのでした。樺の木も、狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくて話すのなら、ほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に言ってやろうと思いながら、土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。そしてやっぱり心配そうに、ぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って、気軽に挨拶しました。
「樺の木さん。お早う。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道というものは、ありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると、葡萄は紫むらさきになる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだが、やっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたが、なぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて、返事をしかねました。
「わしは今なら誰のためにでも命をやる。ミミズが死ななきゃならんなら、それにもわしは代わってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て言いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木はまた何とか返事しようとしましたが、やっぱり何か大へん重苦しくて、わずか吐息をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神の居るのを見ると、はっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず、少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」
狐は赤革の靴をはき、茶いろのレーンコートを着て、まだ夏帽子をかぶりながら、こう言いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」
土神はほんとうに明るい心持でこう言いました。狐は嫉たましさに顔を青くしながら、樺の木に言いました。
「お客さまのおいでの所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束した本です。それから望遠鏡は、いつか晴れた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」
と樺の木が言っているうちに、狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷりふるいました。
土神はしばらくの間、ただぼんやりと狐を見送っていましたが、ふと狐の赤革の靴のキラッと光るのにびっくりして我に返ったと思いました。にわかに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように、肩をいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もその気配にどうかしたのかと思い、何気なくうしろを見ましたら、土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。狐はさっと顔いろを変え、口もまがり風のように走って逃げ出しました。
土神はまるでそこら中の草が、まっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていた空さえにわかにガランとまっ暗な穴になって、その底では赤い焔がどうどう音を立てて、燃えると思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら、夢のように走っていました。
向こうに小さな赤剥げの丘がありました。狐はその下の円い穴に入ろうとして、くるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして、後足をちらっとあげたとき、もう土神はうしろからぱっと飛びかかり、狐をつまみ上げました。と思うと、狐はもう土神に体をねじられ、口を尖がらして、少し笑ったようになったまま、ぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神は狐を地べたに投げつけて、ぐちゃぐちゃ四、五へん踏ふみつけました。
それから狐の穴の中へ、飛び込んで行きました。中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に堅かためられているばかりでした。望遠鏡も、英語やドイツ語の本も、何もありませんでした。土神は大きく口をまげてあけながら、少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている、狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には、茶いろなカモガヤの穂が、二本はいっていました。土神はさっきからあいていた口をそのままに、まるで途方もない声で泣き出しました。
その泪は雨のように狐に降り、狐はいよいよ首をぐんにゃりとして、うすら笑ったようになって死んでいたのです。
底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社
1990(平成2)年5月25日発行
1995(平成7)年5月30日11刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2008年11月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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最初に読みながら、自分は狐のようなかんじがしたが、書いてみると違ったかんじがした。書きながら、自分の読みやすい形に直していると、そのまま自分の血肉になっているような気がする。点滴を打っているようだ。そうなると、やはり土神に、自分の嫉妬深い部分を暴かれたような気がしてしまう。恋をすると、いつでも気が気じゃなくなってしまう。自分というものが、強制的に改変されてしまう気がする。不思議なのは、普段は自分なんて、いくらでも変わってしまって構わないと思うくせに、恋をすると、自分というものにすがりつきたくなってしまう。それほど、不安定で、心細いものなのだ。
狐のような人もいるのだろう。狐なんて、ほんとうはとるに足らないのに、樺の木にお似合いなのは、実は狐なんだとか思ってしまう。樺の木だって馬鹿だ。ハイネとか望遠鏡とか、欧州航路にうっとりしてしまうのだ。でもだからといって、ほんとうは土神のほうがいいヤツなんですよとはならない。
ああ思い出した。高校時代の友達が私の小説を読んで、この童話を教えてくれたのだ。どんな小説かよくおぼえていないが、片想いの相手の絵をびりびりに破いてしまう話だった気がする。やっぱり私は土神だったのだ。強がってはいても、その内実は不安で仕方がなかったのだ。
土神と狐 fktack @fktack
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