第4話

八月のある霧のふかい晩でした。土神は何ともいえず、さびしくて、それにむしゃくしゃして仕方ないので、ふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にか、あの樺の木の方へ向っていました。本当に土神は樺の木のことを考えると、なぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変わって、よくなっていたのです。なるべく狐のことや、樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたが、どうしても頭に浮かんで仕方ありませんでした。おれは卑しくも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何の値があると、毎日毎日土神は繰り返して、自分で自分に教えました。それでもどうしても悲しくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思い出したら、まるでからだが灼けるくらい辛かったのです。


土神はいろいろ深く考え込こみながら、だんだん樺の木の近くに参りました。そのうちとうとうはっきりと、自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだと、気が付きました。にわかに心持がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだから、ことによったら樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば、大へんに気の毒だというような考えが、強く土神に起こって来ました。土神は草をどしどし踏み、胸を踊らせながら、大股に歩いて行きました。ところがその強い足なみも、いつのまにかよろよろしてしまい、土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びたように、つっ立たなければなりませんでした。狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱んだ霧の向うから、狐の声が聞えて来るのでした。

「ええ、もちろんそうなんです。器械的に対称シインメトリーの法則にばかり叶っているからって、それで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」

「全くそうですわ。」しずかな樺の木の声がしました。

「ほんとうの美は、そんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うっていったって、実は対称の精神をもっているというぐらいのことが、望ましいのです。」

「ほんとうにそうだと思いますわ。」

樺の木のやさしい声がまたしました。土神は今度はまるでべらべらした桃いろの火で、からだ中を燃やされているようにおもいました。息がせかせかして、ほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、たかが樺の木と狐との、野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されて、それでもお前は神といえるのか。土神は自分で自分を責めました。狐がまた言いました。

「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」

「美学の方の本を、沢山お持ちですの?」樺の木はたずねました。

「ええ、よけいもありませんが、まあ日本語と英語とドイツ語のなら大抵ありますね。イタリーのは新しいんですが、まだ来ないんです。」

「あなたのお書斎、まあどんなに立派でしょうね。」

「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡、こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったり、まるっきりごったごたです。」

「まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。」

ふんと狐の謙遜のような自慢のような息の音がして、しばらくしいんとなりました。


土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っているのを聞くと、全く狐の方が自分よりはえらいのでした。卑しくも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが、いよいよできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは、何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。

「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。

「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんか、それぁ美しいんですからね。」

土神はにわかに両手で耳を押さえて、一目散に北の方へ走りました。だまっていたら、自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。


一目散に走って行きました。息がつづかなくなって、ばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。


土神は頭の毛をかきむしりながら、草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は雷のように空へ行って、野原中へ聞こえました。土神は泣いて泣いて疲れ、あけ方にぼんやり自分の祠に戻りました。

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