第3話

土神の棲んでいる所は、小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿地で苔やから草や、みじかい葦などが生えていました。また所々にはあざみや、背の低いひどくねじれた柳などもありました。


水がじめじめして、その表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり、見るからどろどろで気味も悪いのでした。そのまん中の小さな島のようになった所に、丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。


土神はその島に帰って来て、祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が、自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。土神は起き直って「しっ」と叫びました。鳥はびっくりして、よろよろっと落ちそうになり、それからまるで羽根もしびれたように、だんだん低く落ちながら向こうへ逃げて行きました。


土神は少し笑って起きあがりました。けれども又すぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見ると、はっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風に、そのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。


その時谷地の南の方から、一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ、稼ぎに出るらしく、谷地のふちに沿った細い路を大股に行くのでしたが、やっぱり土神のことは知っていたと見え、時々気づかわしそうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには、土神の形は見えなかったのです。


土神はそれを見ると喜んでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して、左手でその右手の手首をつかみ、こっちへ引き寄せるようにしました。すると奇体なことに、木こりはみちを歩いていると思いながら、だんだん谷地の中に踏み込んで来るのでした。それからびっくりしたように、足が早くなり、顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはぐるっと円くまわって歩いていましたが、いよいよひどくあわてだし、はあはあはあはあ息をしながら何べんも同じ所をまわり出しました。一刻も早く谷地から逃げて出ようとするのでしたが、あせってもあせっても同じ処を廻っているばかりなのです。とうとう木こりはおろおろ泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうに、にやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていました。間もなく木こりがばたっと水の中に倒れてしまいますと、土神はゆっくりと立ちあがりました。ぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行くと、倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へ、ぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどしりと落ちて、ううんと言いながら少し動いたようでしたが、まだ気がつきませんでした。


土神は大声に笑いました。その声はあやしい波になって、空の方へ行きました。


空へ行った声は、まもなくはねかえってガサリと樺の木の処にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変え、せわしくせわしくふるえました。


土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながら、ひとりで考えました。おれがこんなに面白くないというのは、第一は狐のためだ。狐のためよりは、樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方は、おれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らないために、おれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ、狐などは、なおさらどうでもいいのだ。おれは卑しいけれども、とにかく神の分際だ。狐のことなどを、気にかけなければならないというのは情ない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれに、あんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰たれだってむしゃくしゃしたときは、何をするかわからないのだ。


土神は、ひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一匹の鷹が翔かけて行きましたが、土神はこんどは何とも言わず、だまってそれを見ました。


ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしい、パチパチパチパチ塩のはぜるような、鉄砲の音が聞こえました。そらから青光りが、どくどくと野原に流れて来ました。それを呑んだためか、さっきの草の中に投げ出された木こりは、やっと気がついておずおずと起きあがり、しきりにあたりを見廻しました。


それからにわかに立って、一目散に逃げ出しました。三つ森山の方へ、まるで一目散に逃げました。


土神はそれを見て、また大きな声で笑いました。その声は青空の方まで行き、途中から、バサリと樺の木の方へ落ちました。


樺の木ははっと葉の色を変え、見えない位こまかくふるえました。


土神は自分のほこらのまわりを、うろうろうろうろ何べんも歩きまわってから、やっと気がしずまったと見えて、すっと形を消し、融けるようにほこらの中へ入って行きました。

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