第2話
夏のはじめのある晩でした。樺には新しい柔らかな葉がいっぱいについて、いい香りがそこら中いっぱい、空には天の川がしらしらと渡り、星は一面ふるえたりゆれたり、灯ったり消えたりしていました。
その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。
「実にしずかな晩ですねえ。」
「ええ。」樺の木はそっと返事をしました。
「さそり星が向うを這っていますね。あの赤い大きなやつを、昔は支那では火(か)といったんですよ。」
「火星とはちがうんでしょうか。」
「火星とはちがいますよ。火星は惑星ですね、ところがあいつは立派な恒星こうせいなんです。」
「惑星、恒星ってどう違うんです?」
「惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまり他から光を受けて、やっと光るように見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかは、もちろん恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですが、もし途方ない遠くから見たら、やっぱり小さな星に見えるんでしょうね。」
「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢山のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。」
狐は鷹揚に笑いました。
「まあそうです。」
「お星さまには、どうしてああ赤いのや黄のや緑のがあるんでしょうね。」
狐は又鷹揚に笑って腕を高く組みました。詩集はぷらぷらしましたが、なかなかそれで落ちませんでした。
「星に橙や青やいろいろある理由ですか。それはこうです。全体星というものは、はじめはぼんやりした雲のようなもんだったんです。今の空にも沢山あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にも、みんなあります。猟犬座のは渦巻きです。それから環状星雲、リングネビュラというのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲、フィッシュマウスネビュラともいいますね。そんなのが、今の空にも沢山あるんです。」
「まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんて、どんなに立派でしょう。」
「それは立派ですよ。僕、水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕、実は望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。」
狐は思わずこう云ってしまいました。そしてすぐに後悔しました。ああ僕はたった一人のお友達に、またつい嘘を言ってしまった。ああ僕はほんとうにダメなやつだ。けれども、決して悪い気で言ったんじゃない。よろこばせようと思って、言ったんだ。あとで本当のことを伝えよう。狐はしばらくしんとしながら考えていました。樺の木はそんなことも知らないで、よろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」
狐は少ししょげながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたの為ならば、他のどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれど、なかなかよくできてるんです。」
「まあ、お借りしていいんでしょうかしら。」
「構いませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。じゃ僕もう失礼します。はてな、何か言い残したことがあるようだ。」
「お星さまの色のことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり永くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕、また来ますから、じゃさよなら。本はお貸しします。じゃ、さよなら。」
狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹ふいて来た南風に、ざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげました。天の川や、空一面の星から来る微かなあかりにすかしてページを繰りました。そのハイネの詩集には、ロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一晩中よみ続けました。野原の三時すぎ、東から金牛宮の昇るころに、少しうとうとしました。
夜があけました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき、花はみな力いっぱい咲きました。東北の方から、熔けた銅の汁をからだ中に被ったように、朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くさそうに腕をこまねきながら、ゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながら、それでも青い葉をきらきらと動かして、土神の来る方を向きました。その影は草に落ちて、ちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て、樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだが、なぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が、青や白をもっているためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそういえばそうだが、それでもやっぱりわからんな。たとえば秋のキノコのようなものは、種子もなく、全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄色やいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」
樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていましたので、ついこう言ってしまいました。
この言葉を聞いて、土神はにわかに顔いろを変えました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を言いおった。」
樺の木はおろおろ声になりました。
「何もおっしゃったんではございませんが、ひょっとしたらご存知かと思いましたので。」
「狐なんぞに神が物を教わるなんて、一体何たることだ。ええ?」
樺の木はもうすっかり恐くなって、ぷりぷりぷりぷり揺れました。土神は歯をきしきし噛みながら、高く腕を組んでそこらを歩きまわりました。その影はまっ黒に草に落ち、草も恐れてふるえたのです。
「狐の如きは実に世の害悪だ。嘘ばかりついて、卑怯で臆病で、しかも非常に妬み深い。うぬ、畜生のぶんざいだ。」
樺の木はやっと気をとり直して云いました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和らげました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが、にわかに又君また声をあららげました。
「しかしながら人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れた者は、きっと泥の底に引き擦り込こんでやろう。」
土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木はせっかくなだめようと思って言ったことが、またもやこんなことになったので、もうどうしたらいいかわからなくなってしまいました。ただちらちらと、その葉を風にゆすっていました。土神は日光を受け、まるで燃えるようになりながら高く腕を組み、キリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていました。考えれば考えるほど何もかもが、しゃくにさわって来るらしいのでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。
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