誰がそば屋のおっさんを殺したか
秋中月見
それは白昼夢だったのか
「暑い......」
俺は公営住宅の階段を降りながら呟いた。2020年夏、今年も例年通り猛暑となり天気予報で見た今日の最高気温は36度だった。化粧品の入った重いカバンをぶら下げて俺は休憩を取るため近くの公園へと向かった。俺は長年このエリアを重点的にカバーしている。カバンを持つ左手がもうパンパンだ。多少売れでもすれば軽くなるんだろうけどな。
この辺りは俺の通っていた高校があって、この公園では友達とタバコを吸ったりしたことがあった。俺は進学しなかったが就職が決まらずしばらくフリーターをしていた。その時にバイトで入っていたこの化粧品代理店にそのまま入社したわけだ。
この公園の先には一軒のそば屋がある。いや、あった。俺が高校生だった頃、よく帰りに友達と二人でそばを食べた店だ。おっさんは少し悪ぶっている俺たちにいつも笑顔でそばを作ってくれた。一年前に嫁さんと死別し子供もいなかったおっさんは一人で店を切り盛りしていた。そんな高校三年生の夏だった。店の主人が誰かに殺された。おっさんはかなり抵抗したらしく店内では争った形跡が残っていたらしい。何か鈍器のようなもので殴られ全身を滅多刺しという無残な姿で発見された。
なぜ俺がこの事件の事をよく覚えているかには理由がある。当時重要参考人として引っ張られたのが俺の友人の鈴木武だったからだ。俺の家にも当時警察関係者がたくさん来て当日の様子を事細かに何度も聞いてきた。ただの高校生にそば屋のおっさんを殺す動機なんて分かるわけがない。おっさんは俺たちに気前よくそばを作ってくれていつもおまけで卵を付けてくれた。
『そば屋に行ってみるか』
俺はそう思いつくと公園を後にした。そば屋の外観はこの10年ですっかり無残な姿へと変貌していた。瓦が落ち窓は割れ、看板はもう読むことが出来ない。手入れをする者が誰も居ないのだろう。警察の鑑識が終わった後もしばらくは何度か出入りはあったようだがここ何年か警察が来ている様子はない。
俺はしばらく店の前に立ち2階の方を見ていたのだが、その時軽い眩暈に襲われた。この暑さの中、立ったままで上ばかり眺めていたからか? 俺は店の横にあるベンチに座った。古びた木のベンチだが残されていて良かった。俺はペットボトルの水を口に含み、少し手に水をかけて首元と頭を冷やした。
「生き返るな」
首元がひんやりとしたことで少し落ち着いたが、俺はまだ感じている眩暈を紛らわすために目を閉じた。ああ気持ちいい。いつもの意識が薄れていく感覚。宙にでもプカプカ浮いているような気分だ。
武は俺に警察が如何に横暴かを細かに教えてくれた。自白の強要だ。殴られたこともあったらしい。拘束時間終了ギリギリまで顔にライトを浴びせお前がやったに違いないと言い続けられ、胸倉を掴まれ、引きずり倒され、トイレにさえも行かせてくれない。
武にはアリバイが無かった。事件当日と思われる夜にあいつは店に行っていたからだ。いつものようにそば屋で食べて俺たちは駅へと向かった。ところが改札に入る前に定期入れが無いと言い出したのだ。武は財布の中に定期を差し込んでいる。恐らく勘定を済ませた後でカウンターの上に置き忘れたのだろうと。俺は特に何を思うこともなく、『じゃ先に帰るわ』と言ってその場で別れたのだった。俺は武が走ってそば屋へ向かう姿を見つめていた。今日の店の出来事で少し胸騒ぎを覚えたからかも知れない。今日に限っておっさんは何故か俺達の名前を執拗に知りたがったからだ。武は言っていたが俺は言わなかった。大人に屈するなんてごめんだ。
状況は武に対して良いとは言えなかった。もみ合った際に体にできた切り傷、そこら中に残された指紋。残された血痕のDNAは武のものと一致した。更に現場に残された彼の財布。状況証拠は武が犯人だと決めつけているようなものだったのだ。
「散々な目に遭ったんだな」
「ああ、犯人は俺だと決めつけてやがるんだ。どうしよう、このままじゃ俺は犯人にされちまう!」
「やってないなら、それを言い続けるしかないぜ。心配するな、真犯人はきっと見つかるよ」
「だと良いんだけどよ」
それが武と交わした最後の言葉だった。武は警察の圧力に耐えきれず、自宅で首を吊っているのが発見された。俺は無実だ、と書いたノートを残して。当時警察の未成年者に対する行き過ぎた尋問だとしてワイドショーにも取り上げられ、大きな話題となった。しかしそれも時と共に風化し、今では話にも出ないようになった。時間の経過とは恐ろしいものだ。
ふう。目を閉じていると色々な事が思い出される。まるで当時に戻ってしまったかのようだ。俺の意識は今どこにあるのだ?
「おっさん、悪い! 俺、ここに財布忘れてなかったか?」
ん? なんだこれは? 俺は何を見ている? これはこの店の中じゃないか? あそこに見えるのは武だ。なぜアイツがここに居る?
「ああ、これの事かい? 心配ない。ちゃんと取ってあるよ」
「流石おっさん、気が利くなぁ!」
これは? やけにリアルに感じるが夢かこれは? まるで匂いまで感じることが出来ている気がする。それにこれは武が財布を忘れた日なんじゃないのか? そして俺は覗いているのか? そば屋を?
武は財布に手を延ばそうとしたが、おっさんがカウンターの向こう側から客席の方まで出てきた。
「わざわざ出てきてくれなくても良いんだぜ? 俺は直ぐ帰るし」
「ああ、帰る前に一つ聞かせてもらってもいいか?」
「なんだよ? ちょっとおっさん目が怖いぜ? どうしたんだよ?」
「一年前の事だ!」
なんだ? おっさんが急に怒りはじめたみたいだ。このまま引き戸を開けて入っていっても良いが、揉めているようだしな。しかしここからではよく見えない。あ、確か、この店には裏口があったはずだ。ちょっとそっちに回ってみよう。
「なんだよ、一年前って? 俺が何かしたわけ?」
「ああ。お前、今日名前を聞いたらスズキタケシと言ってたな? お前が! お前が妻をレイプしたんだろう!」
「ちょっと待てよ。何言ってんだよ、おっさん。俺がそんなことする訳ないだろう」
「嘘をつけ! 証拠がある! 証拠があるんだぞ! 妻の遺書と一緒にお前の名前が書いたモノが出てきたからな。妻を自殺に追いやったのはお前だ! お前を警察に突き出してやる。だがそれでは俺の気が済まん、そして妻の無念もな。警察に突き出すのはお前を半殺しにしてからだ!」
「おい、落ち着けよおっさん。俺じゃない。そんな名前どこにでもあるだろう?」
「お前、三ケ山高校のズズキタケシなのだろう?」
「ああ、そうだけど」
と言い終わるのと同時におっさんが武に殴りかかった。武は何とか避けようとして二人で揉み合っている。テーブルのはし箱や調味料は床に散乱し、おっさんは転ばした武に馬乗りになって殴り始めた。しばらく殴り続けて、おっさんはゆらりと立ち上がった。武は殴られて血まみれじゃないか。ヤバイこっちに来る。俺は身を隠しておっさんをやり過ごす。おっさんはカウンターから包丁と麺を打つ棍棒を取り出して戻っていく。
その様子を見た武は身の危険を感じたのか慌てて店を飛び出した。おっさんは追いかけるかと思ったが店の外を何度か見た後で扉を閉めた。その時俺の横を一人の男がすり抜けていった。おい、こいつタケシじゃないか。
彼は走っていくと丁度おっさんが包丁を持ったまま右手でドアを閉めている時に後ろから椅子で殴りつけた。おっさんは一瞬怯んで包丁を落としてしまうが、左手に持っていた棍棒で殴りつけた。ガードしようとした時に丁度肘の部分にあたったようで少し鈍い音が響いた。
「お前か、お前だったんだな。後ろからとは卑怯なやつだ」
「スズキタケシだというその証拠を見せろ!」
「見せた所で何になる? 妻の仇だ! このガキが! こ、殺してやる!」
おっさんが飛び出してくるタイミングで彼は左手でカウンターに置いてあるポットの水をおっさんへと浴びせた。目に入ったのか一瞬動きが止まった所でおっさんに飛びかかろうとするが、おっさんは再び棍棒で右肘を殴りつける。
「ギャア!」
右の腕はもはや使い物にならない。彼は痛みのあまり床を転がりまわる。その目の前にはおっさんが扉を閉めた時に落とした包丁が転がっていた。それを握り締めるとおっさんへと突き立てた。
「グアア! クソッ、よくも! よくも! 殺してやる殺してやる!」
おっさんは腹を刺されても両手で首を絞めてくる。彼は何度もその体に包丁を突き立てた。利き手ではなく力が入らなかったのか、腹の傷以外はおっさんの体に深く刺さらなかった。出血多量には間違いないが、返り血をあまり浴びずに済んだようだ。
誰かが通報したのだろうか? 少し店の外が騒がしく思える。彼は包丁の柄の部分をハンカチで拭き取ると裏口から外へと飛び出した。
「名前が書いてある証拠があると言っていたな。確かにそう聞いた」
俺はゆっくりと意識を覚醒させる。この家のどこかに遺書と証拠が隠されているのか。警察でさえ見つけることが出来なかった場所に。だけど何かの拍子に出てくることがあるかも知れないな。見つかれば一連の事件の重大な手掛かりになるだろうな。
先ほどから電話が鳴っている。ああ俺の電話か。俺は左手で電話を取る。右手は昔スポーツか何かをした時だろうか、肘を痛めてろくに使えないのだ。どうもあの頃から妙な夢ばかりを見る。思い出せない事が多い。なぜ俺はこの場所に来たくなるのか。なぜこの家に入りたくなる衝動に駆られるのか。全く分からない。ああ、電話に出なくては。
「はい。あ、先ほどはありがとうございます。はい、すぐにお持ち致します。はい、私の名前ですか、これは失礼致しました」
俺は向こうには見えもしないのに営業スマイルで答えた。
「鈴木武司と申します」
誰がそば屋のおっさんを殺したか 秋中月見 @Jet-K
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