約束の夜空へ、焔の花束を《殺伐感情戦線『約束』》

三ヶ月に一回の白雨の日は、決まって館を出てお茶をしながら本を読む日と、私は決めていました。

ヘミングウェイは言いました。“本ほど信頼できる友は居ない”。その通りです。

馬車に乗って18分。カフェ・ラム・レーズンは、鬱蒼と茂った森の中、野ばらのアーチを超えた先にあります。

注文するのは、いつものワッフル。バターの味が濃すぎるクリームと、水っぽいクランベリーが乗っているものを。

それとセットで、ブランデーを少し垂らした苦めのコーヒー。

お世辞にもワッフルは美味しくないけれど、この店でしか飲めないブランデーコーヒーの味が何かすごく恋しく感じて、足を運んでしまうのです。


白雨の日のラム・レーズンは、いつも、同じ音楽が流れています。

使い古されたレコードに、15時30分になると、この店のマスター、マダム・カルデラが、胸元で十字を切りながら針を落とすのです。

“鎮魂花”。レクイエムにしては些かキャッチー過ぎるなメロディラインは、この村に嫁ぎに来て、この村で死んだ、有名なジャズシンガーの曲だと、村人なら誰しもが知っています。


「マダム、いつものをお願い」


私の他に、三名。白雨の日のラム・レーズンには常連がいます。

青ざめたシルクハットのモーガン卿に、白金色のペルシャ猫をいつも抱えているメーヴ女史、そして、毎度新聞のクロスワードに夢中なマクガフィン老。

全員が、娘を“摘まれた”親で――つまりこの場所は、一部の村人にとっては、教会にも同じという訳なのです。

さて、しかし今日はどういう事か、知らない顔をした女性が、私の特等席に――窓際の端から三番目の席です――座っていました。


「貴女、見ない顔ね」

「……どうも。今日、初めてこの村に来たんだ。いやあ、白い雨とは、驚いた」

「白雨は、この村の呪いよ。

 席、一緒でいいかしら? その席じゃないと、なんだか、いつも落ち着かなくって」

「どうぞ。私一人には広すぎるテーブルだから」


彼女は、恐らく私より五歳くらいは歳上でしょうか。

ぞっとするくらいに真っ白な丸襟のブラウスに、吸い込まれそうになるくらいに真っ黒なロングスカート。

蝋人形のように血の気の無い肌には薔薇色の口紅、暗い夜の色をした長髪は後ろに束ねていて、飴玉を頬の内側で転がしています。


「旅人さん。ここは、ブランデーコーヒーがおいしいのよ」

「そうなんだ。早く知りたかったな。メロンソーダ頼んじゃったよ」

「そ。残念。次は頼んでみて。約束よ」


彼女は大きな鞄を脇に置いていました。人一人くらいなら、バラバラにしちゃえば入りそうなくらいの、とても大きな鞄です。

何の荷物かと訊けば、彼女は間髪入れず、仕事道具なのだと答えました。

何の仕事かは尋ねませんでした。聞いたところで、私にはきっと縁がないでしょうし、ホラを吹かれそうだったからです。


何故って彼女は―――初めてこの村に来た、と、私に嘘を吐いたから。





ごぉん、と遠く鐘の音が鳴りました。窓の外で雨宿りしていた椋鳥が、音色に慌てて雨空に飛び立ちます。

鐘は村の外れにある寂れた教会のもので、多くの村人は、そちらへ祈りに行っているのです。


「……旅人さん、そろそろ、閉店の時間よ」


私は彼女に声をかけて、席を立とうと本に栞を挟みました。

まだ17時だけど、と彼女は怪訝そうにしたので、私は肩を竦めてみせます。


「昔から、三ヶ月に一回ね、今日みたいな白雨が降るのよ、この村には。

 そうして白雨の日は、夜になると霧が出る。

 この店も、普段は20時閉店だけど、今日は特別」


とくべつ? 彼女が首を傾げます。

そう、とくべつ。私は席を立って、彼女の耳元で囁きました。


「霧の夜は、“花摘み”が出るから」


――はなつみ。彼女がぱちりと瞬きをします。涅色の、甘ったるい鼈甲の飴玉のような瞳が、私の双眸に映りました。


「話せば長くなるけれど……続きは、外にしましょう。マダムに迷惑がかかるわ。

 それにね、旅人さん。この話は……この村ではあまり歓迎されないのよ」


メロンソーダが少しだけ残ったグラスの中で、からん、と氷が唄います。窓の外では雨はどんどん激しさを増していて、東の空には、遠く稲妻の唸り声が轟いていました。


「どうやら、訳有りの話みたいだ」


私達は店を出て、雨宿りがてらベンチに座って空を見上げました。

降りしきる白雨は、“忌み雨”とも言われています。

この村の人間は、この日ばかりは体を濡らすのを気味悪がって、教会に祈りを捧げる以外では家を出ません。

この日のラム・レーズンは、村はずれの教会まで行くには遠過ぎて雨を浴び過ぎてしまうのを嫌う、少数派の為の場なのです。


「話を少し聞かせて貰おうかな。

 私、東の方の国から来た、ホシって名前。この村には、奉公に来たんだ。理由は話すと長くなるから、聞かないでくれると嬉しいな」

「言いたくない事は無理には聞かないわ、ホシ……ねぇ、東の国の人は皆、そんな風変わりな名前なのかしら?

 私の名前は、レイムリング。レイムリング・スリーピィ。レムでいいわ」

「そっちこそ、変わった名前……よく眠れそうな」

「お陰様で、ここ十年ずっと不眠症よ。

 ……この森には、霧の夜にしか咲かない花が、森の奥地に自生してるのよ。綿毛みたいに軽くて、柔らかな……そうね、貴女の口紅みたいに真っ赤な、レイニィコットンって花。

 とっても繊細で、開花したときに人が触ったり、近くにうっかり寄るだけでも、途端に枯れて色を失ってしまう。そんな花よ。

 どうやら、霧というより、白い雨に反応して、花を咲かせているらしいのだけれど。

 この村は曇りか雨が多いのだけれど、その花が咲いた次の日は、嘘みたいに晴れて、レイニィコットンの種が風に乗って、一面に舞うわ。真っ赤な綿花が辺りを飛ぶのは、まるで空気が燃えているように見えるのよ。

 この村では物騒な“魔女の火刑”って名前で、言うのだけれど。

 ああ、ごめんなさい、ホシ。私ばかり喋りっぱなしで。私は植物学者で……レイニィコットンを研究しているの」

「どうりで。それで、レム。肝心な話。はなつみ、っていうのは?」

「それは、ね――――――」


遠く、遠く、大きな雷が鳴りました。私の罰当たりな言葉を遮るように、或いは、私の録でもない表情を、雷光で彼女の視線から、隠してしまうように。







「今日からお世話になります、お嬢様。ホシと申します」


ばあやに呼ばれてわざわざ玄関まで来てみれば、メイド服を来ている彼女がこちらへ礼をしているものですから、思わず大きな溜息が出てしまいました。

新しい侍女を雇うつもりだ、と聞いてはいましたが、それがまさか、二週間前にラム・レーズンで出逢った、彼女だとは思いもしなかったからです。


「偶然にしては、些か出来過ぎているわ、ホシ」

「お嬢様、しかし本当に私も知らなかったのです。奉公先は森の奥の洋館とは聞いてはいましたが、まさかレム……レイム様があの時の方だとは、とてもとても……」


彼女は……いいえ、ホシは、白々しい笑顔を振り撒きながら、答えました。


「ねえホシ。貴女、二週間、この村で何をしていたの?」

「私情がありまして……」

「ふぅん……まぁ、いいわ。今日は青ざめたモーガン卿に、調合室にある赤い箱に入った薬を届けて欲しいの。心臓の薬よ」

「あの、お嬢様は、薬師なのですか? 先日は、植物学者だと聞いていましたが……」

「ホシ、この村はね、生娘の造る植物由来の薬しか、宗教的に受け付けないの。植物学者っていうのは、東国で言う薬師と同義なのよ」

「はぁ、なるほど。承知しました」

「地図は? 知っていると思うけれど、この村は家と家の間に森があるから、迷いやすいわ」

「二週間、お休みをいただいていたものですから。頭に入っております」

「あら、そう」


ホシは、ずれたメイドキャップが付いた頭を下げると、調合室に向かってぱたぱたと走り去って行きました。

ふと窓の外を見ると、今日は珍しく、館の外は晴れです。新緑の季節――レイニィコットンが一番綺麗に咲く時期です。


「……ブランデーコーヒーでも、飲みたい気分ね」


これはきっと私だけではないと思うのですが、晴れの日は、妙に気分が滅入ってしまいます。

なんだか、太陽に“外出しなさい”と説教されているような気がしてしまって。

そしてそんな日に限って、その幻の声が疎ましくて、突き抜けるような晴天さえ、心の何処かで見て見ぬふりをしてしまうのです。

だから、雨の日は、部屋の中にいるのを許されている……そんな気がして、安心します。

濡れない屋根の下で、雨音を聞きながらジンジャー・ティーを飲みながら、悲恋の小説を読むのは、私だけが知っている特別な贅沢なのです。

だって、そうでしょう。

天気の日に引きこもる背徳より、雨の日に安全な場所から平和に過ごす方が、よほど健全で、よほど臆病で……とびきり、人間的じゃあないですか。

けれど、ばあやはいつも私に言うのです。

見て見ぬふりを続けていれば、いずれ向かうべき澪標すら見えなくなって、遭難してしまう。

そうしてしまったら最後、辿り着ける場所なんて、舵があったとしても、何処にもないのだ、と。

――自分自身にも?

私は、ある時に聞いたことがあります。

――そう、自分自身にも、辿り着けなくなるのさ。

ばあやはクッキーを丁寧に包紙から出すように、言いました。

――”今居る場所から逃げても、自分から逃げることはでない”。

そうして、ヘミングウェイの言葉を、歌うように私は呟いたのです。





時というものは、名残惜しむ間すら人間には与えません。経つのは本当にあっという間です。だってホシが来てから、もう一年も経ったのですから。


「……」


今日の目覚めの合図は、小鳥の囀りでなければ、侍女の声でもなく、窓を激しく叩く雨でした。

そして、雨は雨でも、マクガフィン老がふかす葉巻の煙のように濁った白雨――つまり、“花摘み”の日です。

スリーピングカーテンを開いて、私は伸びをしました。清々しいさとは程遠い朝ですが、こんな時でもお腹は減ります。

きっと下では、いつものポーチドエッグとベーコンが私を待っているのです。

けれど、私は空腹を飲み込んで、庭へ向かいます。

何故って? 今日は“花摘み”の日ですから。


「お体に触りますよ」


パジャマのまま裏庭に出て祈っていると、ホシが私に毛布を掛けながら、言いました。


「貴女にとっては、奇妙な文化でしょう、ホシ。雨の日に傘をささないだなんて。東の国では、様々な色や形の傘があると聞いたわ」

「最初こそ驚きましたが、もう慣れてしまいましたよ、お嬢様」

「雨はこの村では神聖なもの……尤も、白雨だけは“忌み雨”だという意見も、最近はあるけれど。

 ねぇホシ、貴女、雨は好きかしら?」

「雨が降ると、昔のことを思い出すのです。

 とても寂しくて、辛かった日のこと。楽しかった日々のこと。それが終わった日のこと。

 ですから、お嬢様。答えは、嫌い、です」

「ホシ、けれど、Après la pluie, le beau temps――“止まない雨は無い”のよ。いつか、好きになれると良いわね。

 私の雨は、あの日から止まないもの」


私は目の前の墓碑を見たまま、言いました。

手向けの花はガマズミの花と、毎年決めています。

骨のように白い花は、この下で眠るあの人の大好きだった花でした。


「一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」

「良いわよ。あとでマシュマロサンド・ビスケットをくれるのなら」

「……お嬢様の、姉君のことです」


遠く遠く、雷鳴が轟きました。

私は他人に深入りはしませんし、自分の事も滅多に話しません。

知られたくないことが自分には多過ぎるから、その裏返しなのだと思います。


「……ばあやから聞いているのでしょう?」

「詳しくは……」


だけれど、今日は。

今日だけなら、少しだけなら話してもよいのではないかと感じるのは、やはり今日が“花摘み”だからでしょうか。


「もう十年も前のことよ。あの日は今日よりずっと、凍えるくらいに寒い日だったわ。

 この下に眠っているお姉様は、あの白雨の日の夜に……村で最初の“花摘み”に遭ったの。

 ……いいえ、正確には、百年ぶりの“花摘み”。最初のと言ったのは、姉が犠牲になってから、三月に一回、摘まれるようになったからだけれど」

「白雨の夜は、霧が出て……“花摘み”が起きる……」


墓碑の前ですから、ホシも、私も、みなまでは言いませんでした。

“花摘み”――それは、土地神が一年の実りの生贄に、娘を奪う儀式です。

白霧の向こうで、土地神である白蛇は、娘の腹を捌いて、“綿”……即ち臓物を、森の中で喰らう。

犠牲者は誰か翌朝まで分からないが、村人はそれを避けられぬ犠牲で――鎮魂の鐘を鳴らしながらも――定めだと思って黙認しているのです。


「その日から、皮肉にもレイニィコットンが花を咲かせ始めた。

 私がレイニィコットンの生態を研究し始めたのは、それからなの。あの花から出来る、特殊な薬があるのよ。研究の価値は十分にあるのよ。

 ……ばあやは何も言わないけれど、私がそうやってお姉様が死んだ現実から、逃げているって思っているのだけれど」


わたしは立ち上がると、墓碑に背を向け、ホシを見上げました。

ホシは何も言わず、髪から雨水を滴らせながら、私の瞳をじっと見ています。


「ホシ、次は私から質問をしてもいいかしら。

 貴女……“花摘み”の夜は、館から居なくなるでしょう?

 何をしているの?」


瞬きを、一回。

私の質問に対してホシはほんの少しだけ回答を考えるように空を見上げて、そうして、口を開きました。


「……。ただの館の警備です、お嬢様。

 村の方々は、いいえ、お嬢様も含めて皆、“花摘み”に対して不気味なくらい、無防備過ぎます。

 豊作に対する土地神の為の生贄、だから仕方が無いことだなんて、私からすれば、おかしな理なのです。

 森の外の国では電気を使ったり、空を飛ぶ乗り物を造っているこの世界で、今更儀式や呪いだなんて、時代錯誤も甚だしい。そうは思いませんか」

「そうね、ホシ。貴女の言う事は確かに、正しいのだと思うわ。

 だけれど、そうは思わない人間だって、この村や世界には沢山居る。

 機械仕掛けの動物や、硝子の花がいかに綺麗で機能的に優れていたって、本物を捨てて生きることが絶対に正しい、そんな話は嘘でしょう。

 誰にも知られたくない貴女の信じる“宗教”があるように、私の、いいえ、村の“宗教”は、誰にも否定できないのよ」


私は立ち尽くすホシを尻目に、濡れた髪を絞りながら、館へと踵を返しました。


「そうですね。郷に入っては郷に従え、とも言います。失礼しました。

 ……ああ、そうです。お嬢様も、幾らレイニィコットンを研究する為とはいえ、今日の夜は出歩かないようにして下さいね。とても、危ない、ですから」


ホシがこちらへ振り向き、相変わらず少しずれたメイドキャップが付いた頭を下げながら、言いました。

私は彼女の優しさという名の脅迫に上手く微笑んで、玄関の門を開きます。


「“この世は素晴らしい。戦う価値がある”」


門の中に足を運びながら、私はホシに背を向けて呟きます。


「ヘミングウェイですね。お嬢様がよく読まれている」


ホシは庭の中、雨に打たれながら答えました。彼女の表情は私からは見えませんが、私の表情も、彼女からは見えません。

深淵は、覗かなければ、覗かれることはないのです。


「貴女はその言葉……どう思う?」


鉄の門に遮られて、ホシの声は私には届きません。

けれど、それで良いのです。

何故なら私には、彼女の答えを聴く気など、最初からさらさら無かったのですから。





もう一度、言います。

“三ヶ月に一回の白雨の日は、決まって館を出てお茶をしながら本を読む日と、私は決めていました”――そう、これは私の祈りのルーチンなのです。

お決まりの馬車に乗って18分。鬱蒼と茂る森を抜けて、野ばらのアーチを向けた先、カフェ・ラム・レーズン。


「マダム、いつものをお願い」


勿論、注文内容は、いつものワッフル。バターの味が濃すぎるクリームと、水っぽいクランベリーが乗っているものを。

それとセットで、ブランデーを少し垂らした苦めのコーヒー。

お世辞にもワッフルは美味しくないけれど、この店でしか飲めないブランデーコーヒーの味が何かすごく恋し感じて、こうして毎回、私はまんまと足を運ばされてしまうのです。


店に入ったのは、15時29分。

使い古されたレコードに、マダム・カルデラが、胸元で十字を切りながら針を落とすまさにその瞬間でした。

“鎮魂花”。レクイエムにしては些かキャッチー過ぎるなメロディラインは、この村に嫁ぎに来て、この村で死んだ、有名なジャズシンガーの曲だと、村人なら誰しもが知っています。


今日は、私の特等席には誰も居ません。

客は、私の他に、三名。いつもの常連です。

珍しく青ざめたシルクハットを脱帽しているモーガン卿に、何故か今日は猫を抱えていないメーヴ女史、そして、趣味が変わったのか、チェス盤に目を落としたマクガフィン老。


――昨日猫が暖炉に飛び込んで死んだの。

メーヴ女史が、壁に向かって一人で呟いていました。

――とってもいい子だったのよ。


――十歳病の患者が終ぞ、居なくなったと聞いた。其方の薬のお陰だ。

モーガン卿がコーヒーを飲みながら、私に告げます。


――スリーピィのお孫様よ、おいぼれとチェスに付き合う気はないかね? なぁに、ほんの戯れだ。

老が、隣を通りがかった私に言いました。


――貴方のお店の蜂蜜酒をくれるなら。

私はそう答えて、マクガフィン老の向かいに座りました。


象牙の駒を手に取って、私は窓の外を見ます。

ここ数年でも一番激しい白雨の嵐は、窓ガラスをがたがたとせわしなく騒がせていました。

あの日……お姉様が亡くなったあの日から、私は碌に眠れなくなりました。

腹を穿たれたお姉様を形どったなにかが、暗闇で目を閉じると、いつも私に語りかけてくるのです。

いつまでそっちに居るのか、と。早くこっちにおいで、と。

甘美な手招きと言えなくもないでしょうが、私はその誘いにいつも首を振り、睡眠薬を飲んで無理やり床につきます。

お姉様は死にました。十年も前にです。

その影にいつまでも怯えて眠れないだなんて、そんなに馬鹿馬鹿しいことはありません。ねえ、そうでしょう。


――迷っているのかね。

老が嗄れた声で、ビショップを動かしながら、私に言います。


――手を?

私がポーンを動かしながら訊くと、老はかすれた咳をしながら、ううむ、と唸りました。


ここ一年、ホシは本当に、賭け値無しによく働いてくれていました。

掃除、洗濯、炊事、雑用、買い出し、そして薬の調合まで。器用に全部、なんてことない顔でこなしています。

新しい事を教えれば、次の日には完璧に覚えている……ちょっと筋が良すぎて、もしかして最初から全部出来るんじゃないかと、疑いたくなるくらいです。


――随分、前衛的な戦法を取るのだね、スリーピィ嬢。

――十年前までは身体が酷く弱かったから、チェスは一人二役で、飽くまでやったわ。自分と戦うと、自然と本能的になるものよ。

――建前と本音のようなもの、かな?

――ええ。きっとね、誰しもそうなのよ。お姉様も、ホシだって、そう。

――今の君は、本音側かね?

――或いは手先だけは、そうかもしれないわね。

――君の姉が生きていれば、儂の蜂蜜酒は無事だったやも知れんな。

――“今、無いモノのについて考えるときではない。今有るモノで何が出来るかを考えているだけ”よ。

――ヘミングウェイか、結構な話だ。だが、君は“まだ”、考えているのではないかな?


老がクイーンを動かしながら、暗く濁った瞳で私を覗きました。

私は少しぎくりとしましたが、けれど、かぶりを振って笑ってみせます。120点の完璧な微笑みでした。


――老。此処に来ている貴方に、その言葉はそっくりそのまま返すわ。

――その通り。人は過去から逃げることこそ出来ても、棄てられんものだ。まこと、不便な生き物よ。


……“花摘み”の夜、ホシはいつも、館を音も無く出ます。

彼女曰く、ばあやと私を守る為、そして館の周囲の警戒と言ってはいますが、それにしては今まで私にすら黙っていたのは些か不自然に思えます。

何度か、彼女の真意を知る為に、後をつけようとしました。しかし濃霧の影響もあって、すぐに彼女を見失うのです。

数メートル先すら見えない霧は、人を隠すにはうってつけです。神聖な夜と同時に人死にの夜だから、誰も家を出ようともしませんので、聞き込みも不可能です。

ホシは……東の大国から来た異邦の者。

こんな辺境の小さな村で、何かを妙な事をやろうとしているとも思えません。

しかし、ホシは嘘を吐いている。それも確かなのです。


――蜂蜜酒の在庫は十分?

――あれは存外、手間を食う。そうそう抱えとらん。

――あら、そう。じゃあ、足りない分は、今から手間を掛けて頂戴。


ナイトをF7に進めて、スマザードメイト。

相手側の窒息死で、私はマクガフィン老に勝ちました。





驟雨の向こう、霧の海に血濡れで沈むお姉様を、目蓋の裏側に見ました。

睡眠薬は、この日だけは、飲まないと決めています。眠りたくないのです。

或いは眠らないことを、心の何処かで贖罪だと思っているのかもしれませんが。

少し休んで、夜の帳が降りたあと、私はホシを探す為、館を出ました。

今日は絶対に、ホシと会う必要があるのです。


館の向こう、柵を越えると、あっという間に深い森。それも今日は、霧の中です。

一歩進む度に、両の足は直ぐに木の根や蔦に絡まってしまいます。そのうち疲労に息が上がって、肺が痺れてくるものですから、何度夜に歩いてもこればかりは、堪りません。

そもそも、元々体の弱い私は、碌に体力も無いのです。

濃霧のため空気には湿気はありますが、暫く歩けば、喉はからからに乾いて、視界は霞んで、肌は汗と泥で滲んでいきます。

得体の知れない妙な脂が額に滲んで、気持ちが悪くて仕方がありません。

この辺りは植物学者の私にとっては庭のようなものとは言え、一寸先は、月明かりすらまともに届かぬ闇。

今の私を支配しているものは、そういった状況による確かな恐怖と―――けれども、僅かな興奮でした。

ホシに出会おうとしている自分に対して、確かな気分の高揚があったのです。

言わば、なぞなぞを解く気分にも似た感覚、でしょうか。


どれほど時間が経ったでしょう。

私は霧の中を、気付けば宛すら無く、ひたすら泳いでいました。勿論、一向に、ホシは姿を見せません。

競い合う様に伸びた周囲の木々は、ゆうに私の背丈の数倍以上はあるでしょうか。

風が少し吹くと、ざぁざぁと森全体が不気味に歌いました。居心地の悪い合唱は、四方八方から私の肌に容赦のない爪を立てます。

草木を掻き分けて、闇に溺れて……嗚呼、なんだか、私はいつもこうやって何かを必死に追っているような気がします。

進み続ければ、何処かに辿り着ける、そう思っていたからでしょうか。


大人になれば、私は何者かに成ることが出来る。そう思っていました。

けれど、私は未だ、悲しいくらいに私のままで、呆れるくらいに変わっていないのです。

十年前、ベッドで寝たきりのままだった、あの日の私、そのまんま。

確かに、少しばかり背が伸びました。ちょっとだけ動けるようになりました。けれどたった、それだけです。


人生というものは、果たして何処に辿り着く為の旅なのでしょう?

私はこのまま、信じる終着点に向かって歩いていって、良いのでしょうか?

今日をこのままやりきってしまっても、良いのでしょうか?

ホシと出会ってしまって、良いのでしょうか?

自問しても、いつまでも答えは出ないままです。


不意に、冷たい感覚に足が止まって、指先がびくりと跳ねました。

そこで初めて服が汗でじっとりと濡れていた事に気付くのですから、自分の惚け具合に呆れてしまいました。

苦笑を浮かべながら、私は濡れた指先を震える唇に這わせます。

乾いた唇は端が少しだけ切れていました。

舌を紫色の唇に這わせてみると、こんな私の中の液体でも、濃い鉄の味がしたもので、少し奇妙な感じです。


「お嬢様。こんな時間にこんな所で、何をしているのですか?」


突然の呼びかけに、ぎくりとしました。

後ろを振り返ると、そこにはホシが立っていました。気を張っていたつもりでしたが、足音すら気付かなかったことに、少し驚きます。

私は努めて冷静になるよう、かぶりを振って、ホシを見据えながら口を開きました。


「あら、ホシ。奇遇ね。まさか、貴女から現れてくれるだなんて―――――――」


そうして、一言。

私の指先の……いいえ、口先の本音の部分が、思わずその時、口を滑らせたのです。


「―――――――摘みに行く手間が、省けたわ」


そうして私がナイフを抜いた次の瞬間、私は、空を見上げていました。

言っていて意味が解らないのは、一番私が感じています。

ですが、そうとしか言えません。

私の背中に地面があって、私の双眸は霧の向こうにある夜空を見上げていたのです。

二秒経って、漸く自分が置かれた状況を理解しました。

つまるところが、とてつもないスピードで、私がホシに押し倒されたのだ、ということを。


「……見えなかったわ。驚いたわ、ホシ。貴女、随分疾いのね」

「見えたら困るよ。これでもプロだから」

「そうよね。私は、アマチュアだもの」


私は、私の体に馬乗りになっているホシに向けて、笑ってみせました。ホシはちっとも笑いません。


「レム……いいや、レイム。終わりだ。今日で丁度、“約束の十年”。これで終わりにしよう」

「退きなさい、ホシ」

「いいや、退かないね。“花摘み”はこれが最期さ。もう、誰も摘まなくて、摘まれなくてもいい日になる」

「嫌よ。摘まなきゃいけないの。私がやらなきゃいけないのよ。

 じゃなきゃ、誰もやる人が居なくなってしまうもの」


全部バレていたであろうことは、解っていました。

そう……私が花を摘んできた張本人。

“花摘み”のレイム・スリーピィなのですから。


「なあ、レイム……人を殺すと、殺した分、眠れなくなるだろう? 私も最初は、そうだったからさ」

「あらぁ、ホシ。貴女、まるで自分が殺し屋みたいな台詞を吐くのね」


ホシは腰からマチェットナイフを抜くと、私の鼻先に切っ先をあてがいました。

私はぴくりとも動けません。両腕はホシの膝の下。

持っていたお気に入りの肉断ちナイフも、どこかへ飛んでいってしまっています。

なんとも呆気ない結末でした。私は、負けたのです。


「お前を始末しろって言われて来たんだ。二週間、お前の事やこの村の事をきちんと調べた上で、雇われた。

 そう悪くない額だって貰ってる。私は、昔から約束は守るタチでね。

 そういったわけで、わざわざ“お前から狙われる為に”夜に霧の中をぶらついていたんだよ、私は」

「依頼? 私ったら、まるでサインを迫られる人気者のオペラ歌手ね。

 そんな物好き、何処に居るのかしら? 海の向こう? 東の国? それとも北? 南?」


ホシは私の冗談に何も答えません。私は小さく溜息を吐きました。


「ねえ、ホシ。一生に一度のお願い……私を見逃して。

 私ね、親切でやっていただけよ。この村の為だったの。

 私、この村が好きよ。モーガン卿も、マクガフィン老も、メーヴ女史も、ばあやだって、愛しているわ。

 ……ホシ、知ってるかしら? 村の人間は、“花摘み”で毎年豊作になるって、本当に思っている人間の方が多いのよ。

 病は気から。薬も気からよ。だから、やってあげていたの。山神様の代わりに、履行していただけよ。

 私が伝統になって、神様になっていたの。私は、村の薬そのものだったのよ。

 ねえ、ホシ。私は間違っているのかしら? 何かおかしい事をしたのかしら?

 私は人を殺したわ。たったそれだけよ?」

「……見逃すつもりはないさ。

 今回は一年も掛かった。こんな大掛かりな案件は始めてなんだ、余計に失敗できない。

 レイム、お前、一人で宗教を作り上げたってとこだけは、大したものだって思うよ。

 百年前のっていうのも、嘘なんだろう? 館の中にある書斎にも、そんな歴史の本は無かったよ。

 あったのは、紅茶染めでエイジングされた、羊皮紙だけさ。

 信じる神が“そんなもの”だったなんて、村の奴ら、知ったら腰抜かすだろうね」


……神様なんてそんなものでしょう。

そう思いましたが、その台詞は、すんでのところで酸素と一緒に飲み込みました。

ホシの握るナイフが、ゆっくりと、私の腹の方へと降りていったからです。

どうやら私には、もうあまり猶予が無いようでした。


「ねえホシ、教えて。私、貴女に殺されて、今夜死ぬのかしら」


そうやって私が訊くと、


「死ぬのが怖い?」


ホシは私へ、そう問いました。


「怖いわ。とってもよ。

 人を殺せなくなるのも、花を見れなくなるのも、綺麗な臓物を触れないのも、まだ暖かい腸を引きずり出せなくなるのも。

 必死になって許しを乞う声を聞けなくなるのも、薬が作れなくなるのも、ラム・レーズンにいけなくなることだって。

 全部、怖くて恐くて、仕方がないの」


私は答えました。

それが普通の思考とは著しく乖離していることくらい、流石の私だって、理解しています。

けれどこんな時にそんな台詞しか口から出てこないものですから、もうどうしようもなく、私は頭のてっぺんから爪先まで、殺人鬼レイム・スリーピィと化してしまっていたのです。

だから、私は話すことにしました。

或いは、恐らく私と同じに沢山の人の命を奪ってきただろうホシが、私の事を理解してくれるのではないかと、一縷の希望を賭けて。


「ねえホシ、聞いて。私、悪くないのよ。ちっとも悪くなんかないの。

 ばあやから聞いているのでしょう。私、小さな頃は、体が悪くて屋敷から出られなかったのよ。

 地方病の一種で、十歳病っていうの。徐々に弱っていって、十年目の誕生日に、全身から“赤い綿”が出て、腐敗して死んでしまう、そんな奇病。

 けれどある日……あれは白雨の日よ。お姉様が特効薬になる植物を見つけたの。

 十年病の患者の死体を解剖して肺の中から見つかった、“赤い綿”の中にある種、そこから育てた、新種の苗。

 まだ名前もないその植物から抽出して煮詰めた、膠のような薬よ。

 だけど、投薬するには量が圧倒的に足りなかった。

 抽出自体は、蕾から行っていたわ。でも、蕾から出来る薬はほんの僅か。

 花が咲きさえすれば、もっと薬品が生成出来ることまでは、調べはついていたの。

 だけどその条件が、なかなか分からなかった。

 けど暫くして、なんとかお姉様は、白い蕾が開く条件が三つあることを、突き止めたわ。

 一つ、“多湿な夜、深夜二時であること”。

 二つ、“開花の瞬間に人間を周囲に近付けないこと”。

 三つ、“女の血と体液を、大量に蕾に吸わせること”。

 即ち、人を一人、贄とする必要があったの」


ホシは口をへの字に曲げたまま、私の話をただただ聞いていました。

彼女のナイフは私のヘソの上5mmの位置へ突き立てられたままです。


「ホシ、もしも貴女が十歳病だったら、どうしていたかしら?

 ……私はね、それを聞いてなお、“生きたい”と思ったわ。

 他人の命がどうなってもいい。こんなに辛い運命から解放されるのなら、十年後も笑っていられるのなら……そんな議性、喜んで差し出すわ。

 だけどその時、素直にその気持ちを伝えたら、お姉様ったら、なんて言ったと思う?

 “だったら花の苗と種は今日、全部燃やしてしまう”、そう言ったわ。

 “人を救う為に、人を殺めていい筈がない”って。

 正論よ。でも私、思わず泣いてしまったの。私の命がその程度だったのかって。

 十歳病に苦しむ子達を救う気はないのかって。

 あんなに綺麗な蕾を殺してしまうだなんて、おかしいわよって。

 ……だから私は自分の命を救う為に、そして植物学者と薬師の卵として――お姉様の腹を開いたの。

 お姉様は、そしたら呆気ないくらいに、簡単に死んでしまったわ。

 ねぇ、ホシなら知っているでしょう。人って複雑な思考をしているくせして、他の動物より随分と脆いのよ。

 お腹に刃物を入れたら、収まっていた腸がみるみるうちに、飛び出てくるの。あんな量がよく入っているわよね。

 あの時の様子ったら、腹がよじれるくらいに面白いのよ。うふふ。

 お腹を裂かれた人間の反応は、皆同じ。顔をモーガン卿の帽子みたいに青くして慌てて、自分の腸を掻き集めて戻そうとするの。おっかしい」


風が吹きました。ホシの綺麗な黒髪がさらさらと風に流されて、長い睫毛が僅かに揺れます。

涅色の瞳は、真っ直ぐ澱まず、哀れな演説をする私を突き刺していました。

ああ、きっとどれだけ伝えても、私の希望は叶わない。彼女の瞳に、私はそう悟りました。

だけど、最後の最後でそんな顔で私を見下すだなんて、そんなの、あんまりじゃないですか。


「……ねえホシ、私には、あの美しい花を枯らさないように、花を摘み続ける責務があるの」

「レイム、残念だよ。病の人を助ける為だと、口先だけでも言えなくなったお前に、もうその台詞を言う権利はない」


顔色一つ変えず、そうしてホシは私の腹に、ナイフを刺しました。

私に刺された人も、こんな感覚だったのでしょうか。不思議と刺された瞬間は痛みはなくて……何と言ったらいいのでしょう。

形容出来ないのですが、私の体が私のものではなくなっていくような、そんな不安と違和感がありました。

けれどすぐに、全身を灼熱の炎で炙られるような激痛が、私を襲うのです。

ホシのナイフは、私の下腹部から胸の下、肋骨のあたりまで、縦に進んだあと、ゆっくりと抜かれました。

ホシは立ち上がると、ナイフについた血をメイド服の前掛けで拭き取っていました。眉一つ動かず、冷酷な目で私を見下ろしたまま。

私はそれを見て、大粒の涙をぼろぼろと流していました。本当に、ホシの視線が悲しかったのです。


「ああ……綺麗だわ……私のお腹の中……まるで、レイニィコットンみたいに、真っ赤で……。

 でも、ホシ。痛いわ……痛いの……ねぇホシ、お腹がとっても痛いのよ……これが死ぬってことなのかしら……?

 この痛みが、お姉様が味わった辛さなの……? 私は、これで赦されるのかしら……?

 ……神様も、こんな私を赦してくれるのかしら……? ねえ、ホシ……答えて……」


ホシは、煙草に火をつけて、煙をゆっくり味わうように吸ったあと、口を開きました。


「そんなもん、知るか。お前の創った神様に聞いてみな」


私は肩を揺らして哄笑しました。

だって私の創った神様なら、きっと私の事は赦してくれるに違いありません。

私は仰向けになったまま、自分の腹の中に手を入れました。どくどくと、傷口が脈打っているのが血潮が溢れているのがわかります。

そうしているうちに、なんだか寒くなってきて、視覚も、感覚も、痛覚さえ、気付いた時には殆どありませんでした。

死が私を迎えにきているのでしょう。もう直ぐ、私は地獄に堕ちるのです。


「……ああ……ホシ……でも貴女……きっと一つだけ、勘違いしてるわ……。

 ……だって貴女ってば……嘘……吐いていたでしょう……?

 私……全部……知っていたのよ……最初から……」

「……嘘?」


だから、私は最期に少しだけ、仕返しをすることにしました。

ホシはきっと、私がこうなる事を知っているのを、知らなかったのでしょうから。

地獄までこの話は持っていくつもりだったのですが、どうせならと、私はホシに、小さな小さな攻撃をしてから逝きたくなったのです。


「……お姉様……お姉ちゃん……ずっとそこに居たの?

 ……私……本当は……こんな悪い子じゃない……虫一匹殺せないような……そんな普通の女の子だったの……。

 ……でも……レム、頑張ったの……ホシも……協力してくれて……約束……叶えたから……。

 ……ねえ……お姉ちゃんの……願いは……叶ったんだよ……」

「レイム、おい死ぬ前に答えろ! 嘘ってどういうことだ!? もしかして十年前、あの時、お前は――――――」


ホシの声が、霞んでゆく意識の底で、わたしの空っぽな頭蓋の中を響きました。

少しくらいなら答える余力は残っていましたが、私はそれに応じません。

なんだか少し、疲れてしまったのです。


嗚呼、私の血肉は赤い綿毛となって、明日、この村を紅色に燃やすことでしょう。


そうなればこの戦いは、私達の“勝ち”。


だから、私は貴女を嗤ったまま、逝きました。





「わざわざこんな辺境の村に来たのは、報酬の金額が金額だったからさ。レイニィ・スリーピィさん」

「そうね。その代わり、一年間。長い仕事にはなるけれど」

「構わないよ。あれだけの額の契約で、全額が依頼前に貰えるなら十分、破格過ぎなくらい。

 正直、最初はちょっと半信半疑だったけど、この館を見ればあの額が払えるのも納得。

 ただ、詳しい内容が書いてなかったのは、ちょっと頂けないけどね」


十年前の話をしましょう。

私はその頃は十歳病真っ只中。あと一年と生きていられないと言われていました。

体もとても弱くて、外に出る事は出来ず、それどころか碌に館の中を歩き回ることすら満足に出来ていませんでした。


「依頼内容は……花をね、咲かせたいのよ。

 その為に、死体が要るの。標的は、二人……いいえ、貴女から言わせれば、一人ね」

「……話が見えてこないんだけど?」

「まだ、名前のない花があるの。開花の条件は、3つ。

 多湿な夜、深夜二時であることと、開花の瞬間に人間を周囲に近づけないこと。そして最後は……女の血と体液を大量に蕾に吸わせること。

 何で花の話をしているかというと、私がこの村唯一の植物学者であり、薬師の家系だから」


それは、夜のことでした。

トイレに起きてみれば、廊下の窓から、外が見えたのです。

“偶然”窓は開いていて、“偶然”その窓から、外にお姉様と、知らない誰かが喋っているのが見えました。


「それと依頼と、どんな関係が?」

「私には、妹がいるの。レイムって名前の子よ。目に入れても痛くないくらい可愛い子なの。

 だけどあの子は、床に伏している。十歳病っていう、不治の病。だけど、それも薬があれば治る。あの花から採れる成分さえあれば」


耳を澄ませば、聞こえてくるのはどうやら私の話と、知らない花の話です。

“偶然”そこに居合わせた私は、それが良くない話で、私が居ることもばれてはいけないのだと、本能的に理解しました。

同時に、しかし好奇心が私の足をその場から離しませんでした。

二人が何の話をしているのか、判らないなりに理解したかったのでしょう。


「私、明日、花のことを妹に言うわ。

 妹は生きたいと願うはずよ。私はそこで“いつもみたいに”うんと酷いことを言って、私を殺させようと思うの」

「“いつもみたいに”?」

「素直になれないのよ、私、馬鹿だから……あの子が大切なはずなのにね。

 辛く当たったり、手をあげたりしてしまう。あの子、きっと私を酷く恨んでいるわ。

 そういった理由もあって……あの子は、きっと、私を殺して花を咲かせることを選ぶ。“そうすれば、私は人間を殺さずに済むのよ”」


ぞっとしない話です。お姉様の私への愛の鞭の話ではありません。

私が居ない場所で、私がお姉様を殺す事になっていたことです。

私は目の前が真っ赤に染まっていくのを感じました。悲しみでも絶望でもない、形容し辛い初めての感覚でした。


「……言ってることとやってることが矛盾してるぞ。

 まあ私は金さえ貰えれば、仕事はやるタチだから降りないけど。

 だけど、申し訳ないがお前の性格は好きじゃない」

「あら、失礼ね。

 矛盾なんかしていないわ。私は妹が大好きだけど、自分の手は汚したくないの。簡単なロジックよ?

 だから、妹に罪を背負わせることの罰で、私が死ぬの。

 私は自分が人を殺すのも嫌だけど、妹が他人を殺すところを見るのも嫌なだけよ。

 花が咲くところを見れないのだけは残念だけれど、そもそも、薬で人を救えるのよ?」

「……話の続きをしてくれないか? 頭が痛くなりそうだ」

「そうね。話が逸れたわ。

 妹はきっと、まずは自分を治して、花に名前をつけて……それから、自分と同じ病気の子の為に、薬を作り始めるわ。

 あの子ならそうするはずよ。私の妹だもの。一人殺したら、あとは何人でも変わらない。そう思うに決まってるわ。

 私の計算だと、白雨が三月に一回だから……そうね、十年あれば、薬は十分な数になるはずよ。

 薬は遺伝性のある抗体を作るはずだから、次の世代も病気にはかからなくなる。

 だけどその頃には、きっとあの子は花を咲かせる事に魅了されてしまっていると思うの。

 何故って、私の妹だもの。それくらい、私にだって解るのよ。うふふ」


ここで私が物音を立てれば、きっとこの計画は水の泡になるのでしょう。

いいえ、それどころか、私が明日、単純に自分の死を望めばよいのです。

お姉様に何を言われようが、私はこのまま十歳病で朽ちていく定めを受け入れてしまえば、それでよいのです。

だからこの計画を壊すのは、とても簡単な話でした。


「つまり、私が殺すのは……」

「そう。十年後にこの村に来て……十歳病の患者が居ないのを確認出来たら、私の妹を殺して。それが貴女への依頼。

 私、夢があるのよ。あの子の血で、最後の花を咲かせるの!

 私の血で始まって、あの子の血で終わるのよ。素敵だと思わない?

 その夢を叶えるためにも、私達の罪を背負ったあの子の命で、全部償って欲しいの。花を咲かせる約束……してくれるかしら?」

「……傲慢だな。仕事はするけど、いつにも増して戦う価値はない内容だと思ったよ」


けれど、次の日の私は、結果的にはそうはしませんでした。

なぜなら私は、お姉様を本当の意味で愛していたからです。お姉様の為なら、私は何だってします。

それが例えお姉様を殺すことになっても、私はその願いを叶えて、役割を演じて、自分の死までの十年を盲目的に履行するでしょう。

あの日の“偶然”が、お姉様に計算された“必然”で、あれが“依頼”という嘘に固められた、私への“約束”だったとしても。


「“この世は素晴らしい。戦う価値がある”……聞いたことあるかしら?」

「……知らない格言だ」

「ヘミングウェイよ。私は半分賛成なの。貴女は、両方反対みたいね?」


……ああ、お姉様……ううん、お姉ちゃん。

私、私ったら、出来たよ。出来たんだ。

ちゃんと最期まで、出来たの。ちゃんと腹を裂かれて死ねたんだよ。痛かったけど、逃げずにやれたよ。

ねえ、だから今度こそ、私の事殴らないで、ちゃんと褒めてくれるよね。


私は人を救ったよ。十歳病の患者も居なくなったよ。すごいでしょ。

お姉ちゃんの代わりに、レムね、うんと頑張ったの。

沢山殺して、沢山咲かせて、沢山嘘をついて、沢山摘んで、沢山救ったのよ。

十年間、寂しいのも辛いのもうんと我慢して、やり遂げたんだよ。


あ、そうだ! 報告があるの。村では今日もきっとこのあと、お花が咲くのよ。

きちんとお姉ちゃんのお肉の名前を付けた、真っ赤なお花。

それもこれも、全部素敵なお姉ちゃんの計画があったおかげだよ。

だって、お姉ちゃんの血で始まって、私の血で終わるだなんて、永遠に、あの花は私達のものになるってことだよね。

お姉ちゃん、私、幸せ。死ねて幸せだよ。ありがとうね。

ねえ、今からそっちに行くからね? 昔や夢の中みたいに毎回私をぶたないで、優しくしてね?

お姉ちゃん、大好きよ。愛してるよ。

もう、眠ってもいいよね?

……おやすみなさい。


あぁ、でもね。ふと、おもうときがあるんだ――――――わたしのじんせいって、なんだったんだろうって。





白雨の次の日の朝、徒歩、30分。昨日の雨が嘘の様な、雲一つない快晴、突き抜ける様な青。湿度は高め、南南東の風が、柔らかく吹く。

水溜りに映る空をブーツで踏めば、広がる波紋に歪む木々。森の向こうでは名前も知らない鳥の親子が鳴きながら飛ぶ、午前10時15分。


女が、歩いていた。ぞっとするくらいに真っ白な丸襟のブラウスに、吸い込まれそうになるくらいに真っ黒なロングスカート。

蝋人形のように血の気の無い肌には、薔薇色の口紅、暗い夜の色をした長髪は後ろに束ねていて、飴玉は……口の中には無い。

屋内禁煙のあの館を出た今、我慢する必要が無くなったからだ。


鬱蒼と茂る森を抜けて、野ばらのアーチを向けた先、そこは、カフェ・ラム・レーズン。

始まりがその場所だとするならば、やはり終わりも、その場所だ。

なにせ今回の彼女への依頼は、花で始まり、花で終わるのだから。

扉を開ければ、使い古されたレコードから、陽気なジャズがお出迎え。

神様になり損ねた少女の特等席には、やはり誰も座っていない。座るべき人間は、霧の夜に消えたから。

先客は、誰も居ない。いつもの常連の姿は、無かった。


「森でボヤがあったらしくてね」マダム・カルデラがカウンターの中で紫煙をくゆらせながら、呟いた。「客は全員、野次馬さ」


女は肩を竦めて、席についた。亡霊の座る席ではなく、カウンターへ。


「マダムは、野次馬にはならないんだ?」

「そりゃあ、店を空ける訳にはいかないだろう。

 今日も誰かが祈りにくるかもしれないし、あんたみたいに来てくれる物好きが居るんだから……注文は?」

「メロンソーダ……ああ、いや、やっぱり違うのを貰おうかな」


女はマッチを擦り、煙草に火を着けながら、メニュー表の下の方を指差した。ここに来るのも最後なら、飲むべきは決まっている。約束をしたからだ。

暫くして、注文した品がカウンターに置かれた。注文したはずのない、ワッフルと一緒に。


「……オーダー、間違えた?」

「サービスだよ、どうせ暇なんだから」


マダムはそう言って笑うと、カウンターの中で真っ白な皿を拭き始めた。

女は軽く礼を言うと、ワッフルを口に運ぶ。噂通りの味だったのだろう、女の口元が僅かに緩んだ。


「おや、今日は舞わないね」


マダムが、ふと、思い出した様に呟いた。

窓の外の景色に気づいたのだろう。村人曰く、“魔女の火刑”――レイニィコットンの綿は、けれども、村に舞っていない。


「きっと、燃えたのさ。レイニィコットンが、一本残らず。

 最期の花は、咲かなかった。魔女は正真正銘、火刑になったんだ」


女は煙をゆっくりと吐きながら、何かを噛み締めるように、静かにそう零した。

ボヤ騒ぎの中、今頃焼死体が一体見つかって大騒ぎになっていることだって、女は知っていたのだ。


「夢は、約束は、成就しなかった。だけどそれで良かったんだ、きっと。

 だってマダム、成就させたいのは構わないけど、約束事ってのは、アンタで守ってやりきるもんだって、思わない?

 で、夢ってのは、誰かに頼って勝手に叶うような単純なものなんかじゃない。そうでしょ」

「なんの話だい?」

「独り言さ」


願いは、誓いは、約束は、彼女の体ごと燃えたのだ。

十年……それは決して短い年月ではないが、終ぞ彼女達の願いは叶わない。

何故なら、女は彼女を殺す事自体は仕事で請けたが、殺した後の死体と花と宗教の処理までは、依頼されてはいないのだから。

約束は確かに迫られたが、女が受けたのはあくまでも仕事の依頼。それだけだった。


姉妹の中に一体どんな約束事があったのか。

十年前、あのあと姉妹で計画を練った上で、女を騙していたのか。

それとも約束なんか何も無くて、妹があの日に、あの話を盗み聞いただけだったのか。

妹が本当はどうしたかったのか。“花摘み”一連の妹の凶行は、姉の呪いに縛られていただけなのか。

ヘミングウェイが言ったように、妹が戦っていたのは、価値のある世界の為だったのか。

考え出せばきりがなく――そしてそれらはもう、誰にも答えが解らない。


彼女達は魔女だ。居ないはずの神を森に祀り、罪を霧の向こうに隠して、罰を白雨の海に沈めた。

魔女が居なくなった後も、神話だけは、きっとこの村に遺っていくこととなるだろう。空虚な神の亡霊が、森の中を百年先も行脚する。

いずれまた、不作の年があれば、儀式をなぞり役割を履行する人間だって出てくるかもしれない。

ただ、一つ。女は気に入らなかったのだ。

彼女達が傲慢にも魔女となったことではない。

もし女が一杯食わされていたとしたならば、この馬鹿馬鹿しい物語を綺麗な花なんかで終わらせるのが、何より許せなかった。

だから、全てを燃やしたのだ。


「手向けの花の費用は、貰ってないんでね。

 もうこの空に、綿は舞わない」


短くなった煙草を銀の灰皿に押し当てて消すと、女は注文したそれを飲み干して、席を立った。


「美味しかったよ。私が最初に吸った、煙の味くらいには」


にかりと笑うと、鞄からゴーグルを取り出し、首に下げて、店を後にする。

女の名前は、ホシ――いいや、天星彼方。

少々名前の通った、“掃除屋”の二代目だ。

トレードマークは、古びたゴーグル、真っ赤な口紅、大きな鞄。

御依頼は、東の国の辺境、星屑雑貨店まで。


「さぁて、次の依頼だ」


女は伸びをすると、森の中を鼻歌を歌いながら、歩き出す。

野ばらが花を咲かせていたが、女には花の色は判らない。

彼女の世界にはあの日以来、色は無い。全てが灰色なのだ。


……ふと、村を去るときに思い出したのは、霧に溺れた少女から読み聞かされた物語の中の台詞。毎度の如く、ヘミングウェイ。


嗚呼、今なら答えられるだろう。


“この世界は、人を傷付けるように出来ている。しかし、多くはその傷を乗り越えて強くなるのだ”。


――――前半だけは、賛成だと。

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星屑は遙か彼方 小岩井工務店 @koiwaikoumuten

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