星屑は遙か彼方

小岩井工務店

星屑は遙か彼方《殺伐感情戦線『責任』》

かん、かん、かん。


雨が降っている。


跳ねる薬莢、飛び散る血潮。崩れる壁に上がる悲鳴。

閉ざされた檻の中、それらの音を遠く聞きながら、少女は重い首を上げた。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


遙か上、十数メートル。うず高く筒状に積まれた黒い煉瓦の向こう、トタン屋根が歌っていた。

この歌が少女にとっての唯一の娯楽で、故に少女は雨が好きだった。

首元で錆びた鎖が音を上げる。体を這っていた蝿が鎖の音に驚いて、羽音を立てながら少女の周りを忙しなく飛んだ。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


直径約900mm、高さ約8000mm。そこは足を伸ばして寝ることすら許されない、粗末な牢屋だった。

苔が生した壁、筒状の建物、黴臭い墨モルタルの床、赤錆の浮かんだ鉄格子。

2700ケルビンの電球色、壁から突き出た小さなクリプトン球。黒皮鉄のセード。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


少女は知っていた。世界に色が無いということ。灰色の雨が、暗く湿った世界に降り頻る。

嗚呼、雨が降る。

理不尽や不浄を洗い流すにしては頼りなく、少女一人の体の熱を奪うには充分すぎる雨が。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


深い夜にしんしんと降り積もった雪のような白い肌には、けれど蛆虫が這っていて、深海のように光を吸い尽くす重厚感のある黒い髪は、しかし酷く乱れている。

死体袋で作ったワンピース、首には鎖、左肩には一際変わった星形の刺青、双眸には涅色の瞳。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


少女には、名前も記憶も無い。

小さな頃の事なんて疾うに忘れていた。物心ついた時には既にこの牢に入れられていて、一日二回、兵士がパンとスープを持ってくる。

何故自分だけがこんな目に遭っているのかはてんで解らなかったが、劣悪な環境にもいつしか慣れていた。

それに、存外此処は平和だったのだ。

黙っていさえすれば痛い事もされないし、質素ではあるが食事も出る。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


今宵はしかし、慌ただしい。

いつもは無音のこの塔にまで、発砲音や悲鳴が聞こえるのは、もう何年ぶりのことか。

少女は瞼を下ろして膝を抱く。

このまま全部無くなっちゃえばいいのに――なんて、叶いもしない夢を見た。


かん、かん、かん、ガチャリ。


「よォ」


曰く、人生塞翁が馬。

生きていれば、何があるは分からない。全くもって、その通り。

気付いた時には牢屋が空いていて、目の前にパイロットゴーグルをした女が、にかりと歯を見せて立っているものだから、少女は思わず息を呑んで後ずさった。


「ああ、お前、ついてるぜ。丁度残弾1発だ。

 ……そのナリ、事情はよくわかんねーけど、奴隷かなんかか? このご時世に珍しいよなァ」


咥え煙草に、タンクトップ。肌は少し浅黒く、唇に赤い口紅。

ケミカルウォッシュのジーンズに、厚底ハイカットのマウンテンブーツ。

腰に刺さったマチェットナイフ、銃が数本。そしてそれらを台無しにする、噎せ返るような返り血。

血のせいか元からなのか、赤みがかったブロンドの髪を靡かせ、女は腰から古びた自動小銃を抜き、挨拶でもするように少女の額に銃口を向けた。


「命乞いでもしてみろよ」


女が親指でゴーグルを上げながら、言う。

宝石のようなエメラルドグリーンの瞳が、少女の胸の奥に突き刺さる。

すっと浮かぶは、絶対零度の凍てついた笑み。

いのちごい、と少女は呟く。知らねーの?、と呆れた表情で嘲笑が返ってくる。


「死にたいか?」


質問と同時に、雨が止んだ。

少女は言葉を詰まらせる。蝿が辺りを忙しなく飛んでいた。

生きることに少女は興味がなかったが、死にたいかと言われれば、解答を少し言い淀む。

“死にたくない”と“生きたい”はきっと違って、“死にたい”と“生きたくない”もきっと違うのだ。

 

「死にたくないって言ったら?」


だから、少女は生意気にもそう訊ねた。

この状況で生かして貰えるとも思えないが、だとしたらわざわざ彼女が“死にたいか”と聞く意味が解らなかったから。


「そっか。じゃ、死んどきな」


けれど、答えは――驚くほど呆気ないものだった。

彼女は、引き金を引いたのだ。





■■■





「銃ってのは、たまにジャムる……ジャムるっつーと、アレよ、弾が詰まるっつーこと」


湯気の登るコーヒーを一口飲むと、彼女は独り言のように口を開いた。

そんで、と彼女は続けると、チェスターフィールドのソファーに腰を下ろす。


「私にはポリシーが2つある。一個目は、“銃でしかトドメを刺さない”。

 も一個は、“仕事中に顔を見られた奴は逃がさない”」


少女に向けて指折りながら、彼女は続けた。


「お前が今、生きてる理由は、つまりそれだ」


あの時鳴らされた撃鉄は、銃が弾丸を詰まらせて不発に終わった。

残弾を無くした彼女は殺す手段を失ったが、しかし顔を見られたならば、少女を置いて帰れない。

自己矛盾に陥った彼女が取った手段は、“誘拐”であった。


「裏を返せば、今なら殺せるってことだけどな」


コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、彼女は口角を上げる。

あれからバイクに無理やり乗せられて、三日三晩。連れていかれた先は、とある街の裏通り、寂れた荒屋。そこが彼女のアジトだった。


「だけど、ここでやるのはちょいと拙い。

 この街で騒ぎは起こしたくないんだよ。世話になってる馬鹿どもが多すぎるし、犬も煩い。

 それにそもそもの話、よおく考えたら私が受けた依頼の人数と合わないんだよなあ。

 受けた仕事は組織の殲滅。合計33人の始末だった。

 大きい仕事だからな、ちゃあんとターゲットは頭に入れた。

 汚ねぇ餓鬼のツラなんか、リストにゃハナからなかったぜ?

 それに私はちゃんと掃除した数だって数えてる。

 間違いなく依頼内容は完了してた。つまりお前は“34人目”だよ。

 “この世に存在しない”んだ――足のある幽霊ってワケさ」


肩を竦めると、彼女は足を組んだ。足のある幽霊とは言い得て妙だな、と少女は思う。

生きている実感を持った事なんて、なかった。

そういう意味では、少女が死人だというのは決して間違いとは言い切れない。


「金はきっちり耳を揃えて振り込まれてたから、もうこの案件は“オシマイ”。

 だいいち、私はタダ働きなんて真っ平御免だ。

 それにそろそろ一人でやりくりすんのもキツくなってきたとこなんだよなぁ。

 そんな時、足のある幽霊がオフィスに無料御招待ときたもんだ……私の言いたいこと、わかるよな?」


カップに入ったコーヒーを飲み干すと、彼女は小首をわざとらしく傾げる。

半ば脅迫に近い口説き文句ではあったが、少女にとってそれは幸か不幸か、初めて“他人に求められた”瞬間に違いなかった。

理由が何であれ誰かに求められるという事が、こんなにも嬉しいことなのかと、少女は彼女の誘いに躊躇いなく頷いた。


「私はナユタ。天星那由多って名前。知っての通り、“清掃員”やってる」

「あまほしなゆた。……ヘンななまえ」


天の星が、那由多に光る――冗談のような名前だ。

まるで御伽噺の主人公かお姫様みたいで、少女はクスリと笑った。


「嘘だよバーカ。そんな出来すぎた名前、あるかって」


へらへらと笑いながら、ナユタは煙草を咥えてマッチを擦る。


「本名なんて、知らねぇし」


ナユタは深く煙を吸い込むと、ゆっくりと舌の上で味わうように、目を閉じて言った。


「だから適当に考えた。数が多い方が強そうだし」


「おんなじだね」少女はナユタの対面のソファに座りながら、呟いた。「わたしとおんなじ」


「数の話か?」

「ちがうよ、名前の話」

「……名前ねぇのか、お前」

「あったのかもしれないけど、」


覚えてないよ。誰にも呼ばれなかったから――少女はぽつぽつと、一文字一文字を数えるように、丁寧に言葉を並べた。

ふうん、とナユタが何かに納得したように煙を吐く。

煙はとぐろを巻いて中空に消えて、煙草の先からは、白くなった灰がソファに落ちた。

ややあって、ナユタは指をぱちんと鳴らす。


「……カナタ、っての、どーよ?」

「え?」

「お前の名前だ。無いと呼ぶ時不便だろ? 天星彼方って書いて、あまほしかなた」


すらすらと、ナユタは鉛筆で机に文字を――文字通り、紙なんか使わずに机に直接文字を、だ――走らせる。


「かなた、カナタ、かなた。あまほし、かなた……うん」


何度か歌うように繰り返して、カナタはこくりと頷く。

名前なんてもの、閉じ込められていた時は必要だと思った事すらなかった。

カナタはぎゅうと膝を抱く。胸の奥に、なにか熱いものが燻っているのを感じた。

それがきっと“嬉しい”という感情なのだと、少女はそこで初めて気付く。

ふと、窓の外を見た。窓は硝子が割れて悲惨だったが、その向こう側、悠久に続く紺碧は目に痛い。

世界は色を持っていた。

灰色の世界は、この日この時この場所で、崩れて何処かへ消えたのだ。





■■■





あれから、数年が経った。


掃除屋としてのノウハウを片っ端から叩き込まれた日々は、思い返せば地獄のようだったが、今のカナタにとっては財産だ。おかげで筋力も技術も頭脳も身についた。

ついでにズボラなナユタの代わりに、カナタは家事をするようになった。

ナユタの自炊はおよそ自炊と呼べるような代物ではなく、一度その劇薬を口にして泡を吹いた後は、

カナタが全ての食事を用意するようになり、そうこうしていたら家事を全てナユタに体良く押し付けられたのだ。


ナユタはこの数年、カナタに人を殺させる事は決してしなかった。

現場に行く役は、いつだって必ずナユタだ。

カナタはその度に駄々をこねたが、ナユタはその度に、まだ早ぇよ、とだけ言って、カナタの頭を乱暴に撫でた。


今日は、出張に来て三週間目。

とある国の、とある集落。貧民街の宿――ナユタに言わせれば“肥溜め以下の宿”、だ――を拠点に、二人はターゲットを探していた。

とある貴族の一族の娘とやらを探して、三週間。

一向に尻尾を掴ませない標的と、この土地のじめじめした気候にもそろそろ苛々してきたタイミングだった。


「……ナユタは、何でこの仕事してるの?」


窓辺に立ち、双眼鏡で裏路地を見ていたナユタへ、カナタは尋ねた。

カナタは望遠鏡を覗いたまま、黙っている。黒いパンツ、黒いタンクトップ、褐色の肌は汗で濡れていた。


「ねえってばぁ」


ずっと気になっていたことだった。

こんな危ない仕事をしなくたって、ナユタくらいの才能があれば食っていく術は山程ある世界だと、この数年でカナタは学んだ。

確かに今や世界は抗争だらけで、貧富の差も激しい。奴隷制もまだある。

だが、だとしてももっとまともな仕事はあるはずだ。

兵士になればピカイチの才能で団長にだってなれる、それだけの実力がナユタにはあった。

にも関わらず何故掃除屋を続けるのか、何にそんなにもこだわっているのかが、カナタには分からなかった。


「無視すんな〜っ」


近くにあったマッチ箱を、ナユタの背中に投げる。

弧を描いて―――頭にヒットする前に、ナユタが振り向いてキャッチした。


「危ねーなぁ……無視じゃねーよ、仕事中だからだっつうの」


慣れた手つきでマッチを擦り、ナユタは谷間から――女の子がそんな場所に入れるなと、今朝カナタが叱ったばかりだ――取り出したタバコに火を付けた。


「……探し物があんだよ。2つな」


紫煙をくゆらせ、ナユタがぽつりと呟いた。


「ふうん」


カナタが言った。ソファから起き上がると、あくびを一つ。


「まだ見つかんないの?」

「見つかってたら、こんな事してねーよバカ!」


ナユタは肩を揺らして小さく笑う。

けれどほんの少しだけ悲しそうに眉を下げたのを、カナタは見逃さなかった。


「なぁに?」ナユタの正面まで歩いて、小首を傾げてみせる。

「何がだよ」ナユタは肩を竦めた。

「探し物!」ナユタのタバコを挟む唇が、僅かに揺れる。


「かぁ〜。はぐらかしても無駄そうだなぁ……1つは、もう見つかってる。“後継者”だ。

 ……んだそのツラ。今ボケッとして私ん前に立ってる女だよ、言わなくてもわかってんだろーが」


目を細めて言うと、ナユタはカナタの肩を軽く叩いた。

漂っていた煙がふわりと揺れて、カナタの鼻腔をつんと刺す。いつも通りの、苦い薬を燻したような、嫌な臭い。

煙草だけは、幾つになっても好きになれなかった。


「もう一つは?」

「知りたい?」

「うん。知りたい」


沈黙が、三秒。

その後、悪戯を思い付いた子供の様な笑みがナユタの顔に浮かんだ。


「教えてやんねーよ、バーカ」


ナユタは手をひらひらと翻すと、煙を天に向かって深く吐いた。


「吸うか? お前に教えてないの、あとはこの味くらいだぜ」

「やだよぉ、間接キスじゃん!」


吸いかけの煙草を断って、カナタは少しだけ頬を赤く染める。

ナユタはけらけらと少女のように笑うと、煙草を窓の外に放り投げた。青い空はいつしか少し橙色に染まっている。季節は夏。湿った空気に、夕立の上がった匂い。セミの鳴き声、蜘蛛の巣の張った黴臭い荒屋。

名前を失くした掃除屋は、二人ぼっちで笑い合う。この先もずっと二人だけなのだろうけれど、きっと、寂しくなんかはない。


「……ずっとずっと、このまま2人で生きていければいいのにな」


その言葉に返事はなかったが、カナタにとってはその台詞が言えただけでも、十分だった。





■■■





「いいのかよ」


頬を膨らませたナユタは、口をへの字に曲げて、ハルカの前で腕を組んでいた。

身分を偽って旅をしている変わり者の貴族が来たらしい――同業からそんな垂れ込みがあったのは、今からきっかり、15時間前の話だ。


「……いいの」


ハルカは頬杖をつきながら、ストローでメロンソーダの入ったグラスをくるくると混ぜた。


「まぁ、お前が良いってんなら……」


ナユタはアイスコーヒーをちびちびと飲みながら、不服そうに呟く。




3時間前。

結論から言えば、出会った女は標的ではなかった。

なかったのだが、何故そんな紛らわしい事をしているのかと聞くと、ハルカという名前の妹を探して旅をしているのだと女が言ったのだった。

曰く、ずっと東の国から来て、幼い頃にワケあって別れたその子をずっと探しているのだ、と。


最初にナユタが思ったのは、綺麗な顔をした女だ、ということだった。

ぞっとするような、病的な美しさだった。まるで、誰かと最初に出会った時のような。


『何才ぐらいの子ですか?』カナタが訊ねると、

『そうね、ちょうど今頃は貴女みたいな年齢よ』女が顎に指を当てながら答えた。


……嫌な予感が、ナユタの脳裏に電流の様に走った。

自慢ではないがナユタは自分の勘が鋭い方で、かつ、正確ではないにせよ何かしら当たる方だという自信があった。

その時点で口を挟むべきだとナユタは思ったが、カナタの表情を見て、言葉を寸でのところで飲み込む。

それが間違いだった……いいや、正解だったと言うべきか。


『左肩のここに、星形の刺青があるの。見たことない? 見たって人の情報を追って、ここまで来たのよ』


ナユタは弾かれたようにカナタを見た。

悲しそうな、或いは――いずれにしてもそれは形容出来ない初めて見る表情で、得体の知れない脂汗がナユタの背筋をずるりと這った。




「……じゃあ、本当に、いいんだな?」

「何回言ってんのよぉ」

「……ちょっと調べたけど、あの女、王族だったぜ。

 お忍びでとか言ってたけど、多分関係者も沢山この町に入ってる。

 お前にたどり着くのはきっと時間の問題だ。だけどお前は本当にそれで、」

「しつこいっ! いいんだってば。ハルカはもう、この世に居ない。

 34人目のハルカは、あの日にあの塔の中で死んだんだよ。

 私はカナタ。足のある幽霊なんかじゃなくて、此処に生きてる、一人の人間。

 それでいいでしょう?」


その場で真実を打ち明けることもなく、何かヒントを与えるわけでもなく女と別れて、今に至っている。

カナタは一気にメロンソーダを飲み干すと、吹っ切れたような笑みを浮かべて席を立った。


「だから、この話はオシマイ! 死んだ人間の話をしても仕方がないわ」


カナタの後ろ姿を見ながら、ナユタはアイスコーヒーを静かに口に含んだ。


自分が死体に魂を与えて生き返らせたのだとすれば――勝手に自分に名前を付けた私はどうなる。

歩く幽霊など、この世に居てはいけない。居るはずがないものは、いつかは消えて然るべきだ。


なぁカナタ。今、私は生きているんだろうか?


口を開けて言えるはずのない疑問は、温くなったアイスコーヒーに沈んでしまって、二度と掬うことが出来なかった。




■■■




それから次の日の、夕暮れのこと。

朝には帰る。淡々とそう言って武器を手に、ナユタは家を出た。


さして気に留めなかったのは、たまにある事だったからだった。

何をしているのかは、後をつけているわけではないのでカナタには正確には分からなかったが、

自分を連れて行けないレベルの危ない仕事をしているのだという想像くらいは、カナタにも出来た。

それはきっと自分を巻き込まない為のナユタの優しさで、それがたまに寂しくもあったが、カナタはナユタに何をしているのかを問い詰めることは決してしなかった。

それが暗黙のルールだった。

最初こそカナタが寝静まった頃、深夜にナユタは家を出ていたが、ある日それがカナタにバレて三日間無視されてから、ナユタは必ず報告をするようになった。


ヤバイ仕事は、一人で。

それがナユタなりのケジメのようなものだったのかもしれないが、信頼をされていないのではないかと、カナタは悩む日もあった。

夜に出た日は決まって帰るのは朝方で、時には大怪我をしている日もある。

側から見れば、何をしているかなんてバレバレだ。

それでもカナタは、そんなナユタに温かい朝御飯を作り続けてきた。

それが彼女なりの優しさへのお返しであり、同時に無言の抗議でもあったのだ。


だから、今日は不自然だった。


「ただいま」


午前二時。玄関の向こう側から、ナユタの声。いつもと少し、声色が違い僅かに上ずっている。

今までこんなに早く帰ってきた日は無かった。

……罠? そんな疑問が頭の中に暗く立ち込めて、僅かにカナタは躊躇した。

ナユタが敵に捕われるなんて、あるわけがない。そう思ってしまったが故に、疑いきれなかった。

しかしその一瞬の躊躇が、命取りだ。

迷ったら、迷う前にやれ――矛盾しているが、それがナユタの教えだった。

喪うものがない掃除屋は、だから強いのだ。情を現場に持ち込んだ時点で、未来はない。


……ああ、だからナユタは、一人でいつも……。


走馬灯のように、感情が雪崩れ込み、体が強張る。

それら全部を見越したかのように、扉の向こう側から散弾銃の発砲。

音を聴くと同時にカナタは横に飛び退いたが、次の瞬間、砕け散った木扉の合間から、知らない顔が現れた。

0.5秒。

瞬きが終わった時には、カナタはうつ伏せに地面に叩きつけられていた。

遅い、遅い。気付いた時には全てが遅い。

利き腕は捻られ、後ろ手に固められていた。後頭部は手で押さえつけられている。

逃げる余地さえ与えない、完全な敗北だった。


「無様だなぁ〜情けねえ。今まで年単位で教えてきた結果がそれかよ」


そんなカナタの視界に、ヤンキー座りをする女が入り込む。

知っている。ああ、よく知っているとも。

ずっと一緒に過ごしてきた。

ずっと一緒に笑ってきた。

どんな時も、ずっと。


女は――ナユタだった。


理解した瞬間に、全身から血の気が引いていく。

どうして、なぜ、なんの為に? 様々な言葉が思い浮かぶが、一言も喉から出てこない。


「言葉すら出てこねーのかよ。まあ、なんだ。つまりそういうこった」

「そ、そういう、ことって」

「昨日話したろ? お前、いい血統だってな」

「どういう……」

「お陰様でい〜い値段で売れたよ。お前の姉貴も捕まえれば、さらに倍だ。

 これでもう一つの探し物も手に入る、漸くな。長かったぜ、ホント」


――あぁ、私は売られたのか。


理解するのと同時に、がらがらがらと、何かが体の中で音を立てて崩れてゆく。

力が抜けたのが伝わったのか、体を抑えている悪漢がカナタを無理やり立たせ、玄関の向こうへと引き擦ってゆく。


「おいおい待てよ、別にその餓鬼がどうなろーが知ったこっちゃねーけど、先に金だ。ちゃあんと2億、払ってもらおーか?」

「チッ……ほらよ、受け取りな」

「まいどありィ〜」


引き擦られて、遠ざかっていく。どんどん、どんどん。

ナユタの姿が小さくなって、暗闇にゆっくりと溶けてゆく。

マッチを擦る音がした。暗闇の向こうで、タバコに火を灯す女の横顔が小さく見える、金に目が眩んで嗤った横顔。

頭の中を砂嵐がかき乱す、ガラスのコップが割れる音、クリームソーダのエメラルドグリーン、重なる瞳、宝石のような、翡翠色。

いつかの雨音、かんかんかん、トタン屋根の歌声。

艶のある血の色混じりのブロンドの髪、風にそよいで、オーデコロンの匂い。

赤い口紅、紫煙のとぐろ、銀色の灰皿に、地面を打つ驟雨、今日の夜は雨だと聞いた、まだ降っていない。

朝ご飯はフレンチトースト、コーヒーは二杯半、いつも決まっているでしょう。黒い下着と褐色の肌、ケミカルウォッシュのジーンズは明日洗濯、ごうごうごう、洗濯機の回る音。

三歩歩いて、奈落の下へ急降下、転落死。赤と黒が頭の中で混ざり合って、宇宙の向こうで手を繋いだ銃撃戦、バターの香りに、割れた卵と腐った牛乳。仲良くワルツでみんな踊りましょう。





―――――――――――――――全身に氷水を掛けられるような、戦慄が走った。





クエスチョン。


自分より筋力のある相手に掴まれた時、どうする?

夜に誰かが訪ねてきた時は、腰に銃を隠しておけ。さてそのあとの対処は?

自分一人で戦う時、優先すべきは何か?

複数を相手にする場合、どのように攻める?

闇夜の中で戦う場合、間合いはどのように取る?

銃が咄嗟に出ない場合は、何を武器に戦う?

素手で優位に立つ為の立ち回りは?

アクシデントが起きた場合はまずどのようにして落ち着いた対処を取るのか?

拷問はどのような時にどのような順番ですべきか?

逃げようとした相手に耳を貸すか否か?

命乞いに対する対処はどうするのが正解か?

人を殺したあとの処理はどうするのが正解か?


アンサー……解るよ。体が覚えてる。だって全部、あの人から教わったことだもん。


肉片と血溜まりの中で、少女は涙を流して立ち尽くす。

人間は、感情のある生き物だ。少女があの日死人を辞めたのであれば、縋る徴は一つだけ。

怒りも、悲しみも、愛情も、喜びも、憎しみも、ぶつける相手をそれしか知らないのであれば、少女の向かう先は、決まっていた。





■■■





「命乞いでもしてみなさいよ」


馬乗りになって、カナタが言う。

まるでそう言うことが決まっていたかのようなタイミング、淡々した声色、感情の消えた表情で。


「思い出すねェ。あの日のこと」


ナユタが苦しそうに肩を竦めた。

カナタは銃口をナユタの額に押し付ける。


「死にたいの?」


デジャブ。あの日と逆の立ち位置で、けれどあの日と同じ質問。嗚呼、今なら理解出来る。その質問をした意味が。

ナユタの瞳に、影の落ちたカナタの顔が映り込む。ほたぽたと、季節外れの俄雨がナユタの頬を伝った。

今日は夜から雨の予報だと言っていたっけ、とナユタは苦笑する……そういえば、あの日も雨だったか。


「死にたくねェって言ったら、どうすんだ?」


ナユタが嘲った。引き金に添えられた指が、僅かに揺れる。

最期の台詞にしては、些か台本が出来過ぎだ。

主演女優賞待った無し、レッドカーペットを歩く殺し屋っていうのも悪くない。

尤も、あの世に行っちゃあ表彰式には出れないが。


「そう。じゃあ、死んで」


カナタが笑って、ぱぁん、と乾いた音。

薬莢が吐き出されて、飛沫が跳ぶ。今度は弾は詰まらない。

嗚呼、呆気ない。あんなにも楽しかった日々も、愛しい想い出も、何もかも。

何もかもがこの瞬間に、くだらない鉛玉一発に砕かれて、終わったのだ。





■■■





死体を前にしばらく立ち尽くしていたが、ふと、机の上に宛先不明の手紙が置いてあることに、カナタは気付いた。

その配置が明らかに手紙を読ませる為であること、そしてナユタ本人には手紙を書くような知り合いがいないことも、カナタは知っている。

即ちそれが自分に向けたメッセージ、或いはいわゆる遺書であるかのどちらかだということも、カナタにはすぐに理解出来た。

読まないという選択肢も確かにあったのだろうが、何か無性にナユタの意図が気になって、

カナタはその手紙を手に取り、ゆっくりとチョコレート菓子のアルミ包装を開けるように開いた。




 ――カナタへ


 この手紙読んでるってことは、私がお前に殺されちまってるってことだ。

 どうして判るかって?

 あんなチンピラ数人にヤられるほどお前は弱くねぇし、最初の罠を躱せるほど、お前は冷酷じゃねえからだ。

 一番私がそれを知ってる。そういう風にお前を鍛えたからな。

 私の片腕がそんなに弱いワケが無い。お前の強さと甘さを私は信じてる。

 だから、お前は“まんまと”私を殺す。ハナからそういうシナリオだったんだ。

 お前は、情がありすぎたんだよ、カナタ。


 悪く思うなよ。こうでもしなきゃ、お前は足洗えねえだろ。

 これが元の生活に戻れる最後のチャンスなんだぜ。

 お前は私と違って、まだお尋ね者でもなんでもないって知り合いからも聞いてる。やり直せるんだよ。

 余ってる私の金は自由に使うといい。場所は知ってるだろ? もう私には必要無いもんだ。

 お前が殺したそいつらは、テキトーに処理しとくように、別の掃除屋に後処理頼んどいた。


 文句、色々あるだろうが……これが答えだ。

 お前の姉貴と会って、考えた。足りねえ頭で考えて、こうするって決めたよ。


 昔、言ったことがあるよな? 探し物が2つあるって。

 1つは、後継者って言ったろ? 悪いな。アレ、嘘。

 本当の1つ目は――家族だ。幾ら積んでも買えないモンさ。


 ずっと、家族を探してた。

 笑えよ。下らない話さ。自分の名前も知らないし、お前と違って手がかりもなんにもないのに。

 お前は手がかりがあったもんな。だから、ああやって出会えた……ホント、羨ましいよ。


 そう。家族、家族ね……。

 読んでるお前は馬鹿じゃねーのって思うだろうけど、旅の途中からは、まぁ、お前でいいかって思ってた。

 お前のこと、別に嫌いじゃないし。私がつけたんだけどさ、同じ名字だし。

 だからこいつが家族でいいかって。血ィ繋がってないけど。

 お前の姉貴の顔見る前までは、そう思えたんだよ。

 甘かったよ。

 馬鹿だよなぁ。

 家族ごっこじゃ、ダメだったんだなぁ。

 あんな顔されたら、誰だってそう思うよ。


 ああ、あと、もう1つ。

 もう1つの探し物は――死ぬ理由さ。


 飽き飽きしてたんだ。こんな世の中も。私自身にも。お前と出会ってから湧いてきたこの気持ちにも。

 全部なくなっちまえばずっと楽なのになぁって、ずっと思ってた。

 元々、だから殺し屋になったんだ……ようやく、2つ目も見つけたよ。


 悪かったな。くだらねーことに巻き込んで。ずっと考えたんだ。巻き込んだ責任取んなきゃなって。

 考えて、考えて、考えて……バカな私には、こんな方法しか思い付かなかったよ。


 お前は生きろよ。家族と生きろ。

 探し物がなきゃ生きられない空っぽな私と違って、お前はまだ生き方を選べるはずだ。


 私みたいに、死に方を選ぶような生き方、するなよ。


 くだらねーやり方だけどさぁ―――――――――――――――責任、取れてよかったよ。


 ごめん。ごめん、ごめんな、カナタ。


 さよなら。


 ――ナユタより





暫く黙って手紙を読んだあと、カナタは擦ったマッチでそれに火を付けた。ちりちりと音を上げながら赤く輪郭が滲んで、煙が一本、部屋に浮かぶ。

少しだけ惜しむように手紙を翳して、割れた窓から燃えてゆく手紙を捨てた。未練など微塵も見せない、“棄てる”という表現が相応しい捨て方だった。

吐き気のするくらい満天の星屑が瞬く夜空に、固まった血のように暗く汚い灰が、塵となって空を舞う。


……喪ったものが二つあった。


1つは、好きな人。

もう1つは、生きる理由。


星の海に、灰が舞う。ゆらゆらと漂う煙のように。

寄る宛の無い塵屑が、愛を求める迷子になって夜を泳ぐ。


彼女は、ナユタは目測を誤った。

こんなやり方で救われるほど少女は強くなくて、こんなやり方で自決するほど、少女は弱くはなかったから。


血溜まりに浮かぶ汚いゴーグルを左手で掴んで、無理やり死体から剥がした。ごつん、と頭だったものが床に跳ねる音がした。

机の上の古びた銃は、ついでに腰に刺す。

ゴーグルを頭に通すとサイズが少し大きくて、首元まで落ちた。趣味の悪いネックレスだ。

ふと、サイドテーブルを一瞥する。火がまだ残っている短い煙草が、何かに縋るように灰皿の隅で紫煙を上げていた。

フィルター部分に、真っ赤な薔薇、血潮の色。

先刻まで生きていた人間の口紅の痕が、くっきりと残っている。

何の気なしにそれを吸って、直ぐに酷く咽せた。



「まっずいキス」



吐き捨てるように呟くと、死体の上に煙草を捨てて、口を袖で拭った。

口紅の跡が頬に線を残す。流れ星が一筋去ったような、細く長い、真っ赤な跡。


かん、かん、かん。


トタン屋根が唄いだす。あぁそういえば、とカナタは天井を見上げた。今日の予報は深夜から雨だったっけ。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


いつかのような、独りの部屋に。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


いつかのような、灰色の雨が。


かん、かん、かん。


雨が降っている。


切なく揺れて、灰が消えてゆく―――那由多の星浮かぶ空の、遙か彼方まで。

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