恋昇り
湯の介
恋昇り
※性的な表現を含みます
カサリ。耳元で、微かな衣擦れの音が鳴った気がした。二週間前に恋人との縁が切れてしまってから深く眠れず、幾ら夜が更けても何かと目を覚ましてしまう。気分転換に、ゴールデンウィークを使って田舎の古民家に泊まりに来たが、さては
意識に反して微睡みを甘受したい脳に喝を入れ、両の瞼をゆっくりと持ち上げた。が、完全に上がりきる前に顔中の筋肉が硬直する。
「驚いた。私のこと、見えるのね」
淡い桃色の唇が、僅か30センチほどの距離で小さく動く。その声があまりに透き通っていて、胸の中で行き場をなくした空気は、口に当てられた手の隙間からゆっくりと漏れていく。幽霊の類にしては余りに神々しく、手が離れてからも言葉を探しあぐねてしまう。布団の上に胡座を掻いて深呼吸を試みるが、明らかに人ならざる、しかし人を形取った何かを前に、緊張の波に飲み込まれて上手くいかない。
「私、こうしてヒトと言葉を交わすのは初めてのことだわ」
不思議、と呟いたそれは、ぺたん、と正面に膝を崩した。互いの息遣いを際立たせる程の静けさが、正確な距離感を狂わせる。大人びた雰囲気に相反して非常に小柄で、おそらく身長は140センチもないのではないだろうか。着崩した白い着物姿で長髪を右耳にかける。混じり気のない白さの髪が、些か青白いうなじをなぞって波打つ様は、ぷっくりと瑞々しい唇と相まって酷く扇情的に感じてしまう。
「ヒトはまず名乗ると聞くけれど、私には名乗れるものがないの。だから貴方にも求めないわ」
月明かりが唇の一挙一動を余さず照らす。月とはこんなにも宵闇に映えるものだっただろうか。眠らない街で日々を営んでいると、帰りが遅くなってしまった幼少期に感じた月明かりの頼もしさなどすっかり忘れてしまっていたことに気付く。
「私は、赤い糸を結ぶもの。生まれた時からずっと、そしてこれからも永遠にそう在る現象」
まだ寝惚けているのだろうか、それが口にした言葉が全く理解できない。閉館中の脳内図書館から無理矢理本を漁ろうとするが、何処から手を付け流べきなのか皆目見当が付かない。そもそも、不思議なことにそれの存在を受け入れてしまっているのだから、此処は未だ夢の中なのかも知れなかった。
詰まるところ、所謂神の様な存在とでも言いたいのだろうか。しかし、そうではないと首を大きく横に振る。曰く、
「神とはヒトの信仰に依って存在するけれど、私は現象でしかない。極めて自然的で、ヒトの交わりに永続を
ということだった。では、それは此処に何をしに来たのか。尋ねると、両手を頬に当て、少し困った様な表情をする。
「赤い糸を結ぶものは、ヒトとヒトの心に赤い糸を結ぶ存在。それは同性だったり異性だったり、歳が近かったり離れていたりするけれど、組み合わせは全て定められているの」
つまりヒトの惚れた腫れたから政略結婚に至るまで、それはヒトの預かり知らぬ処で決められているのだと宣う。何に依って決められているのか、と問うてもそれは首を横に振るばかりで、本当に何も知らない様子だ。自分がどの組み合わせを結ぶのか、どうやって赤い糸を結ぶのか、そういったことについては勝手に体が動くらしく、その様な疑問を抱いたことは愚か、考えたことすらなかったそうだ。ならば、此処に来た理由も明確だった。
ふと疑問を抱く。先日の失恋は、赤い糸とどう関わるのだろう。これも定められていたことの一つで在るなら、始めから終わりが決まっていたと捉えるなら、余りにも胸が痛ましい。駄目で元々、期待せずに尋ねたが、これについては、あっさりと回答が得られた。
「失恋、浮気、離婚。そういったものは、糸の結び間違えが引き起こすの」
それは、結び間違えに気付いた時にその糸を切ってしまうと言う。当事者がどんなに幸せな生活を送っていたとしてもだ。結び間違えをの原因に心当たりは無いし、考えたこともないと話す。それを聞いて、じわり、じわり、と腹立たしさが込み上げてくる。詰まるところ、自分が虚しさと苦しみに襲われて傷心旅行に来る羽目になったのは、それのせいだったのだ。
「どうか怒らないで頂戴。私、貴方と話していると鼓動が早まるの」
脈絡のない身勝手な台詞に暫し頬が引きつるが、それの表情を見てはっとした。青白かった頬は紅潮し、眉は八の字に垂れ下がっていた。恐る恐る、といった様子で頬に触れてきた右手は、先程とは異なり
「此処で一夜を過ごしても良いかしら」
そうだ、それの勝手な理屈で傷付けられたのだから、少しくらい良い思いをさせて貰っても罰は当たるまい。脳に響く様な心臓の音が、微かな息遣いに呑まれて聞こえなくなっていく。何処からか湧き上がる大量の生唾を一気に飲み下し、左手でそっと頬を撫でる。ピクリ。滑らかな肌が小さく跳ねる。指先で唇をゆっくりなぞり、徐々に口の中を侵食していく。やがて舌の中央をすうっと撫であげると、不意に指先がぬらりと舐め上げられ、忘れていた感覚に脳が支配されていく。細かく震え続けるそれの肩を強く押し、されるがままの色付いた首筋を慣らす様に濡らすと、息も付かずに歯を立てる。
小鳥の
彼女が、落ちていた。
ドアを肩で押して、外に出る。何故かは分からないが、そうしなければならない気がした。玄関の前で、
真っ青な空を見上げる。雲ひとつなく、澄んだ空気が恐ろしい程に纏わりついてくる。
得も言われぬ異変を感じて彼女を見た。胸元から真っ赤な細い糸が一本、這い出していた。空に向かって真っ直ぐに、ゆっくりと伸びていく。糸が繰り出される度に、彼女の身体が萎んでいくのが分かる。両腕の中で、一つの存在が無に帰っていく。軽くなっていく筈の両腕の中には、彼女の重みがいつまでも残ったままだ。
昨夜感じた復讐心のようなものは、すっかり失せていた。今は只、何も考えずに昇っていく赤い糸を眺めていよう。瞬き一つせず、俺は青い巨大な海に赤い命が還っていくのを眺め続ける。
恋昇り 湯の介 @yunosukexpen
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