ウヴァークの竜の話 ―フロエンツ博士による伝承集から

藤枝志野

1

 ウヴァーク地方の北端には名のない山が連なっている。その南にかつて村があった。たいそう小さな村で、家は全部で十五、みなが互いの顔や性分を知っていた。悪さをする者も飢えもなく、長いこと穏やかな暮らしが続いていた。

 ところがある時から、夜のあいだに畑の麦が倒され、馬が傷つけられるようになった。ごうごうと風が鳴り、地面が揺れて飛び起きたという者もあった。熊のようなありふれた獣のしわざでもなかったし、誰かのいたずらだと考える者はいなかった。というのも、この村に悪ふざけを楽しむような者がいないことをみなが知っていたから。

 それから少し経った日の寄り合いで、もしかすると竜かもしれないという声があがった。さっそく一人が寝ずの番についたところ、やはりごうごうと音がして、家ほどの大きさの生き物が降り立った。生き物は月の下に鱗を光らせながら、尻尾で柵をなぎ倒し、刈り取りの済んだ畑を踏み荒らした。再び寄り合いに集まったみなは話を聞いてうなずきあった。果たして竜だった。

 竜がいたずらに人間を襲うことはない。それでもこのまま続けば十分な食糧が行き渡らなくなるし、馬が使い物にならなくては畑仕事や遠出もままならない。みなは竜を追い払うことに決めた。

 大役を任されたのは靴職人見習いのノナンだった。人にも動物にも優しく、力があり脚も強かった。何より彼が選ばれた一番の理由は、若者の中で最も勇気があるということだった。欠点といえば、いつまで経っても靴づくりが下手なことと、優しさと正義感のために言動の荒々しくなる時があることくらい。

 旅支度は十五の家が分担した。嫌な顔をする者は一人としていなかった。靴はノナンの相弟子であるユーデが、木や革を合わせてすこぶる丈夫なものをこしらえた。


「これはなんだい」


 ノナンは甲の部分に彫られた、枝を広げた木のような模様を指差した。


「木は旅人が帰るための目印になる。無事に戻ってこられるように、まじない師に刻んでもらったんだ」


 ノナンはユーデの肩を叩いて礼を言った。それから必ず役目を全うすると約束した。

 出発の朝はよく晴れていた。発つ前に教会に寄り、村を守るという誓いを立て、司祭から加護の言葉を受けた。村のみなが見送った。

 三つめの山を降りきった日、ノナンは朽ちかけた小屋を見つけ、厚く温かなマントにくるまってぐっすり眠った。その上を竜が飛んでいった。竜は村に着くと馬をいじめ、教会のそばの木に大きな傷をつけた。そして納屋に体当たりした時、異変に目を覚ましていたのだろう、納屋の主であるギドじいさんが隣の家から悲鳴をあげた。竜はたちまち空へ浮き上がり、じいさんの家めがけて勢いよく落ちた。わめき声をあげながら何度も浮き上がっては落ち、ついに家が木切れと土の山になると、竜は飛び去った。

 ノナンは夜明けの光で目を覚まし、白い息を吐きながら歩きはじめた。最後の一番大きな山に差しかかったのとちょうど同じ頃、村ではじいさんのために悲しみと別れの歌がうたわれた。

 山を越えて少しゆくと、ノナンは岩の上にじっとしている灰色の竜を見つけた。日の光で体を温めているようだった。ノナンがじっと見るのと同時に、竜も気づいてノナンに首を向けた。


「竜よ」


 ノナンはゆっくりと近づいた。


「僕の村で悪さをするのはお前か」


 竜は何やらわめいた。ノナンには最初、ただぎいぎいとしか聞こえなかった。ところが竜がもう一度わめくと、それははっきりと、いかにもわしだ、と言葉を成した。


「どうしてあんなことをするんだ。人も馬も牛も、鳥や虫だってみな優しい。あんな仕打ちをされる道理はない」


 確かに奴らは優しい。おそろしいほどにな。竜は尻尾を揺らしてみせた。しかし本当にみなが優しければ、こうはならなかった。


「何を言っているんだ。村の人はみな優しい。赤ん坊だってばあさんだって、一人残らずだ」


 それは真っ赤な嘘だ。


「どういうことだ」


 ノナンが問うた。


 わしは元々あの村の人間だった。お前ほどの年頃までつつがなく暮らしていた。それが妻をもらう話が出ると、相手に横恋慕する輩が現れた。そいつはわしを陥れて相手を奪ったばかりか、みなを騙してわしを村から追い出した。森や谷を逃げながら怒り、泣き叫び、気づくとこの姿になっていた。


「それでは仕返しのつもりなんだな」


 そうだ。だがもう終わった。気が済んだのだ。ついに奴を葬ってやったのだから。


 ノナンはわずかにたじろいだが負けずに言い返した。


「本当にもう来ないと誓うな。本当に気が済んだんだな」


 嘘など一つたりともつくものか! 竜は大きな口をさらに大きく開けて怒鳴った。のどの奥から火の粉が噴き上がり、熱い息とともにノナンの顔にかかった。

 それにもうじき雪が降る。わしは眠ることにする。この老いた体は骨まで凍る、もう目が覚めることはなかろう。だがそれでいい。もう満足したのだから。


 首をゆっくり縮こめると、竜は元のように岩の上に丸くなった。ノナンは竜の翼に穴を開けようかと考えた。そうすれば村まで飛んでくることは叶わなくなる。しかし竜の言葉を信じようと思い、短剣を抜くことなく去った。

 大きな山を越えてすぐ、ノナンの頭上でさえずりが響いた。猟師の一人息子が飼っている鳥だった。


「ありがとう、見に来てくれたんだね」


 ノナンは鳥に言った。続けて竜がもう現れないこと、あと六日もすれば村に帰ることを伝えると、鳥は来た方へまっすぐ飛んでいった。

 鳥を見送ったノナンは歩きだそうとしてぎょっとした。右の靴の甲にひびが入っていた。村までもつだろうかと不安になったが、修理するための道具もないので、帰ったらユーデに詫びて直してもらうことにした。

 それから五日が経ち、ノナンは枯れ草の野原の向こうに村を見た。ところが入り口まで来ると、弾んでいた心が暗い雲でいっぱいになった。木で組まれた門の柱が砕けている。縄遊びをする子どもも、旅籠の前で飲んでいる者もいなかった。

 家に飛んでいくと、扉の近くで父が、暖炉の脇で母と弟が動かなくなっていた。三人ともがひどい傷を負い、金物やわずかな蓄えもなくなっていた。ノナンはしばらく途方に暮れた後、ぶるぶると震える足で残りの十三の家、旅籠に教会を回った。机がひっくり返っていたり薪がばらまかれていたりするのはまだましで、火を放たれ焼け落ちたものもあった。旅籠の主人自慢の酒や教会の燭台は残らず消え、ユーデと親方は工房で折り重なっていた。

 ノナンは静かな広場の隅で、怒りに地面を叩いて泣き叫んだ。気がおかしくなりそうだった。しかし疲れのために眠りに落ち、気がつくと夜だった。何気なく身じろぎをしてからノナンは目を疑った。手を鱗が覆っている。白に近い黄色の鱗が、雲に見え隠れする細い月の下で光っている。立ち上がってみると体は小屋ほどの大きさに膨れ上がっていた。さらに奇妙なことに左足がひどく痛んだ。見ればユーデのつくった靴が締めつけているのだった。ひびの入っていた右足の分は服や帯と同じく裂けてしまって、太い鉤爪がむき出しになっている。

 再び途方に暮れてノナンはうずくまった。しかし地面を伝わる馬車の音に頭を上げ、教会の陰にそろそろと隠れた。

 馬車の音は騒がしい話し声とともに村に入ってきた。ノナンが耳をすませると、取りこぼしだとかなんとか言いながら、いくつもの足音が散ってゆくのが分かった。足音が家々に入り込み、何かを壊したり引っかき回したりする気配がする。

 ノナンは翼を広げて躍り出た。広場にいた数人が振り向くなり悲鳴をあげた。一人の手から水差しが落ちて割れた。

 誰かの声を合図に、男たちが馬車に向かって走りはじめた。腰を抜かした何人かは置き去りにされた。馬が驚いたせいで荷台がひっくり返りそうに揺れている。

 ノナンは口を開いた。お前たちだな、と言ったはずだった。ところがごう、と音がしたかと思うと、男たちが体じゅうに火を負って転げ回った。ノナンはわけが分からないまま、別の何人かに向かって叫んだ。しかし口から出たのは火だった。ノナンは怒りに任せて空を飛び、逃げる男たちに火を吐きつづけた。剣を抜いた者も木の陰に隠れた者も残らず焼いた。炎は近くの家、その隣の家へと移り、村が一つの大きな松明のように燃えはじめた。

 門の外へ走ってゆく一人を燃やしつくした後、ノナンは左足の締めつけが消えるのを感じた。はっとして遥か下を見ると、壊れた靴が足を離れて炎に紛れるところだった。竜は翼を動かすのをやめ、地面に降りて鳴きつづけた。そして太陽が出る頃に南へ飛び去った。それからの行方を知る人はいない。

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