彼と彼女の幸せコミュニケーション

きのすけ

彼と彼女の幸せコミュニケーション

 人を殺した。

 家族でも、友人でも、知り合いでもない。たまたま目に入っただけの男を。何となく抑えの効かない気持ちをもて余していた時分にその男を見かけて、あぁ殺そうと思った。まるで好き放題に散っていた粒子がぎゅっと固まって一つの宝石を成したかような気分だった。まぁ、実際出来上がったのはそんな綺麗なものとは程遠い殺意だったのだが。純度が高いという点では同様か。

 ともあれ、自分は人を殺した。見知らぬ他人を殺した。何の意図もなく、ただ殺したかったから殺した。こちらを振り返った彼の腕を引き倒して。したたかに打ち付けた身体へ跨がって、目が見開かれた瞬間手にしていたナイフでまず喉を一突きした。それから何度か腹を裂いて、心臓を探すように胸を何度も刺した。きっと骨も数本折っていたことだろう。男がどのタイミングで逝ったのかは知らない。ただ、気がつけば薄い色をしていた男のシャツは真っ黒になっていて、自身も半身に返り血を浴びていた。

 そうして光を無くした瞳を見つけ死んだのだと実感した。人を殺したのだと理解した。けれどそれだけである。己をせき立てるような煩わしさが無くなっただけで、特に満足も感想もなかった。

 ぼんやりとしたまま帰りついた自宅のキッチンで、鍋をかき混ぜる男の背中を見るまでは。

「お帰り。思っていたより早かったな」

 こちらを振り返り、風呂ならもう湧いているぞと告げる声はその顔によく合った低音だった。勿論初めて聞く声だ。何故なら彼が声を上げる前に己はその喉を貫いたのだから。

 リビングの入り口で立ち尽くす己に男が首を傾げる。小動物じみたその仕草は、恐らく筋肉質と部類されるだろう容姿の男がするには些か不似合いが過ぎていた。

「なんだ、腹が減っているのか? 悪いが支度がまだ出来ていないから、先に風呂へ入ると良い」

 言いながら、差し出された手を見つめること数秒。上着、と短い単語が降ってきたので大人しく上着を脱いで渡せば、もう片方の腕が荷物も共に持ち去っていく。代わりに手渡されたのは、綺麗に畳まれたパジャマと下着とバスタオル。

「……ありがとう」

 再びキッチンに向かった背中がどういたしまして、と答えたのを聞いて脱衣場へ歩を向けた。


  *


 いい湯だった。

 風呂上がりである。

 全身に浴びたと言っても過言ではない男の血を洗い流し、さっぱりした気分でリビングの椅子へ腰かける。風呂に入っている間に用意されたのだろう新しいタオルで最近長くなってきた髪ごと頭をがしがしと拭いていればこら、と短い叱責が飛んだ。

「君は女性だろうに。せっかく望んだ長さまで伸びたのだから、髪をそんなに雑に扱うんじゃない」

 俺がやろう、と言い出した男に背を向けるように言われ、大人しく従うことにする。すれば、まるで美容師がそうするかのように丁寧に扱われるのだから、少しだけくすぐったい気分になった。

 他人に髪を弄られる感覚と風呂上がりのぬくい体温が心地よく何度か意識を飛ばしかけていると、咎めるような声音でまだだと告げられる。その度に手を止める男へなんだか申し訳なくなってきて、何か考え事をしようと眠りかけていた思考をはたき起こして背筋を伸ばす。

 そういえば、どうしてこの男は死んでいないのだろう。確かにこの手で殺した筈だ。硬い肉に刃を突き刺す感覚も、降りかかってきた鮮血の奇妙な暖かさも、しっかりと覚えている。まさか白昼夢だとでも言うつもりなのだろうか。男を殺したのも夢で、殺そうと思い立ったことも夢。ならば服を汚したことも夢であるか、せめてクリーニング代を用意してほしい所だ。まぁ、用意されたところで今日着ていた衣服は何処へ出しても受け取り不可な代物にしてしまったのだからまず意味は無いだろうが。まったく世知辛い世の中である。

 ともあれ、血まみれの服があるということは確実に男を殺したということの証明にもなる。あの量の出血をして生きている人間など居るはずがないからだ。これで先ほどの殺人が夢でないことが分かった。自分が男を殺したことは動かぬ事実だと判明したのだった。

 ところが困ったことに、問題が一つ片付けば次の問題が浮上するのが人生の常である。今回に限っては振り出しに戻るとも言う。

 では——繰り返しになるが——何故。何故男がこうも当たり前のように生きていて、当たり前のように人の髪を整えているのか。というかそもそも何故当たり前のように自分の家に上がりこんで、挙げ句湯を沸かし料理まで用意しているのだろう。確か、冷蔵庫にはピーマンしか入っていなかったはずである。まさかと思うが一度中身を確認して買い出しまでしたのか。

 ふむ、と考え込んでいると、今度は深く思考を飛ばしすぎたらしい。ドライヤーを片付け終わった男が訝しげな声で起きているのかと訪ねてきた。返答の代わりに顔をあげる。

「さぁ、夕飯にしよう」

 待たせてしまったなと詫び、男が三度キッチンへ向かう。そのあまりにも無防備な背中にそうだと一つ閃いた。後から考えればかなり早計だったと思わないでもないが、一度許されかけた睡魔を追い払い疲れた身体は食事よりも睡眠を欲しがっていたのだ。簡単に言えば眠くて判断力が振り切れていたのである。あと丁度近くにダイエット関連で買った鉄アレイもあることだし。

「すまない。運ぶのを手伝ってくれな」

 ごつり。


  *


 ぱちりと目が覚めた。

 寝室。どうせ住むなら二部屋以上無いとテンションが上がらないからという理由でリビングとは扉を隔てた部屋である。そんな物の少ない、正に睡眠するための室内にカチコチと秒針が動く音だけが木霊していた。

 ふあ、と欠伸をして空腹であることを認識する。起き抜けにここまで空腹とはこれ如何に。はて、昨日の夕飯は何だったかとぼんやりとしたままゆっくり記憶を手繰り寄せ、自身の行動を就寝から一つずつ振り返った。そうだ、確か寝る前に夕飯を。

「あ」

 口にしていない、という事より重要なことを思い出した。そうだそうだ。自分は寝る前に男を殺したのだった。無防備な背中にまず一発お見舞いし、バランスを崩して倒れこんできた脳天めがけてもう一度鉄アレイを振り落とした。人の頭蓋骨は割と簡単に砕けることを知れたのである。また一つ賢くなった。賢くなったついでに何度か単調に両腕を上下させたのも覚えている。男が呻かなくなるまではそう時間がかからなかったように思うが、あれはただそれだけ自分が夢中になっていたからだろうか。よくわからない。ともあれ昨日の就寝前は一度殺した男を再度殺したのだった。なかなか出来ない体験である。嬉しくもなんともないが。

 そうだ。それで、殴り殺して、疲れて二回目の風呂にも入らずに就寝したのだ。そんなに汚れていなかったし、何よりあれだけ丁寧にしてもらった髪を台無しにするのは気が引けた。だから風呂には入らなかったし、事に及んだキッチンもそのままである。

 そこまで思い出して、寝起き一発目の作業が片付けから始まるのは嫌だなと思った。どういう理屈かは知らないが殺しても生きていた男を、ならばもう一度殺せばいいのでは?と思考した昨夜の自分を叱り倒したい。興味本意で動くにも程があるだろう。その割を食うこちらの身にもなって欲しいものだ。

 もういっそふて寝を決め込もうかとも考えたが、朝のゴミ回収に間に合わせるなら早めに作業を始めなければならない。流石に丸一日死体の処理に頭を悩ませるのは嫌過ぎた。

 仕方ない、と腹をくくってベッドを降り、寝室の扉をあける。

 美味しそうな匂いがした。

「おはよう。知ってはいたが朝が随分と早いんだな」

 あぁいや、悪いことではないんだがと口ごもる男は変わらずキッチンに立っている。それどころか見覚えのない紺色のエプロンまでしていた。よく似合っている。

 リビングのテーブルには既に取り皿や箸が並べられていて、中身を待つご飯茶碗が伏せられている。それが二人分。一つは毎朝使っている自分のもので、もう一つはエプロン同様見覚えのないものだった。器の大きさと配色からどうやら男物のようだ。

「そろそろ出来るから、顔を洗って座っていてくれ」

 突っ立っていても仕方がないので言われた通り洗面台へ向かう。リビングを出て洗面台のある脱衣場へ向かう中、あの匂いは味噌汁だったのかと理解した。


  *


 どうやら男は死なないらしい。

 それが男と過ごしてみた結論だった。

 初めの方は一週間に三回くらいのペースであらゆる方法を試して男を殺害してみたが駄目だった。風呂に沈めて溺死させようが、縄で絞めて窒息死させようが、有害物質で中毒死させようが、全て無駄だった。外出して戻るか、就寝するかなど長い間死体から目を離すと気づけば男は元通り、何事も無かったかのように過ごしているのだ。

 簡単な手順で殺すからだろうかと考えて、ならばと山奥に連れていった事がある。深い森の中のロッジを借りて、奮発して購入したチェーンソーで男の体をズタズタにしたのだ。何日かかけて細かく刻み、手のひら大にまでしてから火を放った。パチパチと燃える焚き火の中に男だった肉を放りこんで、髪やら骨やらの残りは離れたところに埋めた。勿論焼け焦げた死体の欠片もあとは自然が何とかするだろうと森のあらゆる場所に埋めた。

 ところが男は生きていた。遠出をしたものだから、折角なら一日くらい町をぶらつきたくて、山を降りた先でどこのホテルを借りようかと悩んでいたときのこと。頭の中で勝手に第一候補としていたホテルの従業員とおぼしき人間に声をかけられたのだ。『お連れ様がお迎えにあがられていますよ』と。見れば、ホテルの送迎バスの窓から男がこちらへ視線を送っていた。ちなみに、宿泊先のホテルが所有する温泉は最高だった。山の幸フルーツ牛乳とか言うのは凄く微妙だったけれども。

 生き返りまでの最短を言うならば海へ行った時だろう。あの時は難しいことは何もせず、ただ単純に高台から海へ突き落としたのだ。岩盤に倒れ伏す男の姿を想像したが、暗すぎてよくわからなかった。ただ、この高さから落ちたら普通に死ぬだろうなと納得せざるを得ないような場所だったので、きっと男は死んだのだろう。

 まぁ、案の定生きていたわけなのだが。あの時は少し驚いた。何せ海を後にして車を止めている駐車場へ戻って来たら、何気なく煙草をふかす男がそこに居たのだから。男はこちらに気がつくと煙草を携帯灰皿へと仕舞い込み、助手席のドアを開けた。ちなみに、その後二人で食べに行った海の幸はめちゃくちゃ美味しかった。海老最高。

 ともあれ、そんなこんなで男は死なないらしい事がわかった。否、〝死なない〟というのは少し語弊があるか。正しくは〝死んでも生き返る〟だ。それもそうだろう。初めに殺した時も、二度目に殺した時も、山でも海でも。男は確実に死んでいた。命を奪われ、尊厳を奪われ、ただの肉に成り果てる瞬間が確かにあったのだ。それを自分は、何度もこの目で見届けている。

 別に男が憎いわけではない。そんな感情、端から持っている訳がない。正真正銘、男を初めて殺すあの日まで、自分は男を知らなかった。加害者と被害者に、殺人者と死体になるあの瞬間まで、自分と男にはなんの繋がりもなかったのだ。

 それなのにこうして殺し続けているのは単に気になるからだ。溝に落とそうと蹴った小石が何度も難なくその上を通過した時のような。まぐれか、自分の蹴り方が悪かったのか、はたまた石の形が落下を防いだのか。この石を落とすまでは帰路につけない。そんな子供じみた、ともすれば意地のようなものが自分を突き動かす故にあらゆる殺害方法を試すのであって、決して憎しみから来るものではない。

 男はこの殺人行為に何も言わなかった。ごく普通に会話し、時たま小言を口にすることはあれど、基本的に真面目で穏やかな人間だった。それこそ何度も殺されるなど割に合わないような善人。面倒見がよく、料理が上手で、あと意外と意地っ張りで子供っぽい所がある。十人いれば八人くらいが出来た人間だと評するだろう男は、気づけば自分の一番近い場所にいた。誰よりも近い、家族よりも友人よりももっと近いところに。気づかぬうちに生活の一部となっていた男は、今では寝食を共にする仲ですらある。

 あぁでも。ただ一度。一度だけ男は行為に苦言を呈したことがある。それはあの二度目の殺害を行った翌朝の事だった。暖かで素晴らしく美味しい朝食に舌鼓を打つ自分に、向かい側で同じく箸を進める男は料理を作っている最中と出来上がってから殺すのはやめて欲しいと言った。曰く、「食べる人の居ない料理ほど寂しいものはない」だそうだ。男の料理の腕前に感動した自分は一も二もなく頷いたのを覚えている。

 後は本当に何もないのだ。殺さないでくれと言われたことも無ければ、理不尽な行為への怒りを向けられたこともない。ただ淡々と殺されているだけ。殺されて、死体になって、気づけば生きている。その繰り返し。

 繰り返して、繰り返して——気づけば、初めて殺してから一年が経っていた。


  *


 テレビを見ていた。

 と、言うよりは眺めていたという方が正しいのか。色とりどりのバラエティー番組が四角い枠の中でなんやかやと繰り広げられていくのをただぼんやりと眺めている。特に楽しんでいるわけではない。以前、だだぼうっと思考に耽っていたら何もないところを凝視しているように見えたのか、心配しすぎた男が精神科へ電話をかけようとした前科があるので以降こうするようになっただけである。ちなみに件の男は今朝方初心にかえるつもりでナイフで滅多刺しにしたのだが、今は元気にキッチンでその腕を振るっている。なんでも今日は良い肉が手に入ったとかでローストビーフを作ってくれるらしい。下味もしっかりつけたから楽しみにしておいてくれと嬉々として言われたのだが、取り出された肉を目にした時一瞬これは男のどこの部位だろうと考えてしまった。どこの部位も何も牛である。そんなトンチキな考えをしてしまうくらいには、今日の自分は疲れているのかもしれなかった。

 今日は友人に会いに行ったのだ。遠い地方へ引っ越して行った友人だったのだが、何でも仕事か何かで近くまで来たから良かったら会えないか、と。行ってくると良いと男に背を押されたのも手伝って、その首を裂いた後ちょっと都心の方までお出掛けした。その道中ふと気づいたのだが、よく考えれば男以外の人間と何処かへ行くのは随分と久しぶりだったかもしれなかった。ここのところ何処へ行くにしても男と一緒だった気がする。帰りは二人だったり一人だったりすることもあったが、次の朝は必ず男は帰って来ていた。

 ともあれ、久々に会った友人は相変わらず人の話を聞いているのか怪しいくらいのハイテンションだった。周囲の人間が彼女から少し距離を取っていたのですぐに居場所がわかるほどに。毎度のことである。まぁ、彼女はテンションの振り切れ方がおかしいだけで、あとは普通に良い女性なので慣れれば何ともないのだが。

 適当に歩き回って、適当な飲食店で休憩をして、そのまま思い出話やお互いの近況に花を咲かせる。彼女の最近の悩みは悩みというか、彼女からすれば立派に悩んでいるのだろうけれど端から聞けばただののろけ話だった。いつものことである。今回は今現在お付き合いしている男性とそろそろ結婚しようと考えているらしいことを言っていた。幸せそうで何よりだった。

 彼女は一通り愚痴に見せかけた淡い話を語り尽くしたあと、そっちはどうなのと聞いてきた。ここで彼女が思い描くような人物は居ないよと言うのは簡単だったけれど、様子を見る限り何か浮いた話の一つや二つしてやった方が楽しかろうと察して口を開く。幸い男のお陰で話題提供には事欠かないので助かった。毎度繰り返す殺人行為とその度に男が生き返る事を伏せて話をしてやれば、彼女はなにやら驚いたようだ。

『それってとってもお似合いのカップルじゃない!』

 そもそも付き合ってすらいないのでお似合いも何もないのだが。しかしどんどんテンションを上げていく彼女へ水を指す訳にもいかず、曖昧に頷くことで今日はお開きとなってしまった。お幸せに! と笑顔で手を振ってくれた彼女は本当にいい人である。勘違いだとか言えるわけがない。

 そんなこんなで帰宅し今に至る。慣れない気を回したため今日は少し疲れてしまったので、こうしてソファでテレビを見ながらだらけている次第だ。

 それにしても、とキッチンを動き回る広い背をチラリと見てまた思考に潜る。彼女に言われて気がついたが、男は一体どういうつもりなのだろう。生き返っているとは言え毎度毎度殺されるのだ。不快でない訳がないだろうし、殺される前に殺すと決意を固めていてもおかしくはない。それなのに己を殺した殺人者の髪をとかしたり手料理を振る舞ったり、果ては一緒に何処かへ出かけたりと普通にしていたってサービスが過ぎる。面倒見が良いのは知っていたが、それにしても世話を焼きすぎじゃないだろうか。

 というか、そもそも。ここ一年ほど曖昧にしてきたのだが。

 何故男は当たり前のように自分の家に住んでいるのだろう。

「出来たぞ」

 皿を、と言われる前に用意していた食卓を見せる。あとは料理を待つだけと準備は万端にしてあるのだ。それを告げれば、男は少し照れくさそうに笑んでフライパンを運んできた。いい匂いがする。何か考え事をしていたが、ともかくご飯が先だ。お腹すいた。


  *


 美味しかった。

 食後のデザートまで食べさせてもらった。冷蔵庫から取り出された時にどこか見覚えがあるなと感じたそれは、確か今日行ったカフェで迷いに迷い、結局チョコレートケーキを選んだことで泣く泣く諦めたオレンジケーキだった。メニューの写真で見たものにアレンジが加わっているケーキはとても美味しかった。

 それも食べ終えた後、いつもは男が立っていることの多いキッチンにて後片付ける。料理好きな男が言うには食器を洗うのにも専用のスポンジなり洗剤なりを使っているらしいので、自分はもっぱら綺麗になった食器を拭いて片付ける係なのだが。美味しいものを食べさせてもらっている礼としては些か物足りないが、まぁなにもしないよりは良いだろう。

 隣から回される食器の水気を布巾で拭き取りながら今日会った友人の話をする。これも何時ものやり取りである。男が自然に話題を振ってくるから、自分がそれに答えるような形に近い。

 友人がお付き合いをしていたこと、そろそろ結婚しようとしていること、あと、それから、そういえば。今日紹介された友人の彼。

「格好いい人だったな」

 だん! と流し台に筋引き包丁が突き立てられた。

「…………それは、駄目だ」

 肩を震わせながら沈黙し、一度はくりと唇を動かした男が絞り出すように言う。低く、表情を無くした声。あらゆる感情を無理やり抑えつけ、必死に平静を装うとして、失敗したような。ほとんど独り言に近いそれを口にした男は下を向き、ただ手元を見つめている。どうかしたのか、と見上げたものの、表情は影になっていてよく見えない。

「あの日」

 ぽつりと、包丁を突き立てたままの姿勢で男は告げる。流し台がぎちりと音を立てた。気にせず、男は独白を続ける。

「君に出逢って、一目で恋に落ちた。運命だと思った」

 初めて殺したあの日。見開かれた瞳の奥でそんな事を考えていたのかと知る。確かに運命だったかもしれないが、それは単に男の寿命だとかそっちの話だろう。死に際にそんなことを考えるなんて、なかなかタフだなと思った。

「だから、これからは君と一緒に生きようと誓った」

 それで当人が帰ってくる前に乗り込んでくる辺り相当だ。そう言えば最初の一、二ヶ月は部屋の中に見慣れない物が増えたような気がしていたが、あれは多分男の私物だったのだろう。筋引き包丁なんてものが一般的な女性の独り暮らしの部屋にそうあるわけがない。

「君の生活を束縛するつもりは毛頭無いよ。友人と出掛けるのも、何処かへ旅行に行くのも好きにしてくれて構わない。誓いも、この生活も、俺が勝手にしているだけだ。君が気にすることじゃない」

 刃に擦れた流し台がぎちぎちと嫌な音を立てる。無意識なのかそうでないのか、どんどん広がっていく傷口など意にも介さない男は、ただ、と再び語調を強めた。

「……君が俺以外の誰かに目移りするのは耐えられない。君が俺にそうしてくれたように、肉を切り裂き血を撒き散らして、その中身を暴くような事を、他の男にもするのかと思うと」

 そこで一度言葉を切った男が、ふーっと息を吐いてゆっくりと背筋を伸ばす。次いでこちらに向けられたのは眉尻の下がった、困ったような笑顔。

「今度は、俺が」

 君をどうにかしてしまいそうだ、と、散々好き放題された男の言葉とは思えないような台詞が飛んできた。

 男は、何処か陶酔した様子で謡うように言葉を吐いていく。

「初めて君がそうしてくれたように、まずは喉を掻き切ろうか。それから腹と胸を何度か刺して、心臓も潰してしまおう。大丈夫。遺体は無駄にはしないさ。俺が料理上手なのを知っているだろう? ……というのは、まぁ、君が俺以外を見るならば、の話だが」

 男の手が包丁の柄から離れ、代わりにこちらの頬へ触れる。親指で目元を拭い、小動物を撫でるような手つきだったそれが、だんだんと這うように首元まで降りてきた。まるで掌全体で脈を確認されているようだ。首が暖かい。このまま男が手に力を入れたなら、自分を簡単に絞め殺すことが出来るんじゃないかと思ったが、男にそのつもりは無いようだった。

 ただ、男は懇願するような表情でこちらを見ている。それがなんだか捨てられた子犬のようで、というか何故こんな展開になっているのか皆目見当がつかないのではっきり言うことにした。

「いや、別に彼に興味は無いよ」

 彼女のお相手の人の写真を見せられて、一番最初に浮かんだ感想は芸能人ぽいな、である。どこかで見た覚えはあるのだが、どこだったか思い出せない。そういえば似たような人物が先程眺めていた番組にも出ていたかもしれないなと気付いて、女性がきゃあきゃあ言っていたから、あれは多分格好いい部類に入るのだろうと思ったのだ。他意は無い。というかそこまでの強い興味を男性に持ったことがない。

目の前にいるこの男を除いて。

 それを全部告げれば、男はぽかんとその場に停止した。数えることきっかり五秒。

 たっぷりと静止していた男は、ついで、少しだけ目元を赤らめるのだった。

「……そうか。そう、そうだな」

 どこか嬉しそうに頷く男に「これは俺の独り言なんだが、君は式を挙げるなら国内と海外のどちらが良い?」と囁かれた。海外、と聞いて飛行機での事故死はどうなるのだろうと閃いたので、来週末にでも早速飛行機の予約を取る事を決める。その旨を伝えると男は一瞬驚いた後、すぐにまた笑みを浮かべた。

 さて、事を起こすまであまり時間がない。手っ取り早く爆薬を手にいれるにはどうしたものかと考えを巡らせているうちに、風呂が沸いたことを知らせるメロディが流れた。

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