彼女はその日、路上を撥ねる

浅空哀歌

本編

 陽炎という言葉を聞けば、何処か夏の熱風が肌にひしめくような暑苦しさを思う人が多いかもしれないが、実のところ陽炎という言葉そのものが春の言葉であると知っている人間はそうはいないだろう。

 

 もともと、陽炎とは光の屈折現象であって、夏を代表する言葉なんてわけではないのだけれど、言葉通りである陽だまりの炎という単語から想像させるのが春の暖かさではなくどうしようもなく夏を連想させる。

 

 恐らくは、冬から春に季節が移り変わることによって暖かくなったことを称して昔の人々が陽炎という言葉を夏ではなく春にでもしたのか……もしくは常識だと思っている夏そのものが昔では春に値していたのかもしれないと考えれば、たしかに陽炎という言葉が春の言葉であると思うには首を縦に振って納得するのも致し方ないだろう。

 

 けれど、たとえ知っていたとしても陽炎という現象が夏によく起こりうるという事実が変わることはない。

 であれば、陽炎という言葉が春の言葉であると盲目的に信ずるのではなく、むしろあえて夏の言葉ではないのかと疑問を呈してもいいと思う。


 では陽炎を夏の言葉としよう。

 さて、これで春の言葉が一つ減ったわけだが、ならば春の言葉を新しく付け足すのが道理ではないだろうか。


 埋め合わせはきちんとしなければならないだろうと、漠然とした回答を求める質問を自身に投げかけて彼女──江喰本音はその日、路上じんせいを撥ねる。


    ◇


 走る事に才能は必要だ。人に気に入られるのにも才能は必要だ。

 世の中何をするのにも才能が必要だった。

 

 ありとあらゆる言い訳を述べられたが最後に、お前には才能がないという事実を突きつけられた人間は一体どれだけいるだろうか。

 自身の青春を賭ける価値があると陸上に時間を費やした最期が、たった数秒の言葉で簡単に崩れ去るとはわたしも思ってはいなかった。


 そう、2020年の夏──中学生活最後の大会にわたしは出ることが出来なかったのだ。


「残念だが……最後のリレーはチームのために、お前には選手のサポートへ回ってもらう」


 本当に残念だと思っているのか。そんな欠片も思ったことのない言葉がわたしの心情を駆け回り嗚咽となって、やがて大地へと吐露する。


「わかりました」

 

 約数秒の間は、わたしの人生に終止符を打つかのように濃くハッキリと鮮明に心を穿つ。


「みんなのために頑張ります」

 

 いくらでも理由はある。わたしは努力が足りなかったのだ。誰よりも走り、誰よりも陸上を愛し、誰よりも走ることが楽しいと思ったことは、きっと『誰か』に負けていたのかもしれない。

 もしくは、わたしに運がなかったとか。体のコンディションや選考の計測日──当日の天気に恵まれなかったとか、何にせよ実力ではなく運が足りなかったのかもしれない。


 ──全て才能がなかっただけだ。それ以外の何がある。


 何処か風を浴びることが出来る場所はないかと考えて、わたしは学校の屋上を考えた。屋上は立ち入り禁止とされているけれど、今日このときだけは何をしても許されるという根拠のない自信がわたしを後押しして、建てつけの悪くなっていた扉を外して屋上へと向かった。

 

 いざ、開放的な屋上から見えた景色は住宅街。綺麗に整備されたかのように建てられた住宅と、間を縫うようにして揃えられた綺麗な直線を描く路上だった。

 

 ……人生とは路上のようものだ。

 

 決して後ろに進めない路上は、たまに泥濘んだ大地のように足下がおぼつかない路上であって、下を向いてしまうことがあるかもしれないけれど、最期にはちゃんとした幸せへと向かうように作られている。

 

 最初から、才能がないなんてわかっていた。けれどいつか努力は報われると信じていた。

 

 人生はそんなに甘くは出来ていない。そう思えば、自然と気持ちが軽くなる。

 大きく、大きく口をひらいて笑った。

 わたしはこんな些細なことを気にしていたのだ。

 

 本当にばかばかしくて泣けてくる。


 「本当に笑えるわよね、生きているのが可笑しいくらいに」

 

 隣から声がした。


 腕に包帯を巻いた少女は不敵に笑みを浮かべて空を眺めており、けれどその横顔から見える笑みは自嘲のように思えるわざとらしさが窺えた。


「なんだ、あたしだけだと思ってた。こんな場所に来て最期を迎えようとするの」

「……最期?」

「──あぁ、違うなら帰ってくれる? 先に来ていたのはあたしなんだから」


 彼女は手を使わずに綺麗に上履きを脱いだ。


「ねぇ、あなた正気?」

「何を言うの? 正気じゃないからあんたもここに来たんでしょ?」

「……わたしは、ただ風を浴びて考え直したかっただけよ」

「じゃあ……あたしと違うね。あんたはまだ未来があるんだ」


 彼女は包帯を解いて固定していた腕をぶらつかせる。重力に沿うようにして揺れる彼女の腕と共に苦悶の表情を浮かべながら口を噤んでいた。


「……あなたには未来がないっていうの?」

「ないね」


 彼女はわたしの問いに言下に告げた。


「あたし、バスケをしてたんだ。レギュラー貰ってさ、高校も特待で話が通っていた。でも少し腕を怪我して、バスケが出来なくなったときたら全てなくなったよ。友達も未来も何もかも風に飛ばされたようにさ」

 

「可笑しいよね」

 彼女は、そう言って笑った。

「可笑しくないよ」

 わたしは、そう言っていた。


「命ってさ紙みたいに薄っぺらいものだと思うんだ。だからみんな死ぬっていう恐怖とか、生きるっていう希望を文鎮のように使って飛ばされないように気をつけてるの」

「そんなことない、わたしだって死にたいよ。頑張って努力しても報われることはないって知ったの。それでも、生きていればわたしたちの進む路上の先には幸せがあるんだって思う」

「……確約されていない幸せを望むなんてどうかしてる。人生は諦めが肝心なの。あたしはもう諦めた。ただそれだけのことよ」

「あなたのそれは諦め続けているというだけでしょ」


 ふつふつと募らせる鬱積とした感情に彼女はついにわたしの方を向いた。その顔には怒気が含まれており目つきを細めてこちらを見てくる。


「そんなに人のことを否定して楽しいわけ⁉ 哀れんでいるんでしょ。慰めている自分がそんなに格好良い? よかったよね、自分よりも下の人間がいて!」


 ひるんではいけないと、わたしは思った。

 彼女のほうを向いて、毅然としたままに告げる。


「死ぬことで救われるなんてバカみたい。死んだらあなたは一生後悔をしたまま死ぬんだよ?」

「結局、あんたには死んだ方がマシだって思えてしまうようなことが起きていないから、そんなことを言えるんでしょ? 恵まれている自覚がないの」

「そんな自覚わからないよ。だってわたしは才能がないから」

「………そう。じゃあ才能があっても無駄になるってところ見せてあげる。あたし、跳躍力は凄いんだよ? 小さい頃からずっと飛んでたからさ──」


 そう言って、彼女はその日──路上じんせいを撥ねた。

 

 彼女は助走をつけずにその場を跳躍する。張り巡らされた有刺鉄線を左手で掴み、痛みなんてものともせずに彼女は左手の腕力だけで超えようとしていた。

 そのまま落下すれば、彼女は幸せなんだろう。


 でも、それは心が満ち足りるような本物の幸せなんかじゃないんだ。

 

 わたしはその場を駆けた。

 今までどんなスタートを切られても自分が納得のいく走りは出来なかった。

 だから、わたしは努力をしていたんだ。

 走って、走って、走って、無意味になった。

 

 ──けれど、無駄ではなかった。

 

 彼女が痛みに耐えて有刺鉄線の先へと進む前に彼女の服を掴む。

 そして、そのまま風に流される紙のように何処かへと飛んでいきそうだった彼女を路上じんせいへと引き戻した。


 一人分の体躯がわたしにのしかかる。命ってこんなにも重たいものなんだ。


「……死なせてよ」

「いやだ、あなたのような才能のある人は死んじゃいけない」


 仰向きのまま互いの鼓動を感じながら空を見上げていた。

 彼女は動かずに、わたしに命を預けて泣いている。


「──じゃあさ、約束しようよ」


 わたしは泣いている彼女へと言った。


「……約束?」

「そう、約束。わたしたち、同じ高校へ行こうよ。それで、あなたは腕が治ったらバスケ部へ、わたしは陸上部へいってさ。それで、もしも未来が幸せじゃなかったら、わたしもあなたと一緒に死んであげる」


 わたしの言葉を聞いて彼女は鼻で笑う。


「なにそれ、あんた才能ないんじゃないの? それにあたしの腕が治らなかったら、あんたも死ぬんだよ?」

「大丈夫だよ」

「なんで?」


 彼女の疑問に笑いながら答える。


「なんか、そんな気がするから」


 彼女──江喰本音は笑って言う。

「あんた、可笑しいよ」

 わたし──志島歌弧は笑って言った。

「いや可笑しくないよ」



 彼女の体重が一気に無くなったような錯覚を覚える。

 それは、彼女がわざとわたしに体重を掛けていたからということに気付くのは、ちょっとあとのことになる。どうやら、彼女も冷静になれば、とても恐ろしいことをしていたのだと理解することができていたようだ。

 

 やっぱり、才能って恐ろしい。


    ◇


 その後、わたしたちは屋上を後にした。このことは誰にも話していない。

 そもそも、こんな話を誰かに出来るわけもなかった。

 だから、これは二人だけの秘密のお話。

 

 わたしは写真に写る彼女の姿を見てふっと微笑んだ。

 タンクトップであるバスケのユニフォームを着て優勝トロフィーを掲げる彼女の名前はわたしの親友である江喰本音だ。

 彼女はとても満面の笑みだというのに、隣にいるのは入賞した賞状を抱えて泣きそうな顔をしている少女だった。

 その子は写真写りの悪い顔で、とっても人様には見せられるようなものではない。だから、この陸上ウェアを着ている少女の名前は秘密にしておこう。

 

 しかし、入賞した賞状とトロフィーか。

 ……やっぱり、才能って恐ろしい。

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