チェンジ
コスギサン
第1話
「すみません。すぐに直します。」
「頼むよ比嘉君、最近ミス多いよ?」
学生時代音楽学校でプロの歌手を志していた俺は、スーツを着て主任に頭を下げていた。
二年目で仕事に慣れ、影を見せ始めた俺のやりたいことはこれじゃない、という思いが俺にミスを誘う。
次席に戻りため息をついた俺にスマホが通知を鳴らす。彼女からだ。
そうだ、この後飯食いに行くんだ...
今日は音楽学校で出会った彼女との三年目の記念日だった。仕事のミスが俺の足首を掴む。重たい足を引きずりながら、俺は彼女の元へ向かった。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、ごめん何だっけ。」
職場で一度ダウンをもらった俺に、この第二ラウンドは重かった。
「なんか、疲れてるね。」
「ごめん、優美...」
昔は会うだけで元気になれたが三年も経てばそんな新鮮さも失くなる。俺は彼女との時間に価値を感じなくなっていた。
「そっか...じゃあ今日はもう、帰ろっか。」
きっと彼女はこの日を楽しみにしていたんだろう。声が下を向いている。しかし申し訳ない気持ちの他によかったと感じてしまう自分を、俺は否定できなかった。
帰ってくるなりベッドに横たわる。疲れを堰き止めていたダムが決壊し、雪崩のように押し寄せる。
顔でも洗うか。俺は再び体を起こした。
毎日同じ時間に出社し、機械的に仕事をこなして退社する。まるで同じ一日を繰り返しているようで日付の感覚を失う。俺に才能があったら今頃プロになって、彼女とも円満にやっていたのだろうか。
1ミリの変化も見つけられないいつもの道へ踏み出す。
そうだ、今日は違う道で帰ろう。ふいにそう思った俺はいつもの住宅街ではなく河川敷を通ることにした。
河川敷には様々な人がいる。散歩をする老人、犬を連れた主婦、ランニングに励むお兄さん。彼らは自分の人生に満足しているのだろうか。この空間に仲間はいるのだろうか。
そんなことを考えていると、風が音を連れてきた。綺麗な音を。誰かが弾き語りをしているらしい。
それはひとつの楽器と感じられるほど美しい音色だった。光に吸い寄せられる蛾のように、俺は空気の振動を追った。
震源地は橋の下。歌っているのは小汚いおじさんだった。おじさんは俺を気にせず歌い続ける。俺はおじさんの音で金縛りになってしまった。
最後の音が川の流れに消えて、止まっていた時間が動き出したように俺の両手は自然とその身を打った。そうだ、俺はこういうのになりたかったのだ。
その日から俺は河川敷を通って帰ることにした。
仕事を終えて河川敷のライブへ向かおうとした時、ポケットが震える。俺に電話をかけてくるのは優美くらいだ。
「もしもし。」
「今電話平気?」
会場へ向かいながら応答する。
「うん、どうしたの。」
記念日から一度も会っていないし連絡も取っていなかった。気づけばもう二週間が経つ。
沈黙。彼女のボールを静かに待った。
「...別れよう。もう無理だよ、私たち。」
少しの間をおいて飛んできたのは、腕が吹き飛びそうな凄まじいストレートだった。ボールを受けたことにも一瞬気づかない、意味が一瞬じゃ理解できない、そんなストレート。
三年間の交際の終わりが電話一本なんて随分寂しいものだ。しかしまあこんなものか、と思いながら、ピッチャーにボールを返した。
「...わかった。」
俺は家族に恵まれなかった。父親の顔は知らないし母親は酒に溺れた。物心ついた時から俺たちを養っていたのは祖父母だった。一人暮らしを始めてからは一度も母と連絡を取っていない。
辛い時はいつも優美がいてくれた。しかしもうその支えもない。俺は独りになってしまった。
河川敷はいつも通りだった。散歩をする老人、犬を連れた主婦、ランニングに励むお兄さん。ただひとつ違うことは、俺が独りになったこと。
おじさんは今日もそこにいてくれた。俺はライブの始まりを待つ。
だがおじさんは空を眺めるばかりでギターを持つ気配がない。
「今日は歌わないんですか?」
辛抱できず俺は尋ねた。おじさんはオレンジを眺めたまま、その口を開く。
「今日はなぁ、俺の命日なんだ。」
俺の命日。意味は分かったが意味は分からなかった。おじさんは幽霊なのだろうか。
「命日って、どういうことですか?」
「俺が忘れられた日さ。血が流れていても俺は死んでるんだ。」
何があったのかおじさんは誰かに忘れられて、それを死んだと表現している。ということらしい。
世間話をしに来たわけじゃない。歌わないならと俺は立ち去ろうとする。
背後からおじさんの声が肩を叩く。
「にぃちゃん、俺の声が欲しいか?」
おじさんはいちいちわかりづらいことを言う。俺にはそれが嫌味に聞こえた。歌声は才能だ。あんたは俺が苦悩し夢を諦めたことなど知る由もないだろう。
「...貰えるもんなら欲しいですよ。」
少し冷たい言い方をしたかもしれない。おじさんの顔が気になって半歩振り返る。
「大切な人に忘れられるとしても、それでも欲しいか?」
大切な人など、もういない。
「ええ、欲しいですね。」
「そうか。じゃあ、やるよ。俺はもう要らない。」
「そうですか、ありがとうございます。」
俺は平坦な感謝を告げた。くだらない。これ以上付き合ってられない。
その時おじさんが初めて腰を上げた。ゆっくりこちらに向かってくる。おじさんは思った以上に小さな人だった。
おじさんは俺と対面する。すると何をするつもりか、おじさんは俺の喉に手を伸ばした。そして優しく、凹凸を撫でる。
「じゃあな、にぃちゃん。久々に人と話せて嬉しかった。」
おじさんは立ち尽くす俺にそう言い残し、ギターも持たずにどこかへ行ってしまった。
一体なんだったのだろう。おじさんが行ったのとは逆の方向に歩きだそうとした時、弦の振動が聞こえた気がした。俺はおじさんのギターに目をやる。
連れていけ、ということだろうか。
夜は無性に寂しくなる。俺は酒でそれを紛らすようになっていた。ヤツらは冷蔵庫で俺に呼ばれるのを待っていて、いつでもその身が空になるまで付き合ってくれる。
ギター、勝手に持ってきちゃったな...
今頃おじさんが暗闇の中でコイツを探していたらどうしようか、なんて考えつつ、ぼうっとギターを眺める。
横からエレキギターの鋭い音が聞こえた。俺はテレビに顔を戻す。流行りのアーティストが生演奏する番組だ。やはりプロは凄い。彼らはいつでもどこでも高水準のパフォーマンスをする。
俺は喋る箱とデュエットすることにした。サビを一緒に口ずさむ。
自分の声に驚いた。俺の声は完璧に音を取ったのだ。色にも自分のそれとは思えないほど深みがあった。学生時代喉から手が出るほど欲した音が、今俺の喉から聞こえる。
にぃちゃん、俺の声が欲しいか?
俺はおじさんの言葉の意味を知る。歌うのに幸せを感じたのは初めてだった。俺は飲みかけの酒も忘れて、一晩中自分の声と戯れた。
俺はこの時、おじさんのもう一つの言葉を忘れていた。
磁石のようにベッドに吸いつこうとする体を引っ張り起こす。眠気を押しやりながら仕事に向かう準備を始める。声が変わっても生活が変わるわけじゃない。
「おはようございまーす。」
自分のデスクに鞄を置く。向かいのデスクに座る同僚の神崎は、挨拶の代わりに違う返事をよこした。
「えっと...中途採用の子?」
おかしい。どいつもこいつもまるで初対面かのような顔をする。職場内ではそこそこ仲の良かった神崎でさえあの反応だ。眠気と戦うので必死だったのに、違和感にも殴られはじめた。そして俺はその違和感の輪郭を掴む。
おじさんに声をもらった俺は、誰からも忘れられてしまったのだ。
データには俺の情報がしっかり残っており、何とか職場の連中に納得してもらえた。勤務二年目の俺は今日から新入社員になった。
帰りに河川敷に来てみた。おじさんの様子を確認するつもりだったが橋の下には誰も居なかった。
ギターを勝手に持ち帰ったことも謝りたかったのに。少しの寂しさをおんぶして、俺は家路を急いだ。
押入れから籠を引っ張り出す。使わない資料はこの中に纏めてある。俺はその中からお目当ての品を探す。
あった。当時作曲の成績はなかなか良く、気に入ったものはいくつか残しておいたのだ。適当なものを手に取り、楽譜の通りにハミングを奏でる。
歌詞はないので鼻歌だがそれでも自分でうっとりしてしまう美しい音だった。この曲はなんだか切ないメロディーだ。
俺は自分の歌を誰かに聞いてほしかった。優美がいればきっと聞いてくれたのに。
どうにか方法はないものかと駅前をうろついていると、路上ライブが目に入った。キタ、あれだ。
俺はさっそく路上ライブについて調べた。路上ライブには許可がいるようだが、場所によっては自由にやっていいようだ。最も近いその場所を調べる。
当然機材も必要となるだろう。マイクにアンプ。人前に立つのだから服装にも気を配りたい。
俺は生き生きしていた。
仕事終わり家電量販店に訪れた。以前なら河川敷へ足を運んだところだが、もうライブはない。
「よくわからんな...」
思わず呟いてしまう。いくつかのアンプが置いてあったが違いが全くわからない。大きさに比例して性能も上がる、というのは何となく分かるが...。マイクに至っては更にさっぱりだ。
結局予算、持ち運べる大きさ、見た目で適当なものを選んだ。初めはとにかくやってみる。これが大切だ。俺は両手に夢を運びながら帰路についた。
初めてのライブはそれはそれは緊張した。歌のレパートリーも少ないし、ギターも始めたばかりで満足には弾けなかった。それでもやってよかったと思っている。観客こそ多くはなかったが何人かは足を止めてくれたし、一曲丸々聴いてくれる人もいた。
学生時代の歌に対する情熱が舞い戻ってきたのを感じると共に、心の中で優美の存在が大きくなっていた。
それからも俺は路上ライブを続けた。少しずつ観客も増えてネットでの拡散もされ始めた。俺はちょっとした有名人になった。
「すみません、ちょっといいですか。」
ライブを終えて機材を片付ける俺に仕事に追われてそうな男が話しかけてきた。同類は雰囲気で分かる。
彼は音楽関係者だった。あなたの歌は魅力がある。歌手になる気はないか。そう言って名刺を渡してきた。所謂"スカウト"というやつだ。
思わぬ幸運に実感が得られぬまま、俺はベッドで名刺を眺める。
歌手。それは学生時代憧れてやまなかった仕事である。今もその気持ちはなくなってはいない。だが俺は今働いている。両立はとてもできないだろう。プロを目指すなら今の仕事は辞めなければならない。
成功しなかったらどうする。辞めてしまったら取り返しがつかない。
「もしもし。比嘉です。この間のお話、頑張ってみようと思います。」
二日間考え、俺はYESと伝えた。本当にやりたいことは何か、自問した答えだ。
それからは働いていた時より忙しくなった。事務所が手配してくれた小さな会場でライブを行ったり、SNSを始めて自分の歌を発信したり。軽いレッスンを受けたり聞いたこともないラジオ番組なんかにも出演した。忙しいが人生で最も充実した時間だった。
二年後には一度のライブで三百人程を集めるようになっていた。三百人が入る会場はライブハウスの中では大きい方である。
誰かに話したかった。誰かに。優美に。この頃になると優美に対して未練があることを分かり始めていた。受け入れるようになった、というのが本当のところかもしれない。
歌手として活動を始めてから自分が作った曲に歌詞をつけた。作詞のセンスはなかったが、自分の言葉で真っ直ぐ歌詞にしてきた。しかしハミングで奏でたいつかの切ないメロディーは、未だそのままだった。これは一度諦めた夢を掴んだこと。大切な人との出会いと別れ。そんな曲にしたかったのだ。まだ想いが形を成していない。まだ言葉にできない。
どれだけ有名になっても、どれだけ想いを歌に乗せても、彼女には届かない。俺はもう忘れられてしまったから。それでもどこかで俺の歌を聞いていてほしかった。
更に季節が巡った。俺の人気は変わらず右肩上がりで、アリーナでライブを行うという学生時代の夢は今や目標に変わった。
今日のライブは初めてホールで行う。千人近い人が俺の歌を聴きに来るのだ。今回は新曲も披露する。ようやくあの曲に言葉を乗せられた。彼女への歌。
曲の順番を確認する。アンコールで歌うものも決めた。今日も楽しむぞ。俺は前を向く。
イントロが流れ出した。照明が一斉に光を放ち、俺の舞台が完成する。そして光のカーテンを、潜る。
ライブも終盤に差し掛かっていた。ここまで順調に進んでいる。喉の機嫌もいい。最後の曲の前に、MCを始める。内容はたわいも無いこと。最近買った家電がどうだとか、そんな話。
もう一つ歯磨き粉を変えた話をしようとした時、客席にメデューサを見た。俺は一瞬で石にされる。偶然か必然か、そこには優美が居たのだ。
永遠の一瞬に囚われた俺を、ポセイドンが彼女の横から現実に引き戻す。男は優美の肩に腕を回したのだ。
そうか、君はもう前に進んだのか。
俺がそれを見て思い出したのは、何故か橋の下で歌うおじさんだった。独りでギターを弾きながら、もう会えない人に向けて歌うおじさん。彼がいたから俺は今ここにいる。気づけば俺はそれを話していた。歯磨き粉はおじさんに食われてしまった。
きっと誰にも伝わっていない。それでもいい。これは今の俺からあの日の俺へ向けた言葉だから。
「最後は新曲を披露しようと思います。」
曲の説明など要らない。水を一口含んでから、おじさんのギターをチューニングする。静かに。静かに。
俺は目を閉じた。おじさんの指が喉を撫でる感触を思い出す。あの時俺は死んでしまった。
ありがとう、おじさん。
おやすみ、俺。
さようなら、優美。
指に優しく力を込める。おじさんの音を鳴る。そして彼女に向けて、俺は歌う。
チェンジ コスギサン @kosugisan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます