58.憂き世も浮き夜も見る月は同じ

 そのまま息絶えてしまうのではないか、と邸内は暫しの間騒然となった。梛も野依から「出ていってくれ」と怒鳴られまでした。

 だが心配は不要だった。

 気を失ってから数刻後には香は意識を取り戻し、心配する野依に「お腹空いた」と言った。慌てて重湯を用意したら、美味しそうにたいらげた。


「物の怪が離れたみたい」


 少女は起き上がった母の姿を見てつぶやいた。


「逆よ」


 梛は志良に向かってつぶやいた。


「あなたの母君は、物の怪じゃないけど…… 何かに『とりつかれて』いないと死んでしまうひとなの」

「よく判りません。どういう意味ですか? 少納言さま」


 聡い少女は問いかける。悪態をつきたくなる様な母親でも、やはり心配している様だ。いい子だ、と梛は思う。香の娘であるのが勿体ないくらいだ。


「判らない方が楽なことよ」


 少女はまだ首を傾げている。



 数ヶ月をかけて、梛の手元にまた幾つかの物語が届けられた。

 まずは源氏の後裔がどの様にして暮らしているのか、を手探りする様な「匂宮」「紅梅」「竹河」の三巻。

 書いている香自身も、何処から切り口を掴んだものかと思いあぐんでいる様で、書きぶりも巻ごとに違っていて、梛をやや戸惑わせた。

 それでもその三巻で何とか方針が決まったと見えて、その後は早かった。

 そして判りやすかった。

 かつての「源氏が栄光へ至る道」の様に決まった形がある訳ではなく、与えられた状況の中でともかく生きていかなくてはならない人々の姿を書くばかりの。

 生き辛い、と考える香の姿が文章から、登場する人々から、そしてその行く末から感じ取れた。


「何より、あの罪の子の名よ」


 薫る君。――かおる君。

 女三宮と衛門督との間に生まれた子は皆からそう呼ばれる。生まれつき身体から良い薫りがするから、と。そしてまた、その罪のことを薄々感じ取りながらも聞けない状況に鬱々としている――


「香さんの書く、薫る君、ね。いっそ露骨でいいわ」


 自分の名代としては。


「呑気ですね、梛さまは」

「お前だってそう変わらないでしょ」


 そう言って、自分のすぐ後に「方便です」とやはり髪を下ろした松野をちらりと見る。

 薫る君と、きょうだいの様に育ち、いつも対抗意識を持って、香を焚きしめる「匂う兵部卿宮」。

 この二人の生きているきらびやかな世界に、ぽん、とやはり一つの出来事が放り込まれる。宇治の八の宮、そして姫君達――

 舞台は宇治。「憂し」に通じる、何処か暗い、人里離れた場所。そこを発端として、誰も救われない物語が始まる。


「本当に、あのひとらしい」


 最後の「夢浮橋」を読んでしまい、その読後感のやはり救いの無さに、梛はいっそすがすがしさすら感じた。

 何せ後半の女主人公は、自殺未遂の後、男や結婚、恋愛というもの全てから逃れるために出家するのだ。


「方便の意味は、伝わったのかしら」

「さあどうでしょう。でもそう思った方が気楽ですよ」


 松野は言う。

 物語は届けられた。しかしそこに文はもうついて来ない。返さなくてはならない文はもう書かないことにしたらしい。それとも「清少納言」はひどい人、と本当に判って送るのをやめたのか。それでも物語は送ってくるのだから不思議だが。

 届けてくる野依の話では、姫君は香に頼み込んで女童として一緒に出仕する様になったという。しかも宮中が気に入って、母親が里に戻る時にも一人で平気で残っている時もあるとか。


「きっとあの子はいい女房になるんじゃないかしら」


 母親よりもっと明るく楽しく立ち回り。違いは早いうちから周囲に判っていた方がいい。


「香さんにとってこの世は『憂き』ものかもしれないけど、志良さんにとっては『浮き』世であって欲しいものだわ」

「どちらであっても、見る月は同じですよ」


 言いながら、せっせと松野は旅支度を始めている。

 梛はしばらく都を離れるつもりだった。そのために家も処分した。残したのは、敷地内に二人が質素に住むには充分な庵だけ。戻ったらそこで松野と二人暮らしのつもりだった。

 行き先は様々だ。寺を巡るも良い。一応出家しているのだから。

 懐かしい物語仲間が結婚して夫と共に行った先を訪ねるのも悪くない。あまり遠くなければだが。

 いやその前に、亡くなった棟世の居た摂津を。東国へ向かったという則光を訪ねるのもいい。息子はどうなっただろう。今なら気楽に会うことができるかもしれない。

 道中で襲われでもしてのたれ死んだら、それはそれで仕方が無い。梛は思う。自分はこの都で充分生きた。

 行成と物語仲間に完成した「思い出づくし」を一部ずつ置いてきた。自分がこの時代に生きてきたという印はこれだけで充分だ。


「ところで松野、私にとってはどっちだと思う?」


 旅立つ日、梛は長いつきあいの乳母子に問いかけた。

 明け方。次第に明るくなって来る空には白く月が残っている。


「何言ってるんですか。梛さまはずっと『浮き世』に生きようとしてきたじゃないですか」

「それは違うわよ」


 何ですか、と松野は眉をひょいと上げる。


「私はこれからもそうやって生きていくのよ」


 梛はそう言うと、あはは、と大きな声を立てて笑った。 

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うきよの月~もしも清少納言と紫式部がメル友だったら~ 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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