4 葉桜を見上げて

 家に戻ると、日は高いがもう寝ることにした。食欲はなく、グラスに水道水をついで口に含んだが飲む気はせずに吐き出した。両親が帰宅する前に部屋に入ってしまおうと風呂だけは済ませて自室に上がる。


 明日の学校で使う教科書をデスクに重ねていると、視界の端に何かがちらと入った。白っぽいもの。空間に視線をさまよわせてから、それが足元に落ちていることに気づいた。花びらだ。白い――いや、薄紅色だ。


 桜、いや、まさか。時期が違う。季節は夏に向かっている。いつか入り込んだ桜の花びらか。つまみ上げたその花びらは瑞々しく、先ほど枝から落ちたかに見える。どん、と内臓が引力に負けそうになる。ふっと息を吐き出す。


 桜ではない。ただの花びらだ。桜ではない。似た花があるのだろう。初夏に咲く花が。それとも花びらではないのかもしれない。花びらに似た何か。桜ではない。人差し指と親指で、その何かをすり潰した。ひりと火に触れたような痛みが走る。指先に赤いものがつく。


 洗面台に駆け込み、手を洗う。鏡を見そうになってやめた。誰とも目を合わす気にはなれない、それが自分でも。


 ――姉ちゃんも同じ運命だよ。


 言葉が私をぶってくる。肩に一撃、腰に、太ももに、膝裏に、足首に。きゅうと息がつまって自分の部屋に逃げて走る。ベッドに転がり布団にもぐる。とたん呼吸が楽になる。急激な眠気に包まれる。誰ともなく、私は「おやすみ」とつぶやいた。静まり返る部屋、すうと鼻から息を吸い、ふぅと口から吐き出した。寝よう。まぶたはばたんと閉じた。


 しゃんしゃんしゃんしゃん……


 それは鳴る鈴が重なり合うのに似た音だ。


 しゃん、しゃん、しゃん、次第に大きくなっていく。


 それから、つんと鼻先をくすぐるような土の匂い。湿っていて、堆肥を含んだふかふかで柔らかい土。さく、さく、と音がする。聞き覚えがある。祖母が庭に穴を掘っていたとき、シャベルが立てていた音だ。


 眠っていた神経が目覚めてきて、脛から下が圧迫されているとわかる。太ももや下腹部も窮屈だ。指先も動かず、二の腕から首にかけてねっとりとまとわりつく重み。背骨の真ん中あたりに、小石のような硬いしこりがあって痛い。身じろぎしたが効果はなく、よけいにあたりが悪くなる。


 さく、さく、とリズミカルに鳴っていた音が止み、ざっと土を踏みしめる音に変わる。誰かが近づいて来る。顔を舐める風に気づき、そこだけが解放されていると知った。けれど視界はぼやけている。耳はくぐもっていたが、足音の振動をキャッチして、心臓がすばやく反応を始める。


 追い詰められたネズミ。いまの私は、きっとその姿に似ている。悲鳴が頭の中で響くが、声は出ない。


 私はまばたきをしている。繰り返す。ぱちぱちと。涙なのか、水中で目を開けた時に似ている。次第にピントが合う。誰かが私を見下ろしている。


「今年は二体も手に入って。葉桜さまはお喜びよ」


 黒い髪と白い肌の丸顔の少女が真っ赤な薄い唇を引き上げて笑っている。ちろちろと長く細い舌が踊るようにのたくった。その顔が引っ込んだ、その先に。


 頭上、芽吹く葉の若草色に、銅色の鈴なりにぶら下がるガクの跡。ひらひらとまぶたに舞い降りた、一枚の花弁。


 それが、私が最後に見た光景。


 ああ、そうか。私はやっと理解した。弟も隣にいるのだろうか。二人とも間に合わなかった、逃げ出す時間はあったのに。そう、私たちが桜になる、満開の桜になる、満開の、満開の……


「バイバイ」


 ざくりと音がして、土が私を埋めた。

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葉桜の君に  竹神チエ @chokorabonbon

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