3 小さな弟は……
「葉太」
肩を引き、こちらを向かせた。彼のあごはこんなに尖っていたか。もっと丸みがあったはず。なのに、やけに鎖骨が目立ち、小さくなっていくはずのシャツがだぼついている。
「あんた、桜に悪さでもした?」
枝を折ったのか、幹に落書きをしたのか。
問い詰めると、葉太はぽかんとした顔を見せたあと、「そんなことするもんか」と頬を膨らませた。
「じゃあ、桜に何をしたわけ。いつから、そんな不気味な夢を見始めた? きっかけは、いつ?」
「い、いつかなんて」
叩きつける口調に、弟は首をすくませる。
「思い出せない。いつからなんてどうでもいいよ。桜が散る前に見つけることが大事なんだ。満開じゃないとダメだって。ハザクラーは牙があって、舌は毒入りのヨダレで真っ赤になってて」
「葉太。どっからが本当で、どっからが妄想なの?」
ハザクラノキミがハザクラーになった瞬間、脱力して、そのあと、シーソーが跳ねあがるみたいに苛立たしくなった。バカなのか、この子は。こちらが真剣さを見せると、急にとんちんかんな態度をとり始める。
「さくらちゃんは面白いって言ったよ」
「何が」
「は、ハザクラー、じゃなくて。いや、でもね。怖い人なんだって、ハザクラノキミ。本当に怖い人なんだ。だから時間がないんだよ。さくらちゃんはね、僕も、姉ちゃんも危険だって言ったよ」
「どうして、私まで」
「僕が姉ちゃんにも、このことを話したよって言ったら、さくらちゃんが、『じゃあ、お姉さんも同じ運命ね』て、そう言ったんだ。ご、ごめん、だって、僕、ひとりじゃあ、どうしたらいいかわからなかったし」
葉太は「はは」と冗談めかす。
「だから、姉ちゃんも真剣になって探したほうがいいんだよ、桜。満開のとってもきれいな桜なんだって。すごくすごくきれいだから、僕たちも嬉しくなるって」
よくわからない。その桜は現実にあるのか。葉太の夢の中で咲くのか。葉太の夢の中でなら、私にどうしろというのか。どの桜も桜子の――いや、ハザクラノキミか――探す桜ではなく、見つけに行こうにも夢の中ではその場を動けず、打つ手はないのに時間だけが削られていく。そうして、私たちは危険なのだと、警告だけはしっかりと伝える桜子……目的がわからない。
「今日はもうさ、寝よう。明日また作戦会議、ね?」
「姉ちゃんも信じてくれる?」
葉太は嬉しいというより、安堵している風で笑う。
「さくらちゃんが困ってんでしょう」
「うん。今日も寝たら会うと思う。また泣くよ、あの子。どうしよう」
どうしよう、か。僕には桜の場所はわからない、ごめんなさい。そう、素直に謝ったら、彼女は納得しないだろうか。ああ、そうなの、なんて諦めて、全部冗談よ、と。だいたい、無理難題を押し付けているのだから。弟を困らせて面白がっているだけということはないか。
弟に謝罪でも勧めようと思ったが、すぐに、逆恨みでもしてきたら困る、刺激しない方がいいと思い直した。相手がどういう存在なのか。あの昔遊んでいた「さくらちゃん」が夢に出てきているのなら、慎重になった方がいいように思う。
「ぐっすり眠ったら、夢は見ないよ」
軽く肩を叩いて声をかけると、葉太は不満そうに首を振った。それでも「おやすみ」と腰を上げ、ゆっくりとした足取りでドア口に向かう。部屋を出て行くとき、ドアに手をかけたまま、「姉ちゃんも夢を見たらいいのに」と不安か、それとも私に対しての不満なのか、そう口にした。
ぱたんと閉じたドアの音が悲しげに鳴って、その夜、私はなかなか寝付けず、眠っても夢はひとつも見なかった。
その後。
なぜか、弟はあの日を境に、一切桜のことを話題にしなくなった。何度か「さくらちゃんは」と話を向けてみたのだが、そのたびに疎ましそうな顔でこちらをにらんでくる。
「うるさいな」「黙っててよ」「もういいってば」
そんな言葉を吐き、私を避けるようになった。
そうして近隣の桜たちが軒並み葉桜になった頃。
「ああ、間に合わなかった」
ぽつり、と落ちた言葉。
ひらひらと舞い落ちる花びらに、ふうと息を吹きかけて、葉太は小さく笑った。その顔はずっと年上に、私よりも父よりも、ずっと老けて見え、目尻には数本の皺を刻んでいるかに映った。
その異様な光景に私はざらりと胸の奥が痛くなったが、散る花を目にして、奇妙な話もこれで本当にけりがついたと解放感のほうが勝ってしまった。
その結果、いま泥沼に落ちた気分でいる。
桜が散ろうと、弟を蝕んだ現象は、まだ終わりではなかった。
むしろ、牙をむいて襲いかかった。
葉太は、あの日、桜の花びらが散るのを見届けたあと、「おやすみ」の言葉を残して、その後、ずっと眠りつづけている。もうひと月経つ。
個室の病室で、血圧などを調べる機械につながれて、電子音が響く中で、すうすうと胸を上下させ穏やかな表情で眠っている、私の小さな弟。
桜の葉は茂り、気温は二十度を超えた。近づく夏、湿度を含んだ風は梅雨の気配を見せる。蛙が喜び歌う、燕は円を描いて飛び、瑞々しい草木は春から夏へと移行していくさなかで色を変えていく。
ほとんどの時間、弟に付きっきりになった母は前髪に白髪が目立つようになり、ぐっと老け込んだ。料理や洗濯は私がするようになり、スーパーで総菜を籠に入れるたびに腹の底に何かが溜まって嫌気がさしてくる。
父は無口になり、喋ったかと思えば、幼子に接するように丁寧でかみ砕いた話し方をする。ありがとうという言葉を必要以上に繰り返して、それでいて私と視線を合わせない。
母は今まで葉太のことを呼び捨てにしていたのに、いつしか「葉ちゃん」と呼ぶようになり、目を細めて震えるようにして笑う。毒づきたくなる喉の奥を閉じて、私は頼りになる姉を演じる。
この日も母は「葉ちゃあん」と泣くような声で眠る弟の頭を撫でていた。青空の下汗ばみながら歩いて向かった病院の一室は、白いはずの壁もシーツも、どこか灰色にくすんでいた。消毒液と甘ったるい腐りかけた果物の匂いがする。
ベッド向こうにある窓は大きく開け放っていて、新緑が競うように繁り、目に明るくて、陽光が笑い声をあげているようだった。そこには生命の息吹が満ち、陰鬱な気持ちに容赦なく突き刺さる。
病院に入ってくる救急車のサイレンの音にはっとして、私は無言のまま母を残し、病室を出た。エレベーターを待つのが苦で、三階分の階段を一気に駆け下りた。途中、中年の看護師と目が合ったが、愛想をする余裕はなく、不評を買うことを覚悟ですぐ横を、肩を突き出して抜けていく。
私に何が出来ただろう。
確かに弟は、姉である私を頼ってきた。だから、夢想に付き合い、話を聞いて、慰めて。共感も示した、笑いかけ、恐怖心を消してあげようと目を見て肩を抱いた。それ以上に何が出来た。何をすべきだったか。そんなことがわかるはずもなく、そもそも、弟の眠りとあの夢が関係している証拠もない。
そうだ。関係ない。
原因不明の眠りに落ちた弟と、あの話は関係ない。
――ああ、間に合わなかった。
いや、関係ない。私は否定する。ただの子どもの夢想。お遊び。弟は私をからかい、面白がり、桜の季節、花が散るまでの時間を楽しんだだけ。
そうしてなぜだか、弟はずっと起きないのだ。
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