2 桜の木の下で

「桜って、どこにあると思う?」


 数日後の夕食どき。葉太は向かいに座る両親に問いかけた。


 葉太はあの奇妙な夢の話にまだこだわっていて、口を開けば「桜、桜」と中毒者のように騒がしく、桜を見つけに出歩き、自作の桜マップまで制作している。


 それでも「さくらちゃん」の助けにはならないようで、どの情報も『満開の桜が見たいの』以上の言葉は引き出せない。『先生、助けて』と泣き、葉太は彼女が見つけ出そうとしている『満開の桜』を見つけ出せずにいる。


「そうだなあ、山にも桜はあるからなあ」


 息子はただの桜マニアになっただけと思っている両親は、不気味だとしか思えない言動も、微笑ましく眺めているだけで呑気なものだ。寝不足で顔色が悪くなり、痩せたように見えるその姿も、二人には、季節の変わり目、成長期、で片付いてしまう。


「桜ってさ、咲いてないと他の木と見分けがつかないよね」


 若竹煮の中から穂先を選んで口に入れた。


「幹が独特だろう」


 父さんが専門家ぶると、その横で母さんも「葉も素敵よ」と桜餅みたいな丸い顔をしてお茶を飲み、にこにこと笑う。葉太は「桜、さくら……」と肩を丸め、たまご焼きにブスブスと箸で穴をあけていた。


 結局、食欲がないのか、弟は夕食をほとんど残すと、いつもは楽しみにしているはずのバラエティ番組も見ずに自分の部屋へと上がっていった。


「あと何日で桜は散るの?」


 葉太は心臓でも痛むのか、胸を押さえながら問いかけてきた。明日の準備を終え、ベッドに横になろうとしているときだ。時刻は十二時を過ぎていて、いつもの弟なら、とっくに寝ている時間である。


「まだ桜にこだわってんの。正直、気味悪いよ。学校でもそんなんだったら、あんた、いじめられるよ」


 最後のメールチェックをして、電気スタンドを消そうと手を伸ばすと、葉太はまだドア口にいて、じっと足元を見つめていた。泣いているのか、じゅるじゅると鼻をすすっている。


「あのさ、桜はまだ散らないって。最近気温下がったし、雨が降る予定もないでしょう? あんたさ、夢にこだわりすぎ。他のこと考えながら寝なよ。食べ放題とか遊園地に行くとか、とにかく楽しいことをさ」


「あほ姉」


 私のアドバイスも、ずびーと鼻水を吸い込むと、葉太はパジャマの袖でグシグシと顔を拭いしかめっ面だ。捨て台詞と共に部屋を出て行くかと思ったが、今回は逃げることもなく、もじもじと躊躇して申し訳なさそうに上目遣いで見てくる。


「おやすみ、葉太」


 ひらりと手を振って、私は横になる。が、スンスンと鼻を鳴らす音は続く。「ねえ、まだ何か話したいことでもあるわけ?」がばりと起き、ベッドの端を叩く。「おいで。さくらちゃんだっけ? まだ桜の木を見つけて欲しいって?」


「うん」


 案外素直にうなずくと、葉太はちょこんと座り背を丸めた。


「もう時間がないんだって」弱々しいため息をつく。

「花びらが散っちゃうとお終いなんだ。でもベンチから動けないから、探しにも行けないし。近所で見つけた桜の木の場所を教えても、さくらちゃん、首を振って『ちがう、ちがう』って」


「わがままね」


「ちがうよぅ。わがままなのはハザクラノキミなんだ、あいつが悪もんなの」


 暗闇で見上げてくる葉太の姿は、いつも以上に幼く小さい。ここ数年は、彼の生意気さが目につき、つい負かしてやろうときつい物言いをすることが増えていたが、この日は辛抱強く葉太の言い分に耳を傾けてやろうと思った。


 ハザクラノキミのことを、葉太は「さくらちゃんのパパみたいな人」と表現した。でも話を聞くうちに、父親というより主人、または彼女が崇拝する対象のようだと感じた。彼女は怯え、葉太に助けを求めてきている……と、弟は理解しているそうで、言葉の端々に正義感のようなものが見え隠れする。


「どうしても満開の桜が必要なんだって」葉太は暗闇の中でもわかるほど、どよーんと陰を背に負うとさらに体を丸めてひざを抱えた。そうして、「はああ。前はもっと楽しく遊んでたのになあ」とつぶやく。


「前って?」


 反応すると、葉太は肩をはね上げた。ぱっと目が合ったあと視線をそらして、「いや、前は昔のことで、もうちがくて、昔は前のことで、いまはなくて、昔」と意味不明なことを口走る。明らかに動揺している。


「わかった、わかった」


「べつに、何も。何もないけど、べつに」


「はいはい。それで、さくらちゃんとは」


 と、私は笑みを浮かべていた顔を強張らせた。ひり、と空気が張りつめる。さくらちゃん。そう、あのさくらちゃんに違いない。


 犬の名前にもよくある、ありふれた名前なので、特に記憶と関連付けていなかったが、前にも葉太が「さくらちゃん、さくらちゃん」としきりに口にしていた時期がある。四年くらい前か。弟が小学校入学前の春休みだ。


 当時、山奥にある祖父母の家の近くに、一本の桜の大木があって、春になるとその下でお花見をよくしていた。桜は祖父母が若い時からあるもので、幹は太く、見上げても先が見えないほど高い立派なものだ。


 あの年、春休みに祖父母の家に姉弟だけで数泊していて、弟はその桜の下で、「さくらちゃん」という可愛い女の子と会い、毎日「かくれんぼをした」だの「学校ごっこをした」だの、きゃいきゃいと楽しそうに話していた。


 大人たちは近所に「さくら」の名前の子はいないため、弟が空想の友達を作って遊んでいると思っていた。でも、わたしは弟の空想力の限界を知っていたので、誰かは確かにいて、その子と遊んでいるのだろうと考えていた。


 しかし、偶然、桜の木の下で走り回る弟を見つけたとき、誰もいないことを知った。いや、誰かはいたのだ。ただ、私にはその姿が見えなかった。


 葉太は無邪気に笑っていた。待てー、と鬼ごっこ中のようで、幹の周りをくるくると駆けている。足音は一つ……ではない。弟の近くには、きっと同じ年頃の子がいる、気配を感じる。


 二人が土を蹴るざっざという音が耳の奥に響き、ぞわりと地から這いあがる恐怖。いる。葉太と同じように、私もその姿を目で追えると思った。細やかな動作は見えなくとも、笑い、走り、転げまわるように遊ぶ姿が春の始まりを告げる息吹の中でうごめいている。


「葉太、帰ろう」


 かけた声は、思いのほか落ち着いていた。その自分の声に励まされて、弟に近づき手首をつかみ引き寄せる。


「この人、ねーちゃん」


 葉太は私を指さして、誰かに紹介する。


「あのね」と彼は屈託なく私に笑いかけ、

「きょうはぼく、がっこのせんせーなんだ。あきたようた先生で、さくらこはがっきゅーいいんちょうです。きりーつ、れい、ちゃくせき」と、先生になりきっている。


 ぺこりと、腕を捕まれた恰好のまま身体を斜めに吊られておじぎをする、まるで下手な操り人形。周囲の木々がざわざわと葉を揺らす。その音が子供の笑い声のように騒ぐ。拍手か、それとも私への警告か。弟は受け入れられ、私は排除されていると感じた。爽やかにも聞こえる山々の葉擦れの音が、雨粒のように肩を打ちつける。


「葉太、帰るよ。ばあちゃんがおはぎ食べようって」


「おはぎ、きらい。ぼく、まだ」


「いいから、行くよ」


 思わず、きっ、と葉太の視線の先をにらみつけた。雑草の生える地面、たんぽぽとホトケノザが目立つその上にいるはずの子が、たじろぎもせずに笑ったような気がした。


 気圧される前にと、「やだー」と身じろぎする弟を引きずって、祖父母の家に急いだ。一歩一歩大股に、草木の満ちる清涼な匂いから、古臭いような、ホコリと煮炊きの匂いがする祖父母の家に近づく。背を追ってくる何者かの気配を振り払い、急ぎ駆け足になる。


「ばいばーい、ばいばーい」と名残惜しそうに手を振る葉太の姿が不気味で、玄関についた瞬間ばしりと頭を叩いた。そのとき運悪く祖母に見つかり、適当にごまかそうと焦った――そんな気まずい感情のことまで。


 はっきり、思い出した。


 弟は。


 また、あの「さくら」に魅入られているのだろうか。

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