葉桜の君に 

竹神チエ

1 奇妙な夢

 弟の葉太が奇妙な話をするようになったのは、桜がそろそろ見頃を迎えようとしているときだった。


「姉ちゃん、満開の桜はどこで見つかる?」


 台所。シンクに寄りかかり、のどを潤そうとグラスに口をつけたところで捕まった。葉太は不安と苛立ちの混ざった表情をして私を見上げてくる。七つ年下の弟は、新学期で小学校四年生になる。絆創膏を貼ったひざが目立つ足で立ちふさがる姿は、やや滑稽でもあり疎ましくもある。


「桜? そんなの、あちこちで咲いてるでしょ」


 いたって普通の反応は彼をいっそう不安と苛立ちの中に突き落としたらしく、「姉ちゃん!」と葉太は声を強めて詰め寄る。「普通の桜じゃダメなんだ。全部違うって言うんだ」


 そうして唐突に彼は、最近見つづけているという夢の内容を語った。


 葉太は広々とした公園で誰かを待っている。それは担任をしているクラスの生徒だ。名前もわかっている。春川桜子。彼はここでは大人になり、高校の先生をしている。公園はベンチだけがあり、春風がふわりふわりと踊るように吹いている。


「しゃんしゃんって耳の中で音がするんだ。たくさんの鈴が集まった音。その音が合図なんだよ、だから……」


 葉太は声をひそめた。おのずからこちらも身をかがめ、視線を合わせる。


「来た、て顔を向けると」


 もう目の前にいる。


「さくらちゃんはね、姉ちゃんより、背が少しだけ低いよ。ぱっつん前髪のおかっぱ。ちょっとおばあちゃんちにある人形に似てる。ほら、ガラスケースの中で着物を着てる人形があるだろ。あの子にそっくりで、でも制服は姉ちゃんと同じで、紺と白のセーラーだ。スカートはここまである」


 葉太はひざ下あたりを手で叩く。


「ぼくたちがいる公園にはね、たくさんのたんぽぽが咲いてるんだ」


「たんぽぽが?」


「うん。ベンチの下にも、ずうっと向こうにも、たっくさん」


 見渡す限りたんぽぽが咲く光景に、ベンチに座っている葉太は駆け出したい気分になる。一方、彼女――春川桜子のほうは陰鬱な顔をして、たんぽぽには見向きもしない。俯きがちに視線を下げ、葉太の隣に腰を下ろすと、あとはその場を動かない。


「ぼくね、たんぽぽの茎で笛を作ろうと思ったんだ。ブーと鳴るやつ。でもたんぽぽを採ろうとすると、さくらちゃんが嫌がってさ。それで『ああ、いまは先生だった。笛なんか作らないや』と思い出して、ぴんと背筋を伸ばして座る」


 さくらちゃんは、と弟は一度口にしたあと、「いや、先生だから、春川さんと呼ぶことになってるんだった」と大きく首を振って否定した。


 春川桜子は葉太に『満開の桜が見たい』とねだる。しかし周囲にはたんぽぽが咲き乱れるのみ。この場を離れて探しに行こうとするが、桜子は承知しない。かたくなに『満開の桜が見たい』と繰り返すばかり。次第に困り果て、口ごもる葉太に、桜子は涙を見せる。そうして『ひどい、ひどい。先生なのに助けてくれない』と彼をなじると立ち上がり――


「びゅんと風といっしょに走って行く。『待って』とあとを追いかけようとすると、今度はくるくるくるって地面が回転して気持ち悪くなる。はっと目が覚めると朝になってて」


 繰り返し、そんな夢を見る。


 もう一週間は経つ。


「さくらちゃんはね、どうしても満開の桜が必要なんだって。見つけないと、ハザクラノキミに叱られて、ひどい目にあう。ハザクラノキミは、強大な力を持っていて、ぼくだってどうなるかわからないって。もうあまり時間がないみたいなんだ」


「ハザクラノキミ……?」


 ハザクラ……葉桜のきみ……キミは君、だろうか?


 平安時代の貴公子像がふいに浮かんで、思わず笑みを漏らすと、目ざとく気づいた葉太は声を尖らせる。


「さくらちゃんは本当に怖がってるんだ。ハザクラノキミはひどい怪物で、あの子を殺すのかもしれない」


「へえ、そう」


「バカにしてるだろ。姉ちゃんは人が死んでも笑うんだね。僕はそんなひどい奴じゃないから、さくらちゃんを助けてあげるんだ。でも」


 と、急に怒りの毒気を抜き、一瞬にして暗い顔をしてうつむく。


「さくらちゃんが……ああもう、春川さんが、行っちゃったあとは目が覚めて終わりだから、ぼくは自分が公園にいると気づいたらすぐ、どこかに桜の木はないか探そうと思って急ぐんだ。いつもベンチに座っているところからスタートになるからね。けど立ち上がって走りだそうとした瞬間、しゃんしゃんしゃん……て」


 春川桜子がやって来て『満開の桜が見たいの』と言い、助けてとひとしきり訴えると、最後は泣き始め、あっという間に背を向けて走り去る。


 どうやら彼女が探している桜の木は特別なものらしく、なおかつ、満開にこだわりがあるようで、彼女の焦りだけは徐々に激しさを増して葉太を追い詰めていく。困惑のなか、とうとう姉に相談しようと思ったとのことだ。しかしその危機感も私には浸透せず、ただ疎ましさが募るばかり。


「早くしないと散っちゃうよ。さくらちゃんが探しているのは満開の桜なんだよ。もう時間がない。急がないと、あの子、ハザクラノキミから罰を受けるんだって」


 姉ちゃん姉ちゃん、と服をつかんで引っ張る。購入したばかりのカットソーが伸びることが気になり、私は弟の細い肩をつかむと強引に引き離した。


「夢の中の話でしょうが。さっき昼寝でもしてたの? 寝ぼけてんのね」


 おやつでも勧めたら機嫌が良くなるだろうか。このうるさい弟をどうやって追い払おうかと思案していると、葉太はすべてを見透かしたような目をして口をゆがめた。


「姉ちゃんはバカだ。あほオンナ。さくらちゃんはいるんだ。僕の」


 トントン、と生意気な顔をして指先で頭をつつく。


「僕の頭の中に、て、てれぱしんで頼んできてる。ハザクラノキミは僕らのことも食べに来るぞ。わかるんだ、早く満開の桜の木を見つけないと、とんでもないことになる」


「あんたね」


 右手を振りあげ、足を踏み出しかけたところ、それを見てとった弟は、「おならしてやる」とわけのわからないことを言いながら台所を出、廊下を滑るように走って行った。

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