第2話 川帰り


「ねえ、」

「……」

「まだ怒ってる?」


 歩けば30分もかかる駅から河原までの道をバスを使ってやり過ごし、二人は帰りの電車に乗っていた。互いに無言のままの帰り道についに耐え切れず、茶色は長髪に話しかけた。


「ごめんって」

「怒ってない」

「……」

「疲れただけだよ、」

「そう?」

「そう、」

「そっか」

「……」


 夕方のこの時間、上り方面へ向かう電車にはそんなに人がいない。茶色は少し眠くなってきていた。自分から誘っておいて寝るのもなんだかな、と思いつつも、座席の振動に合わせて頭が上下している。


「…後悔してないよ」

「…え?」

 長髪がいきなりぽそっと呟いたので、茶色は危うく聞き逃しそうになった。

「私は」

「…うん」

「だってもう引き返せないもん」

「そう、だね…」



 長髪は少し前に高校を辞めていた。歌手になるという夢を追いかけるために。

 茶色はそんな彼女のことを気にして、学校をたまにサボって家に行っては、引きこもりがちな長髪のことをこうして外に連れ出したりしていた。

 夕暮れのオレンジ色に染まる高架の上を電車は滑らかに走っている。

 やがて茶色が降りる駅に着いた。


「じゃあ、またね」

「うん、」


 そういうと茶色は電車を降りた。長髪もそれに続いて降りた。

 オレンジ色の電車のドアが閉まり、ガタンゴトンと行ってしまう。

 茶色は長髪の顔を見る。その顔は5%にも90%にも見えるような、なんだか不思議な表情だった。


「…行っちゃったよ?」

「どうせ次のがすぐ来るよ」

「そっか」


 ホームにいる人たちがエスカレーターを降りている。

 二人はベンチに座った。再び無言が訪れる。


「……」

「……さて、」


 二人でベンチに座っても、茶色にはかける言葉が見つからなかった。

 長髪が学校を辞めると打ち明けてきた時でさえ、どこかでそれを予感していて、困惑するようなことはなかった。しかし学校を辞めてからの彼女はなんだか掴み所のない表情をすることがある。どこか遠くを見て何かを考えている風で、ただぼんやりしているだけのような…


「……」

「何?」

「いや…」


 茶色が長髪を眺めていると、長髪がまっすぐ見返してくる。彼女にしては珍しいことだ。その黒い大きな瞳には反射した景色が映っているだけで、その奥の真意は分からない。

 ……分からないのも当然だ、と茶色は思った。

 学生という身分を捨てて先の見えない道を歩いていくことなんて、自分にはできないのだから。

 中学生のころから知っている顔が、今は知らない人みたいに見えている。

 クラスメイト達の中には彼女のことを悪く言う生徒もいる。先のことを考えていないバカ者だっていう気持ちも、正直わかる。何を生き急いでいるんだって、彼女の親が言う気持ちもわかる。


「バカだからなあ…」

「…はあ?」


 今度は間違いなく70%より上になりそうな彼女の顔を見ながら、しかし茶色は思った。

 そんな意見に同意するわけにはいかない。

 彼女のことは分からないだろう。誰にも、分からない。

 でもそれは、彼女を否定するってことではないんだ。

 ―――決して、絶対に。


 気が付くと怒った長髪が電車に乗り込もうとしているので、茶色は慌ててその背中に呼び掛けた。


「また家に行くからね!」

「…次は学校終わってから来なよ、」


 そう言うとあっさり行ってしまった。


 駅から滑り出した電車は夕暮れとは反対へ向かっていく。

 深い夜を予感させる藍色の方へ。

 誰に何を言われようが、彼女はもう止まることはないだろう。

 紺色のスクールバッグからイヤフォンを取り出し、スマートフォンに取り付ける。そのまま画面の三角のボタンを押そうとして、茶色はふと手を止めた。

 昔は楽しく聴けたはずの彼女の歌が、今はこんなにも重く感じている。

 昔は楽しく語り合えたはずの将来のことについて、こんなにも気が重くなってしまうのはなぜだろうか。だんだん具体的になっていくにつれ、楽しくなくなっていく。みんな真顔になっていく…。

 イヤフォンを肩にかけたままエスカレーターを下って、改札を通り抜けた。ほとんど沈みかけた夕暮れが、それでも空を染めている。そういえば長髪と初めて話した時もこんな空だった気がする、と茶色は思い出していた。


 ……

 ……ふん、

 そんなこと言ったってもうどうしようもないんだ。

 誰に何を言われようがもう止まれやしないんだから。


 それに、確かに長髪の決断は同年代の自分たちからすれば異質で、どうしたって無謀に見えるだろう。でもそれはいつか誰もが通る道なんじゃないかな。

 学生だって学生が終われば自分の頭で進路を決めて、自分の足で立って歩いて行かなきゃいけない。誰だって穏やかな場所に居座り続けることはできない。誰だって、勇敢で無謀な彼女と同じように、先の見えない恐怖の中を手探りで進んでいかなきゃいけないんだ。みんなうすうす感づいてる、いつか天国じゃない時が必ず来る。

 そしてそんな時には彼女の歌が、きっと胸に響くだろう。今はほとんど知られていなくても、いつかすごい歌手になるのかもしれないと、茶色は本気で考えていた。


 再生ボタンを押すまでが大変なんだよね、とつぶやくと、彼女は三角に触れた。

 さんざん聴いたはずのギターの音が今さら新鮮に感じる。

 ―――大丈夫、大丈夫




 『でも、万が一だけど、もしも、

 もしもうまくいかなかったとしても大丈夫。

 失敗しようが成功しようがどっちでもいい。どっちでもいい。だって、

 どんな苦労だって糧にして戦い続けるあなたの、

 この歌が響いているこの場所こそが、

 私たちの居場所なんだから。


 歌のない天国なんて、いらないんだ』




 彼女の歌がいつも教えてくれること。

 そういってくれるあなたの歌が大好きなんだって、いつも伝えられない。

 もう引き返せない、という長髪の言葉が茶色の頭の中でぐるぐる回っていた。

 やっぱり「もしも、」なんてとても口には出せないんだ。

 だからせめて、こうして一緒にいることで少しでもそれが伝わればいいな―――


「うーん…」


 次はいったいどこに連れ出してやろうか、そう考えながら茶色は家路についた。

 少し冷たくなった空気が、夕闇の藍色と一緒に彼女のことも包んでいた。



 



 

 

  




 

 





 

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茶色と長髪 きつね月 @ywrkywrk

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