茶色と長髪

きつね月

第1話 川下り


 駅から30分ほど歩いた、都会まで続く大きな川の上流。

 彼女たちは堤防の上の遊歩道を歩いていた。

 一人は長い髪をしていて、春の日射しが直接当たるのが嫌で日陰のところを選んで歩いていたのだが、遊歩道には日陰がほとんどないので嫌そうな顔をしている。

 もう一人は背の高い茶色のショートヘアーで、日射しのことなんか気にしないでずんずん歩いていく。ちょっと伸びた触覚がゆらゆら揺れている。


「ねえ、」


 長い髪の方が茶色っぽい髪の方に話しかけたが、茶色はそれに答えずに川の方へ降りて行ってしまったので、長い髪の方もそれについて行った。

 下に降りると、河川敷は川が見えなくなるほど奥まで広がっていた。緑色の芝生、砂浜みたいになっている地面を歩いていく。やがて小さな池に架かっている橋を渡っていると、子供が親と遊んでいる景色が見える。透明な青空がどこまでも透き通っている。


「ねえってば」

「なに?」


 もう一度長髪が声をかけると、茶色はようやくそれに答えた。


「こんな時間に制服を着てこんなところを歩いていたら、怒られるんじゃないの?」

「さあ、」

「さあって…」


 私は怒られたことないけど、と言うと、橋を渡り切ってどんどん奥まで行ってしまう。長髪も慌ててそれを追いかけた。

 川に近づくほど、大きな石が増えて歩きにくくなってくる。水量が多いときはこの辺りまで水が流れてくるんだろう。石は川の流れで磨かれていて、つやつやとしていてますます歩きにくい。彼女たちはゆっくり、ゆっくり川に近づいて行った。


 やがて二人は川の岸辺までたどり着いた。

 川は静かに流れていて、海のような磯の匂いが鼻を突いた。対岸はコンクリートで舗装されていて、寝転がって休んでいる人が見える。


「穏やかだね、」


 茶色が青空を見上げながら言った。長髪は何も答えなかった。

 茶色は怒っているのかなと思って長髪の顔を見たが、だいたい55%ぐらいだったので気にしないことにした。

 55%というのは茶色が勝手に考えた数値で、長髪の眉が吊り上がっていくにつれ数値も増えていく。これが70%を超えると怒り状態になったという事で、80より上に行ってしまうと危険だ。一度だけ90を超えてしまったことがあったが、茶色はその時のことをよく覚えていなかった。

 まあ、55%ぐらいなら大丈夫、と彼女はそのまま続けた。


「どう?」

「どうって、何が?」

「まるで天国みたいじゃないかな、ここは」

「そうかな、まあ、確かに穏やかだけど…」

「たまにはこういうのもいいよね、」

「そう、かな」


 いつもの裏表のない笑顔で茶色が話すので、長髪はなんとなく納得することにした。

 二人は周りから安定感のある石を見つけだして座って、とりとめのない話を始めた。最近ハマっているゲームの話や茶色の家で飼っている猫の話、新発売の缶コーヒーが美味しくなかった、やっぱり人工甘味料はダメだ。だけど自販機に並んでる段階ではそれが入ってるかわからないんだよなあ、なんていう本当にどうでもいい話ばかりだったが、二人はそれなりに盛り上がっていた。


 やがて話すこともなくなると、茶色は足元にある石を一つ拾って川の中に投げ込んだ。ぽちゃん、という音がして石が川の中に落ちた。茶色は満足げに振り向いて言った。


「私はさ、天国にはさ、歌なんかいらないんじゃないかなって思うんだよね。」

「そう?」

「そうだよ、だって満たされているんだもん。」


 後ろの方で子供の遊ぶ声が聞こえている。あまり遠くへ行かないで、とその親が子供を呼ぶ声がそれに続く。

 茶色は長髪の顔を見る。その数値がさっきと変わっていないことを確認して、さらに続けた。


「こんなにいい天気で、風が暖かくて。緑の芝生に花まで咲いてるんだよ、黄色とか、ピンクとか紫とか、いろんな色のさ。その色がいちいちはっきり見える。花だけじゃないよ、青空だって、ふわふわ浮かんでいる白い雲だって、さらさら光ってる川面だって、まるで嘘みたいに穏やかだ。だからさ、こんなところに遊びに来ている人たちは、みんな満たされているように見えるんだ。」

「……。」

「本当は違ったとしてもさ。とにかく、この場所に歌はいらない。わざわざ叫んだりする必要がない。そんな天国が確かにこの世に存在するってことさ。それも駅からたった30分ほどの所に。」

「……。」

「私はたまにここに来るんだけどね、最初に来たときは驚いたんだよ。みんな穏やかな顔しているんだもん。なんだか私の中からも毒気が抜かれていくような感じがしてね、これはもう、ぜひ君を連れてきてやらなきゃいけないって思ったんだ。」

「どうして?」

「うーん…」


 茶色は少し悩んだような顔を見せた後、例の笑顔でこう言った。


「力が抜けるかなーって。」

「力が…」


 長髪は顔を上げて茶色の方を見た。髪の色と同じ茶色がかった瞳。それがまっすぐこっちを見ていたので、ああ、本気なんだなあ、と思った。


「…それだけ?」

「え?うん、」

「それだけのために、わざわざ30分も日光の下を歩かせて、行先も教えてくれないでこんなところまで連れてきたんだ。」

「…あれ、君、もしかして怒ってる?」

「わからない?」

「え…」


 どうやら茶色はわかっていないようだった。

 数値がどうのと意味の分からないことを言っていたので、長髪はそれを無視して先に帰ることにした。立ち上がってズボンに着いた砂をぽんぽんと払い、来た道を引き返す。その後ろを茶色が慌てて付いてくる。

 しばらく二人は無言で歩き続けた。空は快晴の真っ青のままで、穏やかな空気は変わらず彼女たちを包んでいた。









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