第9話

海のトンネルで、揺らめく光の塊の下で、魚の影を避けながら遊んだ。

誰にも言うことのないまま、私は高校生になった。


右側一番後ろの席、あいもかわらず一人揺れるバスの背に寄り添って、窓から差し込む朝の光に目を細める。

窓から見える景色は朝露を反射させて光る緑ばかりで、小学生の時から変わらない。

だけど、酷かったバスの揺れはもうない。

舗装された平らな道を滑るように走るバスに、砂利道を蹴散らして石を飛ばす音はもうしない。

斜め前の席から、女性が首が座ったばかりのような赤ちゃんを膝に乗せてあやす声。

前方の席から、新聞を捲る紙の音。

おじさんの咳払い。

次の停車駅をお知らせする車内アナウンス。

緩やかに徐行してバス停の看板の前で停まるバスは、壊れそうな音も振動もない。

ふと目を向けた前列の後ろに網ポケットはついていない。

停車用のボタンがあるだけだった。



あの日、目を覚ますとバスは停車していて、車内から人が降りるたびに左右に揺れていた。学校に着いていた。

教室に着いたら友達に確認したいことがあった。

考えながら歩いていたらもう教室に着いて、自分の席に座る前に、それを聞かなくてもわかってしまった。

転校生なんて、いない。

小さな小さな小学校では、学年関係なく誰それが怪我したとか、誰を好きとか、新しい先生が来るとか、ほんの些細なことで教室中がその話題で溢れ返る。

誰も彼もが、いつも通りで変わらぬ朝の時間だった。

帰りのバスに乗って、友達がみんな先に降りてバスの中は私だけになるまで、いつもと変わらない生活をした。

朝と同じようにトンネルを通る。

だけどそこにあるのはいつも通りの暗闇。

一直線のトンネルは出口も入口も見えるのに、光も魚の影も見えない。

そうして難なく抜けたトンネルの出口にも目を凝らす。

いつも通り、そこには誰もいなかった。


そうやって何ヶ月も、朝も夜も神経を尖らせてトンネルを通り続けた。

なのに一度も、あの日の光景の片鱗も見つけることは出来なかった。

そのうち、トンネルの取り壊しと道路の舗装が始まった。

新しい道路が完成した頃、もう私はあの男の子と同じくらいまで背が伸びていた。

併せて小さな古い通学用バスは廃止され、公共のバスが家から学校まで走るようになった。

どうやら道の舗装もトンネルの取り壊しも、きっかけは私の兄なのだと噂で聞いた。

行方不明者のままいまだ見つからない、そんな子供が増えないようにと。

それでも、あの海を探していた。

誰にも話すことなく、中学生なっても変わらず朝と夜バスに揺られながら探していた。




もう一度窓の外に目を向ける。

高校生になっても、あの日からの癖は治らない。

目を凝らしていれば、魚の影がゆらめくのを見つけられるかもしれないと。

もう一度あの場所に行けると、高校生になっても私は確信していた。

あの朝から、網ポケットに差し込んでいたあの写真がなくなっていた。

私が唯一置いていた兄との写真だけが、あの日から見つからない。

捨てられたとは思えない。

当時いくら私をからかうクラスの男の子達でさえ、私の兄の話だけは腫れ物のように触れていなかったから、きっといたずらではない。

いくら探しても見つからないから気付いたのだ。

あの日、あの男の子が持っていったのだと。


バスはまた停留所へ停まって、人を飲み込んで、同じだけ吐き出す。

次の停留所で同じ合唱部の友達が乗ってくる。

今日の放課後の部活の内容を相談しなくてはいけない。

隣に放っていたカバンから、青色のファイルを取り出した。

楽譜が詰め込まれて重くなったファイルを、挟み込まれている栞を頼りに開く。

魚型の黒い紙を、パウチしただけの栞。

歌う楽しさも、本から知識を吸い上げることも、今となっては何一つ恥じることではなくなっていた。

否定されるばかりではないこと。

万人に肯定されることはないけど、温かい言葉や応援を与えてくれることがあるということ。

やりたいことをやるのは、、言いたいことを言うのは、悪いことでないということ。

あの日を境目に、自分を見せることはもう怖いことではなくなっていた。



手がかりも方法も何もない。

それでも私は、もう一度あの海の中にいつか辿り着ける。

だって案内する魚がいる。

持っていかれてしまった写真を取り返す、という名目もある。

何より彼は言い残してくれた。

「どこにもいかない」と。

それがいつになるのかは全くわからない。だけど。

いつあの場所へ辿り着いたとしても、きっと彼は私より二つ歳を重ねた姿で、手を引いてくれる。

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乾涸びたバスひとつ 小夜華 @soyoka517

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