第8話
やがてぼんやりと、大きな塊が見えてきた。
バスだ。
その輪郭がはっきりとすればする程に安心する。
ぱっと急に、僅かながら目の前を泳いでいた魚の影達がいなくなった。
思わず立ち止まって振り返る。
気付かぬうちに境目を越えていた。
だけど、境目などもうわからないほどに、泳ぐ魚の影はほとんどいなくなっていた。
「ちゃんと着いたでしょ?さあ、バスに乗ろう。」
ありがとう、男の子はここまで案内してくれた魚の影にお礼を告げた。
同じようにありがとうと言ってみる。
すると、魚の影は急に前に泳ぐのではなく、ゆっくり降下し始めた。
私の目線と同じ高さを泳いでいたそれは足下まで降下すると、ぺたりと地面に張り付いてしまった。
ぴくりとも動かない様子は、夏祭りで兄と掬ってすぐに動かなくなった金魚を連想させた。
「…死んじゃったの?」
「ううん、お休みしているだけ。」
そう言って男の子は地面に張り付いた、触れられないはずの魚に触れて拾う。
拾い上げたその手にあったのは、立体的な暗闇の塊ではなくなっていた。
黒い画用紙を切り抜いたような、ぺらぺらの魚型の何か。
「しばらくお休みするけど、いつでもこうやってちゃんと来る時も帰る時も案内してくれる。これ、あげるね。」
そう言って男の子は私に魚型のそれを渡した。
恐る恐る受け取るそれは、やっぱり魚型の紙でしかなくなっていた。
折れないよう、丁寧にシャツの胸ポケットに仕舞い込む。
いつもせーので乗り込むバスは、今日は先に乗った男の子が手を引いてくれたからスムーズに乗れた。
相変わらず運転席には誰もいない。
着いたはいいけど、誰が動かすのだろう?
だけど、なんとなく大丈夫なような気がしていた。
もう、男の子が迷わず行動するのなら大丈夫なのだと思える程に、信頼していた。
いつものように右側の一番後ろ席に座る。
今度は二つのランドセルを奥にやって、二人並んで横に座った。
よく見ると2つのランドセルには色違いの同じキーホルダーがついていた。
「学校、嫌なことあったらこれを見たら一人じゃないって思い出せるかな。」
そう言って渡してくれたのは、今はいない大好きな人。
きっとこの時点で、私は気付いていた。
それでも口にすることはしなかった。
口にすることで、今が壊れてしまう方が怖かったから。
バスの中は、私達の呼吸の音だけがしている。
もう少しで全て消えてしまう光の塊を、フロントガラス越しにぼんやり眺めていた。
「…それは、君の?」
すっと沈黙を割いて、男の子が前列の網ポケット指差す。
何百回と見た写真が、いつものように差し込んである。
「そう。私と、お兄ちゃん。」
「君のお兄ちゃん?」
「そう。大好きな、優しいお兄ちゃんなの。」
男の子はそれ以上何も聞かなかった。
友達のように、いつの写真なの?とも、お兄ちゃん見つかったの?とも、まだ持っているの?とも、言わずに。
「いい写真だね。」
とだけ言って、にっこり笑った。
急に、大きな音をたててバスが動いて、驚きに飛び上がる。
今日三回目のバスが動き出す音と揺れ。
フロントガラスの先には、もう光の塊は見えなかった。
ゆっくりとバスは動き出す。
揺れる窓から見える外には、いつものように暗闇があるだけ。
魚の影は一匹も見えなかった。
いつもよりゆっくりゆっくり進むバスが心地良い。
友達と一緒だったら気まずくなってしまうよう沈黙すらも、心地良い。
「眠くなったんだね。もたれて眠ってもいいよ。」
うとうとし始めていた訳でもないのに、男の子はそう言った。
だけど、その声を聞いてから急に目蓋が重くなってきた。
元から眠かったのか、それともその低い声に安心してそうなったのか。
男の子の方に身体を預けると、丁度男の子の肩に頭を載せられた。
触れる肩は、ずっと繋いでいた手と同じように暖かくもなければ冷たくもない。
シャツ越しに伝わる人の熱はない。
だけど、安心する肩だった。
一気に眠気に襲われて、目を開けていられなくなる。
開けても閉じても変わらない程の暗闇と、バスの揺れと、なぜかわからないが安心する肩。どこか懐かしい匂い。
眠ってしまう。
だけど、もう少しお話ししていたい。
回らなくなりつある頭と、重くなる口に必死に対抗して言葉を紡ぐ。
「明日も、このバスに乗っていたらここに着くのかな。」
「そうだといいね。」
「あなたは、何年生に転入するの?私、会いにいくから…。」
「僕は…。」
「明日も、同じ場所から、バスに乗る…?」
「…。」
「ねえ、また、一緒に、遊んでくれる…」
「…。」
「…消えたり、しない、よね…?」
「…。」
途中から、意識の間を行ったり来たりしていて、全てが曖昧になっていた。
ちゃんと質問できていたのか。
何を男の子に問うたのか。
どんな答えを口にしていたのか。
私の問いに答えていたのか。
全てが確かではなくなる。
だけど、最後に聞こえた男の子の言葉だけはちゃんと聞き取れた。
ちゃんとその言葉を聞き取れたから、安心したから、意識を手放してしまった。
「どこにもいかないよ。」と。
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