葉桜の君に<筆致は物語を超えるか>企画参加第四弾!
れなれな(水木レナ)
葉桜の君に
――望まれない子は、産まれてくるべきではなかったのか。
そして、産まれてきてはいけない子ならば、なぜ……
桜子十九歳。
彼女は悩みのただ中にいた。
「ゴムなしでしたい」
二つ上の安吾は、最初から、避妊をしてくれなかった。
本人が言うことには、避妊をしないということは、桜子と結婚してもいいと思う、そういうつもりだからなのだという。
「オレを疑うのか。信じてもいない男に抱かれる女なのか」
安吾は恋人としては楽しい相手ではあったが、時折厳しく人を追いつめる癖があった。
しかし、桜子にとっては、初めての相手。
責任をとってくれるつもりなのだ、と許してしまった。
女性としての心をズタズタにされるとは思わずに。
――今度こそ、切り出さねば。
安吾は何も知らないまま寝そべって、となりでゲームをしている。
桜子は、ゲーム機本体の電源を切った。
ものすごい剣幕で、安吾は彼女をなじったが、そんなことでひるむわけにはいかない。桜子は「時間がない」そう言って自らの体調の変化を告げた。
安吾は片手で目元をもみほぐす。
――参ったなぁー。ほんとかよ。本当にオレなの? そんなわけないだろう。
桜子は撃沈されそうになりながらも、撤回を求めた。
安吾は責任をとるとも、結婚するとも言わなかった。
――まあ、おまえも大人なんだし、どうすればいいかはわかるだろ?
桜子と向き合うことも、しなかった。
あるいは彼女が泣いてすがったならば、言葉を改めたかもしれないが……桜子は潔癖で、ゆるぎようのない愛情を安吾に注いできたので、引き下がるということを知らない。
反射的に、安吾も態度がドライになってしまった。
まるで、桜子の愛情を当然のものとして受け取っているかのように。
――そのまえに、もう一回だけ!
母親に甘えるかのように、彼はだだをこねた。
選挙権があっても、桜子は決して大人なんかではなかったというのに。
初夏。
花の頃を過ぎて、主役の座を譲り渡した桜が、こっそりと、たわわな八重桜と入れ替わった季節。
『大丈夫だって。いざとなったら、安吾だってちゃんと責任とってくれるよ』
だが、安吾はそうは言わなかったのだ。
親友のはずのリナは、一方的に電話を切った。
彼女にはどうやら、頼れそうにない。
安吾がこのごろ、桜子を避けているというのに。
彼は一緒にいる時でさえ、上の空で、日中も眠たげにしている。
桜子は安心して相談できなかった。
一番親しいというだけの親友、リナもリナで、「お気楽ご気楽」主義なので、てんでちぐはぐしていて、話がかみあわない。
「はあ」
八重の桜道を通り抜けようとして、木の幹に腕をつくと、やわらかな芳香がした。
柑橘のさっぱりした香。
顔を上げると、秋田准教授がまぶしげに天を仰いでいた。
さわさわと肌をなでる風は冷たく、陽ざしだけが救いのように暖かい。
木漏れ日が――秋田の横顔を淡く照らし出していた。
桜子が、会釈して通り過ぎようとしたとき、学園前の公園入口に自転車が急ブレーキをかけて止まった。
――笑い声。それも複数。
子供たちのものだった。思わずはっとして、立ち止まる桜子。
「春川さん……」
どういえばいいのか。目が合った。
桜子はそのおだやかな声音に、心底ほっとし、そしてそんな自分に驚いていた。
本当は論文が出来上がっていないから、顔を合わせたくない相手だったというのに。なぜか。
この人に話を聞いてもらいたい――桜子は、そう思ってしまったのだった。
秋田は会釈して、にっこり微笑み、通り過ぎた。
――安吾と正反対の、柔らかな物腰に、異性を感じさせない横顔。
美男子でこそないが、まとう雰囲気がソフトで好ましく思えた。
それから。
大した用事もないのに、桜子は桜道を歩くことが多くなった。
また、秋田准教授に逢えないか――そんな淡い期待をもって、陽の照っている日には何度も。
しかし、何事も過剰に期待しているときほど、チャンスはこない。
桜子の体形が変わりつつあることは、本人だけがよく知っていた。
――時間がない。
公園の時計台の下でうなだれていると、ぱらぱらという音がして、雨粒が降ってきた。
天気の不安定さが呼びこんだ雨。
桜子は、付近に遊具のない、あずまやに移動した。
甘酸っぱい柑橘の香りがした。
はっとして、あずまやの中を注視すると、果たして、秋田がベンチに足を伸ばして眠っていた。
うれしさに早足で寄り、そばに腰かけると、桜子はしげしげと、眠る秋田の目元を見た。
特別美形というわけではない。しかし、閉ざされたまぶたには長いまつ毛の陰影がさし、彫りの深さをうかがわせた。
「先生……」
せつなくなるほど見つめて、桜子はささやいた。
秋田が目を開ける様子はない。
思わず、今までどんなときも口にはせずにきたことが、堰を切ったようにこぼれだしていた。
「父は、『お母さんは疲れてる』って言うんです。でも、そう言って入院を重ねて十年以上経ちます。私は母のこと、寝ている姿しか憶えていません。笑った顔を憶えていません。寂しいと思うのは、甘えてるんでしょうか」
秋田は身じろぎもしない。
桜子は、随分と情けない気持ちになって、雨の空を見つめた。
――私は、生きていては、いけないのでしょうか。
つぶやいたとたん、隣で重量感のある物音がして、見ると秋田がベンチの下に転がっていた。
のぞきこむと、長めの前髪をかきやって、胸元のポケットを探っている。
「メ、メ、眼鏡……」
「落ちてますよ。はい」
ベンチの下にあった、ゴーグルのような透明フレームをつかんで渡すと、秋田は礼を言って耳にかけた。
「え……春川、さん……」
「え、はい。そうですが」
「どうしてここに?」
「雨が……」
「で、どうして泣いているんですか」
――泣いて……?
「ごめんなさい。なんでもないんです」
言って、桜子は正気に返り、足早にその場を去った。
その晩、桜子は安吾に最後の電話を入れた。
留守番電話のアナウンスが聴こえてきたが、それが安吾の答えに思えた。
構わない。もう――
外の暗闇をにらむと、赤い街灯が見える。
ちがう。
あれは……
桜子は表へ飛び出すと、はだしのまま駆け出した。
雨はまだ、地面を叩いている。
深く息を吐きだすと、見上げた街灯のすぐ上に、開花の遅かった桜が満開を迎えていた。
それが、まるで燃え上がるかのように妖しく輝いているのだった。
桜子は、一抱えもある、その幹を抱いた。
ごつごつとした木肌は、しっとりと生気にあふれていた。
桜子は手と足を交互に伸ばして、一番低い枝の上に取り付いて叫んだ。
「私はここにいる! ここにいるんです! 神様!」
そのとき風が吹きすさび、彼女の頬を濡らした。
散ってしまうだけの桜花弁が、涙のように張り付いた。
執念からか、それとも意地だったのか、桜子の胸の中から必死の想いが生まれた。
「私はまだ散りません。見ていてください。見ていてください!」
そういう桜子の前に、燃え盛る産褥と、手を差し伸べる白い幻影が見えた。
透き通るように真っ白なその手が、すぅっと産褥を指し示す。
美しい幻影の立つその光景には、思い当たる節があった。
コノハナサクヤ姫が見ている! ああ! 神明よご照覧あれ。姫は最初の男に潔白を示すために、燃える産屋で子を産んだ。子は無事に産まれてきた。まごうことなき、夫の子供だったから!
――これは、この光景は……。
古事記のワンシーンを、桜子は憶えていた。
おまえは潔白なはずだ。そうだろう? 証明してみせろと、そう言われている気がした。
彼女は、月のない夜の道に降りて、腹の子を見つめた。
「わかった。私にだって、できるわよね。だって、あなたはここに、いるんだもの」
ささやくと、強い目で赤い桜を見上げて、頬をぬぐった。
それからの桜子は張りつめっぱなしだった。
父親はもちろん、頼れる親戚は皆無に思えた。
友人も、伝えるにはまだ時期尚早。
堕胎はしない方向で。
桜子は考える。この子が育つまでの間、どうしよう。
――初産で勝手もわからない。でも、産み育てる間、私と子供はまるっきりの無防備――
助けが必要だった。当座の資金も。
――五体満足で、元気に生まれてくれるだろうか。
母乳がうまく出るか、わからない。無理して働けるだろうか――バイトに産育休はないのだ。
桜子は、最近とみに主張をしだした胸にそっと手を当てる。
何一つ準備ができていないというのに、お腹の子は現在進行形で形をとり、育っていく。
――私はなんて無知だったのだろう。なんとかなると、彼を信じて……何ともならない、現実の重みがこれなの。
あの夜に見えた幻は、一人で産んでみせろというお達しなのか。
それも、悪くはない。だが――
「大学に通いながら産むのはムリだ」
休学、もしくは退学しよう。それが現時点での結論だった。
明るい陽光を弾いて、ドロップ型の宝石みたいにきらめく、噴水。これがこの公園にあるのを初めて知った。
いつもは、もっとドロドロしていて汚い池にしか見えなかった。
さて、どうしよう。
実家の父にどう打ち明けるか。
一人暮らしをすると決めてからのことだから、しかられるかもしれない。
なんなら仕送りを止められるということも考えられた。
肩を落としていると、ひそめたような声がそばに降ってきた。
「春川さん、またお会いしましたねえ」
「秋田先生」
「雰囲気が前と違うので、見違えました」
「ああ、この服……」
お嬢さんルックで通してきた彼女が、ボーイッシュなオーバーオールを着ていたのでそれを言っているつもりなのだろう。
まさか、マタニティドレスを着て大学に行くわけにもいかない。
「先生、あの……休学する場合、最長何年くらい籍を置けるんでしょう」
秋田はきょとっとして、目の前で手を振った。
「順番がちがいますよ。あなたはこのあいだ、こうおっしゃった。自分は生きていてはいけないのかと」
「え」
「寝ていたと思っていたでしょう。甘いです。ボクは眠りの秋田と呼ばれた男。右脳と左脳、交互に眠るので寝ていた間のことはたいてい思い出せるのです」
「そんな、イルカみたいに」
「それで、ボクに相談したいこととはなんでしょう」
「そんなこと口に出して言ったかな」
「言ったも同然です。繰り返しになりますが、ボクは憶えています」
桜子は赤面した。
聞かれていたのだ、あれを。
「春川さんの中で、未解決なのはどれです。置かれた境遇、未知への恐れ、金銭的不安、等々などなど……言うだけはただです、遠慮なく言ってみてください」
「は、はあ」
本当は何一つ解決していなかったのだけれど、そう言うわけにもいかない。眠りながら起きているこの秋田を悩ませてしまう。
でも、たった一つ、聞いてみたいと思うことがあった。
「母親になるって、どういうことなんでしょう」
「いい質問です。昨今いろいろ問題になってますからね。ひとつ持論を打ち明けますと。親と子は別の生き物です。ですが、親は子供がいなければ親にはなれません」
「はい?」
「たとえば、その質問はあなたのお母様に関係していますか?」
「……ッ」
「たとえばの話です」
秋田は数回瞬きをして、桜子の理解度を見るようだった。
幼い子に諭すように、言葉を選ぶことにしたらしい。
「親はなくとも子は育つといいますが、親は子供が育てるものなのですよ」
桜子はきつねにつままれたような顔つきをした。
彼女には、明確な母親像というものがなかった。
「ボクもあまりにドジだから、子供の頃はよく迷子になって。それを見た母親が、これはもう生まれつきのものだからと、周囲を説得して回り――結果、自治体全部がボクの世話を焼いてくれることになったんですよ。こんなこともありました――」
「もう、いいです」
桜子は張りついたような笑みを浮かべて退散しかけた。
「もうひとつだけ、言わせてください」
「わかりましたから」
断る桜子に、秋田はすっと目を細める。そして、言った。
「復学をお待ちしていますよ」
はっとした桜子が、歩みを止めて顧みると、もう秋田の姿はなかった。
桜子は、自分の子供を安吾に見せてやりたい一心で、実家の父に泣きついた。
安吾のことは言えない。
言う気もない。
どうでもよい扱いをされて、子をはらみましたと、父親にどうして言えよう。
桜子は、安吾のことを説明からよけておき、ただ産みたいのだと告げた。
安吾にならば、唯一有効な手段がまだある。
産みさえすれば、DNA鑑定で血縁を証明できる。
しかし、認知してもらうのが目的ではない。
自分の子に、おまえは望まれて生まれてきたのだと、言ってやりたかった。
たとえ、この先どんなに苦労しても、それだけは……おまえの父母だけは、味方だと、伝えたかった。
――私がどんなふうに思い描いたとしても、この子の現実には遠く及ばない。いたらないのは私。でも、この子はパーフェクトだ。産んでみせる。必ず。
桜子の父は、思いがけず孫の顔が見られるらしい、と喜んでいる。よい機会だから、と桜子の膨れたお腹をなでさすり、写真まで撮ろうとするので彼女は抗議した。
分娩台にあがるのを待っているときに、電話が鳴った。
陣痛はクライマックスを迎えていた。
――大学を休学していることは、もう安吾の耳に入ったろうか。
そんなことはどうでもいい。
――一人でも、産むんだ。
――ああ、お母さん。私が一生得られなかったものを、この子は持って産まれてくるんです。それだけが、私の誇りです。ああ、ああ。
早く、産まれて――!
諦念を覆すように決意して、天井を見つめ、端末に手をやると、見覚えのある名前が飛び込んできた。
安吾は絶妙のタイミングでコールしてきた。
不安に揺れていた桜子は、目に光を取り戻して、分娩台にのぼった。
わが子に、父親を見せてやるために――
「あなた、赤ちゃんをお風呂に入れて」
「え、オレが?」
「私は産後で全治一か月なの。動けないと言ったでしょう」
「ええっ、まいったなあ」
そういいながら、安吾は協力的に、しかしぎくしゃくとした動きで、赤子を風呂に入れた。
湯につけた途端、赤子はふにゃっと笑った。
安吾は気をよくして、一か月、赤子の面倒を見た。
不器用な父親に似てか、息子は結構遅くに寝返りをうち、這ってまわり、怪我もしたが、すくすくと育った。
安吾は就職し、父親としてふるまうことを喜んだ。
『だから、言ったじゃない?』
リナから聞いたところ、安吾は大学をサボって図書館に入り浸り、育児書をさんざんひっくり返していたという。
いざ、子供ができてから何も知らないでは済まされないからと、知恵を振り絞り、バイト先の先輩にも相談していたらしい。
安吾が眠たげだったのも、夜中まで先輩を付き合わせて勉強していたのだという。
「頭の毛先から女の子宮まで、このオレに、知らぬものなどなにもない!」
そう言って、休日にはおぶい紐で子供を背負い、洗濯物を干した。
――どうやって、桜子が母親になろうとしたのかも知らず。
けれど、桜子はそんな安吾に、全身全霊で尽くそうと決めたのだった。
分娩台に上がる直前のコールで、安吾は言った。
「元気な子を産んでくれ。オレとおまえの子だろ? なんとか食わせる分だけ働くから。一緒に、苦労をしてくれないか」
と――。
自意識過剰な安吾らしい、しかしこれ以上はないプロポーズだった。
緑葉学園大学、キャンパス前。
初夏だというのは置いておいて、八重の桜の花見客に交じって、宴会が開かれた。
「復学、おめでとう」
「また、一からよろしくおねがいいたします。秋田教授」
挨拶の途中で、また安吾からコールが入った。
苦笑いを残して、桜子は祝いの席を抜ける。
「今度は何?
端末機から能天気な安吾の笑い声が聞こえてくる。
彼らの一人息子は、自力で噴水からよじのぼったそうで、安心した。
秋田に、噴水でずぶぬれになった息子の画像を見せると、秋田はしょうもないほど笑った。
――この世に似た顔は、案外いくつもあるものですね。
桜子の息子、光生は、母親似だ。
「いくつも、ですか」
桜子が問うと、
「昔、付き合っていた女性がいまして……」
口を滑らせた秋田を、桜子は見逃さなかった。
「へえ、もしかして……」
――私と光生が、その人に似てるとか?
問い詰めると、秋田はほっぺたをひっかいて弁明した。
「まぁ、昔の話ですから……」
――それで? お二人はどうなったんですか。
「どうもしません。あんな感じですよ」
秋田がさした先には、盛大に風に舞う、葉桜が揺れていた。
「未練がましいばっかりで」
「人間は……桜じゃありませんよ」
「ほう、というと――」
桜子は微笑む。きらきらとした光が降り注いだ。
「受け継ぐものと、新たに育む未来があるじゃないですか」
「ふーむ」
秋田は顎に手をやり、考えこむと、殊勝に言った。
「あの、その言葉、いただいてもいいでしょうか」
「いいですよ。なににするんですか。まさか、論文に?」
「彼女にプロポーズしてみます。感傷にふけっている間に、大切なことを忘れていたものです」
――彼女!
「いらしたんですね、そんな方が」
「一度はフラれましたがね。もう一度、当たって砕けてみましょう」
葉桜が、笑う、わらう。さんざめく。
「大丈夫ですよ。教授、ハンサムなんですから」
秋田と桜子、二人して自前の端末に、葉桜を写した。
――安吾へ。お昼ご飯は冷蔵庫にあるから、光生とチンして食べてね。
「送信、と」
――オーライ! まかせとけよ!
一瞬、そういう安吾のメールが、輝いて見えた。
【了】
葉桜の君に<筆致は物語を超えるか>企画参加第四弾! れなれな(水木レナ) @rena-rena
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