虚数世界と図書館委員

ロリコン戦士

本にまみれた世界

 そこは謎めいた場所だった。


 壁や扉は無く、辺り一面は本だけが広がっている。天井も地面も本棚で作られていた。


 とある少年はそんな理解に悩む世界をただ見つめていた。


「……えっ」


 やがて、自らの状況がおかしいことに気づく。少年はついさっきまで自分の部屋のベッドで寝ていた。


 それにも関わらず、こんなおかしな空間にやってきていたのだ。


「いや……どこだ、ここ。てか……夢だよな」


 することも無いので、少年はただ歩く。地面を構成する本棚と本棚の隙間からは、またその下にある本棚が見える。


 途方も無い距離までそれは続いていた。本とそれをまとめる棚しか無いなどというあり得ない風景が余計少年を困惑させる。


 なんとなく、近くにある本棚から一冊取り出す。表紙に目玉焼きが描かれたそれは料理の本であることがなんとなくわかる。ただ中身はフランス語で書かれているので、ごく普通の高校生である少年にはわからないものだった。


 ただ綺麗に手入れされているものだということはわかった。少年はそれを慎重に元の位置に戻す。


 その直後だった。


「あまり私の本に触らないでくれる?」


 透き通るようで、はっきりとしたその声は女性のものだった。突如背後から発した声に少年は驚く。


 振り向くと、そこにはどこかの学校の制服を着てカーディガンを羽織った女性がいた。金髪と青い瞳の彼女はじっと少年を見つめる。


 少女……というにはあまりに顔が大人びていた。少なくとも、同い年ではないと少年は考えていた。


「お……おお」


 なんとなく奇妙なその女性に少年は何を言えば良いか迷う。


「……あっ」


 とりあえず、髪や瞳の色……先ほどの本がフランス語で書かれていることなどが真っ先に少年の頭に浮かんだ。


「ぼ、ぼんじゅーる」


「……は?」


 さっき日本語で話していたにも関わらず、少年はなぜかフランス語で挨拶をした。


「……ぷっ」


 あまりにおかしな少年の反応に、彼女は笑うのを堪えることができなかった。


「あははっ。面白いな、少年」


「…………」


「安心したまえ。私はハーフなだけで全然日本語は話せるから」


 いろいろ慌てて恥ずかしい姿を晒したのだが、そこまで悪い状況ではないことに少年は複雑な気持ちになる。


 女性は小さく指を振った。すると、遠くにあった座るにはちょうど良さそうな横に長い本棚がその場にやってくる。


 彼女はそこに座るとその上を手で小さく叩き、少年に言う。


「まあこっちに来なさい。立ったまま話すのも疲れるだろう」


「……まあ……そうっすね」


 少年が言うとおりにその本棚に座ると、女性はじっと少年の顔を見つめていた。


「……いや、なんすか?」


「うーん。とても悩みがありそうな顔には見えないが……」


「悩み?」


 少年がそれを問うと、彼女は頷く。


「この世界にやってくる人間には悩みがある者が多いんだ。なんせ、ここは君たちの住んでいる実数世界とは対極に位置するだからね。現実を見失った者しかたどり着くことができない場所なんだよ」


「……は? ……ん?」


 様々な単語が現れ、少年の頭はオーバーヒートしそうだった。そんな様子に気づき、女性は座っている本棚から一冊の本を取り出す。


「まず、この世界のことについて話そうか。さっきも言ったけれど、ここは君たちの世界とは対極に位置する世界なんだ。物で溢れる実数世界とは違い、ここにはほとんど何も無い。原子、分子、細胞、人間、国、大陸、地球、宇宙みたいな隔たりも無い。そもそも隔てる物体が無い。生物もいない。あるのはたった一つさ」


「たった一つ?」


だよ。実数世界の情報。それしか虚数世界には無いんだ」


 少年は辺りを見回し気づく。そこら一体にある本のすべて、それらが情報を表していることに。


 またそれ以外が存在しないことから、本当にこの世界には情報しか無いようである。


「……あれ?」


 ……いや、一つ情報以外にも確かに存在している。そんな当たり前のことに少年は気づく。


「じゃあ……」


「ん?」


「あんたはなんなんだ?」


 明らかに情報だけとは言えない存在が目の前にいる。虚数世界が情報だけならば、この女性は一体何者なのだろうか。


「……まあ」


 彼女は少年に笑みを見せ、その場で俯く。


 そして、持っていた本を胸に抱える。


「ただの図書館委員さ。本を読むことだけが取り柄のそんな図書館委員、それだけだよ」


「…………」


 何か隠していた。少年もそのことには気づいていた。


 ただ触れてはいけない気がした。


「そんなことより……」


 彼女は本を元の位置に戻し、再び少年の顔を覗きこむ。


「悩みがあるんじゃないのかい?」


「……えっ」


「さっきも言っただろう。虚数世界に来る人間ってのは、実数世界で心を閉ざしている人間なのさ。君がここにいるってことは、君もなんらかの悩みを抱えている、違うかい?」


「…………」


 図星だった。少年は確かに悩みを抱えている。


 ただ言うべきか迷っていた。どうも見ず知らずの人に話す気になれなかった。


「……大したことじゃないんすよ、本当に。たぶん時間の問題だと思うし……」


「ほう。話してみれば楽になるものだよ。それに、時間が経てば解決するかは時間が経たないとわからない。話すのが一番手っ取り早いと思うけどね」


「…………」


 一度口を開くが、思い悩み閉じる。拳を固く握りしめ、少年は勇気を振り絞る。


 そして……ゆっくりとその言葉を放つ。


「……クラスで……好きな子がいたんす。だけど、その子は彼氏がいて……そのことに昨日気づいて……」


「なるほど。どうすればいいかわからなくなってしまった……と」


「……はい」


 少年は低く項垂れる。自分で言ったはいいものの、あまり思い出したくないことだった。


 そんな少年の方から目をそらし、彼女は言う。


「思いを伝えてみたのかい?」


「……えっ」


 少年はその言葉を聞くと彼女の方に向く。


 彼女は果てしなく続く虚数世界の景色を見つめ……なぜか眉をひそめていた。


 ただ、その下には笑みがあった。困っているのか、呆れているのか……それとも嘲笑っているのか、わからない。


 それが彼女だった。おそらく彼女の個性だった。


「人に思いを伝えるのは時にものすごく大事なことさ。伝えなければ、相手を理解できない。相手も理解できない。そんなのはあまりに寂しい関係じゃないかい?」


「…………」


 すごく理想的なことを彼女は言う。少年はそう思っていた。


「でも……勇気が出ないんですよ。思いを伝えたら、邪魔に思われてしまうかもしれない。嫌われるかもしれない。そう思うと……うまく行動に移せなくて……」


「邪魔者でいいじゃないか。それぐらいその子のことが好きなんだろ? 少なくとも邪魔者になるぐらい好きだってことは伝わるさ。もっともそれを受け入れてくれるか、拒絶するかはその子次第だけれどね」


「…………」


「ただ……」


 口角を吊り上げ、華麗なのか不気味なのかわからないような笑みを見せる。


「伝えるなら早い方がいい。伝えられる時に伝えた方が……いいんだよ」


「そう……っすかね?」


 少年は不安に怯える瞳で自らの手を眺める。


 だが、次第にその瞳から不安は消えていく。


「そう……っすね」


 少年は立ち上がる。そして、その顔を手のひらで叩く。


「なんか、行けそうな気がしてきた」


「本当かい?」


「なんか自信が出てきた!」


 彼女も立ち上がる。そして……。


「……ん」


 その少年の頬を掴む。


「えっ……なんすか?」


「まあ、君は結構可愛いからモテる方だと思うよ。今回振られても彼女ぐらいはできるんじゃないかな」


「……もしかして振られること前提で考えてる?」


「当たり前だろ? ちょっと好きだって言われたぐらいで乗り換えるビッチじゃない限り、ほぼ100パーセント振られる」


「うわっ……結構辛辣……」


 頬から手を離し、少年の背中を叩く。


「まあ、当たって砕けろってことさ。頑張りたまえ」


「…………」


 少年は口元に笑みを見せ、彼女の方を向く。


「……ありがとう……ございます」


「はい、どういたしまして。それじゃあ……」


 その時、彼女は少年の体を押す。


「……えっ」


「じゃあねー」


 少年は地面が無いところに押し飛ばされたのだった。


「えええええええええええ!!」


 遥か彼方まで落ちていく少年に彼女は手を振る。やがて、見えなくなると彼女は不安そうな顔をした。


「……うまくやれるかな」


 彼女は現実世界の風景を知識としてでしか得られない。実際に見ることができないたま、多少の不安があるのだ。


 ちなみに、ちゃんと現実世界に戻れたかどうかは心配していない。


 この世界は彼らにとっては夢のような感覚である。目を覚ませば、何事も無かったかのように現実世界に戻ることだろう。


 ……そう。目を覚ませば。


「……思いを伝えるのは大事……か」


 彼女は若き日のことを思い出す。十数年も前に初めて恋をした日のことを。


 それからすぐに……交通事故に遭い、今も意識が戻らないことも。虚数世界にやってきて、絶望して何日も泣いたのを彼女は懐かしく思っていた。


 彼女はなんとなく……寂しいのか、吹っ切れているのかわからないような笑顔を見せる。


「今は……何をしているのかな」


 少女は本を取り出す。そして、今日もまた読書を楽しむのだった。

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