キャンセル
さかもと
キャンセル
一週間前、僕は仕事中に突然、激しい吐き気や腹痛の症状に襲われて、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれた。精密検査した結果、「十二指腸潰瘍穿孔」という病名がくだされた。いわゆる、ストレスで胃に穴が空いた状態になっていたのだ。その後すぐに全身麻酔の緊急手術を経て、ひとまず病状は落ち着いた。
今はこの病院に入院しており、しばらくは安静にしていることが求められていた。
職場の仲間に対して、申し訳ないという気持ちで押しつぶされそうだった。社を上げた一大ブロジェクトが佳境に入った時期に、こんなことになってしまった自分が情けなかった。
入院生活は、常に退屈だった。ただ安静にしていろと言われても、やることがないというのがこんなに辛いとは思わなかった。
ある時、僕は暇つぶしと運動がてらに、病室を抜け出して、一階にある売店に向かった。そこで、雑誌やお菓子を買い込んで、そのまま病室に帰るためにエレベーターに乗りこんだ。
エレベーターの中は、僕一人だった。
一人でエレベーターに乗ると、ついついやってしまうことがある。適当に、自分の降りない階のボタンを押して、すぐにキャンセルするのだ。エレベータのボタンは、メーカーにもよるが、たいていは長押しすることでキャンセルができる。僕は子供の頃から、ちょっとしたイタズラのような感じで、これをよくやってしまうのだ。
僕の病室は19階にあったが、僕は最上階の25階のボタンを押した。25階のボタンが点灯する。すぐにキャンセルしようとした時、誰かがエレベーターに乗ってくる気配を感じた。
「三井くん?」
乗ってきた女性は、僕の顔を見てそう言った。同じ会社に勤めている、沢村優子だった。なぜ、彼女がここにいるのだろう。ぽかんとしていると、「心配だったから、見に来たのよ」と言って、微妙な照れ笑いのような表情を浮かべた。
僕と彼女は、半年前まで付き合っていたのだが、お互いの仕事が忙しいことを理由に、これ以上付き合っていてもデメリットの方が大きいと判断して、別れることを決めたのだ。僕も彼女も、闇雲に仕事に生きるワーカーホリック的なところがあって、そういうところでも気があって惹かれ合っていたのだが、お互いに今は仕事に集中したい時期だったので、仕事と恋愛の両立は難しいということで、そういう結論に落ち着いた。別れ際に、涙も流さずに笑顔で握手を求めてきた彼女のことを、僕は冷たい人間だと思って少し残念な気持ちで満たされていたことを覚えている。でも、そんな彼女が、僕が入院したと聞きつけてわざわざお見舞いに来てくれたのだ。正直に言うと、とても嬉しかった。
彼女は、エレベーターのボタンの点灯している階を見て、不思議そうな顔をしていた。
「あれ?君の病室って19階だって聞いたんだけど」
「いや、あの、これは…」
そう言いながら僕は、25階のボタンを長押しした。ランプが消え、キャンセルされたことを確認する。
「一人でエレベーターに乗ると、ついやってしまうんだよね。」
彼女は、「ああそうか」という表情になり、途中からそれが苦笑いに変わった。
「前にあたしの前でもそんなことしてなかった?馬鹿じゃないの?」
そういや昔、彼女とデートしている時にも、僕は自慢気にこのキャンセル技を披露したことがあったような気がする。
確かに彼女の言う通り、馬鹿馬鹿しい。僕は、あらためて19階のボタンを押した。
エレベータのドアが閉まり、上の階に向かって動き出す。
二人の間に、とても静かで、暖かい沈黙が流れていた。
19階に着いた。ドアが開くまでの一瞬の間、僕は彼女に話しかけていた。
「優子、その…前に俺たちが決めたことって、もうキャンセルできないのかな?」
彼女は微かに微笑んで、いたずらっぽい目で僕を見つめてきた。
「さぁ、それはどうかな。試してみる?」
ドアが開いた。でも、彼女は降りる素振りを見せず、こちらに体を向けた。彼女と向かい合う形になる。
「長押ししてみたら?」
僕は、彼女の唇に、僕の唇を押さえつけた。キャンセルされるまで、いつまでも押し続けるつもりだった。
キャンセル さかもと @sakamoto_777
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