ハッカシロップ

メトメ

ハッカシロップ

午後3時。約束した時間ぴったりに智喜ともきは待ち合わせの駅に着いた。うだるような暑さだというのに、昼下がりの陽ざしがさんさんと降りそそぐ駅前は、行きかうカップルやグループでやけに活気だっていた。


遥佳はるかのことだ。きっといつものように10分は遅刻してきて、悪びれもせずに「ごめ―ん、遅れちゃった!」なんてあからさまな猫撫で声で謝ってくるのだろう。


時間に几帳面な智喜にとって、待ち合わせに遅れてくる人の気持ちはわからない。相手を待たせることを考えたら、申し訳ないという気持ちがしてくるのだけれども、遥佳みたいな人種はそんなことは考えにもおよばないのだろう。マイペースというべきか、自己中というべきか―。


駅前のベンチに腰掛け、スマートフォンのロックを解除する。LINEを開くと遥佳から5分前にメッセージが届いていた。


「ごめーん、あと5分だけ待ってて!すぐ向かうから!」


そろそろつく頃かなと智喜が思った瞬間、背後から聞きなれた声で


「本当にごめーん!電車一本乗り過ごしちゃって。許して♪」


案の定、愛嬌たっぷりに遥佳が声をかけてきた。つき合いたての頃は、遥佳の遅刻癖に苛立つことがしばしばあった。でも今ではもう慣れっこだし、半ば恒例行事のようになっている。むしろ遅れてきてもらわないと、何か不吉なことが起こるのではないかと不安になる。


「たいして待ってないから大丈夫。それにいつものことだし」


わざとすねたような口調で智喜は言葉を返した。


「なになに、最後のデートだからって感傷にひたっちゃってんの?男らしくないなあ」


「冗談だよ!冗談。少しは感傷的に見せないとわかれ甲斐がないかなと思ってさ」


智喜と遥佳は今日、4年間続けてきた彼氏彼女の関係にピリオドをうつ。親の仕事の都合で遥佳が引っ越すことになったのだ。それも日本から遠く離れた異国の地へ。最初は、別れたくないと鼻水をすすりあうほど泣きあったが、話し合いのすえ、お互いの今後を考えてべつべつの道を歩むことにした。


「海が見たい!」なんて遥佳が無邪気にはしゃぐもんだから、最後のデートは海が見える近くの海浜公園に行くことにした。こういう場合、二人がはじめてデートをした場所へいって締めくくるのが王道なのだろうが、それはあまりにも普通過ぎるということで却下となった。「最後のデートが今までで一番の近場だなんて、なんだか私たちらしいね」なんて遥佳は笑っていた―。


「さ、いこっか!こんなに晴れているから、きっと目をみはるほどの綺麗な夕焼けが見られるだろうね~。そしたら私、感極まってまた泣いちゃうかも!」


「そのふざけた言い方は絶対泣かない。先にいっておくけど、俺はまず泣くことないからね。拙者、別れ話をしたときに涙は枯れはててしもうたでござる―」


「ふざけた言い方!じゃあ最後に意地でも智喜を泣かせてやるから!」


「はいはい、わかったわかった。日が暮れる前に早く行こう」


目の前を走る大通りのずっと向こうでゆらめく逃げ水を追いかけるように、海浜公園へ向けて二人は並んで歩き出す。


人よりも代謝がよい智喜は、普段から少し動くだけで汗をかく。特に夏場はひどく、ほんのちょっと外にでるだけで雨に打たれたあとのようにTシャツがびしょびしょになる。


ウエストポーチから液体の入った小瓶を取り出す。スプレー部分のキャップを外し、香水をつける要領で左手首に吹きつけようとすると


「あ!使ってくれてるんだね~ハッカシロップ!うれしい~!」


カブトムシを見つけた男子小学生のように興奮気味に遥佳が話しかけてくる。日ごろからことあるごとに「暑い暑い」と連呼していた智喜を見かねてか、ある日遥佳が智喜にプレゼントしてくれたものだ。体につけてしばらくするとスースーとした清涼感とにおいに包まれ、あれほどかいていた汗が嘘のようにひいていく。それ以来、暑さにめっぽう弱い智喜にとってハッカシロップは真夏の必需品となった。


「じゃあさ、最後のデートだしさ、一緒につけようよ!誰にも見えないペアルックだね♪」


「一緒ってどうやってつけるの?」


「こうやって!」


遥佳がしゃべると同時に、智喜の手におさまっていた小瓶をさっとさらう。慣れた手つきでプッシュし、左手首にハッカシロップをシュッ、シュッと吹き付けた。


「はい!智喜の左手首を出して!早く早く!乾いちゃう前に!」


「わかった、わかったから」


智喜はうながされるがまま、遥佳の目の前に左手首をすっと差し出した。少し骨ばった智喜の左手首に寄り添うように、丸みをおびた遥佳の左手首が重なり左右に動く。


「はい!これでオッケー!それにしても涼しげないいにおいだね~」


「これだけじゃあ、全然涼しくならないよ……」


満足そうな笑顔をうかべる遥佳からハッカシロップを受け取りながら智喜はぼやいたが、そのままウエストポーチにしまった。このまま自分でさらにつけてしまったら、せっかく遥佳がつけてくれたハッカシロップの意味がなくなってしまう気がしたから。


ゆっくりと歩きながら左手首を風にあてて、遥佳が智喜に笑いかける。つられて智喜も腕をたてて笑いかえす。


海浜公園につくと、あたりはカップルや家族連れでにぎわっていた。サッカーコート10個分はありそうな芝生の広場は、バドミントンやテニス、フリスビーに興じる人々の歓声であふれている。


広場のはしっこの方、こぢんまりとしたスペースにレジャーシートを広げて座る。海からの潮風が気持ちいい。遠く海の方では、生まれたばかりの赤ちゃん雲が風にのって流れていた。


コンビニで買っておいたサンドイッチとカフェオレを取り出し、遥佳に渡す。


「思い返すと、智喜と付き合った4年間いろいろあったね~。私の一生涯の宝物だよ」


両腕を大きく広げて伸びをしながら、青空に向かって遥佳がつぶやく。


「なんだよそれ、遥佳はいつも大げさだよな。でも色々経験してお互いに少しは変われたかな」


遥佳と過ごしてきた中で大きくかわったことが智喜にはある。もともと智喜はぼんやり考えることが大の苦手だった。何事も無駄なく、そつなく動かないと気が済まない性格だったのだ。ある時遥佳に


「智喜は生き急ぎすぎなんだよ。肩ひじ張らずにもっとのんびりいこうよ」


と叱られたことがある。確かに智喜は無理をしてしまうあまり、体調を崩してしまうことが多々あった。遥佳はのんびりしすぎなんだよ!などと言い返そうかとも思ったが、その後の自分に降りかかるであろう惨状が容易に想像できたので、智喜はサンドバックとなることに徹したものだ。


最初は渋々ながらも、気詰まりしそうな時には遥佳のアドバイスを思い出し、意識的にぼんやりと思索にふける時間をとるようにした。するとどうだろう、あれほどピンピンに張りつめていた心のテンションがゆっくりとたわんでいくのを智喜ははっきりと感じた。遥佳のアドバイスは効果てきめんだったのだ。今では意識しなくてもぼんやりする時間をもてるようになった。遥佳に感謝だ。


遥佳と付き合って僕が変わったみたいに、遥佳もどこか変わったところがあるのだろうか。少しは几帳面になったのかな。遅刻癖は相変わらずだし、もしかしたらどこも変わってないってこともあるよな。まあそれはそれでいいかな、遥佳は遥佳のままでいてくれるだけで僕はうれしい。


「あっ、智喜!ほらみてみて!夕日がとっても綺麗だよ!」


遥佳にバシバシ肩をたたかれて、物思いにふけっていた智喜は一気に現実に引き戻された。遥佳が指さす方へ顔を向けると、ちょうど今まさに太陽が水平線へ沈んでゆくところだった。水面に浮かべられた光はオレンジ色の道になり、踊るように揺れていた。


「ほんとに、綺麗だ―」


二人はじっと夕焼けを眺め続けた、完全に海に沈んでゆくその瞬間まで。


そっと隣を見ると、遥佳は泣いていた。目尻にたまった涙が、コップの水があふれだすようにこぼれおち、頬に一筋の跡をのこす。智喜もつられて泣きそうになったが、ぐっとこらえた。遥佳の涙に気づかないふりをして智喜は声を振り絞った。


「寒くなってきたし、そろそろ駅に戻ろうか―」


「そうだね―」


夜の冷気をはらんだ浜風が海辺から吹き付け、二人の体温を奪っていく。どちらともなく二人は寄り添い、手を繋ぎあって駅までの道を戻る。ゆっくりとゆっくりと、これから訪れるお別れの時間を少しでも遅らせるかのように。


帰り道は無言だった。言葉はいらなかった。会話をかわさなくても通じあえるということを智喜はこの時はじめて知った。根拠はないけれど、きっと遥佳も同じ心境だ。繋ぎあった手と手で感じあう体温がその証明だ。


駅までの道のりはあっという間だった。行きはあんなに長く感じた距離も、帰りはやけに短い。日中の喧騒が嘘だったかのように、駅前はしんと静まり返っていた。改札前で遥佳を見送る。これが最後のバイバイだ。最後になんて声をかけたらいいのだろうかと智喜が考えあぐねていると


「ハッカシロップのにおいが消えたら、この恋は終わりだよ―」


両頬に涙の余韻を残しながら、遥佳は智喜をみてほほ笑んだ。


「わかった」


智喜もほほ笑んで答える。


「じゃあ、元気でね。結局智喜のこと泣かせられなかった!悔しい~!」


「だから泣かないって言ったじゃん!うん、遥佳も元気でな」


きびすを返して遥佳がゆっくりとした足取りで改札に向かって歩き出す。だんだんと小さくなっていく遥佳の背中を見送る。一段一段の感触をかみしめるようにホームへ続く階段をのぼっていく遥佳の後ろ姿を目に焼き付ける。やがて遥佳の姿は見えなくなった。


ホームに停車していた電車が走り出す。電車が夜の闇に完全にとけてゆくまで、智喜はじっと見送り続けた。ぼやける視界を何度も何度もぬぐいながら。


「やっぱり遥佳はマイペースで自己中だ―」


そうつぶやきながら智樹はそっと左手首のにおいを嗅いだ。


まだほんの少しだけ、ハッカシロップのにおいがした。
































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