吹きすさぶ風の中、炎となりて燃え上がれ

木屋輔枠

第1話

 桜が散ってすっかり緑になった頃。あたりは梅雨を控えた仮初めのさわやかさで満ちていた。


 6限後のホームルームを終えて、家に帰ろうとぼんやり思う。

 机の中に入っている教科書をスクールバックに突っ込んで、よいしょと気合を入れて肩にかける。

 家で勉強をする予定はないけれど、持って帰らない理由もない。もし宿題が出ていたら困るし、受験生という体裁を保つためにも置き勉はしないのだ。正直に言うと、どれを置いてどれを持って帰るかを考えるのが面倒なだけだった。楽をするために楽をする方法をうんうん考えるのは馬鹿らしい。

 うーんと大きく伸びをする。

 部活に精を出すのもいいけれど、昼下がりとも夕方とも言えない間の抜けた時間帯に帰宅するのも、また乙なものである。

 高橋、部活きてギター教えてくれよ、という声が聞こえたけれど、今日はいいやと適当に返す。今日はいいとは言うものの、二ヶ月近く部室に行っていない。けれどもギターはほぼ毎日弾いているし、実質的に真面目だから問題ない、と思っている。

 しょうがないなと言うクラスメイトの嘆息を背中で聞きながら廊下を歩く。みんなは私のことをやれ適当だ、やれサボリ魔だとか散々な評価をつけるけれど、私はいつだって真剣で真面目な人間である。サボりにはそれなりの理由がある。


 私の通う県立江戸川台高校は各学年の教室がある4階立ての校舎と音楽室などの特別教室がある校舎の二棟からなる。教室がある方の校舎は、2階に一年生の教室が、3階に二年生の教室が、4階に三年生の教室がある。毎朝4階までつづく階段を見ては辟易するけれど、4階からは空がきれいに見えるからよしとする。

 階段を降りていると、2階の廊下でたむろする新入生が目に入る。ぱりっとした紺色のブレザーにまだ固そうなネクタイをきちんとしている姿を見てから、すっかりよれよれになった制服にネクタイすらしていない自分を見ると、ぜんぜん違っているから思わず笑ってしまう。

 1階の昇降口は放課後ならではの喧騒で満ちている。これから練習なのであろう運動部の集団が、かかとを弾ませて私の横を走り去った。

 下駄箱の扉を開けて、上履きと引き換えにハイカットのコンバースALL STARを取り出す。色はブラック。気に入っているから、ボロボロになるとまた同じ色と形のコンバースを買ってしまう。


 コンバースを履いて、ふと顔を上げると印象的な茶髪の女の子が立っていた。

 その子は私と目を合わせて、きゅっと口角を上げて笑顔を作った。


「高橋先輩、好きです」


 どこか甘い声には極限まで熱した鉄のような熱さが火花となって散っていた。

 謎の言葉を入力されて、頭と心がフリーズする。この子のことは知っている。

「軽音部の相川さん、だよね」

 こくんと相川さんがうなずく。そのままうつむくので前髪で目が隠れてしまう。

「江里です。相川江里、です……」

 相川さんは私にしか聞こえないくらいのボリュームで話しているし、私たちは女同士だから、周囲からはよくある友達同士の会話にしか見えないだろう。

「ええと、今……」

 好きって言った?

 そう聞こえたことが信じられなくて、言葉は中途半端に尻すぼみになってしまう。

 相川さんは戸惑う私を見て、先輩のことが好きなんです、と確かめるように言った。

 とたんに心臓が大きく跳ねる。

 瞬間、私と彼女のまわりだけが喧騒から隔絶された無音の世界になって、今が永遠に終わらない気がした。

 風が彼女の髪を揺らしていて、午後の日差しで透き通った茶髪がさらさら流れて、きれいだ。


 動かない頭で考える。

 私は江戸高軽音部の三年生で、相川さんは新入部員の一年生。四月のおわりに新歓でカラオケに行き、江戸高生御用達の食べ放題イタリアンレストランに行ったときに知り合った。

 4人くらいの友達と一緒に入部したらしく、彼女らはクラスでいえば一番派手なグループだった。

 相川さんは、目は丸くぱっちりして小さな口が小動物みたいで、可愛い子だと思った。明るい茶髪がとても目立っていたから、ほかの4人と同じように派手な性格を想像していたが、実際は騒ぐタイプではなく地味で普通の子であった。茶髪は地毛らしい。

 はじめこそ友達と一緒に男子連中とワイワイ騒ぐ輪に加わっていたものの、ついていけなかったのか、いつの間にか一人になっていて、ドリンクバーのコーラをちびちび飲みながら何とも言えない笑みを浮かべていた。4月の最初のグループ形成で顔と髪だけで派手なグループに入れられてしまったんだろう。なんだかかわいそうで三年生女子の騒がしいテーブルに無理やり呼んだ覚えがある。

 相川江里。

 しばらく軽音部の部室とはご無沙汰だったし、新歓の日から一年生とはほとんど交流をしていなかったから、私に向けられた言葉とは思えない。


「人違いではなくて、私?」

「はっ、はい。高橋先輩のことが……」

 私のことが。

 私は説明するほど特徴のない顔だけれども、父に似て眉毛はゆるやかに逆ハの字になっているし、黒目は光を映すと爛々ときらめくから、顔だけは凛々しいとよく言われる。入学してからずっとショートカットだし、女子の中ではかっこいい系に分類されるのだろう。

 だからといって、女子から告白されたのは初めてである。

 突然の告白に少し驚きながらも返事をするため、大きく息を吸ってゆっくり吐いた。男子だろうが女子だろうが、答えは決まっている。


「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも、悪いけど……」


 ゆっくりと、丁寧に定型句を発する。

 相川さんは顔をあげて私と目を合わせた。

 目が合った瞬間、彼女の私に対する熱情が、私の目を通して体中にびりっとほとばしる。

 その目の奥の光はゆらゆらとなびく炎のようで、世界中を暖めてしまうような深い色をしていた。

 相川さんから目を離せないでいると、彼女はぺこりと小さくうつむいて、わかりました、と言ったあと外へ出ていった。


 取り残された私は下駄箱に体重をあずけながら、ずるずると座りこみ、どこか遠いところを見つめていた。

 ぼんやりと白い光が満ちて靄に包まれたみたいな怠惰な午後に、彼女の紅潮した頬と、炎を宿したまっすぐな眼差しだけが鮮明に目に焼き付いていた。

 今が遠い過去になってもずっと思い出せるような、鮮やかできれいな色。


 一度しかない高校最後の五月のことだった。



           □



 わかりました、とはなんだったのか。


「相川さん。来てくれたって私の気持ちは変わらないよ」

「いいんです。先輩のこと見てるだけで。あ、嫌ならやめますけど」

「嫌ってわけじゃないんだけどさ」

 不思議である。

 告白して振られたら、数週間とは言わないけれど、その相手とはしばらく顔を合わせたくないと思うのが普通ではないだろうか。ましてや二日後に同じ教室に二人きりとか、相川さんはどういう気持ちなのか。


 今日はアンプで大きな音を鳴らしたい気分だったので久しぶりに部室に行った。けれども今日は別のバンドが夜まで使う予定らしい。使う予定を言っていなかったので当然である。

 帰ってもよかったけれど、せっかく学校にギターを持ってきたのだから窓から外を見ながら弾くことにした。4階からはきれいに空が見えるし、今日は晴れている。気分よくギターが弾けるかもしれない。

 流れる雲と下校する生徒を眺めながら誰もいない教室で気の向くままにコードを適当にならしていると、階段を上ってはるばる相川さんがやってきた。

 下校しようと昇降口を出てふと上を見上げると、窓のそばでギターを抱えている私の姿が見えたらしい。


 話すこともないのでギターを構えなおす。

「先輩はバンド、やらないんですか」

 机の上に腰かけた相川さんが口を開いた。

「一年生のときはやっていたんだけどね。面倒になってやめちゃった」

「面倒になったからってやめられるんですか」

「やめられるんだよねえ。方向性の違いってやつよ」

 バンドはやめたけれど、軽音部のみんなとはそこそこうまくやれてる、と思う。ただ、もうバンドをやる気にはなれなかった。


 江戸高軽音部では、新歓ライブで男女シャッフルのバンドを有志で行う伝統があった。いつからある伝統なのかは知らないけれど、イケてる男女が楽しそうに音楽を奏でる姿は新入生にとってとても魅力的である、ということをいつかのOBが言ったらしい。

 一年生の冬、私は自分のバンドと並行して新歓ライブに向けて混合バンドで練習をしていた。

 全員で音を合わせて音楽を奏でていると、体の奥底から楽しさが湧き上がってきた。私は音楽が好きなのだ。

 冬休みに入る直前のことだった。突然、ボーカルをしていた女子にベースの男子が告白した。二人が付き合うことになったのと同じ日に、ドラムをしていた男子から告白された。

 驚いた。私はバンドメンバーと恋愛することなんて少しも考えていなかったから。聞いてみると、彼らはずっと私たちを狙っていたらしい。有志で男女混合バンドができると知って、私たちに声をかけたというのがバンド結成の由来だった。

 このことが、私には許せなかった。そんなつもりでバンドを組んだのではなかった。

 中学三年生のころの私は、江戸高に受かったら軽音部に入ると決めていた。音楽が好きな仲間同士で音楽を奏でることができたらどんなに楽しいだろうと、毎日妄想してベッドに入った。

 恋焦がれたバンド活動なのに、誘ってくれた動機を知ったとたん、4人で奏でていた音楽の美しさやみずみずしさが急速に失われ、ついにはひびが入って散り散りになってしまった。

 たった一度の恋愛沙汰で音楽を奏でることへの情熱が失われ、私がバンドを辞めると決めたことは他の3人にとっては意外だったらしい。たくさん謝られ、続けてよと説得されたけれど、輝きは戻らなかった。

 目的を知ってしまった以上、もう一緒にはできないと、同じ音楽を奏でることはできないと言った。


 同級生の女子で結成していたバンドでその話をすると、みんなが私に同情し、私のために怒ってくれた。励ましや共感の声にうなずいて、私はたくさん愚痴を言った。

 それなのに、私はずっと別のことを考えていた。

 私の本当の気持ちを分かっている人はこの中にいるのだろうか。

 私が、音楽をやりたくて、ただ楽しみたいと、願った気持ちを。

 その願いがどれだけ大きくて、どれほど純粋だったかを。

 あのバンドで音を合わせて演奏することをどれだけ楽しんでいたのかを。

 私が楽しんでいた音楽は、他人の欲望のための手段でしかなかったことを知った時の気持ちを。

 

 テーブルから立って、ドリンクバーでジュースを注ぎながら考える。

 本当の気持ちなんて分からずに笑っている、この関係は本物なんだろうか。

 誰の気持ちも分からずに、うわべだけの会話と笑顔で満たされてしまうような、この関係に意味はあるのだろうか。

 私たちはバンドをするために、無意味なコミュニケーションを積み重ねているだけなのではないか。

 虚ろを積み重ねてまでバンドを続けて、バンドで音楽をやる意味はあるのだろうか。 

 

 自分の気持ちと大好きだった音楽が、ほかでもない自分のバンドに裏切られたことで、周りのすべてが疑わしく見えた。

 裏切られていることに気が付かずに音楽を楽しんでいた私自身の愚かさにも目をつぶりたかった。


 その日から、私のコミュニケーションは随分投げやりになってしまった。軽音部でもクラスでも、他人に深入りせず、どこへ行っても根無し草。

 どんな言葉をかけたって、結局すべて無意味に思えるのだった。


 それでもギターは好きだし音楽は好きだったから、二年生になるとジャズギターを練習するようになった。ギターひとつで切ないメロディーから楽しいメロディーまで自由に弾けるのだ。もともと興味があったから丁度いい機会だった。

 家で大きな音は出せないし、部で代々受け継がれている大量のエフェクターも高校生にとってはありがたかったから、ずうずうしいけど退部はしなかった。まわりと仲が悪くなったわけではないし、単にバンドが嫌になったのだと理解されていた。


 なんだか神妙な面持ちになった私を見て、相川さんが首をかしげて私を見る。

 相川さんの目は夕暮れの教室に差し込んだ光を吸い込んでガラス玉のようだ。

「相川さんは好きな曲とかバンドとかあるの」

 なんとなく聞いてみた。

「受験の時はワンオクとかよく聴いてました。最近はねごととかチャットモンチーも」

「ねごと私も好きだな」

 ねごともチャットモンチーも解散しちゃったけど。

「あ、あとラッドも聴きます。最近流行ってますよね、アニメ映画の主題歌」

「愛がどうのとかいうあれか」

 知らず知らずのうちに、愛想のない言葉になる。

「嫌いなんですか」

「ううん。嫌いではないけれど、愛とか、なんだか信じられない」

 相川さんは少しだけ目を丸くして、少し考えたあとぽつんと尋ねた。

「告白がだめだったのは、そういう理由ですか」

 少し考える。

 断る理由は、相川さんのことを知らないし、人と関係を築くことに消極的だからだ。消極的であろうと意識しているからだ。

 それなのに、あの日の燃える眼差しが忘れられない。

 あの瞳が、心臓のまん中に引っかかっていて、歩き去ろうとする私の肩に手を置く。

 だから、すっぱりと答えを出すことを躊躇してしまう。

「そうかもしれない。私、人のこと好きになったことないし。それに相川さんのこと何も知らないし」

「それなら、私のこと知ったら、少しは好きになってくれますか?」

 え?

「あの、付き合いたいとか、そういうのじゃないんです。私が、先輩のことを好きで、その気持ちは変わらないから、先輩が私のこと少しでも好きになってくれれば、そばにいさせてもらえるかなって」

「それって付き合うってことじゃないの?」

「ぜんぜん違います!」

「じゃあ友達ってこと?」

「友達でもいいんですけど……」

 相川さんは、うまく言えないんですけどそばにいたいんですともどかしげにつぶやいて、目線をそらして窓の外の夕日を見る。私もつられて夕日を見る。

 夕日が沈むのを見るたび、太陽の動きってこんなに速かったんだ、というか地球の動きってこんなに速かったんだと思う。

 秒針が正確に時を刻む音がやけに大きく響き、夕日はじりじりと沈んでいく。

 失った時間は決して取り戻すことはできないし、この時間はたった一度しかないのだと、どこかで何回も繰り返し聞いた気がする。


「江里って呼んでください」


 はっきりと声がした。

 横を見ると、相川さんは夕日に負けないくらい真っ赤に頬を染めながら、それでも私をはっきり見ていた。夕日が映った瞳は本当に燃えているみたいだ。

 私たちは知り合って、せいぜい一ヶ月。私がどういう人間かなんて相川さんに分かるわけないし、相川さんがどういう人間かだって私には分かりっこない。出会って数日で好きになる理由なんて、きっとたいした理由じゃない。

 それでも、生命の脈動が煌々と揺らめく相川さんの目に見つめられると、私の心臓はどかどかと燃料が投下されたように速く速く動き出すのだ。


「まずは『江里ちゃん』でいいかな……」

 なんだか恥ずかしくなって、声が小さくなる。

「やった! ありがとうございます」

「私のこともまりかでいいよ」

 彼女はぱっと顔をあげて嬉しそうに私を見た。

「まりか先輩」

 とびきりの笑顔だった。

「うん」

 もじもじしながら江里ちゃんが黙り込む。

 えへ、と変な声を出しながら上目遣いでにやにやしている。

「まりか先輩は呼んでくれないんですか」

「へ?」

「私のこと、江里ちゃんって呼んでほしいんですけど」

「いやいや、カップルじゃないんだからさ。そのノリなに」

「カップルじゃなくても名前は呼びます」

 今度は私が黙る番だった。

 私が彼女を江里ちゃんと呼べば、彼女との関係は確実に進展する。

 それでいいのだろうか。そうすることに意味はあるのだろうか。

 彼女が期待するような目で見つめている。後輩の頼みを断るのは先輩として忍びない。

 腹をくくって深呼吸をする。大きく息を吸って、ゆっくり吐く。つっかえないように、間違えないように、動揺を悟られないように。


「江里ちゃん」


 勇気を出して発した声は、のどの奥がカラカラに乾いてしまって自分の声じゃないみたいだった。

 彼女は私の顔を数秒間たっぷり見つめて、声をあげて笑い出した。

「あはは」

「笑わないで……」

 私はいったいどんな顔をしていたんだろう。彼女は壊れたみたいに大爆笑している。

 顔の熱さと心臓の鼓動をどうにかするのに一生懸命で慌てた私は、かかえていたギターのヘッドを窓にぶつけてしまい、教室じゅうに間抜けな音が鳴り響く。それにも大爆笑な江里ちゃんを、そんなに笑わなくてもいいじゃんと、ちょっと恨めし気に見る。

「もう帰ろう」

「はーい」

 調子に乗っている江里ちゃんに、笑うな!とゆるくチョークスリーパーをかけてふざける。

 江里ちゃんは首に回した私の手に自分の手を沿えて、引きはがすふりをする。嬉しそうな顔しないでよ。

 彼女の笑い声はずっと止まらなかったし、私も困ったように笑っていた。

 至近距離でからまるぬくもりに、なんだか友達みたいだな、と思った。


 人のいない廊下に笑い声を残して、二人してふらつきながら、もつれ合いながら歩いた。



           □



 その夜、私は夢を見た。


 私は鏡の前にいて、鏡のなかに映る自分を見ている。

 鏡のなかの風景は蜃気楼のようにゆらりゆらりと移り変わる。


 見渡す限りオレンジに染まる空と屋根のない教室で、机に座る江里ちゃんが頬を真っ赤に染めていて、それを見ている私がいる。

 

 ごてごてした機材がうず高く積み重なった部屋で、慣れないギターを持つ江里ちゃんの耳元で弦の抑え方をささやく私がいる。


 何もかもがまっしろなワンルームで、まっしろなドレッサーの前に座る江里ちゃんのさらさらの茶色の髪を梳いて、三面鏡の中で微笑む彼女を見ている私がいる。

 

 真っ暗なベッドの中で、私に背中を向けて規則正しく呼吸をする江里ちゃんを後ろから抱き寄せて、同じリズムで眠りに落ちる私がいる。


 ふと鏡から目を離して隣を見ると、もうひとりの私がいる。

 もうひとりの私は、ぼんやり鏡の前に座っている私の肩を抱き寄せる。


『全部嘘だよ』


 ささやく声は、どこか甘くて、極限まで熱した鉄のような熱さが火花となって散っていた。

 この声をどこかで聞いたことがある。

 もうひとりの私に江里ちゃんの姿が重なって見えた。

 その手にはずっしりとした鉄のハンマーが握られている。

 

 やめて。壊さないで。


『どの口が言ってるの?』


 私の心は悲しみと諦めという名の氷に閉じ込めてある。それなら、やるべきことは明快だろう。

 気がつくと私の手にはハンマーが握られていた。


 はやく壊さなきゃ。


 それなのに、熱い。

 全身が、心臓が、熱い。私の奥の奥のもっともっと奥にある中心が、熱い。

 心が燃えていて、コントロールできない。

 今すぐ駆け出せと体中に熱がほとばしる。

 今にも動き出してしまいそうな体を、精一杯の力で地面に縛り付ける。


『まりか先輩』

 

 私を呼ぶ声がする。


 どうすべきか、それともどうしたいか。


 規範と欲望がせめぎあって動けない。

 私はハンマーを握ったまま、自分の顔を鏡に近づける。

 ここは真っ暗で、何も見えない。

 もっと明るくならないと。もっと明るく……



           □



 あの夕暮れの日から、私は部室に行って活動することはないものの、週に一度、空教室でギターを弾くようになっていた。

 五月らしいの晴れの日も、うすい雲がいちめんに広がる曇りの日も、梅雨のしとしとした雨の日だって、週に一度は必ず学校でギターを弾いた。

 江里ちゃんは窓の外から私の姿を見つけると必ず4階まで来てくれた。江里ちゃんに見つかるように、江里ちゃんを見つけられるように、私も窓際でギターを弾いていた。

 ある日、江里ちゃんが窓際に座る私に気がついて、窓の外からずっと見上げていたことがあった。江里ちゃんが頬をふくらませて4階に来るまで気がつかなかった私は、どこに目つけてるんですか、と怒られた。

 それからは、空よりも下校する生徒の方をよく見るようになった。私が先に江里ちゃんを見つけて手をあげると、江里ちゃんは4階からでも分かるほどにっこりと笑って、顔の横でちょこちょこと手を振り返すのだった。


 江里ちゃんとの関係にまだ答えは出ていなかった。

 中途半端なことはよくないと思っていたから、いつでも来るのをやめていいと言わなければならなかった。けれども、江里ちゃんの笑顔ときれいな茶髪、なにより美しく燃える瞳の色がどうしても忘れられない。

 今まで必要ないと思っていたものが突然きらきら輝きだして、手離すには惜しい、そんな気持ちが生まれていた。

 江里ちゃんを待っていると胸が焦げるようにじりじりしたし、江里ちゃんが現れるとひだまりの中にいるような温かさに包まれた。今までない特別な胸の高鳴りが毎日を彩っていた。


 七月に入った頃だった。その日はとてもよく晴れていた。


 窓側の一番後ろの席からゆっくり流れる雲を見ていた。

 今日はギターを持ってきてもよかったなあ、なんて思いながら空をみていると、同じクラスの田中が、高橋なに笑ってんのと訝しげな顔をしてやってきた。田中は身長180センチ超の男子で同じ軽音部の部員である。

「高橋、今度のお別れ会くる?」

「お別れ会?なにそれ」

 軽音部はたまに退部者が出る。

 そのときは、最高学年が退部者と話し合いなんかをして終わりになるので、お別れ会なんて今までしたことがない。

 田中ははぁーと大きくため息をついてあきれた顔をした。

「九月の文化祭までは俺らが最高学年なんだからさ、おまえもちゃんと部活来いよ。一年の相川さんが引っ越すんだって」

 すっと血の気が引いた。

 つい昨日会ったばかりなのに、江里ちゃんはそんなこと一言も言っていなかった。いつものように私がギターをちょっと教えて、何事もなく家に帰ったのだ。

「だから俺ら三年生主催でお別れ会やらないかって。皆で金出して奢ってやろうぜ、焼肉」

 どうして言ってくれなかったんだろう。

 おーい高橋聞いてるかーと田中が目の前で手を上下に振る。頭を左右にぶるぶる振って不安を振り払う。

「ごめんごめん。行くよ、いつ?」

「7月23日、一学期終業式でしょ?学校早く終わるじゃん。だからその日」

 了解と返す。

 ちゃんと金もってこいよと笑う田中にあんたほど極貧じゃないやいと返して、机でひとり頭を抱える。

 私はどうしたらよかったんだろう。

 もっと優しくしておけばよかった? もっとたくさん名前を呼んでおけばよかった? もっと話を聞いていればよかった?

 心臓が空回りをして全身に力が入らない。思わず膝をゆすってしまう。

 しょせん人との付き合いなんてからっぽだ。本当の気持ちなんて分からない。だから私は誰とも深い仲になろうなんて思わない。繋がろうなんて思わない。そう思って、そういう風に生きていたんだ。


 本当にそういう風に生きていた?

 それなら、どうして彼女が去ることに動揺している?


 混合バンドの結成理由を聞いた日、足を突っ込んだコンバースが冬の風に冷たくなっていたときのこと。

 バンドメンバーが私のために怒ってくれた日に、みんなと別れたあと一人で強い横風に吹かれたときのこと。

 江里ちゃんが思いを伝えてくれた日に、外に出て白い午後の日差しに包まれたときのこと。


 すべての感情の記憶が嵐のようにごうごうと吹き荒れた。

 いつだって、空虚な関係を信じられなかった。それなのに捨てられなかったものがある。


 江里ちゃんだ。

 燃えるような目で私を見つめる江里ちゃんだ。


 きっともうあの眼差しは私に向けられることはない。

 私が激しい風の中でじっと立ち尽くしている間に、炎は風に吹かれて消えてしまったんだ。



           □



 江里ちゃんが引っ越すと聞いてから、授業なんてそっちのけで江里ちゃんに会うべきか会わないべきかずっと迷っていた。

 五月のあの日、江里ちゃんはどれほどの勇気を出して私に気持ちを伝えたのだろうか。

 その気持ちを想像しようとしただけで、胸の奥がぎゅうぎゅうと引き絞られて肚の中のものをすべて吐いてしまいそうだった。

 江里ちゃんは、曖昧な態度を取り続ける私を見捨てないでいてくれたのに、私は動けないままでいいのか。棒立ちで迷い続ける、それが私のすべきことなのか。

 江里ちゃんにまっすぐ向き合わなければいけない。

 今日はギターを弾く日ではないけれど、立ち上がる。残された時間は多くない。


 2階の教室に行くと一人で椅子に座っている江里ちゃんがいた。昼休み下駄箱に来てほしい、と伝える。

 昼休みにきちんと来てくれた彼女に礼を言うと、江里ちゃんはすべてを悟ったように微笑んだ。

 引き返したい。他人に深く踏み込むことに、こんなに勇気がいるなんて。それでも、けじめをつけなければいけない。

 靴を履き替えて外に出て、さきほどまでいた校舎の裏にある非常階段へと向かう。日陰にある薄汚れた非常階段を登りきると屋上につながる折り畳み式のはしごがある。

 江戸高の屋上はフェンスがないので、普通の出入り口には鍵がかかっている。しかし、設備点検のために点検業者が非常階段から屋上に上がっているのを見つけた私はここに折り畳み式のはしごがあることを知っていた。

 それから屋上は私だけの居場所になった。どうしても授業なんかをサボりたくなったときに使うのである。

 ここなら、二人だけで話ができる。


「まりか先輩、ここ風強くないですか」

「うん……」

 二人で屋上に上がると、ごうっと風が音を立てて吹き抜けた。思わずよろめく。

 風に負けないように地面に足を踏ん張る。


 どこまでも続く青空に、やわらかい筆で描いたみたいな雲がところどころに浮かんでいる。空はいたって平穏だが、地上から離れたここには嵐みたいな強い風が吹いている。

 太陽の日差しは刺すように強く、真っ白なまぶしさに目を開けていられない。

 屋上を見渡してみると、グレーのコンクリートの床には黒っぽいごみが散在していて、風が吹くたびにかさかさと動く。

 それでも、眼前に広がる田舎の町と頭上に広がる青空はこの上なく澄んでいて、美しかった。


 引っ越しのこと、どうして教えてくれなかったのか聞かなくちゃ。

 それなのに、言葉がのどに詰まって出てこない。今までどんなふうに人と話していたんだっけ。

 風をしのぐために、設備があるコンクリートの小屋のような場所に二人で移動する。

 風にはためくスカートを押さえながら壁に寄りかかる江里ちゃんのとなりに行き、並んで町を見下ろす。


「江里ちゃん、引っ越すんだってね」


 伝えた。

 江里ちゃんは目を細めながら私の顔を見て、はい、と言った。

「どうして言ってくれなかったの」

 風が強すぎる。

 風にかき消さないように、真横にいるのに大きな声で話す。

 私はきれいな景色を見ているふりをして、心の中は江里ちゃんのことを考えるので必死だった。

「いつかは言うつもりでした。でも、できるだけ長く、ありのままの先輩と一緒にいたかったから」

 本当に言ってくれるつもりだったんだろうか。

 何も言わずに去ってしまうつもりじゃなかったんだろうか。

 江里ちゃんの考えていることが分からない。

「まりか先輩」

「なに」

「先輩、ここにはよく来るんですか」

「たまにかな。夏は暑いし冬は寒い」

 江里ちゃんは景色から目を離して、肩をすくめて笑った。

「自分から苦しい場所に行かなくたっていいのに」

 江里ちゃんは、太陽の光を浴びるように手を横にぐっと伸ばす。

「私、ずっと転校続きだったんです。はやいときは今回みたいに半年とか。せっかく仲良くなれてもすぐさよならだし、逆に転校先では仲良くなれる人なんてなかなかいない」

 彼女のスカートとネクタイが風にはためく。白い半そでのブラウスが風を受けて膨らむ。

「私はこんな髪の色だけど、気が強いわけでもないし、実際は地味なタイプだからみんなに誤解されることが多くて。そのギャップもあるから、話しかけてくれる人は本当の私を見ていないんです。それが行く先々で繰り返される」

 ごうごうと風が鳴る。江里ちゃんはサラサラの茶髪をなでつける。

「いつからか、もういいやって思って。誤解されたままでもいいや、どうせ短い付き合いだって」

 意外だった。

 江里ちゃんは、たしかに気の合わなそうな子たちと一緒に軽音部に入部していた。でも、そんな後ろ向きで諦めた理由であの子たちと一緒にいたなんて。輪の中に入れなくなった江里ちゃんが浮かべていたうすい笑みを思い出した。

 江里ちゃんは何故かくつくつと笑っている。

「まりか先輩のこと好きになった理由、話していいですか?」

 江里ちゃんは向かい風に向かって声を張る。

「四月の終わりに、新歓で食べ放題に行きましたよね。そのとき、先輩は私のことを連れ出して、三年生の先輩たちのテーブルに入れてくれたじゃないですか」

「うん」

 江里ちゃんが会話の輪の中に入れていないように見えたから、見ていられなかったのだ。

「あのとき嬉しかったんです。普通の人は、私が浮いていることなんて、そもそも気が付かないし、気づいたとしても見て見ぬフリして時間が過ぎるのを待つんです。でも、まりか先輩は初対面の私の手を取ってくれた」

「そんなにすごいことじゃないと思うけど」

「私にとってはすごいことなんです。いろんな学校に行ったけれど、そんなこと一度もなかったから」

 江里ちゃんの左手と、私の右手が一瞬触れる。

 静電気が走ったみたいにあわてて手をひっこめてしまう。

 心臓の音が高く鳴りだす。

「新歓の日、まりか先輩は他の三年生の先輩たちとおしゃべりして盛り上げてくれた。私もすごく楽しかった。でも、まりか先輩がドリンクバーにジュースを取りに行ったときの顔を見て、思ったんです。ああ、先輩は私と同じ顔をしているって」

 いつの間にか私と江里ちゃんは見つめあっていた。心の奥底まで届くような真っ直ぐな眼差し。江里ちゃんに飲み込まれないように、目線をそらさないよう意識する。目線は一直線に絡み合い、もっともっと深くまで潜りあう。

 その目にどんどん吸い込まれてしまう。

「ここじゃない、どこか遠くを見てしまう。そんな顔をするまりか先輩は、私と一緒で人間関係をなんとなく諦めている」

 目の中には、揺らめく炎。

 その深い色をずっと見ていたくて、目が離せない。

「でも、まりか先輩はそんな世界に抗っている」

 だから新歓のとき私を助けてくれたんでしょう、と江里ちゃんはにっこり笑う。


「先輩がこんな場所に来てしまう理由、私には分かります」

 だって私も同じだから、と淋しそうにつぶやいた。

 もう止まれない。

 風が四方八方から吹きすさぶ。

「人間関係を信じられない。それは、空ろじゃない本当の人間関係を信じているからです」

 氷で固めた心の奥底に火が灯る。

「本当の繋がりを信じているから、偽りを許せない。偽りの中に身を委ねている自分が許せない。だから、誰もいない屋上に来て自分をいじめて、自分の心を守っているんです」

 江里ちゃんもこんな場所に来たことがあるんだ。

 何もかもが信じられなくて、ひとりになったことがあるんだ。


 自分の席に座ってクラスメイトと授業を受けているとき。

 軽音部の同級生と笑っているとき。

 そんなときにふと思う。

 こんなことに意味はあるのかって。

 この関係は空ろなんじゃないかって。

 すべてが疑わしくて、空ろな関係から離れようとする。

 誰もいない場所にいかなくちゃ。

 そうしてたどり着いた場所は、荒廃した場所。

 景色だけは澄んでいて美しい場所。

 孤独を限界まで研ぎ澄ませたような場所。 


 自分の記憶を思い出す。

 いつの日も、屋上に吹きすさぶ風は錆びた刀のようで、全身を刺すようだった。それでも景色だけはきれいで、この場所こそが正しいのだと自分に言い聞かせて、風に耐えていた。

 けれども、本当につらかったのは強い風でも日差しでも、なんでもなかったんだ。

 ここから見える景色を一緒に見れる人がとなりにいなかったことだ。

 私の世界を共有してなお、手を繋いでくれる人がいなかったことだ。

 他人を諦めてこんな場所に来て、それでも他人に甘えていた。


「まりか先輩。淋しいんでしょ」


 涙がぽろりとこぼれ落ちる。それは風にさらわれてすぐに掻き消えたけれど、江里ちゃんだけには分かっていた。


 先輩、泣かないでと言う甘い声とともに、しゅるりとネクタイをほどく音がした。

 ネクタイをしていない私に微笑む。

「これあげます」

「いや、私つけないから」

「お願いします」

 ゆるく締めればそんなに気にならないですよ、と笑いながら江里ちゃんは言う。

「形見?」

「縁起悪いなあ。まりか先輩に結んでほしいんです」

 どうしてと、言いながらも受け取ろうと手をのばす。涙がぽろり、ぽろりと流れてすぐに消える。

 江里ちゃんは伸ばした私の左手に右手をのせて、やさしく降ろした。

 そのあと、私のブラウスの襟を立てて、ネクタイを首にかけた。人のをやるの難しいなあなんて言いながら、丁寧な手つきで結びはじめる。ときおり江里ちゃんの手が私の首に触れて、そのたびに心臓が跳ね上がった。結び目を整えて、立てた襟をもとに戻す。

 江里ちゃんは、私の肩に手を置いて


「素敵な目」


 そう言って、私をぎゅっと抱きしめた。


「心の中にきれいな輝きをしまっている。優しいまりか先輩のことが好きなんです。そんな先輩をどうしても諦めたくなかった」

 江里ちゃんの腕の中で思う。

 私は諦めたふりをして、ずっと諦めていなかったんだ。

 本当の優しさを、本当の思いやりを、他人を信じることを。

 江里ちゃんの瞳に宿る本当の熱情を。

 江里ちゃんだって、ずっと諦めていなかった。


 暗くて狭い、孤独の世界に閉じこもった私に、江里ちゃんは手を差し伸べてくれた。

 私はずいぶん彼女に甘えてしまったけれど、それが消えてなくなってしまう前にその手を握り返せた。

 どうしても諦めることができずにあがいていた二人が手を繋いだ。

 だから、たった二人きりでこんな場所にいる。


「こんな世界で、こんな素敵な人に会ったの、はじめてなんです」

 耳元で甘い甘い声がする。

 私はゆっくり、江里ちゃんの背中に手を回す。もう迷う理由はない。

 燃えるように熱い血が全身に巡る。

 壊さないように、それでも吹き荒れる風に飛ばされてしまわないように、強くやさしく抱きしめ返す。 

「嘘ばっかりって思うような世界かもしれない。私だって思っています。だから、だからこそ、結んでください。私のネクタイを結んでください」

 毎日結ぶネクタイに託した思い。

 それは結び続けること。

 決して埋められない距離を知ってなお、強い風に吹かれながらなお、繋ぎ続けること。

 炎のような熱情を信じて、手を伸ばしてほしい。

 氷を溶かして、心が燃え上がる。


 うん、分かった。ぜんぶ、分かったよ。


 私は、江里ちゃんを信じるよ。



           □



 八月の二週目、三年生は今日から補講だった。

 いよいよ本格的に受験生生活がはじまるわけだ。


 窓の外をぼんやり見ながら江里のことを考える。

 江里の引っ越し先は坂の多い海の見える町だった。母親に撮ってもらったのであろう、江里の写真を送ってもらった。ライムグリーンのフレアスカートに白のブラウスを着て海をバックに微笑む彼女は夢で見たときみたいに綺麗だった。

 終業式の日のお別れ会が終わったあと、江里が引っ越すまでには一週間ほどあったから、できる限り一緒に出掛けたり遊んだりした。私たちはショッピングモールに行ってラッドが主題歌のアニメ映画を一緒に見たり、ボウリングをしたりした。

 私の家で江里にギターを教えた日に、はじめて彼女を『江里』と呼んだ。そのときの江里のとびきり嬉しそうな顔に、私はすっかり参ってしまった。

 今では一週間に一回、部屋の窓から空を見ながら電話をする。ささいなことから大切なことまで丁寧に話す。

 昨日、江里にある決意を話したら「応援しています」と嬉しそうな声が返ってきた。


 始業10分前に教室につくと、田中が廊下側の一番前の席で問題集に突っ伏して寝ていた。

 私はスクールバックを机の上に置いて、深呼吸する。大丈夫。頭の中で何回もシミュレーションした。それに江里がついてる。

 思い切って田中の席まで歩いていって、うしろから頭をばしっと叩いた。

 

「田中、私とバンドやって」


 のそりと起き上がった田中はわりと本気で怒っている目で私をにらむ。この一言を言う勇気を出すために、私が田中の頭をめちゃくちゃな強さで叩いたせいである。

「叩いてごめん、田中。バンド」

 田中は耳に突っ込んでいたイヤホンのコードを引っ張ってぶち抜き、背骨をボキボキ鳴らしながらあくびをして、こちらを見た。

「おまえさ、文化祭九月」

「うん」

「今八月中旬」

「うん」

「俺らあと一ヶ月で引退」

「知ってる」

 田中の眉間にしわが寄る。

「無理なお願いしてることは分かってる。でも、もう一回やりたいの」

 できればでいいんだけど、と後に付ける。

 はぁーと大きなため息をついて、すこし真面目な顔で私を見る。

「おまえギターうまいけど、今まであんまり気にならなかったんだよな。うまいだけっつーか。でも三年生になってからよくなった。なんか…やる気を感じる」

 こいつ失礼だな。田中はさっきまで自分が聴いていたであろうアイポッドをイヤホンごと私に差し出す。手に取って、再生されていた曲を確認して聴こうとする。

「イヤホン耳あかついてるんだけど」

 ばしっと私の手からアイポッドを奪い取ってイヤホンを引っこ抜いてもう一度差し出す。

「これ俺が作った曲のデモ」

「田中曲作ってたんだ」

「俺、今のバンドで普通にベースしてるんだけど、ボーカルもやりたいんだ。でも、なんか今のバンドでやる感じの曲じゃなくって」

 ごほん、と咳払いをする。

「これを録って、コンテストに応募したい」

「すごいじゃん」

「高橋、三年のなかで一番ギターうまいだろ。だから」

「あんまり気にならなかったとか言ってた人のセリフとは思えないのですが」

 今はよくなったって言いたかったんだよと、田中が言い訳する。

「田中、一応言っておくけど、私バンドブレイカーよ?」

 田中はすこしだけ考えて、混合バンドの件はあいつらも悪いよと言った。俺も面倒ごとは嫌いだ、と小さく付け加えた。

「まあ、もう一つのバンドはお前が壊したのかもしれないけど。俺のバンドは壊すなよ」

「善処します」

「まあ高橋が駄目になったら他あたるし、メンバー集めは俺がやるから。ていうかおまえ誘える友達いないもんな」 

 やはり失礼な奴だった。

 授業開始5分前の予鈴が鳴る。

「明日から練習だから!デモちゃんと聴いて来いよマジで」

「は~い」


 その日、家に帰って田中のデモを聴いた。

 田中の声は牙をむき出しにして今にも噛みつきそうな獣のようで、激しい砂嵐のような曲だった。台風が目の前に迫っているような不謹慎なわくわくが湧き上がり、私はたまらなくなってギターを手に取った。

 田中の曲は江里の目に宿っていた炎と似ている。


「けっこういいじゃん」


 音楽への情熱。

 同志は意外と近くにいたのかもしれない。



           □



 朝起きてネクタイを結ぶ。

 ネクタイの裏のタグに、『相川江里』と油性ペンで名前が書いてある。


 ネクタイを英語でいうと、tie。

 高橋(T)と江里(E)、ふたりを結ぶものは、愛(I)。

 そんな歌を歌おう、なんて思ってしまった私はぜったいに恋の病だ。


 名字と名前って、こじつけじゃないですかと笑う声が風に乗って聞こえた気がした。


 うるさいな。

 人間なんてそもそも互いに無関係なんだ。

 江里と私だって、そうでしょう。

 江里が勇気を出してくれたから、今があるんでしょう。


 本当の気持ちなんて分かりっこない。

 それなのに、だれかと一緒にいようとするのは何故?


 もう考えるのはやめた。

 江里も私も、世界に嘘と本当があることを知っていた。

 江里は、それを知ってなお諦めなかった。

 その強さを信じている。

 その瞳に宿る炎を信じている。

 江里は私に火をつけたんだよ。


 私と江里を結ぶ愛。

 もっと丁寧に、もっと沢山の色で紡いでいこう。

 絡まったらほぐして、何度だってやり直そう。

 吹きすさぶ風の中で繋いだ心を忘れない。


 今は細くて頼りなくても、いつかきれいな絆にしてみせる。〈了〉

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吹きすさぶ風の中、炎となりて燃え上がれ 木屋輔枠 @sx70

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