珍友、来たる

 俺は考えていた。友人から貰った、今は空の酒瓶について。

 腕組みをしながら開け放たれた障子から庭を見ると、少し前にかぐや姫ならぬ満月そのものが降りてきた池があり、そして目の前の机の上にはその時飲み交わした酒の空瓶が在る。


 あの晩は不覚にもそのまま縁側で眠ってしまい、あの満月がどうやって帰ったのか見届けることは出来なかった。そして夏といえども薄手の浴衣一枚で一晩を過ごしたせいで、しばらくのあいだ布団の上の生活を余儀なくされたのだ。世の中には雪の降る中で一晩を過ごしても、くしゃみ一つしない奴が居るというのに。不公平だ。


 洒落た千鳥格子の和紙が巻かれた、磨りガラスの空瓶を持ち上げる。普通ならば表記されているであろう酒の種類や成分、その他のことが何も書かれて居ない。日本酒だと、確かに俺もそうだと思ったが、実際そう告げたのは持ってきた友人だった。

 昔からあいつに関わると禄なことがないと知ってはいたのに、酒につられた自分が情けない。一体全体、何処の土産なんだか。


 溜息混じりに鼻を鳴らして、懐から煙草を取り出す。マッチを擦ろうとしたところで呼び鈴が鳴り、一旦それらを机に置いて重い腰をあげた。玄関の引き戸を開けるまえに扉はがらりと外から開き、見飽きた顔がひょっこり覗いた。

 猫っ毛のショートヘア、黒縁メガネの奥の目は、いつものように好奇心に満ちている。そばかすの浮いた鼻根をくしゃっと寄せて笑う。


「久しぶりだね。二階堂」

 噂をすればなんとやら。

「ちょうど聞きたいことがあった所だ、坂本」


 上がれよ、と言い終わる前に坂本は靴を脱ぎ捨てた。片方が玄関の扉にぶつかり派手な音を立てたが、気にもせずにさっさと奥にあがる。どんなに口を酸っぱくして言ってもこいつは『履物をそろえる』という常識を覚えない。仕方ないので、いつも通り俺が手を伸ばしてそろえる。それにしても、相変わらず汚いスニーカーだ。


 盆に急須と湯飲みと適当な茶菓子を載せ、畳みに横になって寛いでいる坂本の上を跨ぎ腰を下ろした。どうも、病み上がりのせいかまだ身体の節々が痛い。まったく、元を辿ればあの不可思議な酒のせいだ。

 坂本は机の上に置いたままの空瓶をくるくると手元で廻しながらにんまりと笑った。


「どうだった、これ。」

「まあまあ美味しかった。」

「これ、星見酒っていうんだって。」

「それをいうなら月見酒じゃないのか?」

「星見酒よ。星は見れた?」

 その悪戯が成功したような顔つきで、唐突に理解した。

「やっぱり・・・・・・お前なあ、何を飲ませたんだ。」

「別に毒じゃない。で、どうだった。」


 期待に輝く目に押され、俺はしぶしぶあの晩のことを話した。


「いやはや、まさか月が降りてくるとは聞かなかった。人によって個人差があるらしいけど、二階堂はツイてたね。」

「何処が、」

「さっすが二階堂だ。」

「何が、」


 不機嫌に言い捨てて先ほど出したままだった煙草に火をつける。煙を吐き出せば、なぜだか一緒に溜息も漏れた。そして一応の確認のために尋ねた。


「あれは幻覚の類だったのか?」

「さあ。でも、少なくとも月が消えたっていうニュースは聞いてない。」

「そうか。ま、そりゃそうだよな。」


 なんとなく少しがっかりしたような気持ちになって、灰を灰皿に落とす。あれから夜空の月を見るたびに、親近感というか親しみのようなものが湧いていたので。

 坂本は機嫌が良さそうに、小気味好い音をたてて煎餅を咀嚼している。その視線がふと庭に移ったと思ったら、煎餅を咥えたまますっくと立ち上がった。


「ところで、その月が浮かんできた池ってのは庭のあれ?」

「そうだけど。」


 ちょっと見てくる、と意気揚々と庭に下りた坂本を横目で見てから、俺は煙草をもみ消し、タオルを取りに腰を上げた。水で軽く濡らして絞る。


「ねえねえ、」

「上がる前にその足を拭け。」


 裸足のまま土の上を歩き回った莫迦にタオルを投げつけ、縁側に座る。なぜか肩の辺りまで池に突っ込んだらしい坂本は、足と腕を適当にタオルで拭いた後、何かを差し出した。


「これ。池に沈んでたんだけど。」


 水に濡れたそれは、深い紺色の御猪口だった。





 帰り際、何となく腑に落ちない気分でいた俺に、坂本はふと何かを思い出した様子で靴を履く手を止めた。振り返った目は見覚えのある輝きに満ちている。


「そういえばあれ、どうだった。あの本、」

「あの分厚いやつか?」

「そう、それ。」

「まだ読み終わっていないけど。」


 そうか、まだかな、と何やらぶつぶつと呟いた後、坂本はまた来ると言い残し去っていった。結局何をしに来たのかわからないが、おそらく本人にもわかっていないのだろう。


 湯飲みを片付けようと奥に戻ると、机に乗った紺色の御猪口が目に入った。それをもう一度手にとりながら、今度はあの雨の日のことを思い出す。思い出すと気になるもので、俺は図鑑のように厚いその本を縁側でゆっくりと開いた。

 しおりを挟んだページの挿絵には雨天を昇るしなやかな龍の絵。何とはなしに笑みが零れる。


 まったく、あいつは何処からこんなものを手に入れてくるのか。




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徒然交友日記 @NatsumeHiromoto

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