青い月に願う

宮守 遥綺

ブルームーン

 まるで、狂い咲きの桜だ――。


 ひとり、カウンターで静かにグラスを傾ける軍人を見て思った。 

 女性的な体のラインをかっちりと分厚い軍服の中に包み込み、それでありながら、伸ばされた黒髪を後頭部で高く結っているアンバランスな女。

 軍服と、女という性。

 今では数が増えつつあるが、まだまだ一般的でない女性軍人という存在は、カウンターにひとり、という視覚的情報も相まって限りない「孤独」を体現しているように見えた。


「お隣、いいですか」


 声をかけたのは、その孤独を見ていたくなかったからか。

 それとも、蠱惑的でありながら同時に儚さを感じさせる桜のような女に、惹かれたからか。

 どちらかは、僕にもわからない。

 

「どうぞ」


 彼女はさっぱりと答えると一度、グラスに口をつけた。

 太く短いオールドファッションド・グラスが傾き、琥珀色の酒が揺れる。

 からり、と氷の音。

 

「神風を」


 目の前にやってきたバーテンダーに、静かに告げる。

 ゆっくりと頷いた彼がシェーカーを引き寄せた。

 店内の柔らかな照明が、銀色のシェーカーに反射する。


 隣を見ると、女が薄く笑ってこちらを見ていた。真っ黒な瞳が照明のオレンジを反射して、挑戦的に光る。

 僕も笑みを返し、少し首を傾けてやった。

 彼女が飲んでいるのが「ラスティ・ネイル」だ、という僕の予想はどうやら当たったらしい。

 ほどなくして、音も無く、僕の前にもオールドファッションド・グラスが置かれた。

 透明で満たされたそれを女に向けて掲げる。

 彼女も飲みかけのグラスを掲げ、答えてくれた。


「……別に、大したことじゃないわ」


 ぽつりと彼女が漏らしはじめた言葉を拾いながら、僕はグラスを傾けた。

 ライムジュースの爽やかな香りが、ウォッカの辛みと混ざり合いながら鋭く鼻に抜ける。

 

「女だからね。軍隊でいろいろな事を言われるのも仕方が無い。男のひとばかりのところだもの。きっと動物園で人間が動物を眺めるのと同じ。見慣れていないから、好奇心をくすぐられるのね」


 彼女の言うことに間違いはない、と思った。

 軍隊など、もともとが男所帯だ。女が入るようになったからといって、絶対的な人数が少ない以上、好奇の目に晒されることは容易に想像がつく。

彼女のように装飾がついた真っ白な軍服を着られる女などもっと少ない。興味を引かれる男は、それこそ多いだろう。……嫉妬も含めて。


「見られるのも、噂をされるのも仕方が無いわ。注目を集めてしまうのはわかっている。だけど」


 そこで一度言葉を切り、彼女は残っていた僅かな琥珀色を飲み干した。

 心についた無数の小さな傷が生み出す苦痛を、少しでも和らげるために。


「だけど、『女のくせに』は違う。女だから男に守られていれば良い、なんて間違っている。国を愛する心は、男も女も変わらないわ」


 愛している。

 だから、守りたい。

 自分の手で。


 それは彼女の言う通り、男でも女でも関係の無い感情だ。

 愛するという心は、誰にだってある。

 そこに性別で区切りをつけられることに彼女は怒りを覚え、悲しみを覚え、絶望を覚えたのだろう。

 女であることは、変えられない。

 

 僕は静かに慟哭を聞いていた。

 それ以外の術を持たなかった。

 男である僕は、女であることに絶望する彼女にかける言葉を、見つけることができない。


 

 バーテンダーが静かにこちらにやってくる。

 彼女のグラスが空いたからだ。

 しかし彼女は顔を俯けていて気づかない。


 「……ブルドッグを、彼女に」


 頷いたバーテンダーが、氷を入れたグラスにウォッカとグレープフルーツ・ジュースを注ぐ。カラリカラリ、と氷がぶつかる音が響く。

 後ろの席ではカップルらしき男女が顔を寄せ合いながら何事か話していて、やがてクスクスと笑い合う声がした。

 静かな空間に、彼女の声なき叫びが響く。

 

 バーテンダーは心配そうな顔をしながら、何も言わずに彼女の前にグラスを置いた。

 丸みを帯びたシルエットのオールドファッションド・グラスは、黄色で満たされている。

 「希望」という言葉を聞いたとき、黄色を想像してしまうのは何故だろう、とその色を見て思った。


 彼女が顔を上げる。

 想像通り、泣いてなどいなかった。

 ただ、散る間際に一層美しく咲き誇る桜のような、強い儚さだけがある。

 

 無言でグラスをとった彼女の口元が、薄い笑みを象ったのを僕は確かに見た。

 傾けられたグラス。

 口に流れ込む黄色。

 動く、白い喉元。


 ああ、なんて。


 バーテンダーがまたこちらにやってくる。

 いつの間にか、僕のグラスは空になっていた。

 

「ブルームーンを」


 彼女の声が、響く。




 会計を終えて、僕と彼女は一緒に店を出た。

 石畳の暗い道に二人分の足音が響く。

 僕は柔らかな悲しみに捕われて、月明かりに光る彼女の軍靴を見ることしかできなかった。


「……どうして、私に声をかけたの」


 何も知らないふりをした彼女が、僕の少し前を歩きながらそう言った。

 静かな声は月明かりのように凜と、美しい。


「……ラスティ・ネイル」


 僕の返答に、彼女がクスリ、と笑うのが聞こえた。

 どこか嬉しそうで暖かな響きを伴っていると感じたのは、僕の気のせいだろうか。


「ラスティ・ネイル――『私の苦痛を和らげる』。確信では無かったけど……。たまたま、という可能性もあるから」

「そうね」

「だけど、僕の予想は当たっていた。君は僕に理由を話してくれた。むしろ僕こそ聞きたいよ。……なぜ、僕に話したのか」


 軍靴が石畳を叩く硬い音が止まった。

 顔を上げると、彼女が振り向いて笑っている。

 

「それこそ愚問よ。神風は『あなたを救う』だもの」


 冷たい月明かりに、彼女の黒い瞳が輝く。

 いたずらっ子のような、無邪気な光。

 今の僕にはその光が残酷な光に見えてしまう。

 やはりわかっていて、彼女は。


「……そうか。だけど君は、僕には振り向いてくれないわけだ」


 残念そうな色を少しだけ混ぜた、茶化すような言葉。

 悲しみを少しだけ覗かせるなんて、格好のいいやり方じゃあない。それはわかっている。

 それでもそうしてしまうのは、この美しい桜を、むざむざと散らせてしまいたくはないからだ。

 僕は見たい。

 この花が、もっともっと美しく咲き誇るところを。


 僕の言葉に、彼女が一瞬きょとん、とした顔をした。

 そして次の瞬間には、おかしそうに笑い出す。


「え、どうして」


 なぜ笑われているのかが全くわからない。

 だって、最後に彼女が僕に頼んでくれたカクテルは。


「ブルームーンは、『できない相談』だろう」


 僕が彼女に頼んだカクテル、ブルドッグは『守りたい』。

 それは「女だから」ということではもちろんなく、「彼女だから」守りたいと思った。

 名前も知らない彼女を全身全霊で守りたいと、僕は確かにそう思ったのだ。

 

 それに対して彼女が僕に頼んだカクテル、ブルームーンは『できない相談』。

 つまり「お断り」という意味のはずだ。

 

 笑みを深めた彼女が、僕に向き直る。

 冷たい月の光が、彼女を照らす。


「ブルームーンには、もうひとつ意味があるの」

「もうひとつ?」

「ええ」


 次に続く言葉を期待して、胸が高鳴る。

 少しの希望が、見えた。


「もうひとつの意味は――『奇跡の予感』」


 彼女が笑って、踵を返す。

 僕は慌ててその後ろ姿に叫ぶ。


「待って! 名前を……!」


 『奇跡の予感』

 彼女が本当にそう思ってくれたのなら。

 せめて名前という証だけでも知りたかった。

 もしも店で顔を合わせる事ができなくても、その証を辿って彼女を見つけ出せるように。


 もう一度、彼女がこちらを振り向く。

 白い軍服が、月明かりに光る。


「名前は、奇跡が起きたときに」


 今度こそ彼女は振り向かなかった。

 去って行くピンと張った背中に、結われた黒髪が落ちている。

 ゆらゆらと揺れるそれは癖が無くまっすぐで、彼女の生きてきた道を表しているようだった。


「『奇跡の予感』か」


 奇跡というものがどういうときに起こるものなのか僕にはわからない。

 誰に願えば良いのかもわからない。

 だから僕は、今宵の青い月に願うのだ。


「どうか、奇跡を」





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青い月に願う 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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