第32話 チャット

 ベランダの向こうに海がある。島と本土の間にある、穏やかな海だ。

 このロケーションが幸いし、今の僕はときどきソファーに寝そべり、潮風を感じながら昼寝を楽しむことができる。もちろん休日に限ってのことだ。

 そして目覚めたらJohn Coltraneを流しながらコーヒーを淹れ、読みかけの本を手に取り、読書に飽きたら夕食の支度を始める。

 その間、未来は本を読んだりパソコンに向かい、自分の世界に入り込んでいる。彼は人を煩わせることのない、とても親孝行な息子だった。

 平穏な暮らしと言えた。仕事は人並みに大変でも、特別なことのない生活は意外に満ち足りていた。そして重要なことは、僕がこの静かな暮らしを、とても楽しむことができるということだった。

 金は生活が困らない程度にあればよかった。特別美味しい料理を食べたり、誰もがすれ違いざまに振り返る素敵な恋人を作ったり、あるいは高級な海外旅行を楽しむような贅沢は、今の僕にとって一切必要なかった。僕は田畑と向き合う農夫のように、ひたすら寡黙に残りの人生を消化できればと、本気で願っていたのだ。

 それはある種の、反動だったのかもしれない。多くの混乱と失望や挫折が波のように断続的に押し寄せ、自分を揺さぶり続けたことに対する反動。

 それら全てに一区切りついたとき、日本を去りたい衝動に駆られた。できればフィリピンのどこかで、のんびり余生を送りたいなどという、叶わぬ夢を抱いていた。

 もちろんそんなことは、簡単ではない。食い扶持を確保できなければ実現不可能だ。異国で食っていける見込みなど、全くなかった。

 しかし、このときばかりは、神は僕を見捨てなかった。しばらくフリーランスで設計請け負いをしていた僕は、仕事でマレーシアに渡る機会があり、そのことでの縁繋がりでマレーシアへ移住することにした。

 このとき見たマレーシアは、不思議な国だった。中国人とインド人とマレーシア人の三つの人種が入り交じり、それぞれが違う宗教と言葉を持ちながら、一つの国家を形成している。

 多くの人が高級車を持ち、経済的に豊かなせいか治安は悪くない。フィリピンと比べれば、同じ東南アジアとは思えないほど、様々なものが整った国だった。

 僕は十歳の未来と一緒にこの国へ来て、二人でこの国の冒険を楽しんだ。申し訳ないと思うくらい安いローカルフードを次々試し、ドライブに出掛けては散々道に迷い、美味しいコーヒーとケーキを楽しめるショップを探した。

 普段は通いのメイドを雇い、学校が終わり帰宅した未来の面倒を見てもらった。

 僕は斡旋会社にメイドをお願いする際、来てもらう人は若くて賢い人、という注文をつけた。この注文を、相手がどれだけまともに考慮してくれるかは甚だ疑問だったけれど、注文にはそれなりの理由があったのだ。重要なポイントは、未来と友だちのように話せる人であり、ついでに日本料理を教えたら飲み込みの早い人、という点だった。

 そうやってメイドとして派遣されたのが、ジョアンという若いフィリピン人女性だった。マレーシア人は豊かになったため、メイドの仕事をする地元人は余程の年配者くらいのもので、それ以外はほとんど外国人がやっているとのことだった。

 当初奈緒美の両親は、未来がマレーシアへ来ることに反対だった。けれど未来は、根気強く二人を説得した。

 今はインターネットが自由に使え、テレビ電話でいつでも話しができる。

 彼はそのことも、説得材料として使っていた。だからマレーシアに来てから、未来はいつでも奈緒美の両親と連絡を取り合っていたし、両親はほぼ半年毎にマレーシアへやって来た。

 そうしているうちに両親は、こんな生活も満更でもないというふうに、そのマインドを少しずつ変えていった。ゆったりと静かに流れる時間の中で、屈託なく伸び伸び育つ未来を見て、彼にとってはそのほうがいいと思ったようだった。

 僕は未来を日本人学校には入れず、インターナショナルスクールへ入れた。その学校で未来は、たった一人の日本人となったのだ。友だちとの会話や授業は、全て英語となる。

 彼は最初、戸惑ったに違いない。しかし彼は持ち前の好奇心を武器に、そんな英語の世界に臆することなく馴染んでいった。

 一旦馴染むと彼は頭角を現し、学業ではいつも一番の成績を収めるようになった。日本と違い、個人の能力に合わせてカリキュラムが進む制度のもと、彼は一年に二年分の内容をこなした。おかげでテキスト代が、人より倍かかるのだ。学校側は未来を褒めるというより、その優秀さに驚きを隠さなかった。

 奈緒美の両親も、未来のネイティブな英語に舌を巻いた。そのお父さんも英語を操る。一緒に外へ出掛けると、ショッピングもレストランのオーダーも全て英語になるから、その延長でお父さんは、未来との会話が英語と日本語のミックスになった。もちろん普段英語で暮らす未来のほうが発音はそれっぽく、彼の言葉には俗語やスラングまで自然に入り、アメリカ人のような英語を話す。

 僕は未来の学校の成績を、全く気にしていなかった。家での勉強は一切強要せず、宿題もやりたくないならやらなくていいとさえ思っていた。もちろん彼が勉強するなら、そんなことは止めろとは言わないけれど。

 しかし未来は、家で勉強しているように見えなかった。それでも学校のテストは、全てといっていいほどパーフェクトなのだ。僕は不思議に思い、「どうしていつもパーフェクトなの?」と彼に訊いた。

 未来は「学校の授業を理解すれば、テストはそれで十分だよ」と言った。なるほど、それが本来あるべき姿だ。

 僕が一つだけ彼に進言したのは、中国語を覚えておくと、将来役立つかもしれないということだった。幸い学校には、中国系マレーシア人も多くいる。彼らは普段家庭で中国語を使うのだ。簡単な中国語を覚えて、中国系の友だちとできるだけ中国語で話しをすればいいと思っていた。

 海外にコネクションがあり、語学が堪能であることは、彼が生きていく上で役立つかもしれない。もはや日本の常識や価値観にとらわれて生きる時代ではない。

「未来、僕たちはたまたまマレーシアで暮らしている。だったら勉強も大事だけれど、日本では体験できないことこそ最も貴重なんだ。それが将来、君の大きなアドバンテージになるかもしれない」

 一度そんなことを彼に言うと、未来は淡々と言った。

「ダディ、ここに馴染んで暮らしていれば、意識しなくてもいくらでもそんな体験ができるよ。馴染むことが大切なんでしょ?」

 その通りだ。彼はよく分かっている。僕は未来が学校で優秀な成績を収めることよりも、彼が物事の本質をきちんと掴むことができることを嬉しく感じ安心した。

 奈緒美の両親も、未来のそんな様子に気付いたのだろう。

「未来の考え方は、随分大人っぽいね。驚いたよ」

 お父さんはそう言って、未来を見る目を細めた。両親は、未来のそんな成長ぶりに満足し、いつも安心して帰国する。

 こんな生活を未来とおくり、気付いたらマレーシアに住み着いて三年の月日が過ぎていた。その前のフリーランス期間が四年あり、奈緒美が旅だって七年が過ぎたことになる。

 七年前、奈緒美は穏やかに死を迎えた。それはみんなに失意を与え、息をする気力さえ奪った。最期が穏やかだったことが、唯一の救いだった。

 大腸穿孔から四ヶ月後の検査で全身に癌の転移が見つかり、医者と相談の上、普段の生活のクオリティを優先し、抗癌剤治療を諦めるという苦肉の選択の結果だった。

 どうにも的を絞ることができなかったのだ。どうあがいても医学的に癌へ抵抗できないなら、精一杯気力を充実させ身体の免疫力を高めようという精神的療法に、舵を切り直すことにした。

 もちろん随分割り切った選択だ。本心はそんなことで治るはずがないと思っていながら、そうすれば少し前と同じように、奇跡を呼び起こせるのだと信じ込むことにした。

 しかし、神は自分たちの心に残る懐疑的な気持ちを見抜き、奇跡を起こしてはくれなかった。

 彼女は辛い抗癌剤治療から解放され、思う存分思い出を作ってこの世を去った。

「たくさんの楽しみはね、わたしがみんなの中で生き続けるためのものなの」

 そう言って、彼女はいつでも笑顔を振りまいていた。その笑顔を見るほど、こちらが辛くなることも度々あった。

「みんなの中で、永遠に歳を取らないっていうのも、考えてみれば素敵な話しよね」

 強がりかそれとも本気でそう考えたのか知らないけれど、彼女はそんなたくさんの言葉を残した。

 彼女はそれから半年間元気に過ごし、背中に痛みを訴え入院した後、身体に麻痺が出始めた。

 僕は病院に泊まり込み、毎日彼女にマッサージをあげた。しかしその甲斐もなく、身体の痛みが日に日に増し、最後はモルヒネで疼痛のコントロールを行いながら、意識が混濁した中で眠るように逝った。

 彼女が残したノートブックには、本当に色々な事が書かれていた。

 最初のほうは、未来のことで占められていた。未来は将来、きっと学者が向いているとか、未来には逞しく生きて欲しいとか、自分がいなくなったら誰が未来を導くのかなど、希望や心配事が並んでいた。

 そして僕には、毎日の付き添いに感謝、未来の心配が解消した、仕事はきっと何とかなるよね、また独身になったらごめんね、こぶ付きになって大変だけど、すぐにいい人を見つけて欲しい、未来をお願いなどと、感謝の言葉と呟きが続いている。

 両親には、色々心配かけてごめんなさい、我儘ばかりでごめんね、産んでくれてありがとう、お父さんとお母さんの老後は未来に任せる、先に死ぬ親不孝を許して欲しい、幸せな人生だったなどと、お詫びや感謝の気持ちが綴られていた。

 いずれも短く、思い付いたことが順不同で脈絡なく書かれている。その呟きは、まるで彼女の遺言のようでもあった。

 温泉やディズニーランド、プロ野球観戦、各思い出の場所やレストラン、二人の隠れ家的バー、代々木公園、いちご狩り、遊園地と、自分が行きたい、あるいは未来を連れて行きたい場所がたくさん書かれ、実現した場所は文字の上に線が引かれていた。国内はほぼ実現できたけれど、海外は線が引かれずそのままの文字が残っている。

 そんな事柄が多くのページに渡り、一番最後は、「もっと生きたい」という願い事で終わっていた。そのあとは真っ白なページが続き、そんな彼女の記録を眺め、僕は彼女の無念を思いながら一人で男泣きした。

 僕のベッドルームの棚には、今でもリンと奈緒美の写真が並んでいる。奈緒美のメッセージには、リンに触れているものもあった。

 もし自分が死んだら、彼女の元へ戻ってあげて欲しいというものだった。

 しかし僕は、実際に奈緒美がいなくなっても全くその気になれなかった。数年は、未来の心のケアに集中していたからだ。母親を失い、父親までもが別の女性のことで忙しくしていたら、未来は取り返しのつかない傷を負うかもしれない。僕はそれが怖かった。

 僕と未来は、いつでも二人三脚のように一緒にいて、心の中に空いた穴をお互い埋め合った。苦楽を共にした二人の間には、何でも以心伝心で共有し合える、戦友のような絆ができたと思っている。そんな七年は、長いようで短い月日だった。

 こんな月日の中でも、僕はたまに、ふとした拍子に、リンは幸せを感じて暮らせているだろうかと考えることがあった。

 ふとした拍子は、自分が少し贅沢な食事をしたり、未来とレジャーを楽しんでいるときにやってくる。あるいは、今日もきちんと食事にありつけたことへ感謝の念を抱くときに、それがやってくるのだ。

 それは自分の中にある罪の意識からくる問題であり、彼女が関係する問題でもあった。彼女が幸せになれば、それはいっぺんに片付く問題だったからだ。

 僕はそのことに、いつかは自然に決着がつくだろうと思っていたし、決着がついて欲しいと心から願ってもいた。


 僕とリンは別れたあとも、お互いの誕生日に簡単なお祝いのメッセージを交換していた。誰しも年賀状だけのお付き合いという人が一人か二人はいるだろう。奈緒美との結婚後、そして奈緒美が旅立ったあとも、二人はまさにそんな付き合いを続けてきたのだ。

 しかし昨年の僕の誕生日、彼女のメッセージに対する返礼の中に僕が余計な言葉を綴ったことから、二人の会話が再開した。現在はお互いが家庭を持ち、それを大切にしている。それでもインターネット上で近況を交換する程度の会話は問題ないだろうと、僕が勝手に解釈してのことだった。

 いや、ソーシャルネットワークで知ることのできる彼女の近況を眺め、根拠は薄いながらも、僕は彼女の幸せに陰りを感じていたのだ。

 それで僕は彼女に余計なことを承知で、「幸せに暮らしている?」と訊いてしまった。

 彼女は僕の返事をずっと待っていたかのように、すぐに短い返信を寄こした。

「問題ない。あなたは?」

 彼女が幸せかどうかに言及せずそう答えたことは、僕の心にわずかな小波を生んだ。

 それでも一つのコミュニケーションが成立したことで、僕は確かに彼女が生きていることを実感することができた。

 それは不思議な感覚だった。僕の知っている彼女は、まだそこに存在していたのだ。

 僕も努めて簡潔に返事をした。

「それは良かった。僕も問題ない」

 彼女との会話は、本当に久しぶりだった。にも関わらず、僕はそれでやり取りが終了して欲しいと願った。

 僕は彼女に踏み込んだことを聞きたくないし、自分のことも話したくなかった。一先ず問題ないという返事をもらえただけで、僕は自分の気持ちを収めることができた。それに、実害のない世間話しをするにしても、二人の共有する事柄はもはや皆無で、話題探しに気疲れしそうだ。既に二人は、交わることのない別々の世界で生きている。

 それでもまた、何かメッセージが来るような僕の予感は当たった。最初はこちらから仕掛けたことだ。僕のほうには、彼女のおしゃべりに付き合う義務があるのかもしれなかった。

「今はマレーシアにいるの?」

「そう、マレーシアで働いている」

「そっちの生活はどう?」

「ここは暮らしやすい。静かで便利で快適だ。今住んでいる部屋から海も見える。僕はそれを眺めながら、よくぼんやりしているよ」

「前はもっとアクティブだったでしょう? 一体どうしたの?」

「歳をとったせいかな。何も事件のない暮らしが如何に幸せかを、いつも噛み締めながら生きてるよ。ただね、ときどき何かを考えてる。べつに呆けたわけじゃない」

 自分でそう言いながら、自分の歳が五十を超えてしまったことを、僕はあらためて恨めしく思った。

「何を考えるの?」

「例えば、どうして僕はここにいるんだろうとか」

「そうそう、どうしてあなたはそこにいるの?」

「元を辿れば、あなたも関係している」

「それは分かる気がするわ。でもどうしてマレーシアなの?」

 そう訊かれると答え辛かった。それは単に、色々な事情の積み重ねに過ぎない。人生の変遷など、必然なのか偶然なのか、きっとよく分からないものなのだ。

「たぶん成り行きというやつだ。そんなことを説明するには、たくさんの文字が必要になりそうだ」

「それはタイピングもリーディングも大変ってことかしら?」

「そう、大変。もし直接会うことがあれば、そのときにどうにか説明してみるよ」

「いいわよ。そうして」

 彼女はそのあと、マレーシアの異民族混合文化や宗教、そして僕の仕事や生活の環境などを訊いてきた。マレーシアの女性はどうかなどと、ジョークのような質問を織り交ぜて。

 彼女はきっと退屈しているのだろう。僕はそう思いながら、結局その会話に深夜まで付き合った。二人の関係に長いブランクが存在するにも関わらず、さほど話題に困らないことは意外だった。

 それを皮切りに、彼女から毎日チャットメッセージが届くようになった。

 彼女はまるで、隠しカメラでこちらを監視しているかのように、僕が仕事から部屋に戻り、一息入れた頃にメッセージを送ってきた。

 それはいつも、とても正確なタイミングだった。そして会話は、連日寝るまで途切れることなく続いた。

 会話のほとんどは、「夕食はもう終わった?」から始まった。「終わった」と答えると、次に僕は、何を食べたかについて訊ねられた。

 僕のほうからは、彼女の夕食の中身について訊くことはなかった。僕は一度だけそれを訊いて、彼女の食事がとても質素であることを知ったからだ。

 僕はそれから、自分が食べたものについてときどき嘘をつかなければならなかった。

 例えばメイドのジョアンが用意してくれる料理は、サラダや豚カツ、煮物、味噌汁という具合に、育ち盛りの未来に合わせてある程度の品数がある。実際には普通の食事でも、それを正直に文字で並べると、とても豪華な料理を食べているようになってしまうのだ。特に必要のない遠慮でも、僕はそれを彼女に伝えることが躊躇われた。だからいつも僕は、ポテトサラダとか、グリルドフィッシュといった具合に、食べたおかずのうち一品だけを彼女に報告した。

 休日もその調子でチャットになった。僕は、自分の時間が随分無くなったことに戸惑いを感じながら、それに付き合った。


 当初二人の間で、プライベートに踏み込んだ話題は意識的に避けられた。

 例えば彼女は僕と別れてから、カナダ人との間に一人の子供をもうけた。娘はもう、四歳になったはずだ。いずれ彼女はその彼と結婚して、カナダに住むようなことを短いメッセージに書いていたけれど、なぜか未だフィリピンに住んでいる。

 子供の父親とは正式に結婚したのか? それともカナダ人がフィリピンに移り住んだのか? いずれはみんなでカナダに引っ越すのか? そして最も気になっていたのは、彼は彼女にきちんと生活費を渡しているかということだった。けれど僕はそれらを、中々確かめることができなかった。

 もっとも僕は、彼女が幸せに暮らしているのを知れば、それだけでよかったのだ。そうであって欲しいという願いもあったし、そうあるはずだという希望的観測もあった。僕は決して、ディテールは必要なかった。

 ある日僕は我慢できなくなって、会話の中にさりげなく、それらを探る話題を入れた。

 しかし彼女のガードは固かった。その辺りになると、「あまり詳しい話はしたくないの」と彼女は言った。「言いたくないことは言わなくていい」と僕も同意した。

 会話が進むにつれ、彼女の現状について、僕が知ってはいけない何かがあるような気がしてきた。彼女の秘密というよりも、自分の防衛として。あるいは知っても何もしてあげられない自分の立場として。

 そのことは、彼女の会話に「問題ない」「大丈夫」という言葉は出てきても、決して「幸せ」という言葉が出てこないことから感じられた。

 そこには、知りたいけれど知るべきではないという、糸が絡み合うような複雑な心境を誘発する何かがあり、それが僕の胸のうちを彷徨うようになった。

 それでも一ヶ月を超えて会話を続けた頃から、彼女は自然に少しずつ、本心や実情を語るようになった。

 やはりその中には、僕が知るべきではない事柄がいくつか含まれていた。

「子供の父親はとても優しいわよ」

「だったらいいじゃない」

「彼は私に対し、一度も怒ったことがないの。でも……」 

「でも?」

「うまく説明できない。考え方が欧米の人そのものなのよ」

 フィリピン人は欧米の文化に馴染んでいると思っている僕は言った。

「あなたの言っていることがうまく理解できない」

「そう、例えば契約文化というか、そういうの」

 僕はますます分からなくなったし、あまりその先の話にも興味がなかった。僕が知りたいのは端的に一つだった。

「つまりあなたは今、幸せではない?」

 僕の直球的な質問に対し、彼女はこう答えた。

「それは言いたくない」

 そして当たり障りのない会話がまた続く。

 僕は彼女のその台詞で、サイコロゲームの『振り出しに戻る』を引き当てたような気分になったけれど、その後の会話には直接的表現を避けながら、彼女の彼に対する気持ちが散りばめられるようになった。

 例えば彼女の話には、「本音を言えば自分はシングルマザーで通したい」ということが何度か登場した。つまり彼女には、彼と人生を共に歩むという意志がないのだ。

 更に彼女は、自分はフリーの身で、いつ誰と旅行に行っても問題ないし、誰と恋に落ちても、あるいは誰かと結婚しても、彼には全く関係ないとさえ言った。

 彼女が不幸であることを知りたくない僕は、その類の話が出ると彼女のそれを遮りたい気持ちに襲われながら、とめどなくなく打たれて送信されてくるメッセージを読むしかなかった。

 ただし彼女は、僕の今の生活を壊すことはしたくないとも明言した。

「私はあなたをトラブルに巻き込むことはしたくない。だから色々話しているけれど、誤解しないで」

「理解してるよ、もう長い付き合いだから。僕も同じようなことを考えてる。もしこのチャットがあなたと彼の関係を壊すことに繋がるなら、僕はすぐに止めようと思ってる」

「私のほうはどうでもいいの。彼と私の関係はフリーだから。あなたはこのチャット、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。僕は未来と二人きりだから。彼はもう、自分の世界を持っている。僕が何をしていようが関係ない」

「奈緒美さんはどうしたの?」

「彼女は死んだよ。癌だったんだ。死んでからもう七年も経つ。時間が過ぎ去るのは早いね」


 僕をトラブルに巻き込みたくはないと言っても、彼女はそもそも、とても弱い存在だった。だから彼女は僕に誤解するなと言いながら、その後も自分がフリーの身であることを強調した。そしてしまいには、また前と同じように付き合えないかしらと言った。

「それは無理だ。今の僕は未来を育てるので精一杯だよ。あなたに対して責任を果たすことができない」

 僕はどう答えてよいか分からず、そんな言い方で切り返した。

 もし彼女に子供がいなければ、僕はもう少し積極的に、そのことを考えることができただろう。しかしインターネット上の情報を見る限り、子供の父親とリンや娘との間にはそれなりの繋がりが見える。僕はそれを壊してしまうのが怖かった。

「冗談よ。あなたがそう言うことは分かってる」

 僕も「冗談というのは分かってる」と言ったものの、リンが半ば本気でそれを伝えているように思えて仕方なかった。彼女は、僕の気持ちを試しているような気がしたのだ。

 僕をトラブルに巻き込みたくないということも、きっと彼女の本心だろう。彼女は聡明な女性で、分別をわきまえている。分別をわきまえるリンがそんなことを持ちかけることは、彼女が幸せではないことの証だった。

 彼女はきっと、今の生活に疲れている。将来の展望もないのだろう。せめて、何か夢を見たいと思っているのかもしれない。そしておそらく、強く変化を望んでいる。その変化が良い方向に向かうかあるいはその逆なのか分からなくても、現状を継続するより一つの賭けをしたい衝動に駆られているのだ。

 案の定、僕は彼女の生活が困窮していることを知ることになった。最初彼女は遠慮して口を割らなかったけれど、実は今日や明日食べることにも困っていたのだ。

「ケアギーバーの仕事はどうしたの?」

「子供ができて辞めたの。子供はまだ小さいし、できるだけ傍にいて自分で育てたいから、今はまだ仕事をしていないのよ」

 その類のことに限定すれば、僕も微力ながら力をかすことができる。今は以前と違い、簡単に送金できるのだ。

「お金、貸すよ」

 立場上、僕はあげると言わず貸すと言った。

「返すのが大変。いつ返せるか分からない」

 もともと僕は、返してもらうつもりなどない。便宜上、貸すという表現を使ったに過ぎない。

「返金が大変なほど貸せないから心配要らない。返せるときに返してくれたらいい。すぐに送るから、あなたのID番号と電話番号を教えて」

「すぐにって、どうやって?」

「ウエスタンユニオンがある」

 彼女は天上に二つ目の月でも発見したかのような驚きを、「ああ」という文字をたくさん連ねて表現した。

「今すぐパソコンから送金できる。すぐにあなたの情報を教えて」

 こうして僕は、その場でリンに送金した。

 彼女はそのお金で食料品を買い込み、テーブル一杯に広げたそれを写真に撮って送ってくれた。続けて、何かの公共料金を支払ったレシートの写真も届いた。

 昔は彼女に散々送金したけれど、そんな報告は一度もなかった。もっとも今の時代のように、インターネットが普及していなかったからかもしれない。あるいは彼女は、親になって少し大人になったのだろうか。

 

 そんなことがあったせいで、リンは子供の父親の問題点を、具体的に教えてくれるようになった。

 僕はお金を送ったからといって、その手の話しはあまり聞きたくないのだけれど、チャットメッセージとはそんな機微を伝えるのが難しい。さてと思案している間に、どんどんメッセージが送信されてくる。

 簡単に言えば、彼女と子供の父親との関係は、良好ではなさそうだ。二人は正式に結婚をしていない。

 彼のほうはリンと結婚し、一緒にカナダで暮らすことを望んでいる。しかし彼女のほうがそれを拒んでいた。

 正式な結婚というペーパーワークはどうでもよいけれど、問題は、彼女がそれを拒んでいることだった。いや、拒む理由のあることが、ここでいう問題の本質だ。

 確かにリンの話を聞けば、彼女が結婚を躊躇する理由に納得できるものも多い。そして彼女には、結婚相手に対しそれなりの希望があった。

 第一に、彼女は安定的な普通の生活を望んでいる。リッチでハイソな暮らしを夢見ているのではない。それに対し彼の収入は不安定だ。だから子供の養育費の送金も十分とは言い難く、しかもそれがときどき滞るからリンは大変なのだ。

 そんなときに彼がリンに語るのは、いつでも数ヶ月先は夢のような暮らしができるということだ。彼女は実現した試しのない夢物語を繰り返し聞かされ、それを全く信用できなくなってしまった。

 加えて彼女は、彼に自分の家族のサポートを望んでいる。それに対して彼は、全く理解を示してくれない。彼女の家族をいたわる気持ちすら持ってくれない。だからおいそれとカナダには行けないと彼女は言った。

 以前の自分も、様々なフィリピン事情に対する理解は薄かったけれど、家族をいたわる気持ちは共有できたはずだ。それに僕は、リンとの付き合いを通して、こういった関係には多かれ少なかれ、フィリピン人家族のサポートが必要になることを分かっている。

 要はリンは、彼が僕と同じように、年月を経て彼女の生活環境を理解できるとは思えないのだ。つまり基本的に、彼女は彼を人として信用しきれないということだった。

 一旦話し出したリンからは、堰を切ったように彼に対する愚痴が飛び出した。

「以前彼の友だちの結婚式に招待されて、みんなでタイに行ったの」

「知ってる。インターネットで見たよ」

「それで式の前日、みんなで友だちの泊まるホテルに行ったんだけど、私と娘はずっとお腹を空かせているのに、彼はいつまでも友だちとお酒を飲んでるの」

「別行動で食事に行けばよかったじゃない」

「お金がないから行けないのよ」

「え? お金がない?」

「そう、彼はいつも、小遣いを一切くれないの」

「で、どうしたの?」

「娘と一緒に我慢した」

 僕は唸るしか手立てがなくて、本当に「ふうむ」と書いて送信した。

「彼は空港でも飛行機の中でも、ずっとお酒ばかり飲んでるの。飛行機の中で子供はずっと泣いているのに、そんなこと彼には全く関係ないのよ。子供が一緒だから、いつも酔っ払っているのはよくないでしょう? 何かあったらどうするの」

 僕は曖昧に、「まあ、そうだね」と答えるしかなかった。

「彼はセブの空港から直接カナダに帰ったんだけど、そのとき私は彼に言ったの。もう二度と一緒に旅行なんか行かないって」

「なるほど。それで彼と喧嘩になったの?」

「喧嘩になったほうがいいわよ。でも彼は笑って、ごめんって謝るだけなの。問題はそのとき彼が、やっぱり私にお金を渡してくれないことなのよ。旅行でお金を使ったのに、そのあとの生活はどうするの」

 それは確かに困った問題だ。僕は「そうだね。生活費は重要だ」と言った。

「そんなことはこれだけじゃないの。私の誕生日に、彼がカナダからセブのリゾートホテルをとってくれたの。プレゼントだって」

 僕はそのことも、インターネットで見て知っていた。

「だから私、子供と姪を連れて泊まりにいったの」

「なるほど、だから彼がいなかったのか」

「でも、ホテルに行ったら食事が全部別支払いなの」

「その分のお金を、彼はくれなかったの?」

「くれないし、そんなことを事前に何も話してくれないの。知ってる? 小さなホテルでも、朝食だってすごく高いのよ」

 彼の神経の使い方は、自分とは随分違うようだと思いながら、僕は「知ってる」と言った。

「そんなお金はないし、リゾート地だから、コンビニもないでしょう?」

「そうかもしれない」

「だからホテルの外で安い食べものを探すのが大変だったの。ようやく見つけて、食事は全部、部屋の中で食べたわ。チェックアウトのときなんて、何か請求されたらどうしようって生きた心地がしなかった」

 僕も旅先で何度も心細い思いをした経験があるから、その気持ちはよく理解できた。

「そうか、インターネットの写真だと楽しそうに見えたけれど、大変だったんだね」

「楽しそうな写真を選んで載せただけよ」

「そっ、そうか。それはお疲れ」

「本当にそう。私ね、以前彼に別れたいって言ったの」

「それで彼はなんて答えたの?」

「嫌だって。でもそんな話しをしたのは、一度じゃないの」

 僕が聞いた話はこれだけではない。

 しかしいくらそれらを聞いても、彼女の将来を決めるのは彼女自身であるべきで、決して僕は口出しできないのだ。それは助言する者として、僕はその結果に対する責任を取れないからだ。

 だから歯がゆさはあるけれど、彼女に言えるのは「自分のことは自分で決めるしかない」ということだけだった。彼女もそれは分かっていると言った。

 今のフィリピンの社会情勢で、定職を持たず、子供を持つ彼女の選択肢は限られている。カナダの男性に頼るか、あるいは別の頼れる男性を見つけるか、それが現実的かつ即効性のある選択肢だ。

 僕はそのことも進言してみたけれど、彼女の本心はそのどちらも拒んでいる。しかし彼女は、ノーと言いたいのに、イエスと言わなければならない状況下に置かれている。それがこちらに伝わってくるだけに、彼女に下駄を預けるのは可愛そうだけれど、僕にとってここは、筋を通しておきたいところだった。

「彼との間に子供を作ったのが私の落度。ピルを飲んでいたけれど、避妊に失敗した結果なの。もちろん子供は可愛いし愛しているわよ。でもこうなったのが、全て私自身のせいだということは自覚している」

 こうなると僕は、やはり余計な話は聞くべきでなかったと後悔するのだけれど、聞いてしまったものをテープレコーダーみたいに巻き戻して消去することもできない。だから僕はこの際、ため息をつくしかなかった。


 そんなリンが自分の人生に及ぼした影響は、決して小さくない。彼女がいなければ、僕は今頃、まるで違った人生を歩んでいたはずだ。彼女にしても、僕と出会うことがなければ、また違った人生を歩んでいたのかもしれない。

 そして現在、現実として、彼女はその日の食べるものにも困っている。僕はと言えば、安穏とした日々を送っている。

 僕はそこに、強烈なコントラストを感じずにはいられなかった。だからこの問題は、僕をとても憂鬱にさせた。

 彼女の生活環境は元々歪んでいたのだ、それは彼女自身の問題だと自分に言い聞かせるけれど、そんなことを考えるほど、僕の憂鬱な気分は泥水をかき混ぜるみたいに益々混濁した。そこにはコントロールが困難な何かの感情が存在し、それが僕をさいなむ。

 おそらく自分の中には、彼女に対する情が未だに残っているのだろう。家族に対する情愛と似た感情が。それこそが、本物の愛かもしれない感情が。

 しかも彼女との関係には、どうにも決着のつかないことがある。リンの気持ちを考えず、僕が彼女を一方的に突き放したことだ。

 それに対する罪の意識は、自分の中にこびりついた十字架のようなものだった。僕は長年、心のどこかでそのことに負い目を感じながら生きている。

 だからこそ、僕は彼女が幸せになるのを願ってきたし、インターネット上で密かにウォッチを続けてきた。

 彼女の現状が本当に芳しくないとしたら、もう少し踏み込んで彼女を助けるべきだろうか。

 もちろん、そうしたいのはやまやまだ。

 しかし実際、僕は揺れた。ここで情に流されてしまえば、果たして今度は何が起きるのだろうか。今更彼女に関われば、ようやく落ち着いたこの平穏な生活は乱れるだろう。既にその兆しも見えている。

 彼女の生活にも、おそらく何かしらの変化が現れる。まして二人の人生は、もはや二人だけのものではない。僕には未来がいて、彼女には娘がいる。そして娘の父親も、由緒ある関係者の一人として存在するのだ。

 それでも僕は彼女に対し、誠実でありたいと思った。そして誠実であり続けるには、自分はどうすべきかも考えた。

 困っている彼女を援助し、できるだけ彼女の望みを叶えてあげる。それは誠実の一つの形として、十分有り得るかもしれない。しかし、それだけならば過去と何も変わらないような気がする。二人の間にあった幸せな思い出をもう一度再現できるかもしれないけれど、二人の間に起こった不幸なことにももう一度遭遇するかもしれない。

 僕は随分長く、この状況について考えた。かつて彼女との間に起こった出来事とは、一体何だったのかについて。

 無節操で秩序のない援助がもたらす人間の欲求と心の変遷。その背景にあるものが愛だとしたら、その愛とは何か。その背景にある関係性が友人や恋人だとしたら、その関係性の正体とは一体何で、それが人にもたらすものは何か。

 考えてみて、分かることもあれば分からないこともあった。

 僕がかつてリンとの付き合いから得たものは、はっきりと自覚している。

 世の中の不公平を知り、自分の常識が常識でないことを知り、人間の幸せとは何かを感じながら自分は成長した。それまで自分を縛る既成概念から少し逸脱した体験をして、自分の底がどの程度かを見つめ、新しい何かに踏み出す度胸が醸成された。そして新しい挑戦は、自分に新しい経験と知識や感慨や後悔を与え、それが別の新しい何かを自分の中に積み上げてきた。それがまた次の何かに踏み出す力となることを、今の自分は実感として分かっている。

 それらが掛け替えのないものだということも、僕は痛感し承知しているのだ。

 しかし、一つ気付いたこともある。

 僕はリンに対し、誠実であり続ける必要などないということだ。仮に、過去彼女との間にあったことや現状を親しい友人に説明し相談したなら、おそらくもう関わるなと助言されるだろう。

 お前には、これ以上彼女を助ける義務も必要もない、自身のことを優先すべきだと言われるに決まっている。

 客観的で第三者的自分は、実はそう思っているのだ。だから答えを知っている自分は、誰にも何も相談などしない。

 しかし、リンに対して誠実でありたいという自分の気持ちがどこから来るかを考えて、僕は既に一つの答を、自らの思考の中で拾い上げていた。

 僕は思い切って、リンと腹を割って話そうと決めた。チャットではなく、久しぶりに直接声を聞いて話す必要があると思った。

 休日前の夜、食事が終わり片付けが済んでから、僕は彼女にメッセージを送った。読書に夢中になっている未来は、自分の部屋へこもっている。

「これから電話をしたいけれど、大丈夫?」

 ほんの十秒後、リンから返事がきた。

「いいわよ。でも、なんの話し?」

 僕はそれに答えず、携帯のコールマークを押す。彼女はすぐ電話に出て、明るく「久しぶり」と言った。「突然、どうしたの? わたしの声が聞きたくなった?」

 そう言われると、そんな気がしてくるから不思議だった。

「いや、そうじゃなくて、相談したいことがあるんだ」

「何よ、珍しいじゃない。お金を貸してと言われてもないわよ」彼女の甲高い笑い声が響く。

「何か楽しそうだね」

「それは楽しいわよ、久しぶりに話しをしてるんだから。あなたは楽しくないの?」

 やっぱり彼女は陽気だった。僕が知っている彼女とは、まるで別人のようだ。

「もちろん楽しいよ。でも今日は、大事な話しをしたくて電話したんだ。今日のあなたは、まるで陽気なフィリピーナみたいだね」

 彼女は再び楽しそうに笑い、「わたしは元々フィリピーナよ」と言った。「それで、話しは何なの?」

 僕は真っ直ぐ本題に切り込んだ。

「あなたの生活のことだよ」

 少し間が空く。彼女には、その話題が意外だったようだ。というより、話しの終着点が何処にあるのかを読めず、困惑したということかもしれない。

「何のこと?」

「確認したいんだけど、あなたは今、いつも生活が苦しいの? 詳しい事情は訊かないし説教じみた話しもしないから、あなたの正直な現状を教えて欲しいんだ」

 少し言葉に詰まったような彼女の気配が、受話器を通して伝わってくる。二呼吸くらい置いて、彼女の言葉が届いた。

「現状は、あなたの知っている通り楽じゃないわよ」

「この前みたいに、いつも食べ物を買うお金がないの?」

「いつもではないけど、大体そう」

「そんなときはどうしてるの?」

「オーストラリアにいる姉に助けてもらったりしてる」

 彼女の姉は、かつてポリスマンでプータローになった内縁の夫と別れ、年配のオーストラリア人と結婚していた。どこでどうやって相手を見つけたかは知らないけれど、夫と一緒にオーストラリアで元気に暮らす様子が、ソーシャルネットに時々投稿される。

 それは本当に溌剌としていて、いつでも幸せそうだ。以前はリンが姉を助けていたから、今度はリンが助けてもらう番になったようだ。

「なるほど、上手くできてるもんだね。でもこの前の様子だと、援助は十分ではないんでしょう?」

「姉も家庭を持つ身としては、仕方ないわよ。わたしだって助けてもらうのは恥ずかしいし、少しでも援助してもらえるだけ有難いわ」

「誰の助けもないときはどうするの?」

「我慢するしかないわよ」

「我慢できないことがあったらどうするの?」

「どうしようもないわよ。ただ我慢するしかないの」

 確かにその通りかもしれないけれど、僕が言いたいことは少し違った。

「我慢が必要なことは分かる。でも、例えばあなたの子供が死にそうになっても、病院に行くお金がないと我慢するの?」

「もちろんそうなったら色々手を尽くすわよ。でも、それでも病院に行くお金を得られなかったら、どうしようもないでしょう?」

 彼女が言ったことを、僕は自分の身になって考えてみる。そんな事態になれば、その通りなのだ。

「それはそうだけど、だからそうならないよう、普通は緊急事態に備えてお金をキープするでしょう。でも今のあなたはいつも緊急事態で、お金を寄せておく余裕なんてないってことだよね?」

「そうよ。今食べなきゃ死んじゃう状況で、将来に備えるために今死んじゃったら、それはナンセンスでしょう? 死んだら終わりなんだから」

「それはそうだ。でも、そんな状態はあまりよくない気がするんだけれど、あなたはどう思ってるの? 今の状態であなたは幸せ?」

「幸せよ。娘は可愛いし、彼女はいつもわたしを癒してくれる」

「それも理解できる。けれど、愛する娘にいろんな体験をさせてあげたいとか、教育のこととか、そんなことでの可能性を広げたいとは思わない? 今のままじゃ可能性どころじゃなくてリスク満載だ」

「それは分かってるわ。だからいつも不安なのよ。でも、どうしたらいいのか分からないの」

「そのどうしたらいいかを、今度直接会ってゆっくり話したいんだ。まずは給料が安くても、子供を育てるのに支障のない時間は働くことを考えないと。小さなビジネスを始めるのはどうだろうか」

「お金がなければ、ビジネスだって始められないわよ」

「元手の小さなところから始めるんだよ。僕も昔みたいに手助けする。計画もこっちでドラフトを作る。あとは相談しながら決めればいい。もちろん、あなたにやる気があればだけれど。どうかな?」

「あなたがサポートしてくれるなら、やってみたいわ。今のままじゃだめなのは間違いないの。でも、どうして突然そんなことを考えたの? また昔みたいに、二人は付き合うということ?」

 僕は以前のように、無計画で垂れ流し的な援助をするつもりはなかった。

「いや、今回あなたを助けるには、いくつかの条件がある」

「それは何?」

「色んなことが軌道に乗るまで、僕はあなたに援助をするけれど、それは永遠に続かない。計画に沿って僕の援助は減っていく。それを承知してもらいたい」

「それはいいわよ。他には?」

「あなたにはしっかり頑張ってもらう。結果が悪くても頑張っていたら僕は助ける。あなたに頑張る姿勢が見えなければ僕は手を引く。これが二つ目」

「何か怖いわねえ。分かった。それで? まだあるの?」

「これが最後の条件になる。僕はあなたを支援するけれど、それはあくまで、友だちとして助けるということ。昔のように、男女の関係を背景とした援助ではないことを、あなたにはよく承知しておいて欲しい」

「それは何で? どうしてそんな条件があるの?」

「僕はもう昔のように若くないし、あなただって子供がどんどん大きくなる。ゆっくり時間をかける訳にはいかないと思うんだ。だからこれは短期間で結果を出すために、真剣勝負で臨もうと思う。余計なことに煩わされないよう、僕とあなたの関係はビジネスのことだけにしたい。娘の父親が入ってきてややこしいことになるのも困る。つまりあなたの私生活は自由なままだ。僕があなたを援助しても、あなたは何にも縛られることはない」

「あの人のことは何度も言うように、今は何も関係ないのよ。それにそうだったら、このプロジェクトでのあなたのベネフィットは何になるの?」

「あなたが関係なくても、彼には彼の感情があるはずだよ。それに僕は、あなたを助けることに対して何の見返りも期待していない。単にあなたの成功と自立だけを願っている」

「もしわたしが自立したら、そのあとはどうなるの?」

「全てはあなた次第だ。あなたがしたいようにすればいい。もしあなたが自立して様々な選択肢を手にすることができたら、あなたの思う通りに生きてみればいいと思う。そうなったら僕は本当に嬉しいし、それが僕のベネフィットだと思う」

「それがあなたのベネフィットになるとは思えないんだけど」

「どうして? もし僕が嬉しいと感じたら、それは立派なベネフィットだと思うけど。僕はね、自分が死ぬ前に気掛かりなことを片付けたいんだよ。それはあなたと未来のことだけなんだ。この二つに見通しがついて二人が幸せになれば、そのあと僕も、自分のことだけを考えることができる」

「そう言ってもらえるのは嬉しいわよ。でもね、わたしはあなたのために、何をすればいいの?」

「僕がこの先苦しくなって、あなたがそれを見て辛いと感じたら僕を助けてくれたらいい。そう感じても助けることができない事情があれば助ける必要はない。もし僕に関わりたくなければ関わる必要はない。僕は自分が納得できるだけでいい。何も見返りを期待しないんだから、何がどうなっても構わない」

「つまりあなたに、二人の関係を元に戻す意思はないということ?」

「はっきり言うと、今はそのつもりはない」

「今は? 将来は有り得るの?」

「将来、そうなった方がよいと思う状況になったらそうなるかもしれない。でも今は、そういった余計なことを考えず、ドライな関係であなたの自立に集中したい。それがこの提案の目的なんだよ。あなたがこの条件に同意するなら、僕はセブに行って、直接あなたと具体的な相談をしたいと思っている。どうかな?」

「いいわよ。だってわたしには、一つもリスクがないじゃない」

「リスクだらけの人にリスクを課しても仕方ないよ。ただし、あなたも今までのようにのんびりはできない。あなたはよく分かっていないと思うけど、まっとうにお金を得るというのは、普通は大変なんだから」

「そのくらいは分かるわよ。ところで、あなたのビジネスのアイディアは何なの?」

「ハンバーガーショップなんてどうかと思うんだけど。セブは外国人が多いから、主に外人をターゲットにして。肝心のハンバーグは特別なオリジナルレシピがあるんだ。自分で作ってみたけど、どのハンバーガーとも違うし美味しいよ。ほんの少し高くても売れると思う。あまり無理をせず、一日二百個くらいの限定にして、一個当たり五十ペソ程度の利益を見込む。すると一日一万ペソの利益になって、一ヶ月で大体三十万ペソの利益になる。一日千個売れたらその五倍の利益だよね。実際にはそんなに上手く事は運ばないはずだから、一日十個や二十個くらいの売り上げ目標から始めるんだ。数は売上の様子をみながら増やしていけばいい。評判になればコーヒーショップに営業して、卸し販売する道だって開ける。そうやって、最低限の販売数を確保する。できれば利益の二十パーセントは次の投資用として寄せておきたい。数が増えれば人件費や経費が増えて、規模を増やす途中で資金が必要になるから。そうやってじっくり規模を大きくしていけば、自分の取り分も増えていくよ」

「店舗はどうするの?」

「それが一番思案のしどころだね。最初は屋台、上手くいきそうだったら車で販売するのがいいかもしれない。そこは投資が必要となる。中に入れるハンバーグの調理方法にも工夫が必要だ。一日二百個としても、それだけ作るのは簡単じゃない。仮に一日十時間営業するとして、一日二百個売るとしたら、一時間に十個のハンバーグを作ればいい。それだったらどうにかなる。それが五倍になれば一時間五十個のハンバーグを調理することになる。そうなると専用の調理器具とスタッフが必要になる。そうやって規模と必要な人手や店の大きさを想像すれば、具体的なイメージがわいてくるよ。野菜は玉ねぎだけだから、カットは家庭用の野菜カッターを使えば調理は大変じゃない」

「そうね。確かにイメージができるわね。何となくできそうな気がしてきた」

「そういった詳しい計算ややり方を、こっちで考えて作ってみる。それをベースに相談したい。実際やり始めたら、きっと色々な問題が出てくるよ。衛生面に気を使うのも大切だけれど、もし人を雇うならそれに対するマニュアルみたいなものが必要になる。ハンバーガーを包むペーパーのデザインや発注も必要だ。簡単な看板やメニューボードも作らないといけない。ビジネス登録も必要だし、販売に許可が必要かを調べる必要もある。それに販売場所のリサーチだって大切だ。小さなビジネスといっても、やるべきことは山ほどあるよ」

「確かにそうねえ。簡単じゃないのね」

「だから忙しくなる。投資に対する回収計画も資金計画に盛り込む。全てをただで進めるわけではないよ。ただ、僕は元手を回収できたらそれでいい。余計な利益は要らない。それにハンバーガーショップじゃなくてもいいんだよ。あなたもアイディアを考えてみて。それでどう? そういったビジネスに踏み込んでみる?」

「頑張ってみる」

「分かった。それじゃあ、ビジネスの相談と観光を兼ねて、僕が未来と一緒にセブに行く」

 久しぶりの音声による会話は、一時間ほどで終了した。これで、再び僕が彼女に関わることが確定したのだ。やっぱり彼女は、僕にとって腐れ縁ということのようだ。

 厄介でも面倒でも、関わることを止められない腐れ縁という関係。

 それは、彼女と再び関わることに対する一つの言い訳に過ぎないような気もしたけれど、僕は、そうであるなら仕方がないではないかと思うことにした。それでそれとなくすっきりするのだ。

 心の中にわだかまりを抱えて生きるより、そうやってすっきりさせた方がいいのだろう。僕はそうやって、ビジネスの計画を具体的に練り始めた。


 計画がまとまり出したころ、僕は未来と自分のセブ行きチケットを用意して、リンにチャットでそれを告げた。

「ようやくビジネス計画のドラフトが出来上がったよ。未来と一緒にセブに行こうと思っているけれど、あなたは構わない?」

 少し間が空いて、返信が来た。

「あの話は、やっぱり本気だったの?」

 意外な彼女の返答に、僕は一瞬戸惑う。

「え? 僕は本気だけれど、あなたは冗談だと思ったの?」

 彼女は笑いを文字で表現した。

「わたしも本気よ。ただ、あれから連絡がなかったから、そう思っただけ」

 なるほど、彼女には現実味がないらしい。それはそうかもしれない。こういったものは、実際に動き出さないとさっぱり分からないのだろう。

「それならいいけど、とにかく手元の計画を送るから、一度目を通して欲しい。特に材料費は、現実と合っているかよく確認してくれないかな。ここが狂うと、全体の利益が変わってくる。詳しいことは、会って直接相談しよう」

「本当に来るの?」

「そっちに行くのは何かまずい?」

 彼女はやっぱり文字で笑った。

「まずくなんかないわよ。ただ、どうして突然こんな話になってあなたがセブに来るのか、まだ不思議なの」

「腐れ縁の人に会うことは、普通のことだよ」

 ここで少し間が空いてから、次のメッセージが入った。

「そうね、わたしたちは腐れ縁だったわね。本当にそうなのか、疑わしかったけど」

 彼女は僕の昔の話をまだ覚えていたようだ。

「もしあなたも娘と一緒にホテルへ泊まりたいなら、あなたの部屋も用意するよ。もちろん朝食付きで。支払いは全てこっちでするから、今回余計な心配は何も要らない」

「ありがとう。娘に話したら絶対泊まりたいって言うけど、本当に話して大丈夫?」

「大丈夫、水着持参で泊まればいい。プール付きのホテルにするから」

 こうして僕は、未来を連れてセブに行くことになった。


「ダディ、どうして突然フィリピンに行くの?」

 彼にとってもこの話しは唐突過ぎたのか、未来は不思議そうな顔で訊いた。

「未来は行きたくないの?」

「もちろん行きたいよ。ただ余りに突然だから」

「聞いてしまった責任ってやつだよ」

「何それ? 全然分かんない」彼は益々怪訝な顔を作った。

「まあ、詳しいことは、追々説明するよ。少しややこしい話になりそうだから」

 僕はそれから、たくさんのクッキーやチョコレートを買った。シーフードカップヌードルも用意した。外に出掛ける度に、スキンクリームやシャンプー、歯磨き粉など、思い付きで日用雑貨も買い足し、それらは小山を作るくらいの量になった。

「それ、誰かへのお土産なの?」

 未来はそれも不思議そうに訊いた。

「うん、向こうには、君に紹介したい人たちがいるんだ」

 きっと彼は、リンに会って驚くだろう。なにせフレームの中に何年も見てきた謎の女性との、突然の面会と相成るのだから。生きているリアルな人だったの? なんて、彼は目を丸くして言うかもしれない。

「セブに行ったら何をするの?」

 僕は未来にセブの街を見せ、以前自分がその街に何を感じたのかを説明することになるだろう。人間の生命力が詰まったあの街を見ながら。

「さあ、何をするかなあ。まだ何も決めてない。ただ、ホテルはビーチリゾートにしようと思ってる。僕はビジネスの話しがあるから、忙しいときには小さな女の子の遊び相手をお願いしたいけど、いいかな?」

「それは構わないけど、その女の子ってだれ?」

「ビジネスパートナーの娘だよ。今は四歳か五歳くらい。君の妹みたいな子だよ」

 珍しく未来は驚いて、時間が止まったように無言で僕を見た。

「みたい……ってどういうこと? まさか、本当の妹じゃないよね?」

「本当の妹じゃないけど、関わりとしては本当の妹のようなもんだ。これから君にも色々と説明していくことになるけれど、セブには僕の家族がいるんだよ。これはママも知ってることなんだ」

「それはダディの本当の家族?」

「法律上は本当じゃないし、血の繋がりもない。でも、君は本物かどうかにこだわっているようだけれど、本当の家族とは何かをよく考えてみた方がいい。これは君にとっても、大切な意味を持つテーマになるはずだよ」

 未来は僕のその言葉で、少しおし黙った。彼は僕の与えた課題に、既に思考を巡らし始めたのだ。彼は小さな頃から、そんな素直さを持ち続けている。

「ダディ、何かヒントはある?」

「今はないけど、セブに行ったら君は、直接的あるいは間接的に色々なことを知ることになる。そこにヒントや答えまであるかもしれない。だから焦って考える必要はないよ。とにかく残念ながら、僕は今それを上手く説明できないし、きっと君にもすぐに答えを導くのは難しいと思う。でも自分の経験上、海の向こうにはいつでも何かがあるんだ」

 以前、日本で大きな地震があったとき、リンが久しぶりにメッセージをくれた。

「大きな地震があったみたいだけど、大丈夫なの? 放射能漏れ事故があった場所は、あなたのいる場所から近いの? 姪たちも心配してる。直ぐに安否を確認してって、みんながメッセージをくれたの」

 普段連絡を密にとるわけでもなく、まして近くに住んでいるでもない。それでも何かがあれば、直ちにこうした連絡が来る。

 実はそこに未来が求めたヒントがあるのだけれど、表面的に見えることを表面的に伝えても、あまり意味があるようには思えない。それは今のところ、僕にしか理解できないことだ。

 それはつまり、僕とリンの関係からサポートを引き算しても、その解は零にならなかったということだ。

 リンが言った通り、そこには単純な算数では表しきれない何かがあった。その何かが何であるかを未来が理解できたら、彼の人間性に深みが増すのではないだろうか。僕はそこに、大きな期待を寄せている。

 もし奈緒美が生きていても、僕はリンを支援し、未来をその世界に引きずり込んだかもしれない。奈緒美と未来にはセブでリンに張り付いてもらい、新しいビジネスの支援をお願いしただろう。彼女は面白い試みだと言って引き受けてくれたはずだ。

 僕の心の中にある重石を取り除くためなら、彼女は一肌も二肌も脱いでくれたに違いない。彼女との間に感じた絆が、今でもそれを確信させる。今ここに彼女がいれば、とても強力な助っ人になったはずだ。

 もし彼女が生きていれば……。

 それは痛恨を呼び覚ますだけの、意味の無い仮定だった。

 奈緒美はフレームの中で、永遠の笑みを浮かべている。

 僕は彼女の意思を確認するように、心の中で呟いた。

「未来をセブに連れていく。いいよね」

 彼女は今にも、あなたの思った通りにしてと言わんばかりに、美しい笑顔で僕を見ていた。

 無性に彼女の声が聞きたくなったけれど、僕は叶わないその欲求を持て余しながら、写真の中の笑顔をただ見つめるしかないのだ。

 そのことで僕は、彼女がもういないことに、久しぶりに泣きたい気分になる。

 僕の中にある宇宙は、今では本当にたくさんのものを内包していた。挫折や絶望、そして愛や夢や希望まで。

 全ては海の向こうで始まった。それは未だ、限界に抗うような伸縮を繰り返し、動き続けている。

(了)

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海の向こう 秋野大地 @akidai

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