第31話 闘病

 晩秋から初冬に移り変わる最中のことだった。街ではもう、長袖にジャケット姿の人が大半を占めていた。朝夕は、ヒーターが必要になるくらいの寒さが顔を覗かせ、寝起きに布団から出るのが億劫になる季節だ。未来はもうすぐ、五歳の誕生日を迎えようとしていた。

 目覚ましアラームが鳴る前に、携帯の呼び出し音が鳴った。そんなことはとても珍しいことだ。普段も僕の携帯はさっぱり鳴らないのに、朝っぱらだと尚更だ。

 前夜、三週間の中国出張から帰国したばかりで、電話を取るのが辛かった。疲れと寝不足で、頭と身体が重かったのだ。覚醒し切れず、意識の向こう側でコール音を聞きながら、実家の両親に何かあったのかもしれないことに気付いて慌てて電話に出た。

 予想に反して、奈緒美の「おはよう」という声が聞こえた。予想外の声の主に、僕は思わず言った。

「どうしたの? 未来に何かあった?」

「違うの、未来は元気よ。わたしが入院したの」

「入院?」僕はつい、復唱してしまう。「どうして? 怪我? それとも病気?」

 彼女は上手く説明できないというふうに「うーん」と唸り、「病気になった」と言った。

 僕は咄嗟に、少し大きな声で「何の病気?」と訊いた。

 それで彼女は、機械音声のような抑揚のない調子で「妊娠中毒症」と言うものだから、僕は驚嘆の声を上げて飛び起きた。

 奈緒美にはその驚き様が面白かったようで、彼女は笑いながら「冗談よ」と言う。それが嘘だとしても、こちらはすっかり目が覚めていた。

 彼女は相談したいことがあるから、病院に来て欲しいと言った。詳しいことはそのときに話すと言われ、僕はキッチンカウンターで病院名と病室をメモし、仕事を終えてから行くと約束した。

 しかし僕は仕事をしながら、次第に奈緒美のことが気になり始め、会社を半日で上がることにした。どう考えても、奈緒美の話しっぷりが不自然に思えてきたからだ。何かあるなら電話で伝えることができるはずだ。仕事をしている最中、そのことばかりが気になった。

 指定された病院の住所は神奈川県だけれど、そこは都内でも名の通る総合大学病院だった。

 東名高速を降りて病院に繋がる狭い道に入ると、曲がりくねった道路の両脇は緑が豊富で、閑静な住宅街になっている。そのせいで、まだ都会のはずなのに、ずいぶん田舎にやって来たという印象だった。

 間違って住宅街に入ってしまうと次第に方向感覚を失い、何度も狭い道で迷いながら病院が見える場所へたどり着いた。それでも更に迷いながら、ようやく病院の案内板を見つけることができた。

 建物に入ると、消毒の臭いが鼻を突く。十分もいれば慣れるのは分かっていても、相変わらず好きになれない場所だった。

 ナースステーションで病室の場所を確認し、部屋の前にたどり着いた。どうやらそこは個室らしい。

 そこで僕は一呼吸置く。どんな話しが待っているのかと、僕は少し神経質になっていた。大したことはないと思う一方で、朝っぱらから電話をくれたことに、一体何事かという不穏な予感が自分の中でうごめいている。

 ノックをすると、ドアが開いて奈緒美の母親が顔を覗かせた。それが想定外だった僕は驚いたけれど、昼過ぎに僕がやってきたことに母親も驚いたようだった。彼女は一瞬目を見開いて狼狽した表情を見せ、それをまた一瞬で、慌てて封じ込めたのだ。

 病室に入ると、父親と未来もいた。

 部屋の中は、病室とは思えないほど綺麗で豪華だ。

 壁には絵画が掛かっている。広い部屋には革張りのソファーがあり、小さなテーブルがセットになっていた。ビジネスデスクまである。大きな窓にはレースのカーテンが引かれていた。

 奈緒美はガウンを羽織り、ベッドの上で半身を起こしていた。見ためはまるで普通で、入院するほどの重病患者に見えない。

「ダディ」未来が駆け寄ってきた。僕は、自分に抱きつく未来の背中に手を添えて、両親に「お邪魔します」と声をかけた。

 僕の挨拶に被せるように、奈緒美が「早いじゃない。仕事はどうしたの?」と言った。

「心配になって、午後は休んだ」

 奈緒美の両親は、伏せ目がちに黙り込んだ。

「ママが病気になって、ここにお泊まりしているんだよ」

 未来が僕を見上げて言った。

「そうか、それは寂しいね。だったら未来は、ダディの家にお泊まりするか?」

 彼は元気よく、「するする」と嬉しそうに言った。それに対して奈緒美も両親も、何も言わず無表情で様子を見守っていた。それで僕は、少し気まずさを感じ始める。

「もしかして、何か大切な話しでもしてましたか? そうであれば席を外しますけど」

 ようやく父親が口を開いた。

「すみませんが未来を連れて、どこかで時間を潰してもらってもいいですか? せっかく来てもらったのに、本当に申し訳ない」

 未来にも、聞かせたくない話しがあるということか。奈緒美が神妙な顔で、無言で頷いた。彼女もそうして欲しいということだ。

「分かりました。未来に何か食べさせてきます」

 僕は奈緒美に言った。「終わったら電話をくれる?」

 奈緒美が静かに頷く。母親が病室の出口で、「ごめんなさい」と言った。

 少し嫌なムードだった。僕は少し気分を変えたくなり、一旦病院から離れようと思った。

「未来、ケーキ食べたい?」

「ぼく、ホットケーキがいい」

「よし、それじゃあ車で、ファミリーレストランに行こうか」

 未来が嬉しそうに「いこう、いこう」と言う。

 彼の手を引いて車に乗り込み、高速道路の出口付近まで戻った。近辺に、いくつかのレストランが並んでいるのを覚えていたのだ。

 いくつか並ぶファミリーレストランの中で、少し洒落ている店に入った。すぐに大きな壁ガラスの前テーブルに案内される。窓を通して、庭の緑がよく見える場所だった。新緑とは程遠い、くすんだ緑だ。

 未来を自分の隣に座らせた。そのほうが、食べさせるのに便利なのだ。僕はメニューをめくりながら言った。「未来はホットケーキでいいの?」

「うん、ホットケーキ」

 僕はパンとビーフシチューとコーヒーを頼んだ。昼食をまだとっていなかったのだ。子供用の取り皿も、忘れずにお願いした。それで自分が、随分所帯染みたことに気付く。

 ホットケーキが届くと、僕は未来に、ナイフとフォークの使い方を教えた。彼にそれを持たせ、その小さな手に自分の手を被せるように添え、ホットケーキを半分にする。

「次は一人でできる?」

 案の定、彼は真剣な顔付きで、ホットケーキのカットに没頭した。失敗を恐れずに、できるだけ何でも挑戦させるのは、僕が奈緒美に推奨した子育て方針だ。

 ほとんどの場合、失敗を恐れるのは大人だ。子供自身は、失敗など考えてもいない。

 何かに夢中になっているときの未来の目が、僕は好きだった。それはとてもつぶらで、そんな未来の様子を見守っていると、自然に愛しさが込み上げてくる。

 未来はケーキをカットするというより、引き裂いてばらばらにするという具合だった。それでも全てを一口サイズにできた彼を、「上手だよ。えらいえらい」と褒め称えた。それで未来は、満足気にケーキを食べ始めた。

「どう? 美味しい?」

 彼はグッドの意味で、親指を僕に立てた。彼はまあまあのときには親指を横にし、気に入らないときには下へ向ける。ときどき右親指は上、左親指を下に向けることもあるけれど、それは微秒な感覚を表現しているようだ。どこでそんなことを覚えるのか知らないけれど、感情を色々なかたちで表現できることは悪くない。

 僕は自分のビーフシチューも取り皿に分け、それを未来に与えた。さっそく彼は、肉のカットをナイフとフォークで挑戦する。少し硬い肉はホットケーキのように上手くいかず、若干危なげだ。ナイフは力を入れず、軽く前後に動かせばいいとアドバイスしたけれど、すぐに使いこなせるわけもない。それでも僕は、黙って様子を見ていた。

「どう? それも美味しい?」

 彼は頷いて、やっぱり親指を立てた。そんな彼の口の周りにブラウンソースが付いている。それを紙ナプキンで拭き取ってあげると、彼は再びビーフシチューと格闘する。何に対しても集中力を切らさないのが、未来のよいところだ。

 僕は未来に、奈緒美のことは一切尋ねることをしなかった。簡単な質問なら、彼はありのままに教えてくれただろう。少し詳しい様子も分かるかもしれない。けれど僕は何も聞けなかった。その話題は、何かと機微を含むような気がしたからだ。考え過ぎであって欲しいと願いながら、奈緒美と彼女の両親から感じた嫌なムードが、僕の中でくすぶっていた。それは小さな火種でも、何かのきっかけでめらめらとした炎になるほど、自分の内部でぶすぶすと煙をあげて収まらない。

 レストランの中で、僕は未来の様子を眺めながら、ぼんやりと奈緒美のことばかり考えていた。


 電話をもらい再び来院したのは、既に夕方だった。未来の手を引いて、今度は自力で彼女の病室の前にたどり着く。

 ノックをすると、昼と同じように母親がドアを開けてくれた。

 未来がすかさず奈緒美の傍らに駆け寄り、ホットケーキをナイフとフォークを使って食べたことを報告した。

 病室に入るとき、少し違和感を覚えた。奈緒美の母親がドアを開ける際、そして僕たちが部屋に入るときにも、目を合わせようとしなかったのだ。

 もしかして、泣いていたのだろうか。

 奈緒美は未来に、「よかったわねえ、美味しかった?」と声をかけている。未来は得意げに、「美味しかった。ナイフを使って、ぜんぶ自分で切ったんだよ」と自慢した。

「そうか、えらいえらい」奈緒美が彼の頭を撫でる。未来は得意気な笑顔を振りまいた。

 二人が話しに夢中になる隙を狙うように、父親が僕に近づいて、低い声で言った。

「面倒をかけて申し訳なかったです。我々は直に帰りますから、そのあと奈緒美と話してやって下さい」

 声が控えめで、言い回しが不自然だ。奈緒美の話しというのは深刻なのだろうか。

 未来が奈緒美と話しをしている間、僕はソファーに腰掛け、その様子を黙って眺めていた。二人はときどきじゃれ合いながら、楽しそうに話している。

 奈緒美は明るく、元気そうに見えた。こんなに普通なのに、一体何が、これほど雰囲気を重たくするのだろう。

 両親は最後まで暗い表情を顔に滲ませ、病室を後にした。元気な未来の様子が対照的で、唯一の救いだった。

 病室が静まり返り、気詰まり感が僕を襲った。さっきまで未来と一緒に笑っていた奈緒美は、能面のように表情のない顔になった。未来の前では、取り繕っていたようだ。

 僕は壁に掛かる絵画の前に立ち、その絵を近くでじっくり眺めた。本物の油絵には、白い雲が浮んだ青空の下に、鮮やかな黄色と緑の向日葵畑が描かれている。木枠風の装飾が付いた壁掛け時計は、秒針が滑らかに動くタイプだ。夜中に響く、秒を刻む音が考慮されているのだろう。床は一面、薄手のカーペットで覆われている。

「随分豪華な部屋だね。ホテルみたいだ」

「そうね。わたしも勿体ないって言ったのに、お父さんが、ここでゆっくり身体を休めろって言うのよ」

 僕は机に備え付けの椅子を引っ張り、ベッドの横に座った。重厚な椅子ではないけれど、肘掛けが付いている。座り心地は悪くなかった。

 一呼吸置いて、「それで、何の病気なの?」と僕は訊いた。

 奈緒美は表情を凍り付かせ、深呼吸をするように、ゆっくり息を吸い込み吐き出した。それに合わせて彼女の肩が上下し、部屋に呼吸音が響く。

 彼女はそれでも話しづらそうだった。僕は視線を彼女から外し、絵画と時計をぼんやり眺めた。時計のスムースな秒針の動きが無機質的で、冷たく掴みどころのない感じだった。

「身体の中に癌があるの」

 彼女の声が聞こえて、僕は慌てて振り返った。

 その声はか細くて、普通なら、耳をそばだてないと聞こえないくらいだった。でも僕には、癌という言葉がはっきり聞こえた。それでも、もう一度確認せずにはいられなかった。

「今、癌と言った?」

 奈緒美が静かに頷く。

 早朝の電話、奈緒美の両親の深刻な顔や挙動不審、全てが癌という言葉に重なる。嫌でも深刻な状況が予想できた。

 僕は動揺を悟られないよう、平静を装って彼女に言った。

「癌って、一体どんな癌なの?」

 彼女は虚ろな目で、僕を凝視した。しかし、実際に僕を見ているのか怪しいくらい、全てが虚ろだった。精神を病んで、壊れた人のようだ。

 そんな奈緒美の様子に、僕の鼓動は息苦しいくらい速くなる。平静を偽装するのが難しい。仕方なく僕は、次の言葉をはいた。

「医者は何て言ってるの?」

 彼女はやっぱり黙っていた。何も話さない決意を固めた、黙秘を続ける容疑者のように。

 言葉の代わりに、彼女の目から涙がこぼれ頬をつたった。彼女の感情は起伏を失ったようで、その実激しく動いているのだ。

 彼女は自分の感情が暴れるのを、必死に抑えている。きっと話したくても、話せないのだ。

 僕は言葉を失い、奈緒美の横で彼女の肩を抱いた。彼女は僕にしがみついて、声を出して泣き始めた。

 嗚咽混じりに、彼女が「ごめんなさい」と言った。

「泣きたいときは、泣いたほうがいいよ」

 彼女は小刻みに数回頷いた。僕はしばらく彼女を泣かせた。彼女の様子に、最悪の想像が僕の頭を駆け巡った。

 泣いて少し落ち着いたのか、しばらくすると泣き声が消え、彼女の呼吸音が聞こえ始めた。

「寝てるの?」

 奈緒美は、僕にしがみついたままだった。彼女は鼻声で言った。

「起きてるわよ。ねえ、今日はここに泊まって欲しいの。一人になりたくない」

「いいよ。ここに泊まる」

 二人でベッドの上に並ぶと、奈緒美は僕に抱きついたまま目を閉じた。ときどき鼻をすする音が聞こえる。そしてほんの十分足らずで、それが本当の寝息に変わった。

 彼女が熟睡しているのを確かめて、僕はそろりとベッドを抜け出した。万が一彼女が目を覚ましたときのために、メモ帳に洗面道具を買ってくると書いて、それを彼女の枕元に置く。

 たばこも吸いたかったし、喉も乾いていた。自分の心中は、もちろん穏やかではなかった。どちらかと言えば混乱している。それを収拾するのは困難だった。

 一旦外に出て全ての用事を済ませ、僕は再び病室に戻った。奈緒美はまだ熟睡しているようだった。

 僕の中で、不穏で激しい動悸が収まっていた。水で顔を洗い、歯を磨いて部屋の灯りを消す。そしてベッドに戻ると、寝ているはずの奈緒美が再び僕に寄り添った。

「起こしてしまった?」

「さっきあなたがいないことに気付いたの。帰ったと思って驚いたのよ。でもメモをありがとう」

 しばらく二人で沈黙した。

「こんなふうに抱き合って寝るのは、久しぶりね」

 僕は天井を見つめながら、「うん」と答えた。

 暗さに目が慣れて、部屋の中が随分見渡せるようになっていた。フロアランプがあるせいだ。

 壁掛け時計の秒針も見えた。それは何事も我関せずという具合に、刻みも振動もなく一定に動いている。

「さっきは取り乱してごめんなさい。でも、少し心が軽くなった」

 僕はただ、「そう」と返した。

「あなたの返事は、うんとかそうとか、そればっかりね」彼女は少し笑った。

 僕はそれにも、「うん」と答えた。

 静寂が再び二人を包んだ。僕は彼女の口から呻くように出た、癌という言葉のことを考えていた。癌にも色々あるはずで、完治するものも多いはずだ。

 僕は詳細を知りたかったけれど、迂闊に訊くことができなかった。焦って聞き出す必要もないのだと、自制に努めた。彼女はこちらの葛藤を見抜いたように、口を開いた。

「わたしの中にある癌はね、随分進行していて、もう手の付けようがないらしいの」

 返す言葉が見つからなかった。仕方なく僕は目を閉じて、思考を巡らせた。彼女の絶望的な話しに、見落としや勘違いや思い込みのある可能性はないかを。

「詳しい検査は終わったの?」

 医者が既に告知しているのだから、検査は十分行われたはずでも、僕は順を追って確認したかった。

「その検査の結論が、それなの」

 僕は「そうか」と答えた。「それで、その、医者はなんて言ってるの? つまり治療方針とか」

 僕が本当に訊きたかったのは、医者は余命について言ったかどうかだった。軽い調子で訊いてしまえばよかったのに、僕はそれを言葉にすることができなかった。

「手術はしないって。主に化学療法になるみたい」彼女はここで、一旦言葉を切った。「でも重要なことは、治療は延命のためで、治すことではないということなの」

 僕の心臓が、ひときわ高く波打つ。

「つまりもう、助からない」

 自分の胸の上に置かれた奈緒美の手が、ゆっくり握りしめられた。

「そういうことみたい」

 僕はまた、目を閉じた。閉じるまぶたに自然と力が入る。自分の眉間に、皺が寄っていくのが分かった。

「生きられるのは半年くらいだろうって。余命は癌の進行次第で変わるらしい」

 自分の首筋を何かが伝う。僕はそれで、彼女が再び泣いていることに気付いた。思わず彼女を抱く腕に力が入る。僕はもう、何も言えなくなった。

 自分は一体、どうすればいいのか。大きな無力感に襲われる。僕は自分が無力であることを、すっかり忘れていた。

 人はそもそも、無力なのだ。奈緒美も、奈緒美の両親も、底なしの無力感に襲われているのかもしれない。いざとなれば、人はみんな平等に無力だ。

「お父さんもお母さんも、諦めるなって言うの。わたしだって生きたい。未来がいるんだから、諦めるわけにはいかないの」

 彼女の鼻声は、少し震えていた。

「でもね、それでも死ぬという現実が迫ってくるの。最初はね、頭の中が真っ白になった。時間が経ったら、すごく孤独なの。どうしてわたしだけが死ななければならないのって。みんなは元気なのよ。何を言われても、それが現実なの」

 彼女は再び、嗚咽を漏らした。

 なぜか僕の頭に、ふとジミーのことが浮かんだ。子供を失い、心に深い傷を負いながら、彼は誠実に淡々と生きている。

「人間はね、いつかはみんな死ぬんだ。それが早いか遅いかだけの違いしかない。あなただけじゃない。僕だって死ぬ。明日死ぬかもしれない。僕が今あなたに言えるのは、全てを受け入れたらどうかというくらいだよ。無理に頑張る必要はないと思う」

 彼女は泣きながら言った。

「それは、全部諦めろっていうこと?」

「そうじゃないよ。病気のことは、手を尽くして結果を待てばいい。自分に手を貸せることがあるなら、僕は最善を尽くす。それにね、医者も万能じゃないんだ。医者が言ったことを百パーセント信じる必要もないと思う」

「そうなの?」

「インターネットで調べてみなよ。医者に余命半年を宣告されてから五年以上も生きてるなんて話しは、それほど珍しくないんだ。でも、変な希望は持たないほうがいいし、絶望する必要もないと思う。僕が言いたいのは、右往左往するのは止めて、毎日納得のいくように生きるしかないんじゃないかってことだよ。悔いのないように生きて死を迎えることができれば、それはそれでいいんだ。どうせいつかは、みんな死ぬんだから」

 自分の精神的ダメージは大きかったけれど、僕はそれを彼女に悟らせまいと、精一杯虚勢を張った。

「わたしはあなたのように、強くなれないわよ」

「本当は僕だって、泣きたいくらいだ」

 彼女はふふと、半分泣きながら笑った。

「病は気からという言葉は本当なんだよ。心が元気になると身体も元気になる。嘘だと思うなら試してみなよ。前向きに元気にしていれば、身体が癌細胞を退治してくれるかもしれない。今後のことは、僕も色々考えてみるよ」

 彼女は頷いて、「そうね。ありがとう」と鼻声で言った。

 しばらく余り眠れていないと言った彼女は、再び本格的に眠りについた。彼女が寝たあと、僕は全く眠れなくなった。彼女の病気や余命について、取り留めもなく色々なことを考えていたからだ。

 壁時計の秒針はずっと静かに回り続けているのに、僕の長い一日はエンドレスのように中々終わらなかった。


 翌日は、会社を休んだ。睡眠不足のせいもあったけれど、奈緒美の病気のことで、もっと客観的な情報を得たかったのだ。

 家族でもない自分が、主治医から直接詳しい話しを聞けるとは思えない。そこで僕は、彼女の両親が未来を連れてやってくるのを、病室で待つことにした。

 彼女の両親は、十一時にやってきた。両親は、僕が病室にいることが予想外だったようだ。前日と同じ服装であることが、僕が病室に泊まったことを物語っている。しかし奈緒美が明るく普通だったことが、両親を少し安心させたようだ。

 両親と未来が病室に入ると、奈緒美は「おはよう、お父さん、お母さん、未来」と言った。

 溌剌とした挨拶に、母親が「あら、今日はとても元気そうね」と言った。

「そう、昨日たくさん話しをして、気持ちが楽になったの。久しぶりにぐっすり眠れたのよ」

 それで両親は相好を崩し、「それは良かったわねえ」と喜んでから、僕に笑顔で小さく会釈した。

 早速僕は、奈緒美に言った。

「あなたの病気の話しを、お父さんの口から詳しく聞きたいんだ。二人で話しをしていいかな?」

 彼女の了解をもらい、父親にも「少しいいですか?」とお伺いを立てた。

 僕たちはエレベーターで下まで降りて、中庭に出てベンチに腰を下ろした。

 僕から話しをしたいと言ったのに、父親が先に口を開いた。

「あなたには何から何まで面倒を掛けて、本当に申し訳ない。でもわたしには分かるんですよ、奈緒美があなたを頼りにしていることが。わたしも家内も、なぜそうなのかを理解しているつもりです。こうなった今、わたしは土下座してでもあなたに頼らなければなりません。もうしばらく、奈緒美の我儘に付き合ってもらいたい。この通り、お願いします」

 彼は両手で膝頭を握りしめながら、深々と頭を下げた。

「お父さん、頭を上げて下さい。お願いされなくても、僕ができることなら何でもやりますから。伺いたいのは、奈緒美さんの病気の詳細なんです。昨日、彼女からおよそのことを聞きました。癌や余命半年の告知を受けたことです。でも僕は、具体的に聞くまでにわかに信じ難いんです」

 彼は顔を歪ませて、再び頭を垂れた。

「辛い話しをお願いし、本当に申し訳ありません。でもこれは、彼女をサポートするために重要なことなんです」

 彼は気持ちを整えるように沈黙し、一旦空を見上げてからようやく口を開いた。

「奈緒美は膵臓癌で、ステージⅣだそうです。既にリンパ節や肝臓に転移が見られ、手術も放射線治療も意味がないと言われました。余命は半年だそうです」

 そこまで言って、彼は頭をがくりと下げた。

「あんなに若くて、子供だってまだ小さいのに、どうして……。代われるものなら、代わってやりたい。無念としか言いようがない」

 それを言い切った彼の姿は、焦燥感に包まれていた。

「全く希望はないんでしょうか?」

 彼は項垂れたまま、ぼそりと言った。

「今のところ、見つかりません」

「そうですか。やはりある程度、正確な情報なんですね」

 自分も全身から力が抜ける。二人の間を、空白の時間が通り過ぎた。彼は視線を地べたに落としたまま、ぼそりと僕に訊いた。

「あなたなら、奈緒美を救うためにどうしますか?」

「分かりません。ただ、もし本当に死ななければならないなら、残りの人生、悔いの残らないように生きろという意味のことを彼女に言いました」

 父親が顔を上げて僕を見た。その顔は蒼白だった。「そんな残酷な」

「確かに残酷かもしれません。でもこうなった以上、彼女と一緒に悲しんでばかりにもいかないんです。本人もそうですが、周囲も全てを受け入れる必要があると思います」

「それは正しいかもしれない。しかし、どうやって受け入れろというんですか」

 彼の言葉は、抗議のような口調で吐き出された。僕は、彼の琴線に触れてしまったのかもしれない。

「それには時間がかかります。僕だって、正直に言えば事実を受け入れ難い。でも実際、あまり時間はないかもしれないんです。それに僕は、まだ諦めていません」

 彼はその言葉に食いつくように、こちらを見た。

「それはどういうことですか?」

「彼女が精神的に落ち着いて元気になれば、自然治癒だって期待できるかもしれないんです。少なくとも、癌の進行停滞は有り得ます」

「そんな非科学的な」

 一瞬希望の光が見えたのに、直後に梯子を外されたような落胆ぶりだった。

「非科学的でも、前向きに生きることは悪くないはずです。悪くないなら、そうすべきだと思います。それにはまず、周囲も一旦、彼女が死に向かっていることを含め、全てを受け入れるべきです」

 彼はしばらく塞ぎ込んだ。何かを考えているようにも見える。

「昨夜、彼女と色々な話しをしました。彼女は最初、何も話せずに泣きました。僕は彼女を、黙って泣かせました。そしておそらく彼女は、もがいてもどうにもならないなら、苦しむだけ損だという心境になりつつあると思います。彼女はそうやって、いつ訪れるか分からない死を、徐々に受け入れていくはずです。ときには受け入れ難い状況に、彼女は再び拒否反応を示すかもしれない。そんなときには、無理に頑張らせる必要はないと思います。それを周りが、ただ受け止めてあげればいい。実際、僕たちにできることには限界があるんです。死を受け入れることは、全てを諦めることではないと思います。それはきっと、死を意識しながら、生きることを充実させることではないでしょうか。これは諦めるよりも難しい。だから周りもよく理解して、彼女をサポートする必要があると思います」

 彼は無言だった。心ここに在らずという感じだ。心に深い傷を負っているのだから、僕の話しは性急過ぎたかもしれない。

「本当に済みません、他人の自分が、勝手なことを偉そうにまくし立てて」

 彼は苦悩に満ちた暗い顔をしていた。二人の間に、再び空白の時間が流れた。

 二人が座るベンチの前を、何人もの入院患者が通り過ぎた。パジャマにガウンを羽織り、散歩している。年配の人には誰かが付き添い、じれったいくらいゆっくり歩いている。僕はそんな人たちの様子を、呆然と眺めていた。

 父親が、ようやく口を開いた。

「あなたの言うことを、わたしは頭で理解できます。しかし申し訳ないけれど、まだ心がついていかない。しばらく時間を下さい。少しゆっくり考えさせて下さい」

 最愛の一人娘が、余命宣告されたのだ。それは簡単に受け入れられるものではない。彼の心中は、察して余るものがある。


 二人で病室に戻ると、ベッドの上で奈緒美と未来は、穏やかな雰囲気の中で寄り添っていた。

 未来は奈緒美の隣で本を読み、奈緒美は大判の皮ケースが付いた手帳に何かを書き込んでいる。母親はソファーに持たれて居眠りしていた。

 奈緒美が僕たちに向かい、人差し指を自分の唇の前に立てた。未来も真似をして、本から顔を上げて、シーと言った。

「随分長く話し込んでいたのね」彼女は声を潜めて言った。「お母さん、あまり寝てないでしょう」

「そうだね、よく眠れないみたいだ」父親の声も控えめだ。

「お父さんも同じじゃないの?」

「まあ、睡眠時間は少し足りないかもしれない」

 奈緒美が僕の顔を見る。

「ん? 僕もほとんど寝てないよ」

「そうなの? それじゃあよく眠れたのは、わたしだけってこと? いやねえ、みんな身体を壊しちゃうわよ」奈緒美はくすくす笑った。

「ふむ」父親は憮然とした表情だ。

「未来に合わせて、あとでみんなで昼寝をしようか」

 僕の提案に、奈緒美が「平日の午後に惰眠をむさぼるのは、悪くない考えね」と言った。

「そうそう、それそれ」

 父親は相変わらず仏頂面だったけれど、「確かに悪くない」と仕方なさそうに同調する。

「わたしね、今、やりたいことや心配事を書き出してるの」奈緒美は、持っている手帳を持ち上げた。

「なぜそんなことを?」父親が怪訝な顔で訊いた。

「今のわたしは、一日一日がとても大切なのよ。こうやってまとめてみないと、消化できないじゃない」

 その言葉に、父親は圧倒されたようだった。返す言葉が見つからないというふうに唖然としている。我に返ったように、「それ、ちょっと見せてくれないか」と彼は言った。

「だめよ、まだブレーンストーミングの段階で、落書きみたいなものだから」

「そうか」父親は簡単に引き下がり、一瞬僕を見る。奈緒美の様子に、彼が戸惑っているように見えた。

「完成したら、みんなで相談しようよ」と僕は言った。

「そうね、みんなの協力が色々と必要になりそうだから」

「もちろん、協力するよ」

 父親も、僕のその言葉に頷く。本を読んでいる未来が突然顔を上げた。「僕もママに協力する」

 奈緒美は「ありがとー」と言って、未来を背中から抱きしめた。未来は満足気な顔で笑った。


 その二日後、僕は会社に退職願いを出した。自分なりにはよく考えたものの、周囲には事前の相談もなく出したものだから、部長やその上に随分驚かれた。すぐに事業責任者との面談がセットされた。

 僕はある程度の事実、つまり、大切な人が余命半年を宣告されていることを説明し、できるだけ早く退職することを希望した。

 会社は一時休職でいいじゃないかと言ったけれど、僕は退職金を貰う必要があるとして、休職の提案を退けた。概略の計算で、退職金を貰えば贅沢なしで四年くらいは食い繋げそうだった。それだけ確保しておけば、何がどう転んでも、大概のことに対応できるはずだ。

 三ヶ月は残って引き継ぎをして欲しいという会社要求も、残された時間が少ないという理由で、一ヶ月半という期間で折り合いをつけた。そして必要に応じ、休暇を多く取るかもしれないという条件も了承してもらう。

 僕は早速、向こう一週間の休暇を取った。奈緒美の精神状態が安定するまで、それでも足りないと思ったくらいだ。有り難いことに会社はそのことをよく理解し、当面の休みは仕方ないと納得してくれた。

 これらのことで、リンと相談しなければならなかった。送金を半年後に止めようと思っていたのだ。つまり、二人の関係に、けじめをつけるときがやってきたということだ。

 僕は未来のことを、自分が引き受けるべきだと思っていた。もちろんそのことは、奈緒美や彼女の両親と相談する必要がある。未来の意向も確認しなければならない。

 しかし、奈緒美の一番の心配事は、間違いなく未来のことだ。この部分に自分なりの回答を用意してあげないことには、奈緒美の心が晴れることはないと僕は確信していた。

 奈緒美には、全面的に協力すると約束している。僕は既に、その辺りのことで腹を括っていた。病気のことを聞く前から、既に奈緒美との結婚をうっすら考え始めていたのだ。病気のことが事態を少しややこしくしただけで、基本路線は決まりつつあった。そこに退職のおまけが付いたということだ。

 奈緒美の病気や自分の退職。人生には、想像もしなかった色々なことが起こるものだ。この先もどうなるのか、さっぱり予想がつかない。

 しかしその頃の僕は、何があっても、きっとどうにかなることを信じることができた。

「何とかなるさ」は、フィリピン人に身に付いている格言だ。フィリピン人はいつも、厳しい環境の中で何とかしている。そして陽気に生きる。自分にも真似ができるはずだ。

 自分の中に、妙にさばさばした気持ちと、漠然とした不安が絡み合うように同居する。

 僕はそんな気持ちを引きずったまま、リンにレターを書いた。色々なことを考え出すと、また踏ん切りが付かなくなるからだ。いずれははっきりさせるべきことだと、僕は自分で自分の背中を押した。


 親愛なるリンへ

 突然ですが、僕は会社を辞めることにしました。退職には深い理由があるのですが、ややこしく悲痛な出来事を含むので、ここではそのことに詳しく触れません。それはあくまでも、プライベートなことです。

 そして僕は、あなたとの関係に、けじめをつけることを決めました。今のお金のサポートを、半年後に止めたいと思っています。

 このことは、自分の退職理由と関係があります。自分の個人的な都合で、あなたには何も瑕疵はありません。だからあなたには申し訳ないと思います。何か困ったことがあれば今まで通り相談に乗りますので、そのことはどうかお許し下さい。

 僕はおそらく、先日話しをした未来という子供の父親になります。おそらくというのは、僕はまだ誰ともその件を話し合っていないからです。未来は、僕の子供ではありません。だからそのことは、複数の人と話し合って決める必要があります。その上で、僕が法律上の父親になるか、あるいは今と同じように、傍らで彼を見守る父親代わりを続けるか、どちらになるか分かりません。

 それでも僕は、彼の父親になります。つまり、法律上はどうなるか分からなくても、彼のことで責任を負う決意を固めたということです。

 このことは、奈緒美という女性と僕が、必ずしも結婚するという意味ではありません。事情があって、彼女は未来の養育を継続できないかもしれないのです。もしかして彼女は、とても遠い場所に旅立つかもしれません。一度旅立てば、二度と今の場所には戻れません。だから彼女が旅立つ前に、自分が未来の面倒を見ると決めたのです。具体的な方法論は、まだ何も決めていません。

 不確かなことが多く、歯切れの悪い説明で本当にごめんなさい。

 僕はあなたに、心から感謝しています。あなたと出会ったことで、僕の人生は大きく動こうとしています。

 僕は元々、小さな人間でした。自分に自信を持てず、いつでも何かを恐れ、周りの様子を気にして生きてきました。

 しかし、あなたと一緒に体験した数々の冒険が、自分を強くし、更に自分に自信を与えました。自分を押さえつける多くの呪縛から、僕は解放されようとしています。

 これまで僕は、会社の看板の下で生きてきました。看板がなければ、僕は何も出来ない無力な人間です。それでも僕は、その看板を捨てようとしているのです。僕はこれから、正真正銘、自分の力で生きていかなければなりません。

 正直にいえば、少し不安です。しばらくは退職金で食い繋ぎ、そのあとはフリーランスで設計の仕事ができればいいと思っています。もしそれで生きていけなければ、また違う看板の下に隠れて、ずる賢く生きる方法を選択するかもしれません。僕を拾ってくれる会社が、運良くあればですが。

 これからどうなるのか、自分にも本当に分かりません。あなたへのサポートを続けるためには、現状の環境を維持するほうが都合がよいことは確かです。それでも今、僕にはやらなければならないことがあります。僕は自分のやりたいことをするために、会社を辞めるのです。

 こんな決断を下せるようになったのは、あなたから多くのことを学んだおかげです。それについては、重ねてあなたに感謝します。

 これから半年間送金を続けますが、しばらく連絡が取り辛いかもしれません。しかし状況が落ち着いたら、またあなたに近況報告をします。

 先日あなたに話したように、僕はあなたが幸せになることを願っています。あなたもどうか、前に進んで下さい。良い縁があれば、積極的にそれを掴み取って下さい。

 どうか幸せを掴んで欲しい、それが僕の切なる願いです。

敬具


 僕はこのレターを何度か読み直し、そしてメールで彼女に送った。しかし彼女は、レターに無反応だった。彼女は気を悪くしたのではないかと気になったけれど、いつの間にか僕は奈緒美のことで忙殺され、そのまま一週間が経過した。その一週間、本当に忙しかったのだ。

 僕はお金と時間の件で手を打ち、そして中長期的な方針についてもある程度意思を固め、奈緒美の闘病に一緒に臨もうとしていた。

 僕はインターネットで様々な膵臓癌の闘病記を読み、奈緒美は長く生き延びるのではないかと密かな期待を抱いていた。もちろん、闘病記が本人死亡で立ち切れになってしまうものもある。

 一方で、予想外に長生きし、元気に暮らしている人も少なくない。それらの闘病記を通し、自分が奈緒美の傍らで、彼女を元気づけるのが先決だと痛感した。

 だから僕は、その一週間、毎日彼女の病室に泊まり奈緒美に寄り添った。そしてときどき、未来を病院の外に連れ出す。抗癌剤投与の前に色々な検査があるようで、検査の間は主に僕が未来の面倒をみて、彼女の両親が奈緒美に付き添うという具合だ。そして夜は、奈緒美と二人だけで色々な話しをする。

 奈緒美は「なるようにしかならない」という説を、実によく理解してくれた。

 もちろん完璧に理解するのは難しいはずだ。この世の未練を断ち切るのは、本当に難しいことなのだ。それでも彼女は踏ん張った。僕はいつも無理はするなと言ったのに、彼女は健気なくらい懸命に無理をしていた。

 彼女のその努力に報いなければならないと、自分も無理をした。ときどき塞ぎ込みたくなっても、奈緒美の前では暗い顔を一切見せないようにした。気持ちの問題は、きっと時間が解決してくれるはずだという希望的観測に基づいて、僕は虚勢を張り続けた。

 奈緒美の前向きな気持ちは、彼女の両親を随分救った。病室での会話にも、笑いが出現するようになった。みんなが少しずつ無理をしていたのかもしれないけれど、次第にくよくよしていても何も始まらないという空気が、病室の中に漂い始めたのだ。

 いよいよ抗癌剤治療が始まるという前夜、二人きりになった病室で、僕は奈緒美に色々なことを打ち明けた。

 奈緒美がベッドの上でノートブックに何やら記入し、僕が少し離れたソファーで、コーヒーを飲んでいたときだ。

 偶然にもその日の外は、またもや激しい雨に見舞われていた。窓を打ち付ける雨の音が、静かな病室に響いている。

 リンの言った、「あなたは雨が降ると、秘密を暴露したくなるの?」という言葉を思い出しながら、僕は彼女に話していなかったことを切り出したのだ。

「実はね、会社に退職願いを出したんだ」

 彼女はノートブックから顔を上げて、如何にも驚いて「えっ、どうして?」と言った。

「もちろん、あなたの闘病に付き合うためだよ」

「それでどうして会社を辞める必要があるの? わたしのために人生を棒に振るなんて、馬鹿げているわよ」

 彼女はどちらかと言うと、本気で憤慨しているようだった。

「僕は人生を諦めてなんかいないよ。未来が立派に巣立つまでは頑張らないといけないんだから。まだまだ先は長い」

 彼女はその言葉で、ますます混乱したようだ。

「えっ? 意味が分からないんだけど」彼女の眉間に皺が寄っている。

「あなたがどうなろうと、僕はあなたの両親と一緒に未来の面倒をみる。もちろんそれには、あなたの了承が必要だけれど。あなたが生き延びることができたら、あなたも一緒に。これであなたの心配事は、大方片付くと思うけど」

 奈緒美はしばらく無言で、僕を見つめた。

 窓の外が稲光で一瞬明るくなり、少し遅れて空気を引き裂く雷の轟音が鳴り響く。それをきっかけに、彼女が言った。

「本気なの?」

「しばらく前から、そのことを考えていたんだ。あなたが病気のことを打ち明ける前から。気まぐれや同情で決めたわけじゃない」

「それってプロポーズ?」彼女はとても真剣な顔をしていた。

「そんなことも含めて考えているけれど、おそらく単純な話しにはならないと思う」

 彼女は再び眉間に皺を寄せる。

「どういうこと? リンちゃんのことを言ってるの?」

 奈緒美には、リンとのことを何一つ伝えていなかった。

「いや、あなたの両親のことだよ。つまりね、あなたは医者に余命を宣告されている。万が一その通りになれば、あなたは死んでしまう。その前に僕があなたと結婚して未来の父親になると、きっとあなたの両親は、あなたと未来をいっぺんに失うことが心配になるかもしれない。僕に未来を取り上げるつもりがなくても。だからこの話しは、迂闊に切り出せないんだ」

 彼女はしばらく沈黙してから言った。

「あなたは、わたしが死ぬことばかりを考えているのね」

 彼女は小さく笑った。

 病気を知った当初、二人は腫れ物に触るように、死という言葉を慎重に避けていた。けれどその頃、二人の会話では、その言葉に対する遠慮が随分希薄になっていた。いくら死という言葉を避けて通っても、死ぬときは死ぬということへの理解が、奈緒美に浸透しつつあることの証だった。

「正直に言うとね、僕はあなたが死ぬことなんて、少しも考えていないんだ。だって、まるで実感が湧かないから。あなたはどうなの?」

「そうねえ……」彼女は少し首を傾げる。「確かに実感がないわね」まるで他人事のように、のんびりした口調だ。

「それでいいと思う。そんなことは誰にも分からないんだよ。でもこの際、いろんな可能性を考えておくべきだと思うんだ。それで何がどう転んでもどうにかなる」

 彼女は嬉しそうに笑い、「確かにその通りね」と言った。

「これから始まる治療は、きっと辛いよ。薬の副作用に悩まされることになる。でも、癌の進行を食い止めるには必要なことだと思う。それでも辛すぎたら、医者と相談すればいい。僕は仕事が終わったら、毎日あなたに付き添うよ。退職後は昼もずっと付き添える。退職金が出たら、みんな一緒に温泉旅行にでも行きたいなんて思ってる」

 彼女はその提案に、顔をほころばせた。

「そんな楽しみがあるっていいわね。辛い治療も耐えられそう」

「楽しみをたくさん用意して、僕も一緒に楽しむよ」

「そうね。あなたもここで一回休憩っていうのは、有りかもね」

 僕の退職に本気で苛立ったことなど、彼女はすっかり忘れていた。しかし彼女の自然体な様子は、とても好ましい傾向だった。

「ねえ、一つ訊いていい?」唐突に彼女が切り出した。

「なに?」

 彼女は「ごめんね、立ち入ったことを訊いて」と前置きし、「リンちゃんはどうなったの?」と言った。

 僕は彼女が資格を取り働いていることや、雨の日の会話、そしてリンに送ったレターのことを奈緒美に説明した。

 その話しの間、彼女はずっと神妙な顔付きで耳を傾け、一つも口を挟まなかった。

「あなたは後悔しない?」

 僕を哀れむような、しんみりとした口調だった。

「後悔しないよ。ただ彼女との間には、これからも家族のような付き合いが残るかもしれない。あなたはそれでも構わない?」

「わたしはあなたと彼女から、何もかも取り上げるつもりなんてないわよ。あなたがしたいようにすればいい」

 僕はありがとうと言った。それは、涙が出そうになるくらい、本当に感謝すべき言葉だった。

 奈緒美はノートブックを再び開き、何かを書き出した。

「それは纏まりつつあるの?」

「これは一生纏まらないわよ。人の欲ってきりがないの。願い事が一つ叶えば新しい願い事が一つ増えるんだから」

 彼女は笑った。僕はそれを、本当に美しい笑顔だと思った。そして心の底から、その笑顔を永遠に見続けたいと願った。人の欲はきりがない……、確かにその通りだった。

 いよいよ本格的な闘病が始まる。相変わらず、闘病の厳しさを予見するような雷雨が続いていた。思わず身が引き締まる。

 できることなら自分が代わってあげたい。そんな願いが自然と湧き上がり、僕は奈緒美の父親の心境を、改めて痛いほど知る。

 そして本格的な治療が始まり間もなく、未来が五歳になった。彼女の病室にケーキと食べ物を持ち込み、家族だけで未来の誕生日を祝った。

 そのとき奈緒美は、未来の嬉しそうな顔を見ながら、静かに涙を流した。彼女は誰にも聞こえない小さな声で言った。

「来年も未来の誕生日を祝えるかしらと思ったら、自然に涙が出てくるの」

 そんなことがあると、彼女の中に潜む闇の深さに気付き、自分の涙腺まで怪しくなった。


 投薬開始の三週間後、抗癌剤による危篤な症状がないことで彼女は退院し、自宅から通院することになった。

 危篤な症状がないとはいえ、その頃の彼女は、本当に病人のようになっていた。

 食欲減退、吐き気、目眩、発疹、倦怠感と、抗癌剤の副作用が彼女を苦しめていたのだ。

 髪の毛が抜ける心配のない薬だったけれど、個人差があるようで、彼女の場合は抜け毛が増えた。体重も落ち、元々スリムだった彼女の身体から、健康的な眩しさみたいなものが消え失せた。

 退院に際し、諸注意が病院から言い渡された。子供がいるため、自宅のトイレを使用したあとは必ず水を二回流すことが、そこに含まれていた。そのことで、抗癌剤の強い毒性が推し量られた。見た目には、何もしないほうが延命を図れ、健康に過ごせるのではと疑いたくなるほど、抗癌剤は強力だった。

 腫瘍マーカーの数値は横ばいで、CT検査による癌病巣の大きさも変わらずだった。苦しんでも効果が見えないことは、奈緒美を落ち込ませた。

「見方を変えれば、進行が止まっているということだよね」

 僕はそう言って、彼女を励ました。そう言った自分にも、薬が効いているのかどうなのか、実はさっぱり分からない。前向きな彼女の気持ちが、彼女の免疫力を高めている結果かもしれないし、癌そのものが、たまたま停滞しているのかもしれないのだ。トンネルの中を、手探り状態で進んでいる心境だった。

 三週間の抗癌剤投与に一週間休みのセットをワンクールと呼び、十一クールの投薬が計画されているようだった。

 四週目の休みに合わせ、僕も会社の休暇を取った。会社での業務引き継ぎはほとんど終わり、問題が発生した際の対応を教える段階に入っていたから、休暇は取りやすかった。どうしてもというときは、きちんとメールや電話で対応すると言えば全く問題ない。実際、会社は組織で仕事をしているのだから、担当の一人くらい忽然と消えても、どうにでもなるはずだ。

 薬の投与を止めると体調が戻るようで、僕たちは急遽、熱海温泉への二泊三日家族旅行を計画した。手頃な距離で、平日であれば激しい渋滞はないだろうと目論んでのことだった。

 このとき僕は、部屋割りについて一瞬悩んだ。自分がいなければ全員同じ部屋でいいけれど、僕がそこに入り込むのは不自然だ。かといって、僕と奈緒美と未来が一つの部屋というのも遠慮がある。

 僕はリビングのソファーで膝の上にノートパソコンを置き、奈緒美の家族が一つの部屋で、僕が一人で別の部屋を取る形で予約を進めようとした。すると突然、みんなが揃う中、奈緒美の父親が僕に言った。

「君は奈緒美と未来で、一つの部屋にすればいい」

 奈緒美も「そうよ」と同調する。僕はそのシチュエーションに戸惑った。

 奈緒美の父親は笑顔で続けた。

「君はもう、我が家の一員みたいなものなんだから、遠慮する必要はありませんよ。奈緒美と結婚の話しをしていることも聞いています。わたしはそれを聞いて、本当に嬉しかった」

 僕はその言葉を聞いて、少し慌てた。

「済みません。こんな状況なので、その話しは折を見て相談させて頂こうと思っていたんです」

 僕はお願いと言わず相談という言葉を使ったにも関わらず、彼は相変わらず相好を崩したまま、「いやいや、細かいことはいいんですよ。わたしはね、その気持ちが嬉しいんです。こんなときだからこそ嬉しいんだ」と言った。

 彼の気持ちはよく分かる。最愛の一人娘が、文字通り絶体絶命の窮地に陥っているのだ。そんなとき、娘の心を救える可能性があるなら、藁にもすがりたい想いなのかもしれない。

 しかし僕は、どの選択肢がベストなのか、冷静に話し合いたいのだ。奈緒美のことだけにフォーカスし、この状況下で結婚を安易に決めてよいかという一抹の不安があった。それはどうしても、この先誰が未来の面倒をみるかにかかっている。いずれにしても、厄介なことを話し合う土台が図らずして出来上がった。

 熱海温泉旅行は、付け焼き刃の計画だったにも関わらず、豪勢なハワイ旅行に匹敵するほど気分を盛り上げてくれた。

 熱海の街と相模湾を見下ろす高台のホテルは、部屋に専用の露天風呂があり、いつでも気の向くまま温泉に浸かることができる。

 ホテルに到着後間もなく、僕と奈緒美と未来は、そこで初めて三人一緒にお風呂へ入った。

 風呂上がりにしばらく部屋でくつろぎ、浴衣でホテル内を散策した。夕食はホテル内のレストランで、新鮮な刺身や和牛の鉄板焼きを含む懐石料理が提供され、しばらく減退していた奈緒美の食欲が完全復活した。

 翌日は熱海の温泉街に繰り出し、未来は射撃に夢中になった。歴史の長い温泉街には、レトロな物が数多くあった。

 適当に歩いては、レストランやコーヒーショップで休憩を取る。その間に奈緒美の両親は買い物に出掛け、レトロな服を買って再び合流する。コーヒーショップで、母親は買ったばかりの服を店内で広げ、奈緒美と楽しそうにそれらを吟味した。

 僕は度々奈緒美に体調を確認したけれど、その度に彼女は満面の笑みを讃えて「快調、快調」と言った。

「旅行気分を壊したくないなんて、変な気は遣わないで欲しい。無理をされたら、あとでみんなが困ることになる」

「本当に体調がいいの。心配しないで」

 確かに彼女は、無理をしているようには見えなかった。こうした楽しみは、身体の回復に大きな効果があるのかもしれない。気の持ち様は、体調の善し悪しを左右するのだ。この調子で月々を乗り越える努力を積み重ねれば、それが生存三年や五年やそれ以上に繋がるのではないか。僕は本当に、そう信じていた。インターネットで得られる情報を読むほど、そう感じられて仕方がなかった。

 気持ちが折れたら、その時点で全てが終わる。終わりを見ることのないよう、休むことなく前を向き続ける必要がある。ゴールのないマラソンで、僕はゴールを目指し続けなければならない。無謀な挑戦のようでも、大切な人の命に関わる重責だ。

 自分はつくづく、重い荷物を背負う運命を持っているのかもしれないと思うところはあった。

 それでも僕は、そういった生き方を積極的に受け入れることができた。漫然と生きるより、こうした人生のほうがずっとましだとさえ思えた。

 僕の人生観はフィリピンを知ることで大きな変曲点を迎え、いつの間にか自分は、それをなぞるような生き方を選んでいる。それに自分自身で気付いたとき、全ての出会いや出来事が、何とも不思議な巡り合わせに思えてくるのだ。

 

 熱海の家族旅行を無事に終えた僕たちに、根拠のない希望が芽生え出した。あれほど精神論に否定的で憮然とした父親でさえ、奈緒美が幸せを感じて元気でいれば、癌など消えてしまうかもしれないと言い出した。旅行中、それだけ奈緒美は快適に元気に過ごしたからだ。

 もちろん僕も、同じような期待を密かに持っていた。しかし僕は、奈緒美は最初から癌など患っていなかったように振舞い、出来るだけ病気のことを考えないようにした。期待が大きくなるほど、それがくじかれたときに心が折れ易くなる。

 出来る限り全てを自然に受け入れる。問題があれば善処する。それだけを心掛け、何が起きてもくよくよしない。僕は意識的に、そうした姿勢を維持しようと心掛けた。

 案の定、抗癌剤投与のセカンドクールが始まると、奈緒美の体調は再び悪化し、父親はあれほど元気だったのにどうしてと納得がいかないようだった。そして、本当にそんな治療が必要なのかと憤った。

 彼はそれを奈緒美の前でも言ったから、仕方なく僕は反論した。

「データで裏付けされた事実には、きちんと技術的に対処すべきだと思います」

 その言葉が、父親の気に触ったようだ。

「しかし君だって言ったじゃないか、心が元気になれば身体も良くなると」

 僕も彼の言い分に賛同したいのはやまやまだ。しかし奈緒美の身体の中に癌が存在するのは、厳然とした事実なのだ。そして抗癌剤がそれほど強力であることも。

 おそらく彼も、化学的治療が必要なことくらい理解している。しかし彼は、辛い現実を目の当たりにして、どうにかならないものかともがいているのだ。

 精神的な活力を維持することが、どれだけ病気に効果的かは誰にも分からない。しかし、マイナス要素がないと言い切ることはできる。ならば、その部分では彼女を精一杯ケアしてあげるべきだというのが、僕の言いたいことなのだ。

「見ている周りの人間が辛いんですから、本人はもっと辛いはずです。それでも頑張っている彼女の前で、僕には治療に否定的なことは言えません」

 彼はしばらく押し黙り、ぽつりと言った。

「確かに君の言う通りだ。感情的になって申し訳ない」

 当初から奈緒美に話した通り、あまりに辛かったら主治医に相談するのがいいかもしれない。副作用が顕著な場合、薬を変えるか量を減らす、あるいは少し休みを入れることもできる。医者も彼女の体調を、きちんとデータで捉えている。どうしても心配なら、専門家に意見を伺うのがよいはずだ。

 しかし、暇さえあれば膵臓癌のことを調べていた僕は、奈緒美の症状にはまだ救いがあると思っていた。

 よく聞く薬の副作用には味覚障害や手足の痺れがあったし、癌から派生する障害として、腹水や胆管の詰まりなどがある。

 僕はそちらのほうが心配で、毎日奈緒美の体温を確認し脈を測り、白目の色による黄疸や下まぶたの内側の赤みで貧血の有無を確認した。

 抗癌剤投与セカンドクールの途中で、僕は予定通り会社を退職した。それをきっかけに、みんなの勧めで奈緒美の自宅に引越して、僕は彼女の家の居候になった。

 それに合わせてマイカーを処分し、奈緒美の車を使用することにした。そのことは、僕がマンションの賃料や食費、車の諸費用を節約でき、彼女の家では未来や奈緒美の世話の手が増え病院への送り迎えも楽になるため、みんなにとって一石二鳥以上のご利益があった。

 僕は奈緒美と未来が使っている部屋を使うことになった。これで僕は、まるで奈緒美と結婚したかのような生活を送ることになったのだ。

 部屋には前のマンションから持ち込んだ、自分用のパソコンデスクを置かせてもらった。そしてその上の隅のほうに、目立たないようにリンの写真を置いた。もちろん、奈緒美の了解をもらってのことだ。

 奈緒美はその写真をしげしげと眺めて、「綺麗な人ね」と感心するように言った。未来は彼専用のベッドに、大の字で寝ている。奈緒美が抗癌剤の投与を始めてから、ベッドを別々にしたのだ。

「彼女があなたの写真を見たら、きっと同じことを言うよ」

「お世辞でも嬉しいわよ」

 彼女は弱々しく笑い、机の上に頬杖を付いてリンの写真を見続けた。

「そんなに気になるなら、写真はどこかにしまおうか? 彼女の写真をここに置くのは、やっぱり不自然だよね」

 彼女は写真に語りかけるように言った。

「いいのよ。ただ、あなたの歩いた軌跡を、何となく想像しているだけだから」

「写真から、そんなことが分かるの?」

「想像力を上手く働かせるだけよ。一つでも材料があれば、そこから想像が無限大に広がるの」

 僕には、リンと歩いた軌跡が見えている。想像する必要はない。

 しかし、リンと出会う前のことを思い出そうとすると、自分のことでも不思議とそれはぼやけてしまうのだ。二十年近く毎日通って働いた仕事のことになると、霞がかかったように何もかもがはっきりしない。

 もちろん個別のことになると、記憶していることも多い。しかしそこに、一貫した大きな流れみたいなものが見えないのだ。僕は実は、働いていなかったのではないだろうか。そんな疑いが脳裏をよぎる。二十年近くも、自分は一体何をしていたのだろう。

「あなたには、自分の過去の軌跡が見える?」

「なによ、突然」彼女は振り返って僕を見た。「そんなこと、考えたこともないから分からないわよ。わたしは過去を振り返らない性分なの」

「人の過去は想像するのに?」

 彼女は、片眉毛を上げたいたずらっぽい笑顔を作る。

「他人のことは自分に責任がない分、楽しいのよ」

 なるほど、そんなものかもしれない。僕も眉毛を上げて相槌を打った。


 治療は順調に推移した。治療開始から三ヶ月後、骨髄抑制の症状が出始めたけれど、抗癌剤を止めるほどではなく、肝臓の薬を追加して癌治療を継続した。

 腫瘍マーカーも緩やかな下降線を辿り、彼女は余命の目安だった六ヶ月をクリアした。それを祝福するように二人は籍を入れ、未来は名実共に、僕の息子になった。

 みんなで相談し、式は挙げなかった。その代わり奈緒美のお父さんが、目玉の飛び出るほど高い高級レストランで、二人の結婚を祝ってくれた。家族とごく少数の身内による祝宴だ。

 そこに僕の両親も招待され、初めて奈緒美や未来との対面となった。

 田舎者の両親には何もかもが規格外で、驚くことばかりだったはずだ。

 目を見張る美人の嫁に孫まで付いてきて、おまけに嫁は余命宣告された癌患者だ。そしてどう振る舞えばよいかさっぱり分からない高級レストランで、見たことも聞いたこともない料理を食べる。最後は圧倒される都内の豪邸で数日過ごしたのだ。

 奈緒美の両親が、ホテルではなく、是非我が家に泊まって欲しいとお願いしたからだった。 

 祝宴が終わり家に帰ると、親父は慣れないことばかりに疲れて、直ぐに就寝した。

 奈緒美とお母さん、そしてうちのおふくろは、女同士の話しがあるとかで、ダイニングテーブルに陣取った。そのあとは男性禁制となり、僕と未来はそこから締め出された。

 未来と二階の自室に引き上げ、二人でアニメのビデオを観ている間、彼も寝てしまった。イベント事は、子供だって疲れるのだ。

 僕は未来をベッドに移し、その横でリンのことを考えた。いずれ近況報告をすると約束しながら、半年も過ぎている。そして僕の状況は、大きく動いた。一度リンに電話をすべきだろうなと、ぼんやり思った。

 しばらく小説を読み一区切りついても、奈緒美は部屋に戻ってこなかった。時計を見ると、十二時を過ぎている。話しが盛り上がるのは構わないけれど、度が過ぎて奈緒美の体に障ることが心配だ。

 様子見でダイニングに顔を出すと、三人が話しを中断して僕を見た。その顔が三人とも涙にまみれていることで、僕の足が思わず止まる。前に進むのがはばかられ、しかしあとにも引けない。

 僕は恐る恐る、声を掛けた。

「もう随分遅いけど、大丈夫?」

 奈緒美が、「もう終わるところ。大丈夫よ、心配しないで」と言った。その言葉と同時に、三人は手で涙を拭う。

 僕は涙の理由など訊けるはずもなく、「うん、程々に」という言葉を残し、その場から逃げるように部屋へ戻った。

 もう終わると言った奈緒美は、三十分も経ってから部屋に戻った。彼女が化粧を落とし、ようやく寝る準備が整ったところで、僕は訊いてみた。

「ねえ、どうしてみんなで泣いていたの?」

 彼女は抱き枕を抱えるように僕に抱きついて、「色々な話しをしていただけよ」と言った。どうやら詳しいことは内緒らしい。

「なんか不思議ね」しばらく黙っていた彼女が、突然ぽつりとそう言った。

「何が?」

「神楽坂」

 彼女はそう言って、また少し黙り込む。

「何のこと?」

「あなたと出会ってから、今までのことよ」

 そう、二人は神楽坂で出会ったのだ。

「そういうことは、考えれば全部不思議になるんだよ」

 彼女は小さく笑った。

「ねえ、お母さんに言われちゃった。息子を独り者にしないよう、頑張って病気と闘いなさいって」

 僕は思わず、「また余計なことを」と言った。

「余計じゃないわよ。すごく励みになったのよ。本当にそうだもの」彼女はそれで口をつぐんでから、突然思い出し笑いをした。

「あなたの雰囲気は、お母さん似なのね。お母さんと話していると、まるであなたと話しているみたいだった」

「そう? 初めて知った」

 奈緒美は楽しそうに笑って、「会えてよかった」と言った。

 僕はその言葉に、少しどきりとした。死ぬ前に、と言いたいんじゃないよねと思ったのだ。もちろん確認もしなかった。

 彼女はその言葉を最後に、寝息を立て始めた。普通より疲れやすい身体なのだ。とても疲れていたはずだ。

 その後も奈緒美の両親は、僕の親に随分気を遣ってくれた。

 元々質素に暮らしている人なのだ。朝からコーヒーと緑茶のどちらがよくて、食事はパンかご飯、どっちにするかと聞かれても、戸惑うばかりだ。食べることができれば何でもよくて、なければないなりに我慢もできる。他人の家に宿泊させてもらうだけでも有難いのに、一々贅沢なことを言ってはいけない人たちなのだ。

 デパートのショッピングで、綺麗な服を買ってくれようとすれば滅相もないと断り、夜は美味しい焼肉を食べに行きましょうと言われると勿体ないと感じる。ランチで出前の寿司が届いたときには、夕食でもないのにと卒倒しそうになっていた。

 そんな僕の両親は恐縮しきって、気付けばいつでも腰を折り頭を下げていた。しかし奈緒美の両親は、更に腰を低くして、懸命に親父とおふくろを立ててくれる。

 僕は一度、そんなに気を遣わないで下さいとお願いしたほどだった。するとお父さんが言った。

「ご両親がいなければ君がいなかったんだ。そう考えるとね、わたしは御両親に、感謝の念で一杯になるんですよ」

 それに続くようにお母さんも、「あら、わたしも同じ気持ちだったのよ、お父さん」と笑った。

 穴があったら入りたくなるくらい、恐縮を誘う言葉だった。おかげで両親は、田舎者であることに気後れすることなく、充実した数日を過ごすことができた。

 両親が田舎へ帰るときには、みんなが東京駅まで見送りに来てくれた。体調が良かった奈緒美も一緒だ。

 既にホームには、乗客の受け入れが整った新幹線が止まっている。出発まで、十分を切っていたかもしれない。沢山の土産物を持たされた親父とおふくろは、一旦車内に荷物を置いて、デッキの外へと顔を出した。

 一宿一飯の恩義は死ぬまで忘れませんと言わんばかりに、二人が奈緒美の両親に頭を下げて礼を言う。お互いの手を取り合って、まるで今生の別れを惜しむかのように挨拶を交わしていた。

 いよいよ出発という間際、おふくろが僕に毅然とした顔を向けた。

「あんだは死ぬ気で奈緒美さんを守りなさい。全部あんだにかがっているのを忘れんな」そしておふくろは優しい顔になり、奈緒美の手を取った。

「頑張って病気ど闘えって言ったけど、頑張るどころと頑張らなくてええどこは、きちんと使い分けないどだめよ。気張り過ぎは返って身体に障るがら。少し気楽に構えるぐれえがちょうどええ。うぢのばか息子がいたらなんだら、いつでも電話してええんだがら」

 その言葉を聞いて頷く奈緒美の目から、涙がこぼれる。

「ありがとう、お母さん」

 昔から涙もろいおふくろの目も、赤くなった。

 そして発車のアナウンスが流れた。慌てて列車に乗り込んだ二人の前で、ドアがスライドする。

 閉じたドアの向こう側で、おふくろがハンカチを目に当て頭を下げた。横にいる親父も、笑顔で手を振る。

 列車が静かに動き出すと、みるみる加速して彼方に消えた。あっという間だ。

 僕に抱かれた未来が、バイバイと叫んで最後まで元気に手を振っていた。奈緒美の両親は、とても満足気な顔をしていた。


 大きなイベントが風のように過ぎた翌日、僕は外出してリンに電話をすることにした。彼女の仕事が終わりそうな時間を、昼から待っていたのだ。

 奈緒美は二階の部屋で、未来のために本を読んでいた。

 僕は彼女へ、外出の理由を正直に告げた。

「フィリピンに電話をしたいんだ。例の手紙を出したきりになっているし、結婚したことを話さないことには僕も落ち着かない。直接一度、きちんと話しをしなければいけなくて」

 こんなことを彼女に言うのは気が引けて、それを言う口調は自然と遠慮気味になった。

「そんなこと、気にしなくていいのよ。気を付けて行ってきて」

「ありがとう。おそらく一時間以内に戻るよ。何かあったら電話をして欲しい」

 家から少し離れたコンビニで国際電話カードをチャージし、その店の駐車場に停めた車の中でリンに電話を掛けた。

 呼び出し音が聞こえる間、僕の気持ちは少し重かった。一方的にレターを送り、それから半年間もご無沙汰したのだ。顔は見えないけれど、どの面下げて電話してきたんだと言われる状況だった。

 コール音が三回、四回と重なる。彼女は、普段僕が通話を諦める六回目のコール音で電話に出た。

「ハロー」しばらく英語から遠ざかっていたせいか、一瞬、未知の世界の人に繋がったような感覚が走る。

「久しぶり。僕だよ。聞こえる?」

「うん、聞こえてるわよ。本当に久しぶりね」

 いつもと変わらない、のんびりした口調だった。

「長い間電話をしなくてごめん。元気にしてる?」

「大丈夫、わたしは元気よ。お金を送ってくれてありがとう。きちんと貯金できてるわ」と言って、彼女は笑った。

「そうか、それはよかった。でも、本当に悪いけれど、レターに書いた通りこの前の送金を最後にしたいと思っている。それでいいかな?」

「そのことはいいわよ。わたしは生活できているから心配しないで。それより、一体何があったの?」

「うん……」僕はどこまでリンに報告すべきか迷った。「前に話した奈緒美という女性が命に関わる重い病気にかかってね、今治療中なんだ」

「ああ、そう」彼女は少し沈んだ声になる。「やっぱりそういう意味だったの、かわいそうね」

「あなたへの報告が遅れたけれど、僕は奈緒美と結婚したんだ。今は彼女の家に住んでいる」

「そう、結局結婚したんだ」彼女は少し間を開けてから「こんな場合、わたしはおめでとうと言うべきかしら」と言って、やっぱり笑った。

 彼女にとって僕の結婚が、もはやさして驚くべきことではないのか、あるいは彼女は少し無理をしていたのか分からなかったけれど、少なくともその口調は平静を保ったものだった。

「勝手なことばかりでごめん。怒ってない?」

「わたしはあなたの好きにしてって言ったのよ。それでどうして怒るのよ」

「好きにしてって言われて、本当に好きにしたら怒られたってのはよくあることだよ」

 彼女は笑って、「そうかもしれないわね」と言った。

 会話に笑いが登場すると、こちらの気持ちも楽になる。僕はリンに訊いてみた。

「あなたはどうなの? 仕事やプライベートで何か変わったことはない?」

「身体を使う仕事は大変だけど、やり甲斐があって楽しくやってるわよ。今のところ仕事は順調」

「それは本当に何よりだ。あなたが仕事場で撮った写真を、今も机の上に飾っているよ」

 彼女はそれを、恥ずかしいからどこかへしまっておいてと言った。

 しかし、購入した中古住宅とケアギーバーの資格は、価値として残っている貴重な実績なのだ。だからその写真をどこかへ隠してしまうのは忍び難い。

 僕のそんな考えに、彼女が反論した。

「あなたは、目に見えるものだけを信じるのね。実際には見えないものにも、多くの価値が含まれているのよ」

 僕は、「例えば?」と訊いてみた。

「例えばね、子供たちの心の中にある思い出は、一生あの子たちの中に残るのよ。それはわたしも同じことなの。それに、あなたとの付き合いから学んだことも多くある」

 確かに僕は、そういった事柄をいつの間にか忘れていたかもしれない。

「そのことには百パーセント同意するよ。それは僕にとっても全く同じだから。感謝の気持ちすら持っている」

「それは何があっても残るでしょう?」

「そうだね、何があっても残る」

 それこそが、自分が最後までこだわった、彼女への想いだったのかもしれない。

 しかし僕は、既にリンとは別の人生へと一歩も二歩も踏み出している。後悔するつもりはなかったけれど、少しほろ苦い感情が、胸の隅に顔をのぞかせた。

「あなたには、誰かいい人はいないの?」

 彼女は少し考え込んでから言った。

「一人、プロポーズをしてくれる人がいるの」

 それは意外な告白だった。そのことで僕の頭に真っ先に浮かんだことは、その人が彼女を幸せにできる資質を持つ人かどうかだった。

「どんな人か、訊いてもいい?」

「いいわよ。その人はカナダ人なの」

 僕はそれを聞いて、何故か安心した。相手が先進国の人であれば収入がそれなりにあり、金銭面でリンが苦労することはないだろうと勝手に思い込んだのだ。プロポーズをされるくらいなら、それほど浅い付き合いでもないだろう。それに僕は、相手がどんな人であっても、彼女にとやかく言う立場にない。

「それであなたはどうするの?」

「まだ何も考えていないわよ」

 せっかくのいい話しなら、さっさと結婚を決めて安泰な生活を手に入れたらいいと、そのとき本気でそう思った。僕は自分の背負う十字架みたいなものを、てっとり早く取り除いて楽になりたかったのだ。

「どうして? 悪くなさそうな話しに聞こえるけど」

「彼にはまだ、色々と問題があるの。カナダに恋人がいるみたいで、その女性から、わたしに苦情のメールや電話がきたわ。そういう揉め事に巻き込まれるの、わたしは本当に嫌いなの。わたしには、人の恋人を奪うつもりはさらさらないって言ったわよ」

 リンはそれ以外にも、彼にはドラッグをやっている疑いがあることや、自分にプロポーズするその気持ちを十分確かめる必要があることを、即決できない理由として並べた。

「焦る必要はないし、そもそも別れの傷心も癒えないうちに結婚も何もないわよ。そんなこと、考えられるわけないじゃない」

 僕は傷心という言葉に引っかかりを覚えたけれど、本当にそうなのかなどと確認できるはずもなかった。

 ただこの会話が、長く付き合った男女の別れ話しっぽくないことは確かで、僕たちはやはり、家族愛的感情で繋がっているのかもしれないという気がした。そうなら奈緒美に話した通り、僕たちはこの先も、家族のような付き合いを継続するのかもしれない。

 こんな場面で、これからは友だちとして宜しく、みたいな話しをよく聞くけれど、僕は基本的にそんな綺麗事を全く信じていない。

 男女の別れには、どろどろとした葛藤や怨念や狡猾さや、そんな辛さや醜さが根底にあると思っている。それだけに僕はその日、この会話の普通さがとても特異に感じられ、自分は本当に彼女と別れたのだろうかと、おかしな疑いを持つことになった。

 僕がこの先、リンとどこかで繋がっているという感覚を持ち続けることになるのは、おそらくその辺りに原因があるのかもしれない。


 僕と奈緒美と未来は、出来るだけ外に出掛けた。もちろん、奈緒美の体調を考慮しながら。

 相変わらず彼女は、薬の副作用で体調がすぐれないことが少なくなかったけれど、どこかに痛みを訴えることもなく、身体に顕著な悪化もないまま経過は概ね良好と言えた。

 よって外出に支障をきたすこともなく、治療で時間を取られる以外は普通の生活を営み、その傍らで僕は様々なイベントを企画した。

 ぶらりと高速道路に乗り、空気の澄んだ田舎に足を伸ばしたり、ディズニーランドへ行ったり、都内の水族館や大きな公園の散歩を楽しんだり、時間の許す限りそういったことを実行した。数泊の温泉旅行にも行ったし、普段なら決して入ることのない有名なレストランで食事をすることもあった。奈緒美の両親が、一緒に出掛けることも少なくなかった。特に遠出の際、二人は極力時間を作り、一緒に出掛けるのを心掛けていたようだ。

 奈緒美も未来も、そして両親も、そういったことでいつも笑顔が絶えなかった。

 そんなレジャーの最中、たまに奈緒美の具合が悪くなっても、誰もが深刻になることもなく、そして無理もせず、料理人が料理をするように、勤め人が毎朝会社へ出掛けるように、淡々と実にあっさり対応した。

 日常化したレジャーが特別なことでなくなれば、途中で計画を変更し引き返してもよいし、次の機会にいくらでもやり直しがきく。そんな状況は奈緒美の気持ちを楽にさせ、せっかくの楽しみを自分のせいで台無しにしたという負い目から救った。

 退職金を食いつぶすことになろうと、僕はこうした楽しみを努めて絶やさないようにした。

 しかし、奈緒美の両親もこうした娯楽にお金を負担してくれ、高額な奈緒美の治療費は保険に助けられ、家賃も払う必要がないとくれば、実際には金銭的に苦しいということがなく、むしろ以前より余裕があるくらいだった。

 僕は月々の食費くらいは家に入れようとしたけれど、それは未来の将来のために取っておいてくれと言われ、奈緒美の両親は決してそれを受け取ろうとしないのだ。

 仕方なく僕は、お父さんの務める銀行に未来名義の口座を作り、そこへ毎月それなりのお金を預金した。自分の退職金もその銀行へ預けていたから、僕のお金が同じ行内で、書類上毎月定期的に移動するのだ。

 こうした試みの効果があってのことか、奈緒美の中に居座っていた病巣は徐々に減退し、主治医も不思議がるほどだった。

 原発巣の癌が小さくなることは理解しても、転移した癌まで縮小していることは珍しいと医者は言った。通常はターゲットにする癌によって、効果的な薬や治療法が異なるからだ。二種類やそれ以上の抗癌剤同時投与はできないため、原発巣に照準を当てた薬を選択しているにも関わらず、それ以外の癌まで衰退していた。

 新たな転移も見当たらない。年齢が若いため、進行が速すぎて薬の効き目が追いつかないこともままある中、その結果は奇跡的なことのようだった。

 一瞬高らかな希望を持った僕たちは、医者にしっかり釘を刺された。

 癌がきれいさっぱり消滅したわけではなく、油断は禁物ということだ。腫瘍マーカーの値は、身体の中に癌が残っていることを示している。現在の抗癌剤を継続しながら、様子を見て次の治療方針を決めることになった。

 それでも僕たちの中で、奈緒美が死ぬという、八方塞がりのどうしようもない閉塞感は薄れていた。それよりも、こんなに上手くことが運ぶことに対し、自分たちは何かを見落としていないだろうかという不安感のほうが勝っていたかもしれない。

 実際、医者も僕も、全ての人が一つの事実を見逃していたのだ。見逃していたというより、それは医療の限界だった。

 森羅万象には、限界という端があるのだ。誰もが突き当たり、誰もがひれ伏すしかない限界だ。自分の知る限り、唯一限界のないものは、この世で刻々と流れている時間くらいのものだけれど、それすら条件で変化する物理量だとすれば、どこかに限界があるのかもしれない。

 前触れもなく奈緒美の体調に変化が現れたのは、医者から良好な経過と告げられた三ヶ月後の、ある夕刻だった。

 僕はリビングで、未来と一緒にカートンチャンネルのアニメを観ていた。母親と夕食の準備をしていた奈緒美が、お腹を触りながら僕と未来の前にやってきた。

「少しお腹が痛いの。二階で休んでいい?」

 彼女の顔は、血の気が引いて青ざめている。額に手を当ててみると、熱はないようだった。

「少し休んだほうがいいよ。他に症状はある?」

「少し気持ちが悪い。軽い吐き気みたいな感じ」

 食中毒だったら熱も出るはずだ。彼女を二階に連れていこうとすると、階段のステップで彼女はお腹を押さえて痛がった。二階に上がるのをやめて、リビングへ戻る。奈緒美の両親も、心配そうに寄ってきた。

 みんなで見守る中、奈緒美はソファーの上で膝を折り曲げ、お腹を抱え込むような姿勢で丸くなる。

 熱を測ると、平熱だった。胃の周辺を数カ所軽く押してみると、左の脇腹辺りで彼女は痛がる。普通の腹痛とは少し違うような気がした。

 病院で診てもらったほうが良さそうだ。奈緒美は少し休めば大丈夫と言ったけれど、彼女は癌患者なのだ。もし大したことがなく無駄足になったとしても、それは幸いというものだ。

 家族全員で車に乗り込んだ。奈緒美は起き上がったり、歩くときにも痛がった。症状が、刻々と悪化しているように見える。

 車は僕が運転した。助手席にお父さんが未来を抱いて乗り、奈緒美は後部座席で、お母さんの膝枕で横になっていた。車の中で、奈緒美の顔は苦痛に歪んでいた。間違いなく、痛みが激しさを増している。

 向かったのは、普段奈緒美が治療を受けている病院だ。癌治療を受ける特殊な患者なのだから、同じ病院のほうが都合がいいはずだった。

 幸い道路は目立った渋滞もなく、車は順調に進んだ。それでも僕は、前に遅い車が現れると苛立って追い越した。自然と、随分乱暴な運転になっていたかもしれない。

 高速道路に入ってから、病院に電話をした。病院の救急受け付けに行くべきか、それとも普段の病棟へ行くべきか分からなかったからだ。

 電話に対応した看護師は、一通り症状を確認し、医者と相談してから僕たちに救急へ行くよう指示をくれた。担当の医者が、救急の診察室に出向くとのことだった。

 病院に到着すると、有り難いことに顔馴染みの看護師が待っていてくれ、僕たちは直ぐに診察室に通される。車椅子まで用意され、本当に助かった。奈緒美は既に、苦痛で歩くこともままならなかったからだ。

 それから診察を受け、慌ただしく血液採取とCT検査を行った。終始痛がる彼女には鎮痛剤が打たれたけれど、あまり効き目がないようだった。

 三十分後、呼ばれて再び診察室に入ると、CTで撮ったたくさんの胴体輪切り写真が、二人の医者の前で投影機上に並んでいた。医者の一人は癌治療の主治医で、一人は救急外来の担当医だ。

 奈緒美は処置室のベッドに残してきた。診察室に入ったのは、僕と両親と未来の四人だった。

 二人の医者は、気難しい顔でCT写真を見ている。救急外来の医者がこちらを向いて、口を開いた。

「奥さんのお腹には、大腸穿孔という症状が見えています」

 彼はCT写真の一部を指さし、説明を続ける。背骨と反対側、つまりお腹の表面から少し内側に入った部分に、表面に沿って黒い層が広がっていた。

「この黒く見えるのは、空気です。正常な場合、この部分は塞がっています」

 空気層の内側には、内臓が詰まっている。彼は今度、別の写真の脇腹らしき部分をさした。

「ここには灰色の塊が見えます。これは大腸から漏れた便です。穿孔というのは、何らかの理由で臓器に穴があくことです。奥さんの場合、大腸に穴ができ、そこから大腸の内容物が漏れ出している状況です。その塊の上下が、隙間となって先程の空気層が見えているわけです。この塊で、内蔵やお腹の表面が圧迫されているので、相当痛みがあるはずです。ここで一番の問題は、奥さんの身体の中に、腸の内容物に含まれる大腸菌がばら撒かれていることです。よって今、抗菌薬を点滴しています。ここまでは宜しいでしょうか?」

 僕たちは無言で頷いた。医者は神妙な顔で説明を続ける。

「この病気は、放っておくと命に関わります。手術をしなければ、助かる確率はかなり低くなります。よって通常は緊急手術が必要です。ただし奥さんの場合、いくつかの問題があります。今奥さんの身体は、抗癌剤の副作用で白血球や血小板が少なくなっています。その二つが足りない状況で手術を行うのは、大きな危険を伴います。術中の出血多量や術後の合併症も予想されます。血小板製剤の輸血も検討しますが、それ自体がリスクを伴います。体力のない年配の方であれば、死に至ることがわかってさえ手術を見合わせるケースです」

 降って湧いた話しに呆然としながら、僕は訊いた。

「それは一体、どんな手術になるんでしょうか?」

「先ずは大腸に空いた穴を塞がなけれなりません。それから漏れた大腸の内容物を取り除き、身体の内部を洗浄します」救急担当医は、ここで言葉を切った。それを引き継ぐように、今度は主治医が僕に向けて口を開いた。

「穿孔の原因が何かにも寄りますが、奥さんの場合、転移癌が増殖し、腸の膜を食い破った可能性があります。そうなると、大腸をよく観察し、場合によっては大腸全てを切除して人工肛門を設置することになります。もしそうなると大掛かりな手術になりリスクも高まりますが、それでも手術に踏み切りますか?」

 人工肛門という言葉が、僕を怯ませた。昨日まで全く元気だった彼女が、どうしてこんなことになるのか。しかしここで諦めてしまえば、全てが終わってしまう。それは想像することすら、悲しくて恐ろしい現実だった。

 しかし一方で、これ以上彼女に無理をさせることは、自分のエゴではないかという疑いもあった。苦しむ彼女本人をよそに、彼女の運命を決めることが許されるのだろうか。

「奈緒美と話しができるでしょうか?」

 僕は二人の医者に、そう訊いていた。

 主治医が答えた。

「鎮痛剤の効きが悪く痛みがあるはずですが、話しはできます。もし手術をしないとなれば、モルヒネで疼痛コントロールを施します。この症状は痛みのコントロールが難しいケースがあり、モルヒネを多めに投与する必要があるかもしれません。そうなると意識も朦朧としますので、今のうちによくお話し下さい」

 未来に奈緒美の苦しむ姿を見せたくない気持ちと、病気と懸命に闘う彼女の姿を見せておくべきという、二つの感情が自分の中にあった。

 しかし僕は、奈緒美が心から愛する彼を、別室に置いて彼女に会うことはできなかった。

 僕たちは全員揃って、恐る恐る処置室へと入った。主治医も付き添ってくれた。

 手術もできそうな広い部屋の真ん中にベッドがぽつりとあり、その上で奈緒美が身体を丸めるように横向きで寝ている。

 手の甲に点滴の管が繋がっていた。タイル張りの、殺風景な部屋だった。ベッドの上に大掛かりな照明装置があり、緊急手術ができるようになっているのかもしれない。

 僕たちの物音に気付いた彼女は、苦痛に歪ませた顔をそのままに、静かに目を開いた。

 僕は未来の手を取って、奈緒美の手を握らせた。彼女はそれをしっかり、握り返した。

 未来は奈緒美の様子に、怯えるような表情で無言だった。何か大変なことが起こっているのは分かるけれど、それが何かを彼は理解し切れず不安なのだ。お父さんとお母さんが、それを見守る。お母さんはハンカチを目に当て泣いていた。

 僕は彼女の頭に手を添え、しゃがみ込んで自分の顔を彼女の顔の近くへ寄せた。

「まだ痛む?」

 彼女は顔を歪ませたまま、二度頷いた。

「痛みで辛いだろうけど、これから大切なことを話すから、よく聞いて欲しい」

 彼女はまた頷く。彼女の額に汗が滲み、そこに彼女の髪がまばらにへばりついていた。その汗をハンカチで拭き取り、乱れた髪を整えながら説明した。

 大腸に穴が空いて便がお腹の中に出ていること、手術をしないと助からないこと、そして手術には大きなリスクがあることや、大腸切除と人工肛門設置の可能性だ。

「人工肛門って、格好悪いわね」

 彼女は小さな風でもかき消されるような声で、本当に弱々しく笑った。苦痛に耐えながら、無理やり作ろうとしている笑顔が痛々しく、僕はいたたまれなくなる。僕も彼女の手を取った。

「ドクターから、手術をするかどうか確認されている」

 彼女は目を閉じて、眉間に皺を寄せている。

 未来と僕を握る彼女の手に力が入り、それが少し震えていた。彼女は痛みに耐えているのだ。

「あなたはどうして欲しい?」

 彼女は絞り出すように声を出した。かすかに開いた瞼の奥で、彼女は僕の目を捉える。

「僕はいつでも諦めたくない。可能性が少しでも高いほうを選択したい。だから手術を受けて欲しい。未来とお父さんやお母さん、そして僕のために、辛くてもあなたに頑張ってもらいたいんだ」

「分かった。わたしはまだ頑張れるわよ」

「ありがとう」僕は脇に立つ彼女の両親に言った。「お父さん、お母さん、それでいいですか?」

 二人が頷く。

 僕はその場でお願いした。

「先生、手術をお願いします」

「分かりました。直ぐに準備をします。ここでしばらくお待ち下さい」

 明言を避けながらも、万が一のために、医者はあとしばらくの会話を配慮してくれたように思えた。

 僕は奈緒美に言った。

「手術はきっと上手くいく。心配しなくてもいい。僕が心配するのは、あなたの心が折れることだけなんだ。治ったら、またたくさんの楽しみを用意する。約束するよ。こんな状況で頑張れって言うのは本当に申し訳ないと思う。でも諦めずに頑張って欲しい」

「そうよ。奈緒美、頑張って」お母さんも言った。

 奈緒美は目を閉じながら、気力で弱々しく会話を続けた。

「大丈夫。諦めてなんかいないわよ」一旦言葉が切れ、彼女は歯をくいしばる。「諦めたら全てが終わる。そうでしょう?」

「その通り。でも今は、痛くて辛いなら無理に話さなくていい」

 彼女はありがとうと言って、それから黙り込んだ。ときどき顔を歪ませ、軽いうめき声を出す。その間、僕と未来は彼女の手を握り続けた。彼女が握り返す手の力の強弱で、奈緒美が痛みに堪えていることが伝わってくる。

 手術を始めて、早く彼女を楽にさせてあげたかった。待ち時間が長く感じられる。痛がる彼女を見守るのは、針のむしろに座る気分だった。

 手術が始まったのは、それからまもなくだった。僕たちが処置室から出ている間、看護師の手で奈緒美は術着に着替えさせられ、追加の点滴がぶら下がるベッドごと、手術室に運ばれた。

 手術中の赤い表示灯が灯ると、それはそれで落ち着かない不安感が僕を襲う。いや、みんな同じだったに違いない。

 手術室の前の長椅子に座り、みんなで黙り込んだ。様子の分からない密室で奈緒美の身体が切り裂かれているかと思うと、不穏な想像が頭の中を駆け巡る。それを封じ込めようと頑張ってみても、それは無駄な抵抗だった。現実に彼女の身体にメスが入り、内蔵をいじられているのだから、どうあがいても余計な映像は頭の中に媚れ付いて離れない。

 未来は疲れて、僕の腕の中で眠っている。何かにすがりたい僕は、救いを求めるように未来を抱き締めていた。

 お父さんは、ときどき立ち上がっては座り直すことを繰り返した。お母さんは神に祈りを捧げる恰好で、目を閉じてときどき何かを呟いた。

 僕は未来を抱いて、空中の定まらない一点を見続け、ときどき天井を仰ぐ。奈緒美は手術室の中で闘い、僕たちも手術室の外で何かと闘っていた。

 二時間半後、手術中の赤い表示灯が消灯し、僕たちは慌てて立ち上がった。最低でも五時間程度の所要時間を覚悟していたから、拍子抜けするほど短い時間だ。

 手術室のドアが開き主治医が出てくると、僕たちは囲み取材のように彼に詰め寄った。

「手術は無事に終わりました。目立つ腫瘍らしきものが見当たらないため、大腸は温存し空いた穴を塞ぎました。穴の部分は、組織を採取して生検へ回します。やはり出血は多かったのですが、ここまで奥さんは頑張りましたよ。これからは感染による合併症に注意しなければなりませんので、滅菌されたICUに移して様子を見ます」

「彼女の体調はどうですか?」それが一番気になるところだった。

「今のところ問題ありません。しかし、一度大腸菌が身体にばらまかれています。この場合、術後の経過が芳しくないことが多いため、むしろこれからが大変です。しっかり注意して経過を観察していきます」

 蒼白な顔で医者の説明に臨んでいたお母さんが、また涙を流した。僕たちはそれで、一つの山場を越えたことに安堵する。

 しかし手術というものは、心配が尽きることがなかった。ガラス越しに見えるICU内部で、奈緒美にはいくつものチューブや線が繋がれていた。彼女は計器類に囲まれ、死んだように眠っている。まだ麻酔が効いているのだ。その様子を見ていると、彼女は永遠に目を覚まさないのではないかという気がした。あるいは、誰にも気付かれずに、いつの間にか呼吸が止まることもあるのではないかという心配が頭をもたげる。

 彼女が目を開けて、彼女の口から楽になったという声を聞くまで、どうしても落ち着かなかった。彼女の傍らで息づかいや体温を確認できたら、どれだけ安心できることだろう。

 できれば彼女が目覚めるまで、ガラス越しでも、このままずっと彼女の様子を観察したかった。しかし僕たちは、二十四時間看護で大丈夫だからと、病院を追い出されるように帰宅した。誰もが後ろ髪を引かれる思いで帰路についた。

 翌朝病院に行くと、奈緒美はICUで、まだ眠っていた。

「ママはまだ寝てるの?」未来が不思議そうに言う。

「麻酔という眠くなる薬で、今は休んでいるんだよ。ママは元気になるために、休まなくちゃいけないんだ」

 看護師を捕まえて、手術の麻酔から覚めるのは通常どのくらいかを訊ねた。

 看護師の返答は、手術の内容や人によって違うので、明確に答えられないという、害も益もないものだった。こちらが、何かを隠しているのではという疑いの目を向けると、バイタルは正常ですから心配しないで下さいと彼女は言い残し、忙しそうに立ち去った。

 昼過ぎ、主治医の部屋に呼ばれ、奈緒美の病状についての説明があった。

 奈緒美の状態は、今のところ安定しているとのことだった。

「感染症に気を付けながら、ゆっくり体力を回復させる必要があります。通常の人は多くの菌をもっていますから、まだ病室には入れません。少なくとも三~四日はこのまま滅菌室で様子を見させて下さい」

 生検の結果、奈緒美の大腸穿孔の原因は、心配した通り転移癌とのことだ。癌細胞は、血流に乗り、あらゆるところに根を張る可能性がある。それが今回は、大腸ということだ。

 腸穿孔は決して楽観できる病気ではないけれど、癌細胞が同じようにどこかの血管の壁を食い破ることもあるようだ。それが大きな動脈であれば、体内で大出血し命取りになる。

 大腸に転移癌が見つかったことで、これからも、様々な病気が誘発される可能性があることを、自覚しておかなければならないとのことだった。

 一旦は良好な結果に、天にも昇る気分で喜んだけれど、それほど甘い病気ではないということだ。いくつもの峠があり、それを一つずつ乗り越え命を繋ぐ覚悟が必要なのだ。自分はその大切な原点を、忘れかけていた。

 今回も彼女の命が繋がったことに、僕は最大限感謝すべきだった。入院や手術が必要とか、治療が大変だとか、そんなことは命が絶えることを考えれば些細なことだ。こうなった以上、命を繋ぐためにはそれ相応の代償が必要となる。命を繋ぐための苦労は、買ってでもしなくてはならないということだ。

 奈緒美はその日の午後、無事に目を覚ました。朦朧としているようではあったけれど、薄らと目を開け、その視線が廊下側にいる僕を確かに捉えた。

 ガラスで隔たれているため、僕は親指を立てて大丈夫かと尋ねると、彼女は微かに微笑んで頷いたように見えた。バイタルも安定しているようだから、あとは医者が言うように、体力の回復を待つだけと安心した。

 しかし、手術後安定していた奈緒美の体調が、その日の夕方に暴れ出した。血圧と体温が突然不安定になったのだ。

 連絡を受けてICUの前に行くと、彼女の周りで看護師が慌ただしく動いていた。彼女の顔は酸素マスクで覆われ、点滴が準備されている。

 ガラス越しに奈緒美を見守る僕たちのところへ、医者が急ぎ足でやってきた。

「敗血症の兆候が出ています。検査結果を待つ時間がありませんので、直ぐに抗菌薬の投与を始めます」

 そう言った医者は、少し離れた扉から慌てて部屋の中に消えた。

 数分後に、先程の医者が奈緒美のベッドの脇に立ち、聴診器を彼女の胸に当てながら、計器の示す数値やグラフを見つめている。そして看護師が指示を受け、点滴注入器から注射器で薬を流し込む。

 それは如何にも緊急処置という雰囲気で、見ている自分たちの息が詰まりそうだった。奈緒美の両親は硬直した顔で、事の次第を見守っている。

 僕に抱かれた未来が言った。

「ママはどうしたの?」

「ママは今、病気と闘っているんだ。頑張ってるんだよ」

 彼は不安な顔を、彼女のほうへ戻した。

 こんなときに何もできない僕は、地団駄を踏みたいほど、無力であることを悔しがるしかなかった。一体どうすればいいのかと思いながら、何もできない現実が僕たちを襲う。ただ様子を見ているのは辛くても、その場を離れることもできない。

 いつの間にか僕は、ただただ助かって欲しいと祈っていた。こんなとき教会に行って、意識を神に集中させ、一心に祈りを捧げたら楽になれるのかもしれない。

 結局は、なるようにしかならないのだ。僕は未来と一緒にICUの前を離れた。そして扉を一つ隔てた廊下の長椅子に座わり、未来を抱きしめながら目を閉じて祈りに集中した。

 二時間もそうしていただろうか。お父さんがやってきた。

「奈緒美は持ち直したよ」未来は僕の腕の中で眠っていた。「薬が効いて、峠を越したようだ」

 彼は僕の横にどさりと腰を落とし、大きく息を吐き出し身体の力を抜いた。

「そうですか。よかった」

「奈緒美も大変だけれど、周りもしんどい」

「お母さんは?」

「まだ奈緒美を見ているよ。あそこから動こうとしないんだ」

 その気持ちはよく分かる。

 峠は越えたものの、奈緒美はICUから中々出てこなかった。本人の意識は戻っていて、ときどき目で会話もできるのに、どうして出てこれないのだろうと不思議だった。

「まだ意識障害が残っていますし、心肺機能も十分回復していません。一番の問題は、免疫力がまだ不十分なことです」これが医者の回答だった。

「つまり、まだ危ないということですか?」

 医者は言葉を慎重に選びながら言った。

「現時点で危ないということはありません。ただしこの病気は、油断すると危険なんです。状態が急変することもよくあります。そういう経験を踏まえて、慎重に経過を見守っているということです」

 免疫力を高めるために、血液の入れ替えもしているようだった。

 その後奈緒美は順調に回復し、一週間後、ようやく病室への移動が許可された。

 病室は個室を希望した。ただし病院には、今回は普通の個室をお願いした。僕が泊まり込んで始終付き添いたかったし、相部屋で彼女に余計なものを見せたくないというのが、個室を希望した理由だった。

 ICUの周囲にいた際、僕たちは、不幸にも亡くなった人を何人も目撃したし、奈緒美もそれを見たはずだ。

 白い布を被った人が、自分たちの前を何人も通り過ぎた。その度、次は奈緒美がそうなるのではないかという恐怖心が自然と湧いた。個室になれば、そういった情報を遮断できる。

 僕は付き添い人用のベッドかマットレスを、病院に特別に頼んだ。二十四時間看護だから付き添い不要と言われたのに対し、彼女の死を思ったよりも身近に感じた僕は、どうしても傍にいたいと頑張り、ようやく主治医の許可を得た。

 病室に落ち着いた奈緒美を、みんなで囲んだ。一旦峠を越えて普通に会話ができるようになると、少し前に死の淵を歩いていた余韻は、彼女にあまりなかった。

 ただ、二週間も寝たきりになっていたせいで、身体から筋肉が抜け落ち、身体的体力は随分衰えたように見えた。

「頑張ってくれてありがとう」

 僕は本当に、そのことに感謝していた。お父さんも、全くその通りだと言った。

「わたしは寝ていただけで、何がどうなっているのかさっぱり分からなかったのよ。手術から目が覚めたときには、身体にたくさんの線やチューブが繋がっていて驚いたわ。まるで死にそうな人みたいって」

 僕は彼女の言葉に笑った。「本当に死にそうだったんだよ」

 彼女のお腹辺りはガードされ、布団が四角く盛り上っている。点滴も繋がっていて見た目はまだ重病人だけれど、顔付きや口調ははっきりした。

 彼女は僕の言葉に笑い、「あまり笑わせないで。笑うとまだお腹が痛むから」と言った。

 彼女の筋力が落ちているのは予想できたけれど、それは意外に重症だった。自分で身体を起こすこともできないのだ。介助して身体を起こすと、頭痛や目眩がすると彼女は言った。

 もちろん歩くなど到底無理で、車椅子を利用しなければどこに行くこともできない。車椅子に乗り移ることさえ、一人ではできないのだ。一週間も入院したら帰宅できるのではないかという期待は、その様子で打ち砕かれた。

 医者は、しばらくは小まめに血液を確認し、薬を調整しながら様子を見ると言った。手術の傷が完治していないこともあり、入院は長期に渡る見込みとなった。

 僕は毎晩病院に泊まり込んだ。ときどき未来も一緒に泊まった。

 朝は一旦自宅へ帰り、シャワーをして着替えてから、お母さんと未来を乗せて病院に戻る。夕方お父さんが来て、お母さんと未来を乗せて帰宅する。奈緒美の入院中、そんなリズムで日々を過ごした。

 病室で奈緒美と色々な話しをしたけれど、その中で、病気を振り返る内容は一切避けた。話しづらいとか、彼女の心中を察したとかそういうことではなく、あまり意味がなかったからだ。それは、癌治療を、彼女の体力が回復するまでしばらく見合わせることになったせいだ。

 継続的にモニターしていた腫瘍マーカーの数値は、じわじわ上がっていた。腫瘍マーカーは、血液から癌細胞が生産する特有の物質を検出することで測定できる。その結果を横目で見ながら何も治療できないことは、実にもどかしいことなのだ。同時に、身体に負担のかかる検査も見合わされていた。癌に対して何も対処できない状況下、新たな転移癌の話しをしても虚しくなるだけだった。

 入院一ヶ月後、彼女は落ちた筋肉を復活させるリハビリテーションを始めた。自力で起き上がる、車椅子を腕の力で動かす、手摺りに捕まり自力で立つ。こうした簡単なことから、少しずつ練習しなければならなかった。

 もちろん本人は必死で、体力を消耗するようだ。ほんの少し頑張ろうとするだけで、彼女の顔は歪み、額に汗が滲み出る。僕は介助役で、毎日リハビリテーションに付き合った。

「こんな簡単なこともできなくなるなんて、本当に情けないわね」と彼女は言った。「普通に生活できることがどれほど有り難いか、よく分かる」

 傍らで見ている自分も、それはよく理解できた。人間の身体が、これほど簡単に変化することが意外であり、脅威でもあった。

 小さな癌細胞が大腸膜を食い破り小さな穴を開けただけで、彼女は生と死の境い目を彷徨い、しかも歩くことさえ難しくなったのだ。

 もしこれが自分だったら、いつまでも諦めず、これほど頑張れるだろうか。生きているのが、辛くならないだろうか。彼女が健気に頑張る姿を見て、僕はそんなことを思わず考えるのだった。

 固形食が許可されお粥を食べ出した頃から、奈緒美は目を見張る勢いで体力を回復していった。点滴漬けで身体にできた浮腫も消え、筋力が増して病的な痩身も影を潜め出した。その頃にはリハビリテーションを頑張った甲斐があり、一人で歩けるようになる。そうなると、身体は益々鍛えられ、半月も経てば退院できそうなところまでこぎ着けた。

 彼女に、生に対してここまで執着させたのは、未来の存在だった。彼女はいつでも言った。

「未来を残して死ねないわよ」とか、「早く家に帰らないと、未来がかわいそう」といった類いのことだ。

 もし未来がいなかったら、奈緒美はとうに、この世にはいなかったかもしれない。

 そして彼女は、晴れて退院の日を迎えた。腹痛を訴え緊急手術をしてから、実に七十七日ぶりの帰宅となった。七七という数字は、縁起がよかった。

 退院前日、未来も病室に泊まり、僕と奈緒美と未来の三人で帰宅した。まるで凱旋のような雰囲気だった。死にそうな病気と闘い無事に帰還したのだから、それはまさしく凱旋だった。

 お母さんは、ご馳走を用意して待っていると言った通り、テーブルの上にカラフルな寿司や手作りの煮物、コロッケ、野菜サラダを並べて待っていた。どれも奈緒美が退院間際にリクエストしたものだ。お母さんのコロッケは、未来の好物でもあった。

 こじんまりと、しかし晴れやかに、家族で奈緒美の帰宅を祝った。身体の中にまだ癌が巣食っていることも、その日だけは忘れることにした。

 お父さんは秘蔵の高級ワインを開け、僕とお母さんに飲んでみろと勧めた。

 僕はワインの名前も味も分からないけれど、少し口に含んで、それが高級そうな酒であることだけは感じることができた。

 まろやかで渋みがなく、葡萄を感じるようなワインだったからだ。お父さんは奈緒美にも、味見程度ならいいだろうとワインを勧めた。奈緒美はグラスに一センチも満たないワインをついでもらい、それを口にして美味しいと驚いた。主役が喜ぶことにお父さんはご満悦で、ワインの説明をしだす。

 未来はコロッケを、ナイフとフォークを使って食べていた。ホットケーキの練習以来、お母さんが子供用の小さなセットを探して買ってきたのだ。それが未来のお気に入りとなり、夕食時、彼にはいつもそれが用意されていた。

 リビングの隅にある柱時計は、未来が大きくなっても相変わらず音が出ないまま、大きな振り子を寡黙に揺らしていた。ようやく家族全員が揃い、パズルに最後のピースがピタリと収まったような安堵感や幸せ感が、みんなを柔らかく包み込む。

 その夜僕と未来は、久しぶりに奈緒美の温もりを感じながら眠ることができた。


 外科手術、放射線治療ができない中で、抗癌剤治療が中断し、僕たちは免疫治療に望みを繋げることにした。

 もちろん主治医に相談の上、決めたことだった。主治医は、基本的には効果が証明されておらず推奨できないと言ったけれど、何も手がない中で、患者が選択するのであれば仕方ないという様子だった。

 この治療は、自身の免疫を使う特徴がある。

 健康な人の身体の中でも、通常は癌細胞ができているらしいけれど、普段はそれを、身体の中にあるNK細胞が攻撃し死滅させるらしい。

 癌患者は、このNK細胞の働きが弱い、あるいは少ないために癌細胞を殺しきれず、重度な疾患になるようだ。

 よって免疫治療は、本人の少量血液からこのNK細胞を集め、それを並みの数まで増殖培養し活性化させ、点滴で身体の中に戻すという治療法だ。

 身体に戻されたNK細胞が活動を始めると、癌細胞を攻撃し退治してしまうという理屈だった。ここまでは、僕もよく理解できた。それが本当ならば、素晴らしい治療法だ。

 問題は、保険が効かず、治療費が高額なことだった。ワンクール五十万円前後で、基本は六クール実施となる。金がなければ命も繋げないのかと呟きたくなるほど、高額な治療費だ。

 そして、技術的にも怪しい点がある。まず、本当にNK細胞を増殖培養できているのか、という点だ。リンパ球全体を培養し、その中にNK細胞が含まれているという程度かもしれない。

 二点目は、NK細胞の働きの強さが問題で、そもそも働きが弱いから癌疾患になったのに、その人自身から採取したNK細胞を使っても、やはり癌細胞を殺せないのではないかという疑いだ。つまり、培養したNK細胞をきちんと活性化させることができなければ、いくら増殖培養して身体に戻しても、焼け石に水となる。

 アメリカの研究機関でも、何千億の予算を注ぎ込んで実用化させようとしたらしいけれど、結局物にならず頓挫したようだ。この治療を効果的に行うためには、それほど難しい技術が必要ということだ。

 よって実際、医療費が高額なのにまるで効き目がないとして、医療機関と患者の間にいざこざが発生した事例もあるようだ。

 中にはNK細胞とは別の、癌細胞を殺すことのできない細胞を培養し身体に戻す治療で、免疫療法をうたう医療機関もあるようだった。

 こんなふうに疑わしい点の多い治療法だけれど、幸い僕たちには金があった。

 僕の退職金は随分残っていたし、奈緒美の預金額も小さくなかった。

 怪しいけれど、僅かでも希望があるなら、金を捨てるつもりで試してみようと家族で相談し決めたのだ。たとえ怪しい何かでも、試す何かがあることは、自分たちに迫る恐怖感や絶望感を薄めてくれた。


 奈緒美が家に戻る前から、奈緒美の感染症防止として、家の中をいつも清潔に保つよう注意が払われた。

 小まめに殺菌用石鹸で手を洗う、トイレはアルコール消毒をする。バスルームにもアルコールが撒かれ、奈緒美の使用するバスタオルは使用一回で洗濯機行きだ。キッチンやダイニングテーブルも、一日数回アルコールで消毒される。空気清浄機は二十四時間稼働、奈緒美本人は刃物の扱いが禁止となり、彼女は嫌いな料理から解放された。よくあるスーパー銭湯やマッサージへの出入りを止め、奈緒美の身体が痛いときは僕やお母さんが彼女にマッサージをするようになった。

 しかし、こうしたことをやり過ぎると窮屈でストレスになるため、リラックスのための温泉旅行は、たまにはいいだろうなどと都合よく調整した。

 再び、奈緒美が発病する前に戻ったような、穏やかな時間が流れ出した。

 抗癌剤投与を止めたおかげで、奈緒美の食欲は元に戻り、それに伴い体重も増していた。

 天気がいいと公園で軽く走るなど、体力増強のための運動を心掛けた。いつも未来を連れて、三人一緒だ。軽めの運動で、ぶらりと駅まで散歩し、コーヒーショップで会話や読書を楽しむという日常だった。

 立派な自宅も車も要らず、生活も慎ましやかでいいから、こうした平和がずっと続いてくれないだろうかと密かに願った。全てを投げ打つ代わりに、奈緒美をずっと生かすという取り引きがあるなら悩まず飛び付くのにと、起こりようのないことを度々想像した。

 しかし、病魔は攻撃の手を緩めてくれなかった。微かな期待を寄せて免疫療法を始めたにも関わらず、三ヶ月間、腫瘍マーカーの値は上がる一方だった。

 大腸穿孔の悪夢が蘇る。このままでは、確実に何かがまた起こる。しかし、身体のどこに何が起こるかはさっぱり分からない。

 病院には小まめに相談していた。そして癌治療を中断してから四ヶ月、ようやく奈緒美の体力の回復と同時に、白血球や血小板の数値も向上した。主治医から、本格的な検査と治療を再開しようという話しが出る。

 早速行った検査の結果は、僕や奈緒美の両親を打ちのめすのに十分衝撃的な内容だった。

 細かな癌が、身体中に散らばっていたのだ。

 的の絞りようがなかった。果たして前回と同じ抗癌剤が効くのか、それも分からなかった。

 癌は小賢しい細胞で、薬に対して耐性を持つのが得意なのだ。いつも親身になって考えてくれる主治医も、薬の決定には少し時間をくれと言った。

 奈緒美の前では、後ろ向きな言動や様子を見せまいと決めていた僕も、この結果に言葉を失った。

 その日のコーヒータイムは、しんみりと始まった。みんなが寝静まったあと、毎晩奈緒美と二人、キッチンカウンターに並んで語り合うのが恒例なのだ。

 その頃の二人の話題は、何でもない世間話ではなく、二人の将来の夢だった。しかもそれは、実際には夢と呼ぶような漠然としたものではなかった。

 例えば、未来にはどう育って欲しいか。未来の躾や教育で、現在十分できていることや不十分なことは何か。不十分なことを補うためには何をするか。何か教材を買おうか、あるいは何かを体験させようか。それは習い事や塾のようなことにまで話しが及ぶ。

 テーマも多岐に渡った。

 奈緒美にとってどんな夫婦や家庭が理想か、自分たちはどんな人生を歩みたいか、何処か旅行に行きたい場所はないか、奈緒美は僕にどんな夫でいて欲しいか、僕が奈緒美にどんな妻でいて欲しいか、二人の普段のコミュニケーションに問題はないか、未来とのコミュニケーションはどうか、僕にとって居候の居心地はどうか、次の仕事をどうするか、奈緒美が仕事でやり残したことは何か、現在の趣味は有意義で、将来の打ち込むべきものを何にするか。

 僕にはそんな話題から、奈緒美の心配事や望みを拾い出す狙いがあった。そして僕は、彼女の心配を解消したり、望みを実現することに注力する。奈緒美もその狙いに気付いていたと思う。けれど彼女はそのことに言及することもなく、こうした会話を単純に楽しむように、僕に付き合っていた。

 しかしその夜、僕は会話の矛先を、いつもと変えた。

 何かを意図したわけではなかった。何となく、自然に彼女に訊いたのだ。

「ねえ、この前の手術のあと、あなたは死にそうになったよね。そのときあなたはどうだった?」

 奈緒美は不思議そうな顔で、「何が?」と言った。

「つまり、怖いとか悲しいとか、そんな感覚があったかどうかなんだけど」

 彼女は突然の奇妙な問いに、怪訝な顔を作りながら答えてくれた。

「怖いも何も、真っ暗な中にいてあとは全く記憶がないから、何も分からないわよ」

「そうなんだ。死ぬときって、そんなもんなんだ」

 彼女は益々わけが分からないといった調子で、「何よ、それ」と言った。

「僕は死にそうな目にあったことがないから、分からないんだよ。死ぬときって、きっと怖くも悲しくもないんだね」

 彼女は初めて気付いたというように、「そう言われてみると、そうねえ」と、間の抜けた何かのコメンテーターのように言った。

「実はね、僕は若いときに、友だちを二人亡くしているんだ。二人とも事故で突然死んだ。一人は十七歳でトラックに轢かれて、もう一人は十九歳で、高い橋の上から転落死した。二人目のそいつは、死んだ日に寝ている僕の足元に立ってたよ。最初は夢かと思ったけど、翌日彼の死を知って、僕は酷く驚いたんだ。死んだ人が枕元に立つって、あれは嘘だよ。彼は僕の足元に来たんだから」

 その話しに彼女は笑った。

「わたしも死んだら、あなたの足元に立てばいい?」

「どうだろう? 死んだあとにそんなことが本当にできるんだろうか?」

 僕はその不思議な体験が、未だに半信半疑だった。人は死んでも、何らかの意識や意思が残るのだろうか。

 もちろん彼女も、「さあ……」と首を傾げる。

「僕は立て続けに二人の友だちを失って、死ぬって何て簡単なんだろうって思ったんだ。だって二人は、前日までぴんぴんしてたからね。それが事故であっという間だ。少し前まで生きてた人が、全く動かず感情も五感も全て失ってしまうのって、わけが分からず戸惑ったよ。周りのみんなが悲しむのを見て、本人もさぞかし無念だったろうなんて想像したら、なんだか自分も悲しくなった。でも今の話しからすると、本人はきっと何も分からないんだね、死ぬときは」

「おそらくそうだと思う。経験的に」彼女はそう言って、くすくすと笑う。

「そうだとしたら、死に対する恐怖って、一体何なのだろう?」

 彼女は興味深い顔を僕に向けて言った。「あなたは死ぬのが怖い?」

「怖いね。でも、どうして怖いのか分からない」

「わたしには分かるわよ」彼女の顔は少し自慢げだ。

「えっ? 死にかけた人には分かるの?」

 彼女は今度、結構大きな声で笑った。

「違うわよ。それは本能なの。人間以外の動物もみんな同じ。危険を察知したら警戒するし回避しようとする。それは全て、死の恐怖という本能からくる行動なの」

 確かにそう言われるとその通りだ。そして本能に逆らうのは難しい。理性でその本能を克服することは、可能なのだろうか。

「あなたはどう? 物理的に何も感じず恐怖も伴わないことが分かっていてさえ、死ぬのは怖い?」

 彼女は少し考えて言った。

「怖いわよ。何が怖いかは分からないけど、やっぱり怖い。簡単に受け入れられるものじゃないことは確かね」

 僕は「そうか」と言って、そのあと次の言葉を繋げなくなった。

 奈緒美にとって、死はとても身近になったのだ。するとそんな彼女に、僕は死を受け入れろと言えなくなった。受け入れる必要はあると思っている。でもそれを彼女に諭すのは、心が痛む。

 僕が黙っていると、奈緒美は言った。

「ねえ、未来のこと、お願いね」

 一瞬僕は、言葉に詰まった。でも僕は無理をして彼女に告げた。

「心配ない。それは任せてくれ」

 彼女はその言葉で、僕はその返事で、お互い彼女の死を覚悟していることを表明し、確認し合ったのだ。奈緒美は強いなと思った。

 彼女がぽつりと言った。

「ありがとう」

 僕はその言葉で本当に悲しくなって、涙が出そうになった。

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