第30話 奈緒美と未来
未来は僕が予言した通り、とても利発な子供に育っていた。
三歳で自分の名前をたどたどしい字でありながら書くことができたし、一桁の足し算も概ね暗記していた。
しかし僕が何よりも目を見張ったのは、彼の好奇心がとても旺盛で、創造力が豊かなことだった。ブロックを持たせれば、怪獣でも飛行機でもパトカーでも、その特徴を的確に捉えて組み立てることができたし、ハウスや奇抜なビルディングも上手に作ることができた。
空間認識能力が高く、一度出掛けた場所は何処に何があるかをよく記憶し、道順もしっかり覚えている。おそらく色々なことを画像的に捉え、その特徴を理解する能力が高いのだ。そして質問が多く、不思議に感じることは僕がたじたじとなるまで追求する子供だった。
奈緒美は未来に、僕をダディと呼ばせていた。パパと呼ばれるのは違和感があり、おじちゃんという呼び方にも若干の抵抗がある。身の振り方の定まらない自分に、ダディは際どい呼称だけれど、父親代わりとしてぎりぎり妥協の範疇でもあった。
「ダディ!」呼ばれて振り向くと、未来はリビングの床に、子供向けの分厚い科学の本を広げていた。
「どうして空は青いの?」と彼は言った。
近寄って彼が眺めているページを覗くと、暗い宇宙に青い地球と月や木星、土星などの太陽系が目に入る。彼は気が向くと、その本を適当にめくり、様々なカラー写真を眺めるのが好きだった。
「太陽の光が青い色を持っているからだよ」僕は太陽の絵を指さして答えた。
「太陽の光って青いの?」未来は間髪入れずに反応する。
「青くないよ。色は白かなあ」
「白いのに、どうして空は青いの?」
仕方なく僕は彼の本のページをめくり、虹の描かれている箇所を探す。
「未来は虹を見たことがある?」
彼はつぶらな瞳をまっすぐ僕に向けて、「あるよ」と元気に答えた。僕は本に描かれた虹を指して、「ほら、虹はいくつかの色を持っているよね。この色は何色?」と尋ねる。
彼は「むらさき!」と、元気に答えた。
「えらいなあ。よく知ってるね。ほら、ここには青もあるし、緑も黄色もあるよね。これは全部、太陽の光が持っている色なんだよ。これが全部混ざると白に見えるけど、ときどき青に見えたり、いくつかの色に見えるんだ」彼には少し、難しい話しかもしれない。
僕は今度、本の中で色光の三原色に関連するページを探す。赤、青、緑の円が、それぞれ正三角形の頂点に円中心がくるように配置され、三つの色が重なる中心部は白、赤と青の重なる部分は紫、赤と緑が重なる部分は黄、緑と青は水色となる絵だ。案の定、色の解説ページにそれがあった。
「こんなふうに、色は算数の様に足したり引いたりできるんだよ」
きょとんとする未来に、僕は「葉っぱの色は何色?」と質問を投げる。
未来は得意げに「みどりいろ」と答えた。
「そうだね、えらい、えらい。葉っぱはね、青色と赤色を食べてしまうんだよ。ほら、この絵の真ん中は白でしょう? でも葉っぱが赤色と青色を食べて無くなってしまうと、緑色だけが残る。だから葉っぱは緑色なんだ」
実際には、植物の何かの成分が赤色と青色の光線を吸収してしまうようだけれど、専門的内容は自分にも分からない。
彼は僕を見上げて少し考えてから、「どうやって色を食べるの?」と言った。
「さあ、それは僕にも分からないなあ。でも食べてるんだ」
未来はふーんと言って、そのあと、庭の芝生をしげしげと眺めていた。
一事が万事こんな感じで、未来と一緒に外へ出掛けると、いつも質問攻めにあう。一つの答えが別の質問に繋がり、僕はそれに答えるために、いつも調べものの宿題を持ち帰らなければならないのだ。おかげで僕は、自然の摂理に随分詳しくなった。自分も未来と一緒に考えるからだ。
人間にとって当たり前の事柄には、実に多くの謎が含まれている。例えば前述した色についても、なぜ世の中には色があるのか、そもそも色とは何か、それらをきちんと説明できる人はそれほど多くない。
太陽や星や地球とは何者で、なぜ地球の上には広大な海があり、その水はどこからやって来たのか。なぜ地球は太陽の周りを回り、月は地球の周りを回るのか。どうして地球上には生物がいて、こうして文明が発達したのか。そもそも生物とは何なのだろう。地球上に生物が発生する必然性はあったのだろうか。
子供の素朴な疑問に答えることは、そんな科学の要素や原理に繋がることを、ふんだんに含んでいる。
奈緒美は僕と未来の質疑応答をいつも笑って見ながら、未来はどうしてそんなにしつこいのかしらと呆れた。
「この子は将来、とても伸びるかもしれないよ」
そう言うと彼女は、「この子の疑問に答えるのは、わたしには無理よ。きっと、うちのお父さんも無理ね」と言って笑った。そういった彼女の笑顔には、未来がすくすくと利発に育っていることへの、満足感みたいなものが見えていた。
一方で僕は、子供を巻き込むこうした生活に、ときどき悩んだ。
僕の中で、自分が将来に渡り未来の父親の役割を担うという決意があれば、それは特別悩む問題ではない。しかし自分が今後どうすべきか、よく分からないのだ。
状況は、僕と奈緒美とリンそれぞれにとって、とても中途半端だった。それはおそらく、未来にとっても同じはずだった。未来が五歳か六歳になれば、そろそろ自分の置かれている家族状況が普通と違うことに、薄々勘付くだろう。
奈緒美との痴話話をする中で、僕は彼女に、未来の父親のことで真面目に進言したことがある。
「誰かいい人はいないの? あなたなら子供がいたって、誰か言い寄って来る人がいるんじゃない? もし気が向いたら、付き合ってみたらいいじゃない」
僕のそういった言葉に、色々な全てのしがらみを平和裏に清算できたらすっきりするだろうという、日頃の自分の願望じみたものが滲み出てしまったのかもしれない。
彼女は素っ気なく、「気が向かないのよ」と言った。
「でも未来も大きくなってきたし、このままでいいのか心配になるんだ」
彼女は少し考えてから、こちらに向き直った。
「この際だからはっきり言うわね。もしわたしが結婚するとしたら、未来のことを一番に考えなきゃいけない。そうなるとわたしの選択肢は、あなただけになるのよ」
彼女があまりに毅然と言うので、僕は少々たじろいだ。
「そんなふうに決めつける必要はないと思うけど。こんな優柔不断な男はあなたに相応しくないよ」
彼女の真剣な顔に、今度は険しさが宿った。
「わたしに誰が相応しいかは、わたしが決めることよ。そしてあなたに誰が相応しいかはあなたが決めることなの。それにね、わたしはだてに何人もの男と付き合ってきたわけじゃないのよ。その中でわたしがいつも意識していたのは、その人と一緒にいて、自分が幸福感や安心感を感じるかどうかだけなの。そして気付けばわたしはあなたと一緒にいる。きっとこれが、わたしの結論なのよ。この結論は、誰も否定することができない。それに未来に一番相応しいのは、間違いなくあなたよ。それはあなたも感じているはずじゃないの?」
深夜の静かなリビングに、彼女の声が反響した。彼女が話し終えると、一瞬で元の静寂が戻ってくる。
「気に障ることを言ってしまったみたいだ。ごめん、謝るよ」
彼女は我に返り、興奮したことを少し恥じるように鼻から息をはいて、呼吸を整えた。
「謝らないで。わたしはね、自分にあなたを束縛する資格も権利もないことを、十分理解しているつもりだから。こうして図々しく未来の父親代わりをお願いしていることも、本当に申し訳なく思ってる」
これまでの二人の関係を考慮すれば、少なくとも一方的に、図々しいお願いをされているとは言い難い。むしろ自分は、奈緒美との関係に救われている。
「正直に言うとね、ここであなたや未来と一緒に過ごす時間は貴重だし安らぐよ。とても癒されるし充実している。でもそうであるほど、僕の中で、リンに対する呵責の念が大きくなるんだ」
彼女はまっすぐ僕を見ながら言った。
「それはあなたが、彼女を愛しているからよ」
僕はその言葉に戸惑った。自分自身がそのことに、既に自信を持てなくなっているのだ。
「そうだとしても、それは家族に対する愛情に近い気がするんだ。それに僕は、彼女を冷たく突き放した」
「突き放したりしていないじゃない。あなたは彼女に、きちんと月々のお金を送っている。あなたにそんな義務は全くないのに」
「それについては僕も随分考えた。義務ってそもそも何だと思う? それは元々、道徳上の規範から始まっているんじゃないかと思うんだ。そうなら僕には、彼女をサポートする義務があると思う」
「そうかもしれないけれど、そんなことを言ってたら、身体がいくつあっても足りなくなるわ」彼女の言い方は、断定的だった。
「だから怖いんだよ。どこかで何かを割り切らないと、僕は空中分解してしまうかもしれない。それで僕はいつも、行く先を決めるべきだという強迫観念に追い立てられている」
「そうかしら。決めないことも、一つの道だと思うけど」
その言葉を、僕は意外に思った。彼女はいつでも、何事もきちんと決める人だからだ。
「というか、あなたは既に、決めないということを決めているんじゃないかって気がするんだけど」
「そんなことはないよ。僕だってあなたと同じように、いつだってきちんと決めたいと思っている」
「わたしは、決めないで進めるほど器用じゃないから決めるの。だってそれには、何があっても臨機応変に対応する能力が必要だから。わたしにそんなのは無理よ。だから先に決めちゃうの。迷っても分からなくなるから、迷わないことにしてるだけなのよ。でも、あなたはどうなの? あなたはそういうことは大丈夫に見えるけど。成り行きで進んで、分かれ道で適切な道を選ぶことができるでしょう? あなたが自由な人っていうのは、そういうことよ。それがわたしに、決定的に欠落しているものなの」
「僕が適切な道を選んでいるかは、極めて疑わしいよ」
「それはそうよ。完璧なんて有り得ない。でも、あなたは決めなくても進むことができるし、実際それでどうにかなっている。それは仮に間違った道を選んだとしても、どうにかできることの証じゃないの?」
僕は内心、彼女は自分を買いかぶり過ぎではないかと疑った。それが、今の歪みを生んでいるのではないだろうかとさえ思えてくる。
「奈緒美には、本当にいつも勇気付けられるよ」
彼女の顔に、笑みが戻った。
「とにかくあなたは自由なのよ。余計なことを考えず、身体が空いているときだけ協力してくれたらわたしは満足。それだけなの。そのことは忘れないで」
僕はありがとうと礼を言うべきか、申し訳ないと恐縮すべきか、あるいは神妙な面持ちで困惑すべきか、一瞬迷った。心境的には、その全てが胸の内に同居しているようなものだったのだ。
「心から感謝するよ」
僕がそう結論付けると、「何に感謝しているの?」と彼女は言った。
「あなたの存在と自分の強運に」
彼女は「分かっているじゃない」と笑い、自分の寝室へ戻った。
しばらくして、僕はリンに電話をした。電話をするのは、久しぶりだったかもしれない。
仕事を終え
帰宅途中、その雨は激しさを増し、運転にストレスを感じるほど視界が悪くなった。
それで僕は、国道沿いにあるファミリーレストランの駐車場に入り、車の中でリンに電話してみようと思い立ったのだ。
駐車しワイパーを止めると、フロントガラスを流れ落ちる雨が、前方の視界を完全に遮った。前方だけでなく、後ろも横も、随分と視界不良に陥っている。天井に当たる雨の音が、くぐもって車内に響いた。とても簡易的に、自分だけの閉鎖空間が出現した。
少し背もたれを倒して、くつろいだ姿勢で登録ダイヤルを押した。
呼び出し音が鳴った。携帯電話を耳から少し遠ざけても、とてもクリアに聞こえる音だ。
彼女は五度目の呼び出しで応答した。僕はいつも、呼び出し音を数えている。誰が相手でも、六回で応答がなければ会話を諦める。自分の習慣的癖のようなものだった。
「ハロー。久しぶりね」
何か嬉しいことでもあったかのような、元気そうな声だった。
「会社からの帰り道に雨が酷くなってね、運転が怖いから、レストランの駐車場に入って車を停めたんだ。雨の音、聞こえる?」
「聞こえないわ。セブも雨が降ってるのよ。やっぱり酷い雨」
僕は頭の中で、バケツをひっくり返したようなフィリピンの突然の豪雨を思い描く。それと目の前の雨を比べてみると、日本の雨のほうが粒が揃い、しかも規則正しく降り注ぐような気がしてくる。
「みんなは元気にしてる?」
「ええ、元気よ。何も変わってないわ。わたしはケアギーバーの実地トレーニングがもうすぐなの。最終トレーニングよ。マニラの病院でやるの」
「そうか、それでいよいよ資格を取れるの?」
「そうよ。そして資格を取ったら働ける。自立できるの」
それを聞いて、ようやく肩の荷を下ろすことができるという安心感が、胸の内に広がる。それを見透かすように、彼女が言った。
「これであなたも安心でしょう?」
「そうだね、正直に言えば助かるよ。まだ実感は湧かないけど」
彼女の小さな笑いが、受話器を通して届く。
「お金のサポートが要らなくなったら、あなたはどうするの?」
不意を突く問いだった。今の二人はサポートをする側と受ける側の関係で、そこからサポートを取ったら何が残るのか。単純に引き算をすれば、零になってしまうのだろうか。いや、おそらく何かが残ると信じたい。
「難しい問題だね」
「どうして難しいの? あなたの好きにすればいいのよ」
それは僕を諭すような言い方だった。僕は、自分が深く関わる二人の女性から、自分の好きなようにしていいと言われたことになる。裏を返せば、自分で判断しなさいと、脅迫的課題を突き付けられているのかもしれない。
「あなたも、あなたの好きなようにしていいんだよ」と僕は言ってみた。それで彼女が、少し言葉を詰まらせた感じが伝わってくる。
「ほら、あなたもどう答えるべきか迷うでしょう?」
「違うわよ。あなたがいつかそう言うことを、わたしは分かっていたから。だってあなたはいつもわたしの愛を疑っていたし、お金のことでは迷惑を掛けっぱなしだもの」
二人の行く末に関わる際どい話しをしていながら、彼女の口調は軽かった。僕は少し、リンに奈緒美のことを話してみようと思った。
「ねえ、日本には腐れ縁という言葉があるんだ。腐った縁と書いて、いい意味で使われないこともあるけれど、元々は鎖縁からできた言葉とも言われている。つまり、切ろうとしても切れない関係のことを意味するんだよ。僕はね、あなたとのことを、腐れ縁だと思っている」
リンは笑って、「わたしはありがとうと言うべきなのかしら?」と言った。
「それはあなたに任せるよ。それに僕の言いたいことはね、僕には日本に、もう一人腐れ縁の女性がいるということなんだ」
僕のその言葉で、一瞬の沈黙が生まれる。
「あなたは一体、何の話しをしているの?」
彼女はきっと、携帯電話を耳に当てて、目を素早く瞬かせているのかもしれない。
「唐突な話しで、あなたを困惑させているかもしれない。つまり、切っても切れない関係の女性が、日本にいるということなんだ」
またもや僅かな沈黙が生まれた。
「それは、わたしとは別の恋人が日本にいるという意味?」
「いや、彼女は恋人じゃない。その女性には三歳になる男の子がいてね、でも結婚していないから、僕がその子の父親代わりをしている。ときどきその子と遊んだり、一緒に出掛けたりするんだ。とても可愛い子だよ」
「まさか、その子の父親があなたということじゃないわよね」
「そうじゃない」僕は直ちに疑惑を否定した。「その子は名前を未来といって、父親は僕の友だちなんだ。事情があって二人は結婚しなかったから、自分が面倒をみている」
「本当に? どうしてあなたなの? あなたも大変じゃない」
「お金の面倒をみる必要はないんだ。それにさっきから話している通り、助けているのは僕と彼女が腐れ縁だからだよ。腐れ縁というのはそういうものなんだ。そこに理屈は要らない。そりゃ僕だって、ときどき面倒になる。でも仕方ないんだ、腐れ縁だから」
「腐れ縁というのは、厄介な関係なのね」
「とても厄介だよ、僕とあなたのように」
彼女はそこで、あけっぴろげに笑った。
「それはわたしに対する嫌味なの?」
もちろん僕に、そんなつもりは全くない。僕は極めて真面目に答えた。
「嫌味じゃないよ。腐れ縁とはそういうものだということを、あなたに分かって欲しいだけで」
「確かによく分かるわ。面白いくらい分かりやすい」彼女の言葉に、まだ笑いが重なっていた。「それで、その女性は綺麗な人?」
「とても綺麗な人だよ」
「彼女は何歳?」
「今三十五歳。あなたより七歳も大人だ」
「そう? だったら少し安心ね」
安心? 僕がそんな女性に関わることで、彼女は危機感を抱いたりするということか。それはスポンサーを失うことに対してなのか、それとも別の意味があるのだろうか。僕にはその辺のことが、やっぱりよく分からなかった。
「どうして?」と僕は訊いてみた。
「だってあなたは、若いほうが好きそうだから」彼女は再び、楽しそうに笑う。笑いが収まると「でも、なんか怪しいわよねえ。どうして今まで、そのことを教えてくれなかったの?」と彼女は言った。
「あなたに教えたら、それが余計な誤解を呼びそうだったから」
本当は心のどこかにやましい気持ちがあったからだけれど、そんなことは言えなかった。
「だったら、どうして最後まで秘密にしないのよ」
確かにそういう選択肢はある。でもそれは、単にそういう気分だったのだ。
「今日の雨のせいかもしれない。今日の話しに特別な意図はないよ」
「雨が降ると、あなたは秘密を暴露したくなるの? 初めて知ったわ」
そう言う彼女の口調は、冗談めいていた。
一般的に雨というのは、ときに人の感傷を誘うものだ。それが自分を孤立させるほどの豪雨であれば、尚更だ。
「雨が降ったら、たまたまそういう気分になった、ということだと思うけど」
「それなら二人の会話は、これから雨の日がいいわね。隠し事なしの会話」
それほど秘密を持っていない僕は、正直に言った。
「残念ながら僕にはもう、何も隠し事は残っていないよ」
「そうなの?」彼女の言い方は、如何にも残念そうだ。
「フィリピンパブのことは、とっくにばれているし」
「そんなこともあったわね」と、彼女は楽しそうだった。「フィリピンのお店には、まだ通っているの?」
「それも最近はまったく。お金がかかるし、未来の付き合いが忙しくて」
彼女は、「それはとても健全よ」と言った。
「そうだね。あんな所で大枚を使うのは、ギャンブルで借金を作るのと同じだからね」
「それも嫌味なの?」
「嫌味じゃない。僕もあなたのお兄さんに文句を言えるほど、立派じゃないってことだよ」
「どうしてそんな店に通ってたの?」
その日の彼女は、明るい口調で何でも訊いてくる。このまま調子に乗って受け答えをしていたら、丸裸にされそうだった。
「今日のあなたは、質問だらけだね。さっき話した未来と同じだ」
彼女は小さく笑って言った。
「だって今日は、今まで訊けなかったことを確かめる、絶好のチャンスだもの」
それはお互い様かもしれないと思いながら、僕は少し考えて、その質問に正直に答えた。
「おそらく僕は、いい加減な恋をしたかったんだ。嘘でも何でもいいから、自尊心をくすぐられて、言い寄られて、いい気分に浸りたかった。きっと、それだけだったんだ」
「どうしていい加減な恋なの? そこで真面目な恋はできないの?」
「その気になればできたかもしれない。でもね、真面目な恋は疲れるし、金もかかる。下手をしたら、抜け出したくても抜け出せない底なし沼だ。それに、腐れ縁は二人で十分だよ」
彼女は沈黙した。相変わらず雨は激しくて、一向に止む気配がない。会話が途切れたことで、雨の天井を叩きつける音が再び車内で大きくなった。
彼女が口を開くまで、僕は黙ってその音に耳を傾けた。何か、とても平穏な心境だった。
「あなたが少し、可哀想になってきた。あなたからいろんな自由を奪っているのは、きっとわたしよね」
「全部自分で決めてきたことだよ」
彼女はそこで、一呼吸置く。
「ねえ、わたしはあなたが幸せなら、それでいいのよ。もしそうなら、何がどうなろうとあなたを恨んだりしないわ。きっと祝福できると思う。これは本心よ」
「僕も同じことを考えているよ。あなたが幸せで満足するなら、何がどうなろうとそれでいいんだ」
「ありがとう。でも、もしあなたがわたしのことで望むことがあれば、現実は望み通りになる。あなたは自由で、全てはあなた次第なのよ」
「ありがとう。よく覚えておく」
何も決めない会話でも、それは久しぶりに会話らしい会話だった。僕は彼女との会話に、いつの間にか、いつでも何かしらの結論めいたことを求めるようになっていたのかもしれない。
激しい雨にも、いろいろとご利益があるということだ。
僕は二人の女性の言葉に甘え、何も決めないことを実践していた。リンには申し訳ないと思いながら、僕にとってはそれが一番楽だった。
リンは無事に資格を取り、取り敢えずフィリピンで働くと言った。
僕は、サラリーのもっと高い国へ行くことを勧めた。それに必要な渡航費や当面の生活費は自分が出すことも申し出たけれど、彼女は単身で海外へ行くのが嫌なようだった。
それでも彼女と出会った頃に比べたら、格段の進歩だ。彼女の好むペースでじっくり足固めをしてくれたら、それはそれでいいのかもしれない。
しばらくして彼女は、自分が面倒を見ている老夫婦と一緒の写真を、メールで送ってきた。
旦那が車椅子に座り、その妻が横に立ち、後ろでリンが車椅子を補助するように立っている。少し裕福な老夫婦のようだった。夫婦共に身だしなみが良い。老夫婦が柔和な顔付きでいるのに対し、リンはきりりと口を結び、やや固い表情を見せている。
添えられた文章によれば、老夫婦はリンのことを気に入り、息子の嫁になってくれと言われているようだ。彼女は自分にその気はないと書き添えていたけれど、僕はそんな選択も十分ありではないかと思った。
こうして真っ当な社会に出れば、彼女にも色々な選択肢が出現する。いずれは僕も、彼女が持つ、多くの選択肢の一つになるのかもしれない。
それでも僕にとって、それはとてもほのぼのとする便りだった。それを受け取った僕は、本当にしばらく、その写真を眺めていたのだ。いつまで眺めても、まるで飽きなかった。
写真の中でリンは笑っていないけれど、それは彼女にとって、光栄の一枚に違いない。彼女は僕と同じで写真を撮られるのが嫌いだったし、その写真を誰かに送ることなど有り得ないくらい珍しいことだからだ。だからそれまで、二人が一緒に写る写真は一枚もなかったし、もちろんお互いの写真を交換することも一度としてなかった。そんなリンがこうして自分の写真を送ってきたのは、それが光栄で、自慢の一枚だったからだ。そしてその一枚には、彼女の自分に対する、深い感謝の意味が込められているような気がした。
そんなことを考えながら写真を眺めていると、自然と感無量となるのを、僕は抑えることができなかった。僕はそれを印刷し、写真立てを買い、自分の部屋のリビングに飾った。
リンは、人並みより少しましなサラリーを貰うようになった。フィリピンでこの場合の人並みをどう定義するかは難しいけれど、工場でオペレーターをするよりは、ずっと高いサラリーということだ。
「いよいよ投資の回収期間に入ったね。おめでとう」
僕は彼女の就職を、そんな言葉で祝った。
もっともお金を出したのは彼女でないのだから、自分の言葉はジョークを含んでいる。
それでもそれは、本当におめでたいことだった。もしこれが本当の投資であれば、僕は老後に及んでさえ、お金を回収し続けることができたかもしれない。もしビジネスならば、これは一つの成功事例になり得る。
しかし僕は、彼女への送金を直ちに止めることはしなかった。それを止めても、彼女たちが最低限の生活を営めることができる安心感が、送金を続ける恐怖を薄めてくれた。
簡単に言えば、自分の体力があるうちは送金を続けるけれど、無理になったらすぐ止めるから、というのがまかり通るということだ。
実際彼女には、僕からの送金を全て預金に回し、手を付けないで欲しいとお願いしていた。それでも暮らすことができるなら、そのときこそ彼女は、文字通り自立できたことになる。
もちろん僕は、フィリピン人は目の前の人参を食べずに我慢するのが苦手という、リンの言葉を忘れてはいない。しかし僕は、敢えて目の前に人参をぶら下げ、それを食べずに我慢させることにした。そして言葉でも、絶対に我慢しろと厳命した。それができれば、間違いなく生活は好転するからと。もしできなければ、そのことは、あなたがいくら稼いでも焼け石に水であることの証で、将来に渡りあなたの生活は決して向上しないと僕は脅した。自分には難しくて出来ないけれど、あなたなら絶対に出来ると、リンを精一杯持ち上げることも忘れなかった。
そこまで言って、あとは野となれ山となれといった具合に、送ったお金がどうなっているのか僕は一切関与しなかった。それが自分にとって気楽だったし、僕のそんな態度のおかげで彼女には、全てを自分の責任でコントロールしなければならないという、緊張感が生まれたようだった。
リンの周りで色々なことが上手く回り始めると、二人のコミュニケーションはますます減った。とはいえ、二人の関係が断絶したわけではない。僕の送金可否を、彼女が気にする必要がなくなったという寂しい結末でもなかった。
便りのないのは元気な証拠という具合で、まるで本物の家族のような関わり方になった、というのが正解だ。
おそらくリンは仕事に精を出しながら、子供たちの面倒をみて、ときどき兄弟が持ち込む問題に頭を抱える生活を、忙しくこなしていたはずだ。
僕は実験的に、リンにそんなサポートを続けながら、一方で奈緒美とのことを考え始めていた。
未来は四歳を過ぎて、ある部分で随分手がかからなくなり、別の部分で手がかかるようになっていた。
例えば一人でトイレに行けるようになり、食事もフォークとスプーンを使って自分で食べることができるようになった。何でも自分でやってみたい年頃になったのだ。
しかし色々なことができるようになると、変な虫を捕まえようとしたり、テーブルによじ登ってジャンプをしようとしたり、背伸びをして食器棚から自分のグラスを取り出そうとする。
そこで普段未来が使う物は全部低い棚に移動されたし、本棚は彼がつかまっても倒れないように固定され、テーブルの下には厚手のカーペットが敷かれたりと、家の中が刻々と変化していた。
結局子供というものは、いくつになっても手がかかるようになっているものだと、僕はそういった仕組みというか摂理みたいなものに感心し、不意に、自分を苦労して育て、四十を超えた息子のことを未だに心配する両親のことが、脳裏をよぎったりした。
奈緒美と未来を連れて、嫁と孫がいっぺんにできたぞなどと言いながら実家の敷居をまたげば、両親はきっと腰を抜かして驚くだろう。そんなサプライズを想像すると、妙な可笑しさが静かに込み上げる。
未来はとてもやんちゃで、いつでも家の中や庭を駆けずり回っていた。奈緒美や両親は、未来が怪我をするのではないかと心配し、いつも彼の背中を追い回し、そのあとでソファーに身体を投げ出して「しんどい、疲れた」とこぼす。
父親は「男の子って、こんなにすごいのか」と嘆き、奈緒美はときどき目を釣り上げて、「みらい!」と叫んだ。
傍らで僕がその様子に笑っていると、奈緒美は今度、僕に目を釣り上げる。
「笑ってないで、未来をどうにかして」
「どうにかって言われてもさあ、縛り上げるわけにもいかないでしょう。それにね、元気なことはいいことだよ。健康な証拠だ」
彼女は釣り上げた目をそのままに、「怪我をしたら、そんなことを言っていられないじゃない」と言った。
僕だって、無関心に彼を野放しにしているわけではない。いつでも未来を自分の視界の隅に入れておきながら、もし彼が本当に危ないことを始めたら、僕も「みらい!」と大声を出す。
普段小言を言わない大人が大きな声を出せば、子供は敏感に反応するのだ。実際未来は、いつも僕の言うことを良くきいた。それがまた、奈緒美にとっては不可解な事実の一つのようだった。
「あの子はどうして、あなたの言うことばかり良くきくのかしら」彼女は、鼻の穴を拡げる。「わたしは未来になめられているみたい」
しかし彼女は、忘れているだけなのだ。例えば未来は眠くなったとき、必ず奈緒美の元に行く。僕が彼を寝かせ付けようとしても、未来は僕の添えた手を払い除けて奈緒美に寄り添う。そして、安心して寝息を立て始める。
奈緒美は未来の、立派な拠り所になっているのだ。それは親として一番大切なことのはずで、彼女は立派に母親をこなしている。そんな奈緒美を、僕は心から認めていた。
「未来にとって、あなたが一番重要なことは明白だよ」と僕は言った。
「そうなのかしらね」
自分でよく分かっていながら、彼女はそんなふうに答える。
「分かっていると思うけど」
彼女は嬉しそうに鼻で笑うだけだった。やっぱり彼女は、そのことを十分自覚しているのだ。
その嬉しそうな彼女の表情で、僕は奈緒美が、未来をどれほど深く愛しているかを推し量ることができた。
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