第29話 バンブーハウスに雲隠れ

 リンとの付き合いが三年目に差し掛かり、そこには内容の薄い週刊誌みたいな雰囲気が漂い始めていた。

 しかし、彼女に対する家族愛的感情は相変わらずだった。これはきっと、二人の大きな年齢差の仕業なのだ。もしお互い同年代なら、二人はとうに別れていたかもしれない。

 自分のリンに対する感情が家族愛的であることを意識しながら、僕はあることに気付いた。このリンに対する愛情は、僕の奈緒美に対する愛情と、とても似たものになったということに。

 つまりリンは、奈緒美と同じように、自由になったのかもしれない。彼女は恋人を作ってもいいし、その恋人との間に子供を作ってもいい。そうなっても僕はおそらく落ち込まないし、祝福さえするかもしれなかった。


 リンとの関係にこうした小さな変化が現れ始めていたのと同じように、未来が生後六ヶ月に差し掛かり、僕の生活も小さな変化を迎えていた。

 僕は奈緒美の実家をたまに訪れ、奈緒美の家の婿にでもなったように未来の様子を見て、彼女の両親と夕食を一緒するようになっていた。もちろん彼女の家に訪れるのは、彼女から誘いがあるときに限ってのことで、こちらから図々しく行くことはなかったけれど。

 最初は、あの緊張感の中で食事をするのが嫌で、遠回しに断わろうとした。けれど、奈緒美の「未来の父親代わりとして、ときどき様子を見てやって」という台詞に「お願い」という言葉が付くと、僕は渋々了承してしまった。その度に彼女の両親に歓待され、次第に彼女の家の敷居が低くなった。だから僕は本当に、その家の婿のような存在になっていた。

 奈緒美の両親は、僕と奈緒美のことについて、何かを示唆することもなければ質問することもなかった。両親は、未来を含めた五人の中に、家族的雰囲気が醸成されることを注意深く見守り、それを感じ取ったとき、幸せそうな笑顔を振りまくだけだった。

 しかし、奈緒美や彼女の両親も、複雑な思いを胸の内に抱えていたのだ。

 ある日、それまで一度も酩酊したことのなかった奈緒美の父親が、泥酔の中であることを語った。

「わたしはね、もう銀行では出世を望まないし、仮に望んだとしても、この先に上がるのは無理なんですよ」

 唐突な話しに、僕は少し戸惑った。

 二人だけになったダイニングテーブルの上に、三分の一まで減ったマッカラン十八年のボトルと、銀のアイスペールが置かれている。

 少しいい酒なんだと、父親がキャビネットから出した物で、僕は味見程度に付き合っていた。

 僕が彼の話しに「はあ」と曖昧に相槌を打つと、彼はさらに自分の話しを続けた。

「あそこはとても特殊な世界でね、人の心を持つと、出世できない場所なんですよ。わたしはね、一人娘の奈緒美が子供を産んで、初めて家族のことを顧みるようになった。それで自分が、ようやく人になれた気がするんです。今の自分は、奈緒美と未来の幸せだけを願っている、ただの父親でおじいちゃんなんですよ」

 そこには、彼の過去の振る舞いに対する後悔や、現在の幸福感やら達観が、微妙に入り混じっているような気がした。

「残念ながら、僕はそのことについて、どうコメントすべきか分かりません」

 僕は本当に分からなかったのだ。

 彼は赤らんだ顔をこちらに向けた。

「分からなくて当然ですよ。これはあなたの問題じゃなく、紛れもなくわたしの問題なんです。わたしはね、あなたをこの家の問題に引きずり込んで、本当に申し訳なく思っていますよ。ただね、正直言うと、わたしは人になって、自分が無力であることを感じて仕方ないんです。何もできず、こうしてあなたを引きずり込んで、物事が好転するのをただ待っている。そんな自分は不思議なくらい無力なんです。違いますか?」

 彼の口調は呂律が怪しげで、自分に絡むようなものだった。仕方なく僕は言った。

「人は元々無力ではないでしょうか。少なくとも僕は、自分が無力で無能であることを認めました。それからは、生きるのが少し楽になった気がします」

 そのことで、自分の中に、何かの呪縛から開放された気楽さが芽生えたのは本当のことだった。

 彼はテーブルに頬ずえをついて、目を閉じた。僕は彼がいよいよ撃沈したと思ったけれど、彼は再びむくりと頭を上げた。

「君は本当に生意気ですね。まるでわたしより、長く生きてきたようなことを言う」

 僕は慌てて、済みませんと言った。彼はのろりと首を振り、虚ろな視線をこちらに投げた。

「悔しいけどその通りですよ。全くその通りだ。だから謝る必要はありません」彼は片腕を大きく振り上げた。「よし、もっと飲みましょう」

 勢いよくそう言った彼は、がくりと頭を垂れて、電池の切れたからくり人形のようにそのまま動かなくなった。

 僕が寝室にいた奈緒美を呼び、奈緒美が父親の様子を見て母親を呼んだ。僕は父親を寝室まで運ぶのを手伝った。

 そのあと僕は、再びダイニングテーブルに座った。夜十一時の高級住宅街はとても静かで、家の中にも物音一つない。

 奈緒美が「はい、お疲れ様」と言い、目の前に淹れたてのコーヒーを置いて隣に座った。

 僕がコーヒーに口をつけると、彼女は「あんなお父さんを見るのは初めてよ。一体何の話しをしていたの?」と言った。

「お父さんは今、あなたと未来の幸せだけを考えてるって話し」

「それでどうしてあんなふうになっちゃうのよ」

 彼女の眉間に皺が寄る。

「おそらくいろんな葛藤があるんじゃない?」

「例えば未来の父親が不在なこととか?」と彼女は不満げに言った。

「そうは言ってなかったけど」

 彼女は小さく鼻から息を出し、少しの間沈黙した。僕も黙ってコーヒーを飲んだ。静かな空気が二人を十分包み込んだあと、彼女が口を開いた。

「古い人だから、既成概念を振り払えないのよ。でもね、未来が生まれて、この家は随分変わったの。お父さんは毎日早く帰ってくるし、休日だって家にいるのよ。それにあの柱時計も、寝ている未来が目を覚ますといって、音が鳴らなくなったの」

 奈緒美は、リビングの隅に掛かっている、大きな振り子の付く柱時計を見た。確かにその時計は、硝子の内側で振り子がゆったり往復運動を繰り返すだけで、区切りの時間になってもうんともすんとも言わない。

「大事にされているんだね。でもあまり大切にし過ぎると、ひ弱になっちゃうよ。男の子なんだから、少しくらいもんであげないと」

 奈緒美はハッとするように目を見開いて言った。

「そう、子育てにはきっと、そういう考えも必要なのよ。めろめろになっているおじいちゃんとおばあちゃんに、それは無理」

 それでも現状がまんざらではないように、彼女はくすくすと笑う。

「おじいちゃんやおばあちゃんに、孫に対する責任はないからね。可愛がるのが仕事だから」

「本当にそうね」彼女はまた小さく笑うと、突然真顔になって言った。

「ねえ、わたし、少し軽率だったかしら?」

 僕は奈緒美が、彼女のどの行動や判断を指してそう言っているのか分からず「何が?」と訊き返した。彼女はそれについて、自分でも整理がついていなかったのだろう。意表をつかれた顔をして、うつむき加減に少し考えた。

 三秒くらいの空白のあと、「こうしてシングルマザーの道を選んだこと」と彼女は言った。

「後悔してるの?」

 彼女は今度、迷わず答えた。

「後悔なんて少しもないわよ。ただ先のことをいろいろ考えているだけ」

 僕も少し考えた。

「おそらく何とかなるよ。僕はフィリピンでたくさんのシングルマザーを見たけれど、彼女たちからは、そのことに後悔したり怯えている雰囲気を一度も感じたことがないんだ。とにかくみんな、その日をどうにか乗り切ろうと懸命で、それで実際どうにかなっている。彼女たちの生活環境は、あなたのそれよりずっと過酷なのに」

「そうね。わたしは恵まれているわよ。シングルマザーの道を選んだのはわたしの身勝手だし、子供を産んでも、こうして親に甘えて働ける。今のところ、経済的な心配はそれほどないわ。わたしが考えるのは、そういうことじゃないの」

 彼女は水の入ったグラスを手でいじりながら、それをじっと見つめた。

「それじゃあ、何を考えるの?」

「どう言ったらいいか分からないけど、未来が生きる時代は、わたしたちの時代と少し違う気がするのよ。これまでのセオリーが全く通用しない時代っていうか、そういうの」

「つまり、一流大学を出て一流企業に就職しても、それが人生の成功とは限らないみたいな?」

 彼女は勢いよく頷いた。

「そう、そんな感じ。大きな会社だって潰れたり青色吐息になる時代よ。お父さんだって言ってたわ。大銀行が統廃合を繰り返す中で、自分が銀行幹部として生き残れているのは奇跡だって」

 右肩上がりの経済を背景とする環境下で育った彼女には、日本とは真逆の世界があることなど、想像もつかないのだろう。経済発展の中で、会社が自然と大きくなる。大きな過失がなければ、空いたり新しくできるポストに半自動的に入り込め、過不足なく勤めれば生涯雇用が約束される。そういった日本の雇用環境は、どちらかと言えば、世界の中では当たり前ではない。そしてバブルが弾けてから、そんな日本の環境は、少しずつ変化しているように感じる。

「それはその通りかもしれないけど、だからといって、今から未来の将来に不安を覚えても仕方ないんじゃない?」

 彼女はじれったそうに、鼻から大きく息を吐いた。

「それは分かるわよ。ただわたしは、大まかな方向性を求めているだけなの。どんなふうに未来に育って欲しいか、そのイメージを固めたいのよ。それがなくて育てるのが不安なの。ねえ、あなただったらどんなゴールを目指して子供を育てる?」

 子供のいない自分に、その質問は筋違いだろうという気もしたけれど、僕は自分が生き直すとしたらどんなふうにしたいかを考えてみた。

「僕なら子供に、いつでも納得ずくで生きていける人になって欲しいと願うな、きっと」

 彼女は再び、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「納得ずくの生き方? もう少し説明してくれないと分からないわ」

「どう説明すればいいんだろう。つまりね、いつでも自分で考えて自分で進むべき道を決めて、人生を切り開ける人だよ。周囲に流されて成り行きで生きる人は、袋小路に入ったら終わりなんだ」

 彼女は如何にも不可解という顔を作り、「どうして終わりなのよ」と言った。

「周囲に流される人には、意思決定のプロセスがないからだよ。プロセスのない人が、袋小路でどうやって後戻りする? おそらく帰る道が分からなくなる。過去の経験を元に、新たに出現する壁を乗り越えるのも難しい。プロセスのない人は、過去の成功や失敗で振り返りができないからね。そんな人は、成功は自分の実力のおかげで、失敗は誰かのせいや環境のせいになるんだ。そんなことで新たな問題を実力突破できる? 袋小路で立ち往生したら、成り行きを伺うだけにならない? それでどうにかなればラッキーで、どうにもならないと意味のない不満が募る。そんな人生が、楽しいとは思えないんだけど」

 僕は、自分の歩んできた人生を振り返りながら言った。

 子供を育てるということは、自分を反面教師にして導くということかもしれない。

「それは楽しくないわよ。でもね、どんなふうに育てたら楽しい人生を送れる人になれるというの? 中々上手くいかないのが、人生ってものでしょう?」と彼女は言った。

 僕はその言葉に、思わず笑った。確かにその通りなのだ。上手くいかないのが人生というものだ。

 その意味で、彼女の指摘は本質をついている。けれど、上手くいかない人生を修復しながら上手に向上させていくことが、生きる面白さではないだろうか。生きていれば、次々新しい問題に直面するのは普通のことだ。

 そして物事には、色々な考え方がある。見る視点や方向を変えるだけで、同じことがまるで違うように見えることがある。

「ある人が、自分は絶対に失敗しないって言ったんだ。そんなことは有り得ないだろうと思ったけれど、その人が言うにはね、諦めなければ失敗にならないから、成功するまで絶対に諦めない自分は、失敗しない人なんだって。失敗というものは、諦めたときに初めて確定するって言うんだよ。僕はなるほどと思ったし、そんな人生は楽しいかもしれないって共感したんだ」

「だったらわたしは未来を、しぶとくしつこい人間に育てたらいいの?」奈緒美はくすくすと笑う。「それに問題は、こんな人間に育てたいというイメージを持ったときでさえ、どうすればいいかが分からないのよ」

 それは僕も分からない。子育てに画一的方法などあるわけもなく、そこには臨機応変さが必要だからだ。

「その通り。それが分からないし、簡単に分かったら苦労しない。つまり、あまり神経質になっても仕方ないということじゃないかな。もし僕なら、放任主義に徹して子供の好きにさせる。ただし、一つだけ決め事を設けて」

「その決め事ってなに?」

 彼女は興味津々に、こちらへ身を乗り出した。

「放任主義に徹するのは子供の自主性、自立性、創造性を磨く目的がある。そのための放任であって、無限に何もかも許すわけじゃない。そんなことをしたらとんでもない人間になってしまうかもしれない。だから仮想サークルを設けて、その中で子供は自由だけれど、サークルの外では厳しくルールでしばる。サークルの大きさは子供の成長に合わせて大きくしていけばいい。子供にとってサークルの中は、自由で自主的かつ計画的に何でも決められるし行動できる。その中では自分がボスなんだ。それらが失敗しても決定的痛手にならないように、大人はサークルの大きさを調整する必要がある。子供が成長すればそれを広げる。もしだめだったらそれを狭める。つまり自分の自由空間の大きさが、本人が上手くできるかできないかで変化するんだ」

「なんか取り留めのない話しねえ」彼女は疑り深く言った。

「会社の仕組みと同じだよ。新人は裁量の範囲が狭いけど、上手くできる人はそれが広がっていく。つまり裁量の範囲がサークルなんだ。とにかく子供は、できるだけ自分自身で決めさせてやらせればいいんだよ。子供は何にでも興味を持つから、危ないことを除いてできるだけ本人に挑戦させてあげる。それがサークルの中ということ。そしてサークル外では挨拶をすることやルールや約束を守るとか、そんな人間としての基本を親が躾ける。何時でも愛情を持ちながら見守って、子供からお願いされない限り大人は出来るだけ手を出さない。子供はね、親の愛を感じてさえいれば、安心して自立できるんだよ」

「それは逆じゃないの? べたべたして育てた子供が自立できないんじゃない?」

「一概にこうだとは言えないけれど、親の愛情が希薄な場合、子供は失敗したり助けが欲しいときに身を寄せる場所がないことを怖がって、いつまでも親の庇護から抜け出せなくなるんだ。つまり自立できなくなる。それにね、親が子供に愛情を持ち続けるのは意外に大変なんだよ」

「そうかしら。わたしは愛情を持つなと言われても愛して止まないと思うけど」

「そうだったらいいけど、大人にとって都合の良い愛し方をする人は意外に多いよ」

「都合の良い愛し方? 例えば?」

「子供って、親の都合に関係なく甘えたかったり遊んでもらいたい。でも親はそれを忙しいとか疲れたと言って、自分の都合に合わせて子供の要求を退けたりする。もし面倒くさいときは、もっともらしい理屈で子供を言いくるめたりする。でも子供を愛しく感じて仕方ないときは、子供の都合を考えずに自分の気持ちを押し付ける。そいうのってよくありそうじゃない?」

 彼女は「ふーん」と言って宙を見つめながら、ぼんやり考えた。

「そう言われると、わたしも自信がなくなってくる」

「いい? これは本当に気を付けるべきだけど、子供は直感的に大人の嘘や矛盾を見抜くんだ。だから子供に対して、大人の都合で筋というものを曲げるべきじゃないんだよ。でも大人だって人間だから、疲れて子供の相手をしたくないときもある。そんなときは正直に話して勘弁してもらえばいい。勘弁してくれないときは子供と対話をして、相手の納得を引き出す努力をする。子供に愛情を注ぐというのは、そういったことをきちんとこなすことも含まれると思うけど」

「なるほどねえ、分かる気がする」

 そして彼女は、はたと気付いたように言った。

「ねえ、あなたはどうしてそんなことに詳しいのよ。隠し子でもいるの?」

 僕はその突拍子のなさに可笑しくなって、笑ってしまった。それで彼女は、とても真剣な顔付きになる。

「え? もしかして、本当にいるの?」

 僕はますます可笑しくなって、うっすら浮上した疑惑を放置したい衝動に駆られながら、種明かしをした。

「ある目的で心理学を学んだことがあるんだ。そのとき児童心理学も勉強したんだよ。優しい本にも子育てに大切なことがたくさん書かれているから、一度読んでみたらいいよ。子供をきちんと愛せる人は、ヒントをもらうだけで十分だから」

 彼女は頬杖を付きながら、わざとらしい疑いの顔を僕に向け、「ふーん」と鼻から声を出した。

「まだ、何か?」

「あなたはやっぱり変わってるわね」

「そう?」

 彼女はそれに答えず、椅子から立ち上がり、僕の頬にキスをした。「これは相談料。それじゃあ部屋に戻るわね。おやすみ」


 未来は日増しに体重が増えて、元気に育っていた。表情が豊かになり、彼女の両親も目に入れても痛くない可愛がりようだった。実際自分の目にも、未来はとても可愛く映った。

 彼は僕のことを認識しているらしく、抱いてあげると口角を上げて笑う。卵からかえった雛鳥は初めて見たものを親と思うようだけれど、彼は自分のことを、父親と思っているのかもしれない。

 奈緒美も彼のことを甲斐甲斐しく面倒見ていた。オムツを替えたりミルクを飲ませる奈緒美は、もう何年もそんなことを経験した人のように手際がよく、しかし一つ一つの動作に優しさを感じさせる柔らかさがある。

 庭から入る陽射しに包まれた奈緒美のそんな様子に見入っていると、僕は彼女の旦那になったような気分になった。そして静かで平穏な世界に吸い込まれてしまう内、それが本当のことになってもいいような気になってしまう。

 奈緒美の明るく元気な様子は彼女の両親を安心させ、僕は益々、彼女の家に招待されることになった。

 相変わらず、彼女の両親が自分を運命共同体に引きずり込もうとする意図を感じたけれど、日本のそれはフィリピンと随分様子が異なった。

 日本では、こちらがお金を出すことは一切なく、逆に美味しいご飯をご馳走になる。僕は自分の身体と時間を提供するのみだ。

 もちろん本格的に引き込まれてしまえば、そこにはまた違った苦悩があるかもしれないけれど、何もかもにおいて日本とフィリピンでは様子が違うことを不思議に感じた。

 同じ地球の上にあり、同じ人間が営む世界であるはずなのに、どうしてこれほど大きな差異が生じるものなのか。

 僕は、全ての人間は平等であるべきだと教育されて育ったのだ。そして少なくとも、機会の平等は実現されるべきだと思っている。あるいは医療や食、基本的生活環境における激しい格差はなくすべきと思っている。

 僕は一度、何不自由なく暮らす奈緒美に、そのことを尋ねてみた。

 彼女は「そうねえ」と言って、少し考え込んだ。

「食べることができない子供は本当に可愛そうよ。どうにかならないかしらって思うこともある。でもね、わたしは、例えばフィリピンの人にはそれほど同情的じゃないの。だって日本が豊かになった過程には、たくさんの努力や仕事漬けみたいな犠牲があったからでしょう? うちのお父さんは見事な仕事人間だったし、あなただってプライベートを犠牲にして働いているじゃない。こうして日本が豊かになったのは、みんながそうやって努力した賜物じゃないかって思うところもあるのよ」

 そう言われたら、それも一理あるような気がしてくる。しかしフィリピンの場合、雇用機会が著しく少なかったり、働けたとしても搾取に近い状況に、僕は不公平を感じるのだ。

 でも彼女は言った。

「独裁国家でなければ、社会を変えるのは国民なのよ。みんな民主主義の元で選挙権を持っているんでしょう? 社会を変えられない人たちにも責任があると思うけど」

 それも正しい意見のような気がするけれど、僕にはそれに同意できない引っ掛かりがある。今の体制を維持したい勢力に牛耳られる世界で、その理屈がどこまで通用するのかということだ。

 今の世界は金儲けをしたい一部の人たちのせいで、何かが歪んでいるのではないだろうか。そしてこの歪んだ世界が歴史上の正しい選択(他の選択肢より良かった)だったかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかし、現実的に様々な問題があるのは確かで、恵まれた国に生まれた自分には、そのことを考えてもおそらく分からないのだろう。

 フィリピンの涙ぐましい現実を見ている自分が分からないなら、見ていない奈緒美には、自分の足元を基準とする考えに落とし穴があるかもしれないなどと、微塵も疑わないはずだ。疑いようがないのだから。

 リンや子供たちの生活環境を思い浮かべて黙っていると、彼女は唐突に、リンのことに話題を振った。

「ねえ、リンちゃんとはどうなの? 上手くやってる?」

 そう言われて、少し戸惑った。最近自分の意識の中で、リンの存在が随分希薄になっているからだ。

「そうならいいんだけどね」と僕は言った。

「違うの?」

 奈緒美はこちらの顔を覗き込むようにして訊いた。

「去年の終わりごろから、しっくりしないんだ」と、僕は本心をこぼした。僕は元々、仕事やプライベートなことを奈緒美に話さないし、彼女も滅多に訊かない。僕も彼女のプライベートに踏み込むことはない。だから二人の間で、こんな話しは珍しい。

 奈緒美に詳しく話してみてと言われ、リンとの間にあったことをかいつまんで話した。できるだけ主観を排除して、簡潔に客観的に。

「ねえ、それって彼女が少し自立的になったから、あなたは寂しく感じているんじゃないの?」

 そう言われて少しはっとした。かつてフィリピンパブの女性たちは、彼女に愛がないとか僕が騙されていると言ったけれど、奈緒美の説が一番自分の心を揺さぶった。

「ビンゴ?」

「そうかもしれない」 

 彼女は歯切れの悪い僕に、「らしくないわねえ」と言って笑った。

「ねえ、もし駄目になるなら、わたしのところへ戻っておいでよ」

 こちらが黙っていると、彼女は「真剣な話しなのよと」と優しい顔で言った。

 僕はそれに対して、「有難い話しをありがとう」とお茶を濁した。いや、実際に有難い話なのだ。


 この頃リンと細かく相談し、彼女への月々の送金を少し減額していた。それでも彼女たちの生活費は十分なはずだったし、リンも同意したことだった。

 アパート代とケアギーバースクール費用を差し引いても、彼女の手元には十分な生活費が残る計算だった。それまでしていた贅沢分を、少し切り詰めればいいのだ。

 その代わり、どうしても必要な追加送金依頼は、理由が明確で納得性があれば応じることにした。そうすることで、実質彼女が困ることはない。こんなふうに僕のサポートは、小さなルールが追加されることで少しシスティマティックになった。

 実際、どうしても彼女が必要なお金なら、できるだけそれを送金した。そしてそこには、金額がそれほど小さくないものも含まれた。

 例えば医療費が大きかった。リンが以前から抱えていた乳房の小さなしこりを除去する手術代や、妹の体調不良による通院と薬などだ。

 フィリピンには日本のような健康保険制度がないため、小さな手術でも大金が必要となる。

 正直に言えば僕は、それらの費用を送るとき、それは本当に医療費だろうかとほんの少し疑った。月々の送金金額を減らしたことによるしわ寄せで、理由を作ってお金をお願いしてきたのかもしれないということが、頭の隅をかすめたのだ。本当のところはどうなのか、それは分からない。

 そのころ、僕の預金は本当に心細くなって、フィリピンパブに行く回数はめっきり減っていた。それは減らしたというより、自然減少という感じだった。そんなことにお金を使いにくくなってきたという経済的理由があり、加えて未来を中心とした奈緒美とのコミュニケーションの増加が、その理由だった。

 僕は彼女の家の食事に招かれ、未来と関わり、奈緒美や彼女の両親とのコミュニケーションを持ちながら、それに救われていた。そんな時間を持つことで、自分は様々なストレスから開放されていたのだ。

 天気のいい日に未来を連れて公園に散歩に行ったり、三人でショッピングや外食を楽しむ日々は充実し、僕に精神的安定をもたらした。人には家庭というものが、必要不可欠なものかもしれないと思ったほどだ。

 そしてときどき分からなくなった。このやり取りは自分にとって、一体何なのだろうと。 

 フィリピンに恋人がいながら、未だ奈緒美とこうした付き合いを続けていることは、一種の不貞行為なのだろうか。それともこれは、男女の垣根を超えた友情で問題ないのか。自分にいささかもやましいところはないかと自分自身を疑うのは、実際にこの環境の中で癒されている自分がいるからだ。

 刺激的な環境に魅了されリンの世界に入り込んだものの、それに疲れて別の静かで安定的な環境に癒されている。やましいというより、こんな身勝手が許されるべきものかという自責の念が、自分の中にあるのかもしれなかった。

 それを自分自身で感じるとき、僕は少し落ち着かなくなった。どうも立ち位置が定まらない。いや、自分がそれを上手く決めることができない。これは何かを決断すれば、自ずと解決するのだろうか。僕はときどき、ふとした拍子にそんなことを考えた。


 平穏な日々に埋もれているようでも、リンのことで何かがあれば、僕の第六感的感知能力は以前と変わらず敏感に働いた。

 ある週末の金曜日、またしてもリンと連絡が取れなくなったのだ。彼女に電話しても、圏外にいるか携帯電話の電源を切っているという電話会社のメッセージが流れ、彼女からのコールバックもない。それは以前、彼女が入院したときと同じ状況だった。そういったとき、不思議と僕は、それがただの音信不通と何かが違うことを感じた。

 彼女の身にまた何かあったのではないかと考え出すと、気付けば僕は、リンに何度も電話をかけていた。

 一旦心配になると、どうしようもなく不安になった。彼女への電話は、一向に繋がらない。

 翌朝、リンの姉に電話をしてみた。

 彼女は数回の呼び出しで電話に出た。気が競っている僕は、挨拶もそこそこに本題を切り出した。

「リンに連絡がつかないんだ。何かあった?」

 彼女は息を呑むというふうに、少し沈黙してから言った。

「何て説明すればいいか分からないけれど、今彼女はアパートにいないの」

 歯切れの悪い言い方で、何かあることを僕は確信する。

「どうしてアパートにいないの?」

 質問を掘り下げてみると、姉は再び沈黙した。

「すごく心配している。何か知っていることがあるなら教えて欲しい」

 それでも姉は、黙り込んだままだった。携帯電話から鶏の鳴き声や車のクラクションの音が聞こえてくる。

「分かった。それじゃあ一つだけ教えて欲しい。彼女は元気なの?」

「ええ、それは大丈夫。元気よ」

 元気だけれど連絡が取れないということは、何かやましいことでもあるのだろうか。もしそうならそれでもいいような気がした。事故や病気でなければ、一先ず問題ない。

「分かった。元気ならそれでいいよ。ありがとう」

 通話を終わらせるつもりでそう言うと、姉は「ちょっと待って」と慌てた。

 待ってと言ったのに、再び電話口で空白の時間が続く。僕は次の言葉をじっと待った。

「リンにはあなたに知らせないように言われているんだけど、今彼女はバンブーハウスにいるの」

 リンの姉は、少し言いにくそうだった。

「バンブーハウス? それはなに?」

「川沿いにある竹の家のこと」

「どうしてリンがそんなところに?」

 また少し彼女は沈黙する。しかし今度僕は、最後まで辛抱強く彼女の話しを聞く必要性を感じた。

 お互い無言の根比べのような時間が経過し、ようやく彼女が話し出した。

「金銭トラブルがあって、危ない人たちに追われているからそこに隠したの」

「危ない人? 一体何があったの? 全く状況が分からない」

「ごめんなさい。わたしからは詳しく言えないの。でもあなたの助けが必要なのよ。明日リンに電話させるから、彼女を助けてあげて。お願い」

 僕はリンのコールを待つことにして、姉との通話を終わらせた。

 一体何が起こったのだろう。一先ずリンが元気なことは分かったけれど、僕は妙な胸騒ぎを覚えて、その日は悶々とした一日を過ごすことになった。

 姉が約束してくれたように、その日の深夜近く、ようやくリンの呼び出し音が自分の携帯を震わせた。いつものように呼び出しが止むのを待って、こちらから電話をかけ直す。

「何があったの? さっぱり話しが分からなくて心配しているんだけど」

「ごめんなさい。わたしは元気だから大丈夫。シャワーをするために、姉の友だちのアパートに来ているの」

 彼女は意外に落ち着いて、声も元気そうだった。

「自分のアパートじゃないんだ」

「そこには事情があって帰れないの」

「どうして帰れないの? あなたのお姉さんは、詳しいことを言えないと言っていたけれど、その事情を少し説明してくれないかな」

「ごめんなさい。わたしも詳しくは説明できないけど、お金の問題があるの。でもしばらくバンブーハウスに隠れていれば大丈夫だから。周りのおばさんたちが色々面倒をみてくれるの。シャワーのないのが不便だけれど、それ以外は何とかなるから心配しないで。そこにいればわたしは安全だから」

 歯切れの悪いリンの物言いに、僕は次第に苛立った。心配するなと言われても、どうみても非常事態に感じられるのだ。

「それは何かの事件に巻き込まれているの?」

「違うわよ。そんな大袈裟なことじゃないわ。しばらく連絡が付きにくいかもしれないけれど、とにかく心配しないで」

 僕は自分の苛立ちを、そのまま彼女にぶつけた。

「分かった。詳しい話しをできないということだよね。秘密と言うならそれでもいい。こちらもできるだけ気にしないようにする」

「秘密じゃないわよ。問題が片付いたらきちんと説明するから、今は怒らないで。お願いだから」

 結局リンも、詳しい話しをしてくれなかった。彼女が何かを隠しているのは間違いない。そしてリンは大丈夫と言うけれど、彼女の姉は、僕の助けが必要だと言った。リンは何かから、身を隠さなければならないのだ。どう考えても普通ではない。

 電話では気にしないと言ったものの、自分なりに考えるほど、僕は心配でたまらなくなる。すぐにセブに行ったほうがいいのだろうか。僕は寝付けなくなり、自分がどうすべきかを一晩中思案した。

 翌日、フィーに電話をした。夫のサムが弁護士をしている彼女だ。サムには、リンの家を買ったときに世話になっている。 

 僕はフィーに、リンや姉とのやり取りを説明し、サムに協力をお願いできないかと打診した。

「バンブーハウスに隠れているのよね。それはあまり普通じゃないわねえ」と、フィーはつぶやくように言った。

「ねえ、そのバンブーハウスって何なの?」

「河川敷に暮らす貧しい人たちの、竹でできた簡易的な家よ。そんなところに隠れて生活するっていうのは変よ。とにかく旦那に話してみる。事情を調べるくらいはできると思うから」

 僕はフィーに、リンと彼女の姉の電話番号を伝え、サムに直接事情を聞きだしてもらうようお願いした。

「必要な費用はきちんと払うから、仕事として動いてもらうと助かる。分かったら口頭報告ではなく、メールで結果を教えて欲しい」

 ややこしい話しになれば、口頭のやり取りは誤解を生むこともある。文書回答が必要だ。

 サムの動きは迅速だった。彼がその翌日、早速リンに会いに行ってくれたことを、僕はリンの連絡で知った。


 借金をした先は三つ。いずれも闇金で、背後にマフィアが控える業者。

 パソコンに届いた報告書には、リンの借金問題のことが書かれていた。

 金利が異常に高いことからも、普通の金融業者でないことが分かる。三つの闇金は同じ組織に繋がり、体良く言えばファミリーカンパニーだ。

 最初の借金で追い込みをかけ、ファミリーカンパニーをたらい回しにしながら、次第に貸借金を増やしていく手口にはまったようだ。

 返済金額は、利息込みで一ミリオンペソ。すなわち日本円で、二百万円という金額になっていた。物価の違いを考慮すれば、それは途方もない大金だった。その元金は七十万円というのが、如何にも闇金らしい。法外な利息と返済遅延ペナルティーが、元金を上回っている。

 この問題の重要な着目点も、報告されていた。借金の原因が、リンの兄のギャンブルということだ。リンが兄の借金を肩代わりしたようだけれど、借金がどのように作られたのかについて、詳細な事情は分からない。

 あくまでも一般論として、若い女性を風俗業に入れるため、最初から仕組まれるケースがあるようだ。事実、組織はリンを追っていて、彼女はバンブーハウスに身を隠している。

 目下、サムはこの問題に弁護士の自分が介入したことを先方に告げ、リンに直接手を出さないようお願いしたようだ。そんなお願いが、アウトローの世界にどこまで通用するのか、そこはサムも疑心暗鬼のようだ。

 何らかの法的措置も検討可能だけれど、それは時間がかかる上に元金は紛れもない実借金のようで、至急何らかの現金を用意することがサムの推奨だった。

 今後の方針について連絡をもらえば、すぐに対応できるとある。

 仮に組織がリンを見つけた場合、何が起こるのだろうか。リンは、無理やり風俗店に押し込まれるのだろうか。サードワールドであっても一応の法治国家で、そんなことがまかり通るのか。

 一旦日本を離れた他国のことになると、その辺のことが全く想像できない。無理に想像してみると、それはアウトローの世界を描いた映画のように、壮絶なものとなる。それが僕の胃を押し上げ、身体の中にむかむかする居心地の悪い疼きを生み出す。

 僕は身体の中で暴れるそんな何かを封じ込めようと、自分を落ち着かせることに懸命だった。落ち着いて打開策を決めてしまえば、動悸も何もかもが収まるはずだ。

 結論は初めから出ていた。

 現金を持って、至急フィリピンに飛ぶ。会社は親を急病にして休みを取ればいい。

 落ち着いて仕事の状況を考える。問題ない、緊急の案件は特にない。

 次第に僕は、落ち着きを取り戻した。持参する現金は百万円が限界だろう。それ以上は税関に摘発される可能性がある。申請なしで摘発されれば、最悪全て没収だ。

 半分はフィリピン現地で、小分けにカードでおろすか。いや、できるだけリンの口座に振り込んでおいたほうがいい。それを現地の銀行窓口で引き出す。フィリピンの自動引き出し機は、一回の引き出し金額上限が低いからだ。何度もおろす度に、安くない手数料が引かれてしまう。

 頭の中でアクションリストを整理する。

 まずは旅行会社に、電話でチケットを予約する。会社に休暇の旨を連絡し、銀行でリンの口座に振込を済ませてから、その足で旅行会社にチケット代金の支払いに行く。全てが確定したらサムに連絡し、ホテルに予約を入れる。

 全てを決めてしまうと、少し楽になれた。あとは一度決めたことを、順次決めた通り実行すればいいだけなのだ。

 こうして翌日の月曜日に全ての準備が整うと、僕はようやく、この状況について考えることができるようになった。

 リンの生活環境に変化を与えたのは、間違いなく自分なのだ。僕は結果的に、彼女やその家族の生活に対する緊張感を奪い、更なる贅沢への欲求を刺激した。その意味で、この問題には自分にも責任があるような気がした。

 しかしリンは、なぜ事態が悪化するまで、このことを相談してくれなかったのだろうか。最近の喧嘩の中で、自分が余計なことをたくさん言ったからか。彼女は僕に、お金の問題を言い出しにくかったのかもしれない。だから嵐が過ぎ去るまで、僕には秘密にしたかったのかもしれない。

 しかし彼女は、僕にとって家族のようなものなのだ。何があっても切っても切れない、血縁関係のように思っていた。それでも今、こうした隠し事があることで、二人の間に何らかの壁が立ちはだかっていた。

 なぜ相談してくれなかったのだろうか。言い難いことは理解できるけれど、唐突に出現した壁が、自分の行く手に立ちはだかる。

 加えて、将来展望の元となるべきお金が尽きた。それだけならまだしも、僕は不足分の現金を、数枚のクレジットのカードキャッシングでまかなったのだ。つまりリンの借金を返すため、今度は自分が借金を背負ったということだ。いよいよ自分も袋小路に入ったような焦燥感が、自分を覆い始めた。

 不思議と彼女に腹は立たなかった。僕は自分を情けなく思っていた。自分は一体、何をやっているのだろうと。

 振り出しに戻れるなら戻りたい。自分は何かを間違えたのだ。間違えを正してやり直せば、今度はきっと上手くいく。

 しかし、どの部分をどんなふうに間違えて、それをどう正せばいいのかが判然としない。振り出しに戻っても、僕は上手くやれないのかもしれない。プロセスがはっきりしないから、振り返りができない。おそらく僕は、リンのことについて成り行きだらけだったのだ。

 僕はそのことで、途端に自分に対する自信を失った。


 フィリピンに向かう機中で、僕は憂鬱な気分を抱えていた。飛行機から外へでた瞬間、蒸し暑い空気が自分を包み込んでも、ため息が出るばかりだった。とにかく、無理に自分の気を奮い立たせるだけで精一杯なのだ。

 空港でリンと、弁護士のサムとその妻のフィーが出迎えてくれた。

 僕がサムやフィーと挨拶を交わす脇で、リンは沈んだ顔をしていた。

「今回は本当にごめんなさい」

 サムやフィーの前で内輪の話しを避けたい僕は、それ以上の詳しい話しを牽制し、「大丈夫だから」と言った。

 僕たちはサムの運転する車で、いつものホテルに移動した。そこのレストランで、作戦会議を持つことにしていたのだ。

 夕暮れ時のセブの街は、これから正月がやってくるかのように、相変わらず混雑していた。

 僕はその雑踏をぼんやりと眺めながら、さっき自分が言った大丈夫とは、一体何が大丈夫なのかを考えていた。二人のことか、あるいは自分のことか。リンが普通の生活を営むことができるようになるのは、おそらく大丈夫だろう。しかしそれ以外は、何もかもが大丈夫ではないような気がしてしまう。こんなときは、一つずつ目の前の問題を片付けていくしかないのだ。一つずつ着実に、山頂を目指して坂を一歩ずつ登るように。

 ホテルのレストランは、予想通り空いていた。大方の宿泊客は、ディナーを外で取るだろうし、自分もディナーでそこを利用するのは初めてだった。

 静かで上品なジャズが、店内に流れていた。知らない曲だったけれど、ピアノを弾いているのはキース・ジャレットではないだろうか。ボーカルがなくても、声や歌い方と同じで、ピアノの旋律や弾き方にミュージシャンの特徴が出ている。

 オーダーを済ませると、早速サムが鞄から一枚の紙を取り出し、僕に差し出した。短い英文の下に、少し桁の多い数字が書かれている。

「これが最終金額です」

 単位はペソだ。その数字を二倍すれば、およそ日本円になる。一番左の数字が一で、その右側に六桁の数字が並んでいた。大まかな金額は知っていても、改めて見るとやはり大金だった。

「これを、全額一括で支払うということで宜しいですか?」

 方針はセブに来る前から決まっている。闇金の請求金額を全て支払い、一気にかたをつけるつもりだ。日本円にして、二百万円を少し上回る金額の支払い準備はできていた。

「明日の午前中に現金を用意して、午後に支払いを実行するつもりです」

 サムが神妙に頷き、リンとフィーが固唾を飲んで見守っている。

 サムに、自分のピックを翌日の午後二時にお願いした。すると彼は、それが如何にも意外という驚いた様子で、「支払いは全て私が代行しますよ。日本人のあなたは顔を出さないほうがいい」と言った。慣れない日本人の足元を見られたり、追加のお金を搾り取ろうと何かを画策され、余計なトラブルが生じる可能性を彼は心配した。

 僕は彼の言い分を十分理解したものの、支払いは自分の手で直接実行したかった。これだけの大金を他人に任せることはできなかったし、自分の目で相手のことを確かめる必要もあった。相手がどれだけの悪党で、支払いが済めば、リンは本当に安全なのかを。

 リンは俯いていた顔をあげて言った。

「行くのは止めたほうがいいわ、お願い」

 サムもフィーもそれに同調した。みんなの視線が自分に集中した。

「いや、今回のことは、自分にも責任がある。それをお金を払うだけで終わらせるのは、多分間違っていると思う。だから明日は自分も行かせてもらいたい」

「あなたに何の責任があるの? あなたは何も悪くないでしょう?」そう言ったリンの顔には、悲壮感が漂っていた。

「何も悪くないなら、どうして僕が、こんな大金を払わなければならないの?」リンが素早い瞬きをして、僅かに息を飲んだ。「僕の存在がなかったら、こんな問題は起きなかったんじゃない? あなたが僕と出会う前、同じような事件はなかったはずだけど」

 そこまで言うと、リンは黙り込んだ。

 僕はフィリピンを訪れる前に何度も考えて、自分がこの問題に、深く絡んでいることを自覚していた。

 平たく言ってしまえば、社会のあちら側とこちら側が交わるところには、生活習慣の違いに起因する潜在的危険性がある。こちら側の金銭感覚をあちら側に持ち込み大盤振る舞いすれば、何かしらの歪が生じるのは当たり前だ。

 リンや彼女の家族にとって、僕の存在は福であり同時に厄でもあることが、今回の事件で明らかになったのかもしれない。もちろん、だからそういった関わりは一切持たないほうがいいということではない。そういったことを認識し、気を付けなければならないということだ。自分に、あるいは二人に欠落していたのは、そういったことだったのだ。

 その夜僕とリンは、その件について、お互い何も語らなかった。僕は何かを語るにしても、全てが片付いてからにしたいと思っていた。

 リンはバンブーハウスの生活で、疲れが溜まっていたのだろう。シャワーを浴びてベッドに入ると、子猫のように自分に寄り添い、すぐに寝息を立て始めた。

 そうしたことがあれば僕は彼女を不憫に感じ、そんな彼女を受け止めなければならないと思う。しかし一方で、見知らぬ街で迷子になったような心細さが、自分の中を漂っていた。金銭面でそれまでと同様に彼女を支えるのが、いよいよ困難な状況になっている。


 翌日、僕とリンは銀行と両替所を回り、午前中に必要な現金を用意した。

 大金の受け渡しをする際、周囲の目が気になった。そこら中にたくさんの目がある。自分たちが大金を持っていることを誰かに知られたら、どこかで襲われる可能性も否定できない。

 万が一その金を強奪されてしまえば、僕には闇金に対してなす術がなくなる。想像しただけで怖いことだった。だから無事にホテルに辿り着いたときに、僕は本当に胸を撫で下ろした。

 ホテルのテーブルに置いた札束は、結構なボリュームとなった。これが午後には綺麗さっぱり消えてしまうと思えば、少し虚しいけれど、それほどもったいないとは思わなかった。

 できれば早く全部消して、精神的にすっきりしたかった。誰かに強奪される前に、できるだけ速やかに耳を揃えて闇金へ進呈したい。

 同時に自分の中で、そんな慣れない場所へ出向くことへの緊張感が高まる。何がどうなっても落ち着かない。コーヒーを淹れてくつろぐことさえ、ままならなかった。

 午後になり、僕はサムと二人で闇金の事務所へ向かった。そこでやることは、支払いと引き換えに、リンのサインが入った借用書原本を返して貰うことだ。リンのサインは、別紙に書いてもらったものを持参している。返済は三箇所で、現金はそれぞれの事務所用に仕分け済みだ。

 サムが古い商店ビルの前に車を停車させた。

「三つとも、ここから歩いて行けます」

「もしかして、同じビルディングにあるとか?」

 彼は笑いながら、「流石にそれはないですけど、似たようなものですよ。全部同じエリアにあります。分かりやすいグループカンパニーです」と言った。

 付近はスラムではないけれど、古くて寂れていた。小さく古い戸建てにサリサリストア(個人コンビニエンスストア)があり、薄汚れた裸足の子供たちが遊ぶ中をかいくぐるように、多くのトライシケルが行き交っている。

 壁の所々が黒ずむ色褪せた低層アパートがあり、各部屋の小さな鉄格子の付いた窓から、たくさんの洗濯物がぶら下がっていた。

 ほんの百メートルも歩くと、鉄のゲートの付いた古い一軒家があり、サムがここだと言った。看板など一切なくて、一見普通の住宅に見える。エンジ色の頑丈そうな鉄扉は、襲撃を受けた際の防御用にも見えた。きっちり閉じられたそれは妙な威圧感を放ち、僕は思わず唾を飲み込んだ。

 サムが呼び鈴を押すと、向こう側からドアを開ける物音が聞こえ、一生開かれることがないように見えた鉄扉が、きしみ音を響かせ内側に開いた。そこから姿を現したのは、五分刈で細身の、よれたポロシャツを着たサンダルばきの若い男だった。

 彼はちらりと僕を見てから、無言でサムを中へと招き入れ、僕もそのあとに続いた。話しは既に通っている。先方も用件は承知済みだ。

 サムが挨拶したのに、五分刈の彼は、如何にも無愛想に頭を小さく上下に動かしただけで、全くの無言だった。

 中へ入ると今度は、大福のようにふくよかな顔を持つ、恰幅と愛想のよい中年男が寄ってきて、僕たちに部屋の中央に置かれたソファーを勧めた。木製の小さなリビングテーブルを挟んで座る彼の顔は笑顔でも、メガネの奥の目は笑っていない。それが僕に、彼が堅気の人ではないことを印象付けた。

 それはとても殺風景な部屋だった。四角い箱と言っても差し支えない単調な部屋は、壁がくすんだ白で、カレンダーの一つもない。壁掛け時計すらないのだ。窓が一つあるけれど、カーテンはなかった。窓の外には家を取り囲む塀が見えるだけで、景色はない。部屋の奥には木製の事務机が二つ向き合って置かれ、それぞれにキャスターのない四足の木製椅子がついていた。受け付けカウンターもない。接客を必要とする普通の事務所とは、随分趣きが異なる。

 リンも、この閉塞感の漂う事務所に来たのだろうか。もしそうだとしたら、随分心細い思いをしたのかもしれない。

 それで突然、彼女が不憫に思えてくる。同時に彼女を追い込んだ全てに、怒りとも苛立ちともつかない感情が静かに込み上げてきた。それが自分の腹を括らせ、身体の中に固い決意が浮上する。

 大福が脇に立つ五分刈りに目配せし、彼は奥の部屋へ消えた。

「ここに日本人の方がお見えになるのは初めてのことなんですよ」と大福が言った。こちらが無言でいると、彼は「いやあ、珍しいことで、こちらが緊張しているということをお伝えしたいだけなんです。書類は今用意させてますので、少しお待ち下さい」と続けた。

 緊張するなどと言いながら、言い方や態度にはゆとりさえあり、それが彼のふてぶてしさを感じさせる。

 僕たちは居心地の悪さを覚えながら、書類が出てくるのを待った。

 しかし、一向にそれが出てこない。

 大福は笑みを見せながら、時折僕の素性について探りを入れる質問を投げかけてきた。その度に僕は、答える必要性を感じないと無回答を貫き、暫くお互い無言になる。二十分ほど経過した頃だろうか、サムが痺れを切らせて口を開いた。

「今日伺うことは、予めお伝えしていたはずです。なぜ書類が出てこないのですか?」

 大福が確認すると言い奥の部屋へ消え、その五分後、彼は手ぶらで僕たちの前に戻った。

「いやあ、申し訳ありません。手違いが発生してしまいました。書類はまだ本社にあるそうです。これから急いで届けさせますから、もう少しお待ちいただけませんか」

 きな臭い言い訳だ。何かを画策しているようにも思える。さっさと金を払いそこを出たいけれど、借用証書を取り戻さずに金は渡せない。

「何時になりますか?」とサムが訊いた。

「渋滞が激しいので、さて、何時になるか。明日にでも出直して貰えると、確実なんですけどねえ」大福はしらっと答えた。

 僕は突然、今日の自分の立場は大福に対して強いのだろうか、あるいは弱いのだろうかと分からなくなった。

 借りた金を、返せない人に成り代わり払いに来たのだから、有り難く思われていいような気がする一方で、どうにか返させて下さいみたいな雰囲気が漂っている。そして僕は、相手の機嫌を損ねたくないと思っているのだ。

 おそらく大福は、僕が機嫌悪く「だったら支払うのをやめる」と言い出しても、ちっとも困らないのだろう。上がりの大きなリンへの強制労働を実行できて、むしろ喜ぶかもしれない。

 こちらの分が悪い状況で、どう対応すべきか思案している中、サムが淡々と言った。

「分かりました。では録音しますので、もう一度話してくれますか? あとで問題が起きたときに、裁判所へ提出しますので」

 彼は大福の返事を待たず、鞄の中から小型のテープレコーダーを出してガシャリとスイッチを入れると、テーブルの上にそれを置いた。小窓から、オーディオテープのゆっくり回る様子が見えている。

「録音を始めました。返金の約束をしてお金を持参したのに、そちらのミスで書類を用意できないということですね」

 テープレコーダーを見つめる大福の顔から、笑みが消える。どちらかと言えばひきつり気味だ。

「録音なんて大袈裟なことをしなくても」大福は明らかに困惑している。「用意できないとは言っていないですよ。もう少し待って欲しいとお願いしているだけで」

「ではもう一度お訊きします。何時まで待てばよろしいですか?」

 テープレコーダーは、本当に動いているのか疑わしいほどの静かさで、テープを動かしていた。とても小さな、踏み潰せば簡単に壊れそうな機械の存在が、こちらの立場を一気に押し上げた。

 言葉に詰まった大福は、眉間に皺を寄せた渋い顔を作り、「ちょっと待って下さい」と席を立った。ギャングの遠縁にあたる人特有のふてぶてしいオーラは、大福からすっかり失せていた。

 彼は本来、気の小さな小市民なのかもしれない。だからこそ、金融という枝葉の業務に従事させられているのだろう。

 大福がいなくなった隙に「ナイスジョブ」とサムに小さく声を掛けると、彼は整った歯を見せて、照れくさそうに笑った。


 結局僕たちは、五時まで同じ界隈の三つの事務所を回ることができた。残りの事務所はアパートの一室という違いがあったものの、五分刈りに大福といった組み合わせの二人が詰めていることや、二人の人間的な雰囲気や役割分担のようなものまで似通っていて、僕は驚いた。

 サムは法律的な話しをさり気なくほのめかすことで彼らを威圧し、この問題をきっちり片付けることができた。

 僕たちはその夜、サム夫妻とリンと四人で、祝杯の宴を催した。複雑なしこりはまだ残っている。しかし、面倒な問題が一つ終わったのは事実だ。サムには心から感謝した。

 その翌朝、僕はリンに、胸の内に秘めていた想いを告げた。僕はそれを、帰国前のどさくさに紛れて言ったのだ。

「今回、フィリピンに来る前から考えていたんだけれど、しばらく二人の距離を置きたいんだ」

 十分か二十分後には部屋を出て、チェックアウトを済ませて空港に向かうというタイミングだった。カーテンを開けた部屋の窓から、夜明けの中間といった紫がかる空が見えていた。僕はそのことを告げるべきか迷ったけれど、リンにすれば唐突な申し入れに違いない。

 彼女は飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて、どういう意味かと確認してきた。その言葉で、部屋の空気が研ぎ澄まされる。僕は一度、唾を飲み込んだ。

「送金は継続するけれど、二人の関係はしばらくそれだけにしたいという意味だよ」

 彼女は、以前のようには怒らなかった。少し呆然として、「それは良く考えて決めたことなの?」と言った。

「たくさん考えた。嫌になるくらい考えて、それでもよく分からないから、一先ずそうしてみようと思ったんだ」

 リンは数秒間僕を見つめてから、小さい声で、「分かった」と言った。そして彼女は、テーブルの上に置いたコーヒーカップを再び手に取った。

 僕はその動作を、茫然自失となって見ていた。まるで僕が、もう別れましょうと言われたみたいに。

 彼女はコーヒーには口をつけず、両手でカップを抱えて何かを考えていた。そして僕に向き直り、「今日は空港に行かず、ここから家に帰ってもいいかしら?」と言った。

 僕が「もちろん構わない」と言うと、彼女は「ありがとう」と言い、自分のハンドバッグを掴んだ。そして彼女は窓際に立つ僕に歩み寄り、僕の首に腕を回して頬にキスをしてから、無言で部屋を立ち去った。

 大波乱もなく、淡々と一つの儀式が終わった。

 僕はベッドに腰掛け、そのまま項垂れた。これでよかったのか、考えを巡らせた。自分で言い出しておきながら、僕は悲しかったのだ。

 彼女はまだ、ホテルの中にいるはずだ。呼び止めるなら間に合う。

 でも、何かに拘束されているように、身体は動かなかった。窓の外は随分明るくなっている。部屋の中が、電灯色から白色に変わっていた。それは何かの区切りを暗示するような、光の変化だった。


 リンの兄との面談を実現できないままの帰国となった。面倒なことが全て終わった後も、リンと改めて話し合うことをしなかった。

 もう何を言っても無駄だという諦めがあったとか、逆に彼女も被害者だという同情みたいなものが、僕をそうさせたわけではない。

 僕はそのことで、説教じみた文句を言えるほど自分が立派ではないことを知っていたし、何よりも怒る気力が残っていなかったのだ。

 怒りをぶつけたり、深刻な話し合いをするには、相応のエネルギーが必要となる。既に僕は、そういう類の原動力を持ち合わせていなかった。疲れたのは事実だったし、大金を失うという物理的な痛手も影響していたのかもしれない。

 それにお金が尽きた今、月々コンスタントに送金するだけの付き合いのほうが、僕にとっては気楽だ。

 帰国後、僕の魂は何処かに行ってしまい、自分は抜け殻となった。そうなると僕は、自分の実態が何処にあるのかも怪しくなった。そして芯を抜かれたような精神状態で、仕事に没頭した。

 しかし、余計なことを考えず抜け殻でい続けることは、意外に楽だった。むしろ精神衛生上は、そのほうが健全に思えるくらいなのだ。そんなことが健全でないことを分かっていた僕は、それを健全と感じる異常性に、じわりと自分が壊れているのではないかという疑惑を持つこともあった。

 そんなとき僕は、狡猾に奈緒美と未来の世界に逃げ込んだ。都心に近い閑静な住宅街で、未来の成長を見守る穏やかな時間の流れは、充足し心地良かった。

 相変わらず彼女の両親から歓待され、未来は僕になついていた。週末奈緒美の実家に泊まり、奈緒美とモーニングコーヒーを楽しみながら語らい、未来と遊び、夕食の相談をしてから三人で買い物へ出掛ける。全員が寝静まった頃、僕と奈緒美はリビングで、再び二人でコーヒーを飲みながら語り合う。

 以前は奈緒美の自宅を訪れても、用事が済めばできるだけ素早く退散していたけれど、その頃は、勧めに応じてゆったり過ごすようになっていた。

 感の鋭い奈緒美は、おそらくそんな僕の変化に気付いていたはずだ。気付いていながら、きっと彼女は何も気付かず、何も知らないふりをして、僕を自然に受け入れていたのだ。

 おそらく彼女は、如何なる結果をも迎え入れる覚悟ができていたのだろう。シングルマザーを貫くことになろうと、彼女にとってはそれでもいいのだ。全てを成り行き任せにしながら、未来のことだけは、立派に育て上げようという決意を滲ませた彼女の態度には、子を持って強くなった女性の美しさが見え隠れした。

 まるで子供のいる夫婦のように付き合っていながら、いつでもあなたの好きにしていいのよという彼女の態度は、ますます僕に、安住の地を得たかのような安らぎを与えた。

 僕はそれに甘えながら、一方で毎月欠かさずリンに送金する。いつしかリンとのコミュニケーションは、電話からメッセージへと変わり、内容も簡単な近況報告や、送金に関わる事務的な内容へと変化していった。

 そんな生活の中で、ときどきフラッシュバックのように、僕はリンに対する呵責かしゃくの念に襲われた。それは何かの拍子に、突然自分に襲いかかる。

 自分は彼女から逃げたのだ。僕は度重なるお金の要求やトラブルに耐えられなくなった。そんなことは百も承知のはずだったのが、この有様で彼女を傷付けてしまった。

 さらに、送金を続けることはリンにとって有難いことでありながら、迷惑なことであったかもしれない。彼女は、二人の関係が宙に浮いた形でお金を受け取っているのだから、新しい恋人を作るわけにもいかないのではないだろうか。

 色々な考えが、自分の中で錯綜した。ある日僕は思い切って、リンに言った。

「お金を受け取っているからといって、僕に遠慮する必要はない。もしいい人がいたら、恋人関係になっても構わない」

 それこそ別れを通告するようなものだった。僕は一種のけじめを付けたかった。彼女をきちんと解放してあげようという、親切心みたいなものもそこに含まれていた。

 彼女は少しの沈黙のあとに「分かった。考えておくわ」と言った。

 しかし彼女には、一向に新しい恋人を作る気配がなかった。すると僕は、そもそも彼女の自分に対する愛を疑っていたことを思い出す。

 こうして距離を置いてみると、皮肉なことに、彼女の愛の片鱗を感じ取ることがあるのだ。もしそれが自分の勘違いでないとしたら、僕のほうこそ彼女に酷い仕打ちをしているようなものだ。そのことが僕をさいなんだ。

 自分がこうして悩むはめになったのは、天罰というものだろうか。あるいはこれは、リンが周到に考え抜いた、彼女の戦略かと勘ぐることもあったけれど、それを確認することもなく、決定的な話し合いもせずに、お互い中途半端な月日を費やすことになった。

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