第28話 亀裂

 その年の正月休み、僕はフィリピンに行くのを止めた。お金を節約するというのが、建て前上の理由だった。それに対してリンから、特に不満は出なかった。

 お金の節約というのは、半分は本当で半分は嘘だった。渡航を取り止めたのは、気分の問題が大きかった。どうしてもフィリピンに行きたければ、自分は何としてでもフィリピンに出かけたからだ。

 僕はしばらくしてそのことに、自分が夢を見続ける努力を放棄しかけているのではないかという気がした。リンもそのことに気付いていたかもしれない。

 二人が出会って、もうじき二年になるという冬が来ていた。


 年が明けて三月、僕にマニラとセブへの出張が決まった。最初にマニラで仕事を済ませ、その後セブに立ち寄る予定となった。

 リンは学校があるため、前回のようにマニラへ宿泊するのはよすと言った。僕も、ドライバーの誤魔化しやリンのケアが面倒となるため、そのほうがいいと同意した。どのみちセブに寄るのだから、わざわざ面倒を抱える必要はない。

 リンに直接会ったのは、前年の十月だ。そのとき激しい喧嘩をして別れて以来、電話では頻繁に話していたけれど、直接会うのは久しぶりだ。五ヶ月間も会わないことは、彼女と付き合って初めてのことだった。

 その出張期間中、彼女はホテルへ宿泊し、そこから学校に通うことになるだろう。一週間という短い期間でも、夜の食事を一緒し、毎日たくさん話しをすれば、またリンに対するかつての感覚が自分に戻ってくるかもしれない。

 僕は何があっても、彼女のアパート代、ケアギーバースクール費用、そして普段の生活費を彼女に送らなければならないのだ。これだけは、何としても実行する必要がある。

 少なくとも彼女が学校を卒業し、彼女の自立に対する自分の責任を果たすまで、仮に彼女と別れることがあってさえ、自分にはその約束を履行する義務があるのだ。その道を用意したのは、紛れもなく自分なのだから。

 そうであるなら、僕は自分の気持ちを、かつてリンと出会った頃と同じものに維持しておきたかった。彼女が恋しくていつでも会いたい、彼女の喜ぶことをしたいと、そんなふうに思っていたかった。そうすれば、送金だって喜んで続けることができる。そんな気持ちがなくなれば、送金が単なる義務となり苦痛になってしまうかもしれない。

 そんな苦痛はできれば避けたい。彼女への焦がれるような愛情を持ち続けたい。それが僕の望むところだった。


 ようやく厳寒の時期が過ぎ、春の訪れが待ち遠しい三月、しばらくぶりでフィリピンを訪れた。

 僕はマニラで、仕事が終わったあと、初めて一人でその街を歩いてみた。

 道端にテーブルを設けるコーヒーショップで、コーヒーを飲んでぼんやり街と道行く人を眺めてみる。

 ときどき路上生活者が歩み寄ってきて、手を差し出した。僕が小額紙幣を渡すと、彼らは小さく頭を下げて無言で立ち去る。それはまるで、急いで次のターゲットを見つけなけれならないというふうだった。

 派手な美人が、歩きながら僕に色目を投げてきた。よく見ればその女性は少し大柄で、オカマであることに気付いた僕は、慌てて視線を逸らす。

 少々みすぼらしい身なりの子供たちも寄ってきた。僕は子供たちに、ケーキを食うか? と言ってみたけれど、彼らはもじもじするだけで返事をくれない。僕の英語が通じていないのかもしれなかった。しばらくするとその母親がやってきて、どこから来たのかと話しかけてきた。会話が始まると、小太りの陽気な母親は、僕が何かを言う度にあけすけに笑って喜んだ。

 そこにはセブと違った雰囲気があるけれど、妙に懐かしい思いが胸の中に広がった。やっぱり僕は、フィリピンが好きなのだ。

 マニラは怖いことがあるかもしれないけれど、自分が先入観を捨てて街を眺めれば、そこは人懐こい人で溢れる普通の街だった。

 やっぱりフィリピンは悪くない。僕は、セブでリンに会うのが楽しみになっていた。


 その三日後、マニラの仕事を終え、いよいよセブに辿り着いた。出張だから、空港へはカンパニーカーが迎えに来てくれる。時間は夕方に近く、僕はホテルへ直接送ってもらった。

 いつものホテルにチェックインを済ませ、ホテルの部屋でコーヒーを淹れ、僕は窓辺でセブの街を眺めながらリンに電話をした。特別なことがなければ、ケアギーバースクールの授業は終わっているはずだった。

 数回のコールでリンが応答した。彼女のハローという声が耳に入る。

「ホテルにチェックインを済ませた。今部屋にいるけれど、何時くらいにここに来る?」

 彼女は「ちょっと待って」と言い、誰かと話しているようだった。電話を持ちかえるがさついたノイズが聞こえ、彼女が言った。

「ごめんなさい。今忙しくて、すぐに行くことができないの」

 何をさておいても、彼女は駆け付けてくると思っていた僕は、唖然とした。すぐに次の言葉が見つからない。

 彼女は急いで説明をし出した。

「今、選挙の手伝いをしていて手が離せないの。少し遅くなるから、食事を済ませて待っていて」

 その言葉に、「分かった。待ってるよ」と言うことしかできなかった。電話が切れたあと、僕はコーヒーを淹れたことなど忘れ、しばらく呆然とセブの街を眺めた。

 この街のどこかに彼女がいる。どこかで何かをしている。僕が彼女のいる場所から、車で十分か数十分走ったところにいるというのに。

 一体彼女は、この街のどこにいるのだろう。仮に彼女の言った選挙の手伝いが本当だとしても、せめて事前にそのことを知らせて欲しかった。そうしたら、要らぬ期待を持たずに済んだのだ。

 街は傾いた陽に照らされ、色付いていた。それは素敵な夕暮れの風景に違いないはずだけれど、自分の目には、それがとても物寂しく映った。

 腹が立つというより、気が抜けたという感じだった。彼女は僕のそんな心境を、まったく想像できないのだろうか。そうだとすれば、不思議な気がしてならなかった。

 結局ホテル近くのモールで、一人で食事を済ませた。食事の最中、着信があればすぐに気付くよう、自分の携帯をテーブルの上に置いていた。そして食事が済み、近くのコーヒーショップに場所を移し、小説を読みながら時間をつぶす。そこでも携帯をテーブルの上に置いていた。

 コーヒーを飲み終えるまで、彼女から電話がかかってくるだろうと考えていた。しかし、飲み終えても携帯は沈黙を保っていたし、それは小説を読むのに疲れを感じる頃になっても同じだった。

 結局彼女から連絡があったのは、僕がホテルの部屋に戻って、十一時を少し過ぎた頃だった。その電話で彼女が言った。

「今終わったけれど、今日は疲れたからあなたの部屋に行かなくてもいい? もうアパートにいるの」

 その言葉に、今度こそ凍りついた。唖然とする僕の耳に、彼女の「ハロー」と言う声が入る。

 僕は静かに、「そう、分かった」と、それだけを言った。もし、今から直ぐに来て欲しいとお願いし、彼女がホテルへ駆け付けたところで、自分の気持ちが救われるはずもなかった。

 彼女はごめんなさいと言った。僕はおやすみと言って電話を切った。

 電話が切れたあと、冷たい静寂が自分を襲った。僕はまた、部屋の窓からセブの街をじっと眺めた。たくさんの街灯と、家々やビルの灯りが寂しげに漂っている。

 そんな電話をしてくるにしても、彼女が既に自分のアパートにいるということは、彼女にはホテルへ来る気がなかったということだ。口では愛していると言うけれど、これが五ヶ月間も離れていた、愛する人に対する態度だろうか。そのことに、白けた薄ら笑いが込み上げてくる。

 

 翌日、仕事が終わってホテルに帰ると、リンは既にホテルのロビーで待っていた。彼女を見たとき、自分がとても冷めた気分になっていることに気付いた。

 僕は普通に、「久しぶり」と言った。

「昨日はごめんなさい」と彼女が言った。

 僕は彼女の言葉に答えず、「お腹が空いたよね。すぐに食事に行こう。何が食べたい?」と言った。

「お寿司が食べたい。ジャパニーズレストランは、しばらく行ってないの」

 彼女の態度は、何事もなかったように普通だった。どちらかと言えば、笑顔で明るい。こちらに怒っている様子がなくて、安心したのかもしれない。

「いいよ。部屋に荷物を置いたらすぐに戻るから、もう少し待っていて」

 僕はすぐに昨夜の話しをしたくなかったし、部屋で二人きりになるのも嫌だった。

 近くの和食レストランに行き、二人分の寿司をオーダーする。そして枝豆、揚げ出し豆腐、天ぷらの盛り合わせを頼んだ。オーダーした物は、いずれもリンの好物だ。

 料理が来ると、彼女は美味しいと言ってそれらをたくさん食べた。

 食事がひと段落したところで僕は、自分の胸につっかえていることを話してみた。

「昨日は大変だったの?」

 彼女は最初、虚を衝かれたようにこちらを見てから言った。

「そうなの。選挙の応援を頼まれたのよ。すごく疲れてしまって、本当にごめんなさい」

「それはアルバイトなの?」

「フリーよ。ただのお手伝い」

「そう。一つ訊いてもいい? 久しぶりにセブへ来たのに、あなたには、僕にすぐ会いたいという気持ちはなかった?」

 僕はできるだけ嫌味にならないよう気を遣って話したけれど、彼女の顔から何かのスイッチを切ったように、さっと笑みが消えた。

「ごめんなさい。怒ってるの?」

「いや、全然怒ってない。本当は怒りたいけれど、怒れないんだよ」

「どういうこと?」

 どう言うべきか少し迷った。

「たぶん、僕の中で、怒る気力がなくなったんだと思う。張り詰めていた糸が切れたみたいだ」

 自分に嫌味を言うつもりはまるでなかった。正直な気持ちを表現しようと思っているけれど、自分の口をついて出る言葉が嫌味くさい。僕はそれを、自分自身で感じてしまう。

 彼女は無言になった。仕方なく僕は話しを続けた。

「僕は本当に怒っていない。これは純粋な質問なんだ。あなたには、すぐ会いたいという気持ちはなかったのかな? 僕は会いたかったよ」

「ごめんなさい。今日は学校もあったから」

「でも、寝るだけならホテルの部屋でも問題ないよね」

「そうね、あなたの言う通りよ。私が悪かったわ」

「いや、あなたが悪いとは言っていない。あなたがそうしたかったなら、それでもいいんだ。ただあなたに、すぐにでも会いたいという気持ちはなかったのか、それを訊きたいだけなんだ」

「もちろん会いたかったわよ。でも、とても疲れてしまって。本当にごめんなさい」

「分かった。謝らなくていい。この話はもう止めよう」

 埒の明かない話しを打ち切った。僕は既に、彼女の気持ちについて、それほど執着していなかった。極端な言い方をすれば、そんなことはもう、どうでもよいことだった。

 もっとも彼女は、本当に疲れていただけかもしれない。彼女は僕の存在に慣れてしまい、自分の家族と同じような感覚で、自分のことを考えているのかもしれない。お互いに持つ感情の種類が、少し食い違っているだけならまだ救いがある。

 僕はこうした希望的観測に基づく想像を巡らし、心の均衡を保とうとしていた。それでも自分の中で、何かのたがが外れてしまった感があった。彼女に対し、積極的に懸命になるのは止めて、様子を見ながら流されていたほうが、自分はきっと楽だと思い始めていた。

 僕はもう、傷付きたくない。そして、彼女を傷付けたくもない。

 彼女は弱い存在なのだ。こちらは援助をする側で、彼女は援助を受ける側だ。会社の社長と社員のように、立場は自分のほうが強いはずだった。だから彼女は、何かしら自分に不満を感じる部分があったとしても、それを飲み込まなければならない可能性がある。そんな彼女を追い込んでしまえば、それはとても可愛そうなことだ。


 僕は、深手を負って森の奥へ姿をくらます動物のように、日本へ帰った。そして簡単に傷が癒えることなく、リンに対し懐疑的な気持ちを抱えたまま、それまでと同じように彼女と付き合った。電話で会話をし、たまに出張でセブにでかける。しかし、プライベートでセブに行くことはなくなった。

 自分の気持ちが一度冷めてしまうと、リンのことで、色々なことが気にならなくなった。おそらくそれは、自分の防衛本能が発動した結果なのだろう。自分が傷付かないよう、心がシェルターの中に避難したようだ。

 そのうち彼女に対し懐疑的な気持ちを持つことにも慣れてしまい、それはそれで疲れなくて助かった。

 毎月末、淡々とフィリピンに送金する。お金を送ったという連絡をして、ありがとうというリンの言葉を聞く。もはやそれは、事務的なルーティンワークのようだった。

 いつの間にか追加送金のお願いもなくなった。それは彼女の周囲で、様々な問題が消えたということではなく、僕とリンの間で踏み込んだ内容の会話が消えたせいだった。お互い元気でいるかを確認する、業務連絡のような会話に終始することで、家族の問題に言及することが減った結果だ。

 ただ、ときどき子供たちのことを自分から確認した。病気や怪我がなく、そしてしっかり学校に通っているか、学校通いで必要なものはきちんと買えているか、食事はきちんと取れているか。

 一度リンに、「子供たちが、どうしてアンクルはフィリピンに来ないのか不思議がってるわよ」と言われた。そのとき僕は、「お金がなくなったからと言っておいて」と答えて笑った。

 そんなことを言いながら、日本でのフィリピンパブ通いは相変わらず続いていた。セブでゴーゴーバー通いをしていた頃のように、頻繁ではなかったけれど、月に数回はそんな場所に行った。

 そこで働く女性との会話で、僕はリンの態度について、さりげなく相談することがあった。

 すると彼女たちは一様に、それは愛がないと断定した。言い難いことだけれどと前置きして、それは騙されているかもしれないと言う女性もいた。

 そう言われてさえ僕は、そのたぐいの進言に確信を持てず、この手の相談が何の意味も持たないことに気付き、フィリピンパブでリンの話しは一切止めた。

 自分とリンのことを知っている女性は、たまに「フィリピンの恋人は元気?」などとさぐりを入れてくることもあった。そんなとき僕は、元気にしているよと答え、そのあとその話題を遮断した。彼女たちは、僕とリンが既に別れてしまったのではないかと想像していたかもしれない。

  

 フィリピンパブで初めて会う女性の中には、手書きで自分の名前と電話番号を書き込んだ、店の名刺をくれることがあった。僕はそれらの名刺を、律儀にも、全て自分の鞄の中に保管していた。

 フィリピンへ出張で行ったとき、リンがその名刺を見つけてしまった。仕事中、リンが僕の荷物の整理をしてくれたとき、彼女がそれを見つけたのだ。

 フィリピンパブの名刺だから、その上には英語で書かれた文字もある。日本語の分からないリンにも、それがバーの類の名刺であることが分かったのだろう。しかも、大体は名刺にフィリピンの国旗が描かれているから、フィリピン人が働いている酒場ということまで知れてしまう。

 リンはその名刺を見つけたとき、すぐにそのことを言わなかった。しばらくあと、二人のことで話しをしているときに、その話題が文句のように唐突に投げられたのだ。

 つまりリンも、僕に懐疑的な気持ちを抱えて付き合っていたのかもしれない。自分も彼女を傷付けていたということだ。ばれていないと思っていた僕の中にも、自分が彼女を裏切る行為をしている後ろめたさがあった。

 図らずも二人の三年目の付き合いは、こんな状況の中でスタートしたのだ。

 それでも僕は、彼女と別れようとは思わなかった。どちらかと言えば、そんな状況を打開すべく、いっそ結婚をして彼女を日本へ呼び寄せ、身近に暮らしたほうがよいのではないかと思うことがあったくらいだ。

 書類上で正式な夫婦となって、いつも一緒にいれば、二人はきっと上手くいくのではないだろうか。その前提で、日本で彼女と暮らす色々なことを想像した。

 その想像の中で、二人がセブで出会った頃の楽しい思い出が、今度は日本を舞台として再現された。

 そこでの二人の生活は、どこに行って何をしても彼女には珍しいことだらけで、いつでも刺激的だった。だから彼女は、いつも生き生きとして笑顔を絶やさない。そんな彼女を見ている自分も、とても幸せな気分になる。想像の中の二人の生活は、晴れやかで幸福だった。

 それは文字通り、夢だった。僕は夢を見続けることを放棄したようで、その夢を捨て切れずにいたということだ。

 僕は彼女との結婚を、もう少し早く、具体的に進めるべきだったのかもしれない。

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