第27話 出産
十二月に入ってすぐ、奈緒美から電話があった。携帯に表示された名前を見て、僕は彼女が臨月であることを思い出した。
その電話で彼女は、「お願いがあるの」と言った。
「なに? 僕ができることなら協力するよ」
「うん、少し変なお願いかもしれないけれど、お産に付き合って欲しいの」
僕はそのとき、付き合うという意味が分からなかった。
「え? まさかそれって、一緒に分娩室に入って欲しいというお願い?」
彼女は電話口でとても楽しそうに笑った。
「何言ってるの、違うわよ。お産のあと、病院で付き添って欲しいのよ」
なるほど、一緒に分娩室と言われたらどうしようと思った僕は、失くした財布を見つけた人のように胸を撫で下ろす。
「それは構わないけど、あなたの両親もいるんでしょう?」
「ええ、いるわよ。でもそういうときって、両親だけじゃなくて、赤ちゃんの父親みたいな人に居て欲しいじゃない」
「そうなの? でもさ、そんなときに付き添うのが男友だちって、何か変じゃない? きっとあなたの両親だって、僕が赤ん坊の父親だって疑うよ」
「いいじゃない、疑われるくらい。あなたが気にしなければ済むことでしょう?」
「まあ、そうだけど……。分かった、付き添うよ」
彼女は「ありがとう」と、とても嬉しそうな口調になった。
こんな話しの流れで、僕は奈緒美の出産前日に彼女自身から電話をもらい、その翌日、教えられた病院の産婦人科に行った。
出産が予定日より過ぎていたため、入院して分娩促進剤を使うことになったそうだ。それで僕はどうにか、出産前に病院へ駆け付けることができた。
ナースステーションで教えられた分娩室の前に行くと、奈緒美の父親らしき人が寄ってきた。
案の定彼は、僕をきな臭いものでも見るようにして、「どちら様ですか?」と言った。
僕は自己紹介をして言った。「奈緒美さんから付き添いを頼まれて来たんですが」
父親らしき人は五十代だろうけれど、まだ若々しさの残る人だった。白髪の混じった豊富な髪は、横に流すように整えられている。
彼は僕の嫌いな大銀行で、役員をしていると聞いていた。おそらく厳格な人なのだろう。
父親が眉間に皺を寄せながら、「付き添いを?」と言って、再び僕を、怪しげな奴だと言いたげにじろりと見た。
予想通りの気まずい雰囲気に僕がたじろぐと、どこからか戻ってきた母親が近づき、二人の間に割り込んだ。
「奈緒美のお友だちの方ですか?」
僕はますます緊張して、「はい」と答えた。
母親は父親のほうを向いて、「お父さん、奈緒美がお願いして来てもらった方なの」と断わった。
彼女はこちらに視線を戻すと、「奈緒美から聞いています。本当に無理を言って申し訳ありません」と丁寧に言った。僕はその言葉に、随分救われた。
母親は後ろ姿が三十代にも見える細身の人で、仕立てのよいワンピースとぴかぴかのベージュのハイヒールを纏う上品な人だった。
少し安心し、肝心なことを母親に訊いた。「奈緒美さんの様子はどうですか?」
「今のところ順調なようです。薬が効いて、陣痛が始まってから分娩室に入りました」
「そうですか。ではここで、一緒に待たせてもらっても宜しいですか?」一応のお伺いを立てて、母親の「どうぞお願いします」という言葉を聞いてから、僕は椅子の隅のほうに座った。しかしどうぞと言われてさえ、身の置き場のない状況は変わらない。
奈緒美の父親は、相変わらず憮然としている。彼は小さな声で、母親に何かを話していた。おそらく彼は、僕に何かしらの疑いを持ったのだ。分娩に男友だちが付き添うのだから当然だった。
僕はとても居心地が悪かったけれど、自分は特別な体験をさせてもらっているのだと開き直ることにした。それでも心の中で、奈緒美、早く出して早く出てこいと叫ぶ。
一時間くらい待たされて、ようやく分娩中の赤いランプが消えた。奈緒美の両親が慌しく立ち上がり、分娩室の入り口に駆け寄った。僕は気が引けて、座ったままで様子を見ることにした。
中から銀縁メガネをかけた貫禄のあるドクターが出てきて、バリトンのよく通る声で「男の子です、母子共に健康ですよ」と告げる声が聞こえた。奈緒美はまだ、事後処理中のようだ。
その十分後、分娩室の扉が再び開き、ベッドに横たわる奈緒美が出てきた。看護婦が、赤ちゃんは新生児室にいますよと奈緒美の両親に告げる。ガラス越しに、生まれた子供を見ることができるようだ。それでも二人は奈緒美に寄り添い、よくがんばったと声をかけていた。
奈緒美のベッドが僕の前に差し掛かると、彼女は朦朧とした目で僕のことを認め、ベッドの脇から僅かに出した手のひらをゆらゆらと振った。僕も膝の上に置いた手を僅かに上げて、目立たないように小さく振る。
彼女から少し離れて、ベッドを追いながら廊下を進む僕は、やっぱり厄介者みたいだった。
両親が一緒だから、僕は奈緒美の傍へ行くのが躊躇われる。
奈緒美が病室に移されると、両親は赤ちゃんを見るために部屋を出て行った。子供の父親がいなくても、初孫は嬉しいようだ。部屋を出て行くときの父親の顔は、先ほどと打って変わり、初孫との対面を楽しみにする
ようやく、奈緒美と話しができる。
僕は彼女の傍らに座り、「よくがんばったね。おめでとう」と言った。
奈緒美はぼんやりとした表情の中に薄っすらと笑みを浮かべ、布団の脇から手を出した。僕はその手を、自分の両手で取った。少しピンクに染まった彼女の顔は、疲れを残しながらもとても美しかった。
「ありがとう。分娩室の中で子供を抱いたの。とても可愛かったわよ。あなたもあとで見てやって」
まるで初めての子供を授かった、夫婦のような会話だった。
「うん、あとでこっそり見に行くよ。あなたの父親が僕を疑わしい目つきで見るんだ。今行ったらますます疑われるよ」
奈緒美は静かに笑った。
「もう名前は決めているの。あの子は未来よ。いい名前でしょう?」
「未来か。いいね。いい名前だと思う」
「ずっと考えていたのよ。男の子って分かっていたの」
「ところで僕は、これからどうすればいい?」
「ここは個室だから、一人だけ泊まれるの。もし迷惑じゃなかったら、今日はここに泊まってくれる?」
「それは構わないけど、あなたの両親がますます変に思わない?」
「大丈夫よ。お母さんにしっかり話してあるから。あなたが大切な親友で、自分が今、一番助けて欲しい人だって」
そのとき僕は、彼女の心細さを垣間見た気がした。
「そう、分かった。少し眠ったほうがいいんじゃないの?」
彼女は頷いて、静かに目を閉じたと思うと、すぐに寝息を立て始めた。
僕は握り締めていた彼女の手を、布団の中に静かに戻した。
病室の窓から外を眺めていると、奈緒美の両親が戻ってきた。そして奈緒美が眠っているのを見届けて、母親が「少しお話しをさせて頂いて宜しいですか?」と言った。
もちろん僕は了解し、父親の先導で廊下へ出た。
既に面会時間が過ぎているせいで、病棟は静まり返っていた。僕たちは少しだけ移動し、階段脇のソファーに向かい合わせで座る。
再び憮然とした表情を顔に浮かべる父親が、すぐに口を開いた。
「先ほどは失礼な態度で申し訳ありませんでした。色々と心配なことがあって、気が
「いえ、気になさらないで下さい。そのお気持ちはよく理解できます」
そう言っても、父親の顔はまだ怖いままだ。
「奈緒美と子供が元気で、先ずは安心しました。ところで少し伺いたいのですが、あなたは子供の父親について何かご存知ですか?」
随分単刀直入な訊き方だった。母親が無言で僕の顔を覗き込む。
僕はどう答えるべきか一瞬躊躇したけれど、小さな事柄でもないことを考慮し、少し情報を与えることにした。
「奈緒美さんが話していないなら、僕から詳しくお伝えすることはできませんが、子供の父親は僕の大学の先輩だと聞いています。彼は立派な社会人で、実家も格式のある家柄のきちんとした人です。僕は二人が結婚すると思っていましたが、奈緒美さんがシングルマザーの道を選ぶと言って驚きました。しかしこれは僕からとやかく進言する問題ではありませんので、僕は今、彼女の意思を尊重したいと思っています」
奈緒美の両親は、それを神妙な顔で聞いて頷いた。
「わたしもあの子の意志は尊重したいと思っています。だからとやかく言うつもりはありませんが、もう一つだけ訊いて宜しいですか?」
僕は、自分の答えられることであればと言った。
「結婚をしないというのは、本当にあの子の意思なんですか? 奈緒美が傷付くようなことはなかったんでしょうか?」
「二人のことは、実は僕も詳しくは知りませんが、少なくとも先輩は、奈緒美さんとの結婚を望んでいました。つまりこの現状は、奈緒美さんの意思によるものだと思います」
両親は揃って頷きながら、母親が「そうですか」と言った。
「わたしはあの子が傷付くようなことがなかったなら、それでいいんです。これが本当にあの子の意思ならば、わたしもそれを尊重したい。なるほど分かりました。今日はその辺りのことを聞くことができてよかった。本当に助かりました。なにせあの子は、詳しいことを何も教えてくれないものだから」と父親が言った。
母親の目が、少し赤らんでいた。僕は改めて、「お孫さんのご誕生、おめでとうございます」と言って頭を下げた。両親もありがとうございますと、丁寧にお辞儀をしてくれる。
「奈緒美さんから、もう少しここで付き添って欲しいとお願いされているんですが、病室に泊まっても構わないでしょうか?」
父親は先ほどと様子が変わり、「申し訳ありませんが、あなたが宜しければ是非そうして下さい」と言った。僕はその言葉を聞いて、ようやく安堵する。
両親が帰ると、僕は病室のソファーに横になり、読書ライトの灯りの下で小説を開いた。
奈緒美は平和な寝息を立てているけれど、定期的に看護師がやってきて彼女の体温や脈を確認するから、その度に奈緒美が目を覚ました。
病院の看護師たちは、僕のことを奈緒美の夫と思っているようだった。翌日になると、看護師が病室に未来を連れてきて、「はい、お父さん」と、彼を渡された。
僕は子供を抱くのが怖くて、奈緒美の父親と最初に会ったときより緊張しながら、その子を慎重に扱った。受け取った未来はとても軽く、空気の塊を抱いているようで心もとない。
看護師から哺乳瓶を受け取りその先を未来の口元に触れさせると、寝ているように見えた彼は、それを器用に吸い込んでミルクを飲み始める。全部飲み終える前に疲れるらしく、途中で口を離してしまうから、僕は哺乳瓶の先をちょんちょんと未来の唇に触らせる。すると彼はまたそれを口に吸い込んで、ミルクを飲み出す。
誰も教えていないはずなのに、彼は定期的に唇をすぼませミルクを飲んだ。乳首の吸い方を知っているのだ。その様子は、いつまで見ていても飽きがこなかった。赤ん坊がこれほど可愛らしいものだとは知らなかった。
奈緒美が、「あなたは意外と父親に向いているかもね」と言って、そんな僕の様子をカメラに収めた。
未来がミルクを飲み終えると、僕は彼を奈緒美の横に置いた。奈緒美は未来に大切な宝物のように手を添えて、その寝顔をじっと覗き込んでいた。
外は木枯らしが吹き始めているというのに、病室はとても平穏な空気で満たされた。
昼前に奈緒美の両親が病室に現れ、二人分の手作り弁当が差し入れられた。食後に母親が持ってきたりんごをむいてくれる。奈緒美の両親と、こんなふうに関わるなど思ってもみないことだった。こうなってみると、中途半端にお見舞いに来るよりも、こうしてしっかり付き添ってよかったと思う。
未来が泣き出すと、奈緒美の両親は待ってましたとばかり、代わる代わる彼を抱いてあやした。そして夕方、宜しくお願いしますと言い残し家に帰った。
帰宅する前、奈緒美の母親が僕を廊下に呼び、封筒を差し出した。
「失礼かもしれませんが、付き添いのお礼としてどうか受け取って下さい」
もちろん僕は受け取りを辞退した。
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
母親は困惑の表情を見せた。「本当に甘えさせて頂いて宜しいのでしょうか」
僕が「もちろんです。どうかお気になさらないで下さい」と言うと、彼女は深く頭を下げて「本当にありがとうございます」と言った。
それから僕は、またゆっくり小説を読み、ときどき奈緒美に水を飲ませたり果物を食べさせた。そんなふうに二日間が経過した。
三日目になると、病院から奈緒美に歩行の許可が出た。出産時に子供が通過し骨盤が歪んでいるため、無理をせずゆっくり始める必要があるようだ。僕が奈緒美を横から軽く支え、彼女はトイレまで歩く。慎重に足を出す彼女はまるで病人で、出産が女性にとって大仕事だと分かる。
たった三日で、子供の顔が次第にはっきりしてくるのが分かった。目の開け方や肌の状態、ミルクを追い求める仕草に変化が現れ、短期間で随分人間らしくなった。
僕は未来が本当にヤクさんの子供かを見定めるため、彼の顔を色々な角度から観察した。初日は誰に似ているかさっぱり分からなかったけれど、次第に彼の顔に、奈緒美の顔が重なるようになった。目鼻立ちがすっきり整っているのは、美形な奈緒美譲りだ。
未来を抱きながら、その子がヤクさんの分身だと考えると、不思議な気がしてならなかった。どうして自分が、ヤクさんと奈緒美の子供を抱いているのだろうと。
あのときヤクさんと電車で会わなければ、こんなふうにはならなかったはずなのだ。もっともそれが自分の分身でも、僕は同じように不思議に感じたかもしれない。
病院に滞在中、奈緒美に訊いてみた。
「ねえ、これからどうするの?」
「今のマンションを引き払って実家に移るわ。産休が明けたら職場復帰するつもりよ」
なるほど、未来の面倒を母親にお願いするということらしい。
「そうか。逞しいね」
「逞しいっていうより、ノーチョイスでしょう。わたしはあの子を育てなければならないのよ。余計なことを考えている場合じゃないの」
「そうだね。これからも僕にできることがあれば協力するよ。何かあれば言って欲しい」
「ありがとう。もしできることなら、ときどき未来の父親代わりになってくれる? 三人で食事したりどこかに遊びに行くだけでいいの。それだけは、わたし一人じゃどうしようもないのよ」
「それくらいならできると思う」
本来は新しい父親を見つけたほうが子供にはいいと思ったけれど、僕はそれを口にしなかった。
奈緒美は出産後五日間入院し、自宅に戻った。僕が仕事に戻ってからは、母親が奈緒美に付き添い、僕は仕事帰りに病院に寄ることで、付き添いの約束をパーフェクトに果たした。
僕はそのすぐあとのクリスマスに、付き添いのお礼という名目で、奈緒美の実家で催す食事会に招待された。
もちろん彼女の実家を見るのは初めてで、その家がとても立派過ぎて驚いた。東京の一等地に、たくさんの部屋と広い庭のある家。そして家の中には、未来のベビーベッドはもちろんのこと、がらがらやゆりかごにベッドメリーなど、赤ちゃんグッズが溢れ返っていた。
もっと驚いたのは、僕の顔を見た彼女の父親が「やあやあ、よく来てくれた」と自ら僕をリビングに引き入れて、未来を抱いてやってくれと言ったあと、底抜けに明るく飲み物や食べ物を勧め歓待してくれたことだ。酒に弱い僕はあまり飲めないと断わるけれど、まあまあとシャンパンをたくさん飲まされ、あげく終電の前に帰ると言っても開放してくれず、僕は彼女の家に泊まるという失態を犯してしまった。
翌朝、みんな一緒にダイニングテーブルを囲んだ朝食は違和感全開で、食事を喉に通すのに苦労した。そうなると僕は、彼女の両親が、自分を彼らの運命共同体に引き込もうとしているのではないかと疑った。
朝食後に奈緒美が打ち明けてくれた話しによると、両親は奈緒美に、僕をどう思っているかを尋ねたそうだ。
つまり、未来の父親になってもらうのはどうかと訊いたらしい。僕はそれにも驚いて、「それであなたは何て言ったの?」と、奈緒美に聞いてしまった。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。彼にはちゃんと恋人がいて、未来の父親になるのは有り得ないと、正直に報告しておいたから」
それであからさまにほっとするのは奈緒美に失礼だし、かといってそんなふうに決め付けないでくれと言うのもどうかと思い、僕は適当に笑って誤魔化した。
そんな僕の心の内を察したのか、奈緒美が幸せそうな顔で言った。
「わたしは未来がいたら大丈夫だから」
奈緒美はもう、すっかり母親になっていた。
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