第26話 日本の中のフィリピン

 僕はリンに対して、あまり文句を言わないいい人になって、同時に悪い人にもなった。日本で、地元のフィリピンパブに出入りするようになったからだ。

 きっかけは些細だった。会社の後輩から付き合って欲しいと誘われたのだ。馴染みの子の誕生日で行かなければならないけれど、その子が店を移って初めて行く場所だから、一人で行きにくいということだった。

 その頃の僕は部署が変わり、役も付き、仕事環境が激変していた。日本の大手顧客の対応を一手に任され、夜の十時に帰宅できれば、今日は随分早く帰ることができたと安堵するような生活だった。

 彼女の授業を考えれば、自分が仕事を終えるのを待ってもらうのははばかられ、僕はリンに、学校を中心とした生活ペースを崩さないで欲しいとお願いしていた。だから僕の帰宅が遅くなれば、それからリンに電話をしても彼女は既に寝ている。仮に彼女が起きていそうな時間に帰宅しても、遅くなったら電話をしないことにしたから、僕の電話がなくても不思議ではなくなった。そのとき彼女は、僕の仕事が遅くなったと思うのだ。

 仕事に極端に偏った生活になり、私生活とのバランスがまた元の木阿弥状態になった。そして顧客のプレッシャーがとても大きく、仕事の内容はきつかった。

 大企業というのがとてもやくざな組織だと知ったのは、ちょうどこのときだった。彼らは極力自分たちのリスクを排除し、全ての責任を相手に負わせるよう画策する。

 共同開発という形態で、顧客は普段から細かく製品のチェックを行い承認がなければ先に進めないのに、何かがあれば全てこちらの責任にしようとするのだ。それならば、気の遠くなる承認という名の作業は何だったのか。気を抜けば何億という損害がたちどころに発生してしまうから、僕の神経は相当擦り切れた。

 協議で決めた製品評価方法で見抜けない欠陥はリスクであって、これはどこで誰が設計をしても有り得るのだから、責任を全てこちらに押し付けるのはおかしいだろう。リスクを取らないビジネスなど有り得ないはずだ。

 そうやって顧客とやり合う必要が度々あった。製品は承認されているという理由で、修正費用を折半に持ち込むのが至難だった。

 自分のこれらの理屈は、決して間違いではないと確信していた。欧米の大手企業には、この理屈がきちんと通じるからだ。お互いが評価をして承認したものは、あとで何が起きても双方に責任がある。

 それに対して日本の大企業は、随分往生際が悪かった。おそらく担当者は、会社の中で自分の立場が悪くなることを恐れ、できるだけ問題を相手に押し付け責任を回避したいのだ。自分の身を守るため、いとも簡単にみんなやくざになった。

 自分の役職に変化があったのは、会社が顧客の厳しい対応を最初から予測し、現行体制では乗り切れないとの判断によるものだった。だから仕事がきつかったのは当然で、僕は会社の期待に応えるべく必死になった。

 そんな状況下で初めて行ったフィリピンパブは、癒し満載でオアシスのようだった。僕は仕事が深夜に及んでさえ、その後たまに、一人でそこに出入りするようになった。

 実際にそこを見るまで、フィリピンパブの存在は知っていたけれど、看板から怪しげな雰囲気を感じ取っていた僕はそんな店を敬遠していた。元々酒を飲まず、高いお金を取られることが薄々分かっていながら、自らそんな場所へ行くわけがなかったのだ。

 しかし後輩に連れられて行った店は、内装が高級クラブのようにシックで、横に付いたフィリピーナの容姿や会話は洗練されたものだった。

 よく似合うロングドレスを纏った女性たちはエレガントで、自分のその手の店へ抱く先入観が見事に打ち砕かれた。いかがわしさなど微塵もなく、お酒を飲まなくても会話やカラオケを楽しめて、仕事の疲れを癒すには絶好の場所だと驚いた。

 しかも懇意になった女性にプライベートで食事に誘われたりと、僕はリンと疎遠になった寂しさをそこで癒されることになった。

 そのうち違う店を冒険心で覗いてみるうちに、僕はその業界の事情に詳しくなり始めた。

 店で働く女性には、タレントとアルバイトの、二種類の就労形態があった。タレントという言葉は最初馴染めなかったけれど、芸人としてビザを取得して来日しているために、そう呼ばれていた。

 タレントは普段の生活を店から厳重に管理され、プライベートの外出もままならない。店がタレントの日本滞在ビザに責任を負っているためだ。もしタレントが逃げて行方をくらませば、不法滞在を助長した責任を問われ、その店は次のタレントを呼ぶことができなくなってしまう。

 それに対してアルバイトは、滞在ビザが店の管轄外で、働く女性はその分自由がきく。その上サラリーも高給となり、その稼ぎはタレントよりも遥かに多い。

 つまり初めて行った店で付いた女性はアルバイターで、だから彼女は自分のアパートに住み、仕事以外の時間は自由なのだ。

 アルバイトフィリピーナの滞在ビザが個人のものということは、どのようにビザを取得したかが気になるところで、例えば日本人と結婚しているとか、結婚を経て既に離婚しているけれど、日本国籍を持つ子供がいるようなケースとなる。

 しかし事実はそうでも、そういったことを女性に尋ねてみると、ほとんどの回答は家族ビザを貰ったと言われる。つまり姉や妹が日本人と結婚し日本で暮らしているから、その関係で家族ビザによる滞在が許可されているということだ。

 これが彼女らにとっては一番無難な回答なのだろう。彼女たちは客が引いてしまいそうな本当のことを、あまり言わない傾向がある。

 僕は、日本でフィリピンパブに出入りしていることをリンに内緒にしていたけれど、店の女性には、自分にフィリピン人の恋人がいるといつでも正直に話していた。

 積極的に話したわけではなく、初対面のときに、結婚しているか、そして恋人はいるかと必ず訊かれるため、その流れでリンのことを言うことになるのだ。

 するとほとんどのフィリピーナは、リンとどうやって知り合ったのかを尋ねた。僕は彼女たちに変な先入観を与えないよう、お互いライブハウスの客として知り合ったと嘘を言った。だから彼女たちがビザの取得経緯で嘘を言ったとしても、これでおあいこということだ。

 店での会話は、いつも盛りあがった。お互い利害関係がないというのは気楽だ。

 リンとの関係を振り返れば、僕は彼女から色々なものを得たけれど、こちらから出しているものも随分ある。それは例えばお金、苦悩、時間。そして厄介なのは、引きたくなっても簡単に引き下がれないということだ。その点フィリピンパブでのお気楽な付き合いは、いつでも自分の一存で止められる。

 もちろんフィリピンパブにも煩わしいことはある。働く女性に、少しでも売り上げを上げたい、あるいは自分を個人的にサポートしてもらいたいという魂胆が見えることがあるのだ。何かの狙いがあって、誘惑してくる場合がある。

 そしてたまに当たりが悪く、無愛想で会話の弾まない女性が横に付くこともある。そんなときはできるだけカラオケをたくさん楽しみ、できるだけ短時間で切り上げるしかない。そしてその店にはもう近寄らない。タレントの場合、半月後には契約切れでフィリピンに帰国してしまうから、しばらく間をおいて店に行ってみればいいのだ。

 しかしほとんどの女性は、フィリピーナ持ち前の明るさを発揮し、まるでフィリピンがそこにあるようだった。わざわざ飛行機代と時間をかけてフィリピンに行く必要はないと思うくらい、店の中はフィリピンだった。

 僕はその手を場所を通し、ますますフィリピーナという人種を好きになった。

 そこで働く女性は概ね二十代の女性だけれど、リンと同じように、会話の中でジェネレーションギャップを感じることがほとんどなかった。

 それを感じさせないことは、とても重要なことなのだ。こちらは脂ぎった中年で、店の女の子はぴちぴちの若い女性。そんな二人の間にこちらが中年であることの負い目を感じさせる何かがあれば、客が楽しめるわけがない。加えて見え透いた営業トークに営業スマイルは、客にお金を浪費したという感覚を残すだけとなる。 

 例えば中国で日本人カラオケに行くと、まず「ハンサムですねえ」と言われる。そしてカラオケで歌えば、今度は「お上手ですねえ」と言われる。もちろん変なイントネーションの日本語で。

 余りにも画一的な物言いに、「それ、どこかにマニュアルがあるだろう」と詰め寄ると、本当にそんなものが出てきて、十以上の会話例文がそこに記載されていた。そこで働く女性たちはそこに書かれた内容を丸暗記し、その場その場でそれを機械音声みたいに口にしていたのだ。そうなると、こちらは興ざめとなる。

 もちろんフィリピーナの会話は全てアドリブだし、彼女たちは感じたことや思ったことをストレートに表現し、喜怒哀楽も分かりやすい。

 言葉や感情にフィルターをかけるべきところを心得ながら、客の酷い態度に対しては毅然と言うべきことを言う。

 そして彼女たちは一様に、恋に年齢差は関係ないと言い、それが本気に感じられるから、中年男は妙な期待感を呼び起こされてしまうのだ。

 フィリピーナはいつでも場を盛り上げ、お客を楽しませ、自分も楽しむ。それらは全く、営業用のトークや態度に感じられない。おそらくそれは、テクニックではなく天性のものなのだだ。表向きは色々なタイプの女性がいたけれど、その辺りの客を喜ばせることについては、ほとんどの女性が共通の才能を持っていた。

 こうした業界では、とても上手にビジネスを成立させる仕組みが作られていることも、次第に分かってきた。

 フィリピンに存在するタレント養成組織は、現地の面接で女性の合否を決定し、合格者には歩き方や座り方、接客作法、歌やダンスなど、タレントとしての基本を教え込む。そういった組織は、日本人に受け入れられる女性がどのようなタイプかをよく知っているのだ。

 結果的に、教養が足りず常識も日本人とかけ離れた女性はふるい落とされ、選ばれる女性は高等教育を受けた人や一般常識を持つ人となる。

 こうした組織は、日本の滞在ビザ取得をサポートし、日本で働く店を斡旋し、日本への渡航費用も立て替える。そして女性たちの日本のサラリーから、全ての費用を回収する。回収はサラリーの上前をはねるように、店から直接それを受け取る。

 一見やくざな雰囲気を持つ仕組みでも、タレント養成は極めて真面目で、面倒見もよくそれが上手く機能しているから、多くのフィリピン人女性が日本で働くチャンスに恵まれる。

 そうした仕組みが基本として成り立っているため、日本のフィリピンパブで働くタレントに大きな外れはない。みんなきちんと話しができて、礼儀と常識を持ち合わせている。

 逆にフィリピンでは、ふるいで落とされた女性も働いているため、ときにはとんでもない女性に当たったりする。自分の気持ちをそのまま表に出し、もし何かしら要求があれば、それも直球勝負と言わんばかりに投げてくる。まるで遠慮のない様子は分かりやすくて疲れないけれど、それがしつこく感じられると今度は店で気が休まらず嫌になるという具合だ。

 僕はそういった女性も嫌いではなかったけれど、リンのように真面目に付き合おうとは思わなかった。お互いの持つカラーが違い過ぎて、付き合いを継続する自信を持てないからだ。

 ただし、フィリピンの日本人向けカラオケバーは、日本語を話す日本経験者が多く、日本にあるフィリピンパブと似通った雰囲気を持っていることも多い。


 僕は仕事が深夜に終わってから、度々フィリピンパブにでかけた。営業時間はだいたい夜中の三時までで、十二時に仕事が終わっても、それから一時間や二時間は店で過ごすことができる。

 仕事がきつくなればなるほど、僕はそういった店が恋しくなった。ときには店でぼんやりし、ときにはカラオケでストレスを発散する。

 車で行くからお願いする飲み物はいつもウーロン茶で、それだけでドンちゃん騒ぎをするのも珍しくなかった。フィリピーナが相手だと、ウーロン茶で騒げてしまう。

 そんなことをしていると、リンの電話の対応が悪くても、あるいはフィリピンで直接彼女に会ったときにつれないと感じてさえ、僕はその寂しさを忘れることができた。フィリピンに行きたい、リンに会いたいという気持ちも随分紛れた。

 そして僕は、リンに対し、いい人であり続けることができた。

 同時に僕は、フィリピンパブに足を運んでいることに、自分は一体何をしているのかという自責の念にも駆られていた。

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