第25話 疑念と精神的不安定

 十月に入り、めっきり秋らしい日が続いていた。空が高く、空と雲のコントラストの鮮やかさが、空の広がりを感じさせる日々だった。

 過ごしやすくなった外を散歩すると、赤とんぼを見かけた。穏やかな気候は心を溶かし、僕を優しい気持ちにさせる。何かを考えるには、絶好の季節だった。

 僕はこの頃、オイルの不足した歯車のように、きしみ音を上げるリンとの関係を、ぼんやり考えるようになっていた。

 このきしみは二人を隔てる距離のせいなのか、あるいは別の理由によるものなのか。

 それまでも、何度も考えてみたことだ。考え続けることで、その先に何らかの打開策があることを、その頃の僕はまだ信じていた。

 そんなとき、セブへの出張予定が入った。顧客とのミーティングを、工場で行うことになったのだ。これは二人の関係を見つめ直す、絶好の機会かもしれない。


 僕は、十月の中旬にセブを訪れた。

 工場マネージャーの篠原さんが、空港で出迎えてくれた。リンにはそのことを伝えていたから、彼女はホテルロビーで僕を待っていた。

 リンを知っている篠原さんは、ホテルのロビーで彼女を見かけたとき、まだ僕が彼女と続いていることを少し驚いたようだった。通常フィリピンでの色恋沙汰は、一過性で終わるのが普通だからかもしれない。

 僕はその日の食事場所として、僕の同郷の女将がやっているレストランをお勧めした。レストランの場所も、ホテルから車で十分程度の距離だ。

 篠原さんに、女将は自分と同郷で、同じ小学校に通っていた仲だと紹介した。女将はいつもの朗らかな笑顔で、篠原さんに丁寧に挨拶した。

「そんなことってあるんですね。それは奇遇だ」篠原さんが驚いた。

 女将は、「ええ、あるんですよ。でもここにいたら、同じくらい驚くことがいくらでもあるんですけどね」と笑った。篠原さんは「いやあ、確かに」と頭をかく。

 リンの好物の寿司をオーダーし、あとはビールとジュース、そして酒のつまみになるものを適当に女将にお願いした。

「今後ともご贔屓ひいきに」女将がお辞儀をしてテーブルを去ると、篠原さんが、「綺麗な人ですね」とぼそりと言った。

 物腰の柔らかい女将は、和服がよく似合う。そんな彼女の笑みは、特に海外暮らしの日本人に癒しを与えるのかもしれない。

「旦那はフィリピン人だから、手を出したら殺されますよ」

 篠原さんはかぶりを振った。「いやいや、そんなことはしませんよ」

「ここはアウェイですからね」と、僕は念を押した。

「わたしは誰かと違いますって」と、篠原さんが意味有りげに僕を見る。

「僕だってそんなことはしませんよ」

「それにしても、二人はよく続いていますね。結婚するんですか?」

 もちろん彼はリンに分からないよう、あえて日本語で言い、僕も日本語で答えた。

「さあ、どうなるのか僕にもさっぱり」

 篠原さんは笑って続けた。

「二人は大丈夫と思うんですが、ここにはフィリピン人女性に嵌まり込んで、全てを失う人が結構いますからね」

 彼はそこまで言って、僕の様子を伺うように言葉を切った。

 現地女性を同伴する人に、その話題はあやういからだろう。人によっては怒り出すかもしれない。けれど僕は、彼が自分を心配してくれていることに気付いていた。

「篠原さんの言いたいことはよく分かります。僕も少しは見聞きしていますから。問題の原因も色々あると思います」

 身を滅ぼすようにフィリピンに埋もれた日本人の話しは、たまに聞くし目にすることもある。

 フィリピンを舞台にしたその手のストーリーは、だいたいフィリピン人に軍配が上がる。なにせそこは、日本人にとってアウェイなのだ。

 日本人に金がなくなった途端、愛人や恋人や嫁に放り出されてしまえば、その人は海外の地で立ち往生となる。なにせ帰国する金さえ持っていないケースがほとんどだ。僕も一度だけ、フィリピンで路上生活をしている日本人を見たことがあった。

 それらのことは、日本人の横柄さが原因だったり、フィリピン人がずる賢かったり、その両方だったりと、傍目には色々な原因があるようだ。しかしそれは、あくまで傍目の原因であって、本当のことは当事者にしか分からない。

「どうしてそうなってしまうんですかね」と彼は言った。

 それについて、僕は普段から思っていることがある。

「篠原さんもエンジニアなら分かると思うんですが、おそらくそれは、科学の実験と同じなんですよ」

 彼は少し怪訝な顔をした。

「それはどういうことですか?」

「僕は昔、科学の実験が大好きだったんです。なぜなら、それには期待する結果があるけれど、やってみないと何が起こるか分からないという面白さがあるからなんです。フィリピンでのチャレンジは、それと共通するものがあると思うんです」

 彼は大きく頷いて、なるほどと言った。

「そう言われてみると、そんな気がしますね」

「実験に成功すれば一層面白いし、失敗して爆発しても、次は成功させるべく再考してまたがんばってしまう。再起できないのは問題ですけど、それも人間の持つそういったさがを考えれば、致し方ない面もあるのかもしれませんよね」

「私には、そんな深いところまで挑戦する勇気はありませんけどね」と彼は言った。

「そう、僕はそれが一番だと思いますよ。深みに入ると苦悩は絶えないし、嵌り過ぎると出口がなくなることもあります。それでもいい人はいいんですが、そうなって困る人は、最初から入り込まないほうがいい」

 彼はそこで笑った。そうなりかけている人が言う台詞ではないと思ったのかもしれない。お前が言うなよと。

 現地で駐在年数の長い彼は、その手の話題をしつこく引きずらなかった。日本から出張で来て、散々遊んで帰る人を多く見ている彼は、そんな僕の様子をよくある話しとして受け取ったのかもしれない。あるいは彼は、実験に挑戦する者としての僕を、尊重してくれたのだろうかか。

 実験と言う言葉に例えたけれど、深く入り込めば、それは人生をかけた真剣な挑戦ということになる。へらへらしているように見えても、それは紛れもない真剣勝負だ。もし当事者にその自覚がなければ、奈落の底に落ちる確率が増す。

 その後の話題は、僕が日本の様子を伝えたり、彼も工場や出張者に関する取り留めのない話題に終始した。

 彼にとって、日本の話題は興味深いようだった。「ずっと海外にいると浦島太郎になってしまうから、日本の様子を聞かせてもらうのは助かるんですよ」

 こうして日本の話しを聞いて、食後は一緒にバーへ行くのが普通だろうけれど、その日の彼は食事を終えると、カンパニーカーで二人をホテルへ送ってくれた。おそらくリンに、気を遣ってくれたのだ。そのあと彼は一人で、車ごと夜の街に吸い込まれるように、ホテルを去った。


 ホテルの部屋で二人きりになると、僕は少し気まずさを覚えた。先日喧嘩をしたことで、後悔やら面目ない気持ちが僕の中に居座っていた。

 かといって、自分の主張が間違いだったのか、それはよく分からない。僕はそれら全てをすっかり横に置いて、陽気に振る舞うほど器用ではなかった。お金のことでは今度こそしっかり話し合わなければならないし、久しぶりに会えて嬉しいなどと、浮かれているばかりにもいかない。

 それに僕は実際、それほど浮かれてもいなかった。久しぶりに彼女に会えて嬉しいはずなのに、どこか少し冷めている自分がいた。僕はそんな自分の様子に、自分の中で何かが変わり始めているのだろうかと、不安を覚えた。ただ、傍らにいるリンが寄り添ってくれば、自分の心の中に暖かい明かりが灯るのも確かだった。

 それに対してリンの態度は、僕より大人に感じられた。はしゃぐわけでも無口になるわけでもなく、自然な態度で接してきた。喧嘩など何もなかったように。

 それは彼女の思いやりなのだろうか。それとも彼女は思慮深いのか。

 嫌なことを引きずり険悪な空気を作っても、よいことがないのは確かだった。

 二人で部屋に入ると、僕はその部屋のことでリンに断わった。

「今回は工場でホテルを予約したから、スリーベッドルームは取れないんだ。請求書に載ってしまうと会社での精算が面倒だから、部屋を変更することもできなくて。狭くてもいいなら、子供たちをここに泊めるのは構わないよ」

 彼女は目を瞬かせた。

「そんなことを心配していたの? ありがとう。けれど子供たちは学校もあるし、今回は無理にここへ泊めなくても大丈夫よ」

「そう言ってもらえると助かるよ。その代わり、子供たちにたくさんのお土産を買ってきた」

 僕は日本で買ったチョコレートやクッキーを、彼女の前で広げて見せた。それ以外にも、いつもの美白スキンクリームやカップヌードル、シャンプー、歯磨き粉、そして香水もある。それらをバッグから取り出すと、僕の大きな旅行バッグはほとんどがらんどうになった。

「帰りはバッグが軽くて助かるよ」と僕が言うと、リンが笑う。

「ありがとう。お土産ってやっぱり嬉しいわね。目の前で買ってもらうのとは、何かが違うのよ」

「そうかもしれないね。何が入っているか分からない、玉手箱みたいなものだから」

 リンの嬉しそうな顔を見ながら、僕は自分の気分が、彼女と出会った頃と同じようなものへ緩やかに変化するのを、感じることができた。


 今回の出張は、現地工場の平日休業日を一日含んでいた。メインテナンスか何かだろうけれど、フィリピンの祝日でもないその日は、リンの授業があった。僕がセブ出張を告げたとき、彼女はその日に休みをもらうよう、学校に頼んでみると言ったのだ。

「学校の休みは貰えたけれど、その代わり宿題が出たの。レポートを出さないといけないのよ」

 僕は予想外の厳しさに少し驚きながら、月謝を払う身としては、しっかりした学校でよかったと思う。

「そのレポートはいつ提出するの?」

「休む日に学校へ届ければ大丈夫だって」

「それじゃあ休日の前日、それを片付けてしまおう。僕も手伝うよ」

 その日からリンはホテルに泊まり、そこから僕は工場へ、そしてリンは学校へと通った。

 

 平日休みの前日、夕食後は早々にホテルへ戻り、二人で彼女のレポート作成を開始した。レポートを軽く見ていた僕は、具体的な作業を始めて後悔した。分量が意外に多い。レポートを作成する範囲がとても広く、ざっと見積もると、レポート用紙十枚は下らなそうだ。そうならもっと早めに始めるべきだった。

 レポートの課題は、人間の肺と心臓の機能を図解入りでまとめる、というものだった。もちろん僕の筆跡で文字を書くわけにはいかない。そこで自分の担当は、図の部分となった。

 リンがレポート全体の構成を検討し、どこにどのような説明と図が必要になるかが決まる。図だけでも、肺と心臓の全体図を始め、拡大図や組織図までが含まれるため相当の分量がある。早速リンは説明部分、僕は図を書き始めた。

 こんなふうに役割分担をしてさえ、深夜になっても全体の半分程度しか進捗しなかった。

 最初は、僕の描く図が上手だとリンが感激し、二人で楽しく会話をしながら作業が進んだけれど、次第にお互いの口数が減り、深夜過ぎには二人で黙々と作業を進める格好となった。そして明け方四時頃、リンが先にダウンした。僕は彼女が寝ている間、一人でレポート作成を進めた。仕方なく、部位の説明も、僕が医学書を参照して鉛筆で下書きした。

 参考にしている医学書は、漬物石の代わりになるくらい分厚いハードカバー本で、とても高そうなものだった。内容は本格的で、随分丁寧に関連項目が記載され、内容は興味深いものが多い。

 例えば人間は、元々臓器表面が柔らかく、それの弾力があるほど臓器として長持ちするようだ。一般的にそれは女性のほうが柔らかく、女性が男性より平均寿命が長いのは、臓器の弾力性と関係している。もし人がたばこを吸うと、肺の組織が影響を受け、その弾力性が失われてしまう。肺だけでなく、血液を通してたばこの弊害が全身に及ぶため、臓器全般にその傾向が出るようだ。それは血管も同じで、そのため特に毛細血管への血流が悪くなる。そんなことが、たばこが人間の寿命を縮める理由として記載されている。素人の自分にも、理解できるように書かれている。たばこを吸う者としては、耳の痛い内容だ。

 それにしてもケアギーバーというのは、随分本格的に、人間の体について学ぶようだ。介護士だから、教科のほとんどは人間の世話の仕方だと思っていた僕は、それらの内容がとても意外だった。そして学校が始まってから、リンが電話で、僕の体調について問診をするようになったことが頷けた。授業料が安くないことにも納得できる。

 一通り図を完成させたのは、朝五時半だった。ベッドの上で熟睡するリンの隣へ潜り込み、彼女の寝顔を眺める間もなく、僕も眠りに落ちた。

 はっと気付いて飛び起きたのが、朝十時頃だった。一瞬しまったと思ったけれど、リンは机に向ってレポートの仕上げをしていた。

「おはよう。レポートはもうすぐ完成よ。説明部分も進めてもらったから助かったわ」

 丁度そのとき、ハウスキーパーのおばさんが部屋にやってきた。彼女は部屋を掃除しながら、机の上や床にちらばったレポート用紙を見て、机に向かっているリンに「あなたはナースなの?」と訊いた。

 リンはそうだと嘘を言った。僕も彼女の返答に合わせて、おばさんに数回頷く。

「ホテルの部屋で、こんなことをしている日本人とフィリピーナのカップルは初めて見たわよ。普通はベッドの上で、エクササイズをするものよね」

 フィリピン人は、おばさんでもこんなジョークを平気で言う。あっけらかんと言うから嫌味はない。おばさんは「あとでエクササイズもするんでしょ?」と言って、自分のジョークに笑いながら、部屋を出ていった。

 その十分後、おばさんが再び部屋に現れ、サービスで熱い紅茶を二人に差し入れてくれた。寝不足の身体に熱い紅茶が染み入り、それはとても有り難かった。

 十一時頃に全ての作業が終了し、部屋に散らばったレポート用紙を集めて順番に並べると、全部で十五枚になった。それにページを書き込んで完成。こんなことをするのは学生以来で、疲れてはいたものの、僕にはリンとの共同作業で一つのことをやり遂げたという、充実感があった。

 この充実感の中で、自分はあることに気付いた。僕はそれまで、彼女との関係において、ある確証を欲していたということを。

 僕が二人の関係で求めているものは、金銭援助と引き換えの恋愛ごっこではなく、お互いに愛情を抱いた上での、切っても切れない相互補完関係なのだ。

 実はそれは、リンの将来設計を真面目に考えたり、彼女の家族を含めたケアを実施していることで、自分は彼女に対してそれを示すことができていた。

 このレポート作成にしても同じことだ。彼女の身体をお金で買うのが目的なら、誰がこんな面倒なことをするだろう。

 つまり僕は二人の関係を、性的な目的とは別のところで考えていることを、普段から行動で示している。それは言い換えれば、愛情に基づいた行動をとっているということだ。

 しかし彼女の自分に対するそれを、僕が上手く感じ取ることができずにいた。

 つまり、例えばもし僕が一文無しになったときに、彼女はまだ自分を必要とするかという類いの実感を得られないのだ。おそらく僕は、それを彼女に行動や態度で示してもらいたいと思っている。

 僕はそんな自分の欲求を、自分自身で明示的に気付いていなかった。そんな心の奥底の要求は、彼女にそれを突き付けるときに、少し歪曲した言葉や態度になってしまう。

 少し古風な性格を持つ彼女も、それを表現するのが下手だった。そういったものはいくら言葉で愛していると言葉にしても、必ずしも通じるものではない。もちろん身体の提供のみで、それを信じることはできない。

 僕はそういったことに対する自分と彼女のアンバランスに、どこかで疲弊していたのかもしれない。その疲弊は、自分が彼女を愛していることの証しでもあった。

 愛するほど、僕は知らぬ間に見返りを求め、それを得られなければ疲弊し、心のゆとりを失い、いい人でいられなくなる。そのことで自虐的になる。そういった悪循環の中で、僕はますます疲弊した。

 彼女の自分に対する気持ちを実感を伴って得られない僕は、どこかで不安を感じ、不安を解消するために彼女が喜ぶことを率先して実行してしまう。

 そのことで一番簡単なのは、惜しみない金銭援助だ。特に、彼女の家族の問題を金銭的に解決してあげることが、彼女を喜ばせる手っ取り早い近道だった。そうやって彼女を繋ぎ止めることができれば、僕は少し安心して気分がよくなる。

 僕はこうした自分の心理を、随分後になって気付くようになった。渦中にいるときは、そんなことには気付きにくい。

 かつて本物とは何かという議論の中で、僕は言った。

「みんなそれが本物だというお墨付きが欲しいだけで、それ自体にどんな価値があるのか見えなくなるんだ。それが本質を見失うということの不幸だよ、きっと」

 僕は何かを見失って、その不幸を味わっていた。

 相手の愛を信じれば幸せになれる、信じられなければ幸せは半減すると彼女に言いながら、自分のことになればそれが難しかったのだ。


 昼前に学校へレポートを提出し、昼食後はホテルの部屋で一緒に寝てしまった。目を覚ましたのは夕方五時過ぎで、それからマッサージ店のサウナで汗を流し、ゆったりとマッサージを受け、身体に溜まった疲れを開放した。さっぱりしたあとはチャコールグリルでゆっくり食事をとる。

 レポートを終えた開放感に、マッサージの癒しとおいしい食事が重なり、その日の二人の会話は弾んだ。

 話題はもっぱら人間の体についてだった。リンが寝ている間の一夜漬けで、随分その分野で博識になった僕を、リンはとても不思議がった。

 そんなイベントを挟み、この出張中の二人の関係は穏やかだった。近頃顔を覗かせていたわだかまりが、随分解消された気になっていた。

 しかし実際、そんなことはなかったのだ。自分の中に堆積たいせきしたおりは、自分の認識レベルを超えた粘性と厚みを持っていた。


 普段の二人は、お互い遠く離れて暮らしている。相手に傍にいて欲しいと思っても、いつでも簡単に会うことはできない。そうならたまに会うときには、二人の時間を大切にしたいと思うのが普通ではないだろうか。

 少なくとも自分はそうだった。愛があれば、たまに会うときにお互い求め合うのは、自然なことだと思っていた。

 しかし僕には、リンが自分に甘えたり寄り添う姿勢が希薄に感じられた。これは普段からそうなのだ。

 リンのそういった様子に対し、それが愛の欠如を意味するのか、あるいは違う理由があるのか僕には分からない。

 彼女は単に、古風な考えを持っていただけかもしれない。リンはセックスに関し、女性から積極的な言動は慎むべきという考えを持っているような気もした。

 だから僕は、かつて彼女と議論したことがある。恋人関係、あるいは夫婦関係の中で、セックスは重要かどうかについて。

 僕は重要だと主張した。

 日本人の自分は、愛しているという言葉を使うのに抵抗があったし、そういう感情を言葉や態度で示すのが苦手だった。そうならば、その類の感情を示すのにセックスはとても大きな役割を果たす。

 それに対して彼女は、セックスは重要ではないと言った。その行為は人間の本能である欲求を満たす役割はあるけれど、本能だから、それは愛の存在とは無関係だと主張した。愛と本能を混同して、そんな行為を重視するのは好きではないとも言った。

 そう言われて、僕は少し分からなくなった。確かにセックスという行為は本能に基づくもので、愛がなくても性欲を満たしたいということはあるからだ。

 しかし、愛しているから抱きしめたり触れ合いたいということも確かにある。そして行為の中で、相手の自分に対する愛を感じたいという欲求があるのも確かだ。それを感じることができれば、二人の関係性は充実するはずだ。

 結局この議論は、平行線のまま交わることはなかった。

 敬虔なクリスチャンの彼女にとって、愛とは無償のもので、セックスやお金とは無関係の崇高なものなのかもしれない。


 日本帰国日前夜だった。僕はベッドの上でリンを待っていた。しかし彼女は、シャワーを終えても洗面台の前で何かをして、一向にベッドへやってこなかった。

 そのことで、僕はリンの気持ちに再び懐疑的になった。翌日僕は帰国するというのに、彼女は今のこの時間を大切だと思わないのだろうかと。

 僕は、セックスだけのことを考えていたのではない。それが嫌ならそれでもいい。ベッドの上で寄り添って話しをしたり、お互いの心の温度を感じ取るコミュニケーションを持つだけでも十分だ。

 少なくとも自分には、そういったことが必要だった。そういったことが希薄で日本から金を送るだけなら、僕は本当に疲れてしまう。

 もちろん、そういう関係だと割り切れることができれば、僕はもっと楽になれた。彼女の気持ちをはっきり知ることができれば、きっと割り切れたのだ。そうであれば、単にお金を送るだけでも疲れない。疲れる原因は、ときどき彼女の気持ちを想像したり、疑ったりすることだからだ。

 彼女はその点を、どう考えているのだろう。彼女の本当の気持ちは、一体どこにあるのだろう。僕はまたしても、それを確かめてみたくなった。

「ねえ、僕はもう寝るよ。何かすることがあるんだったら、好きにすればいい」

 僕はベッドから、バスルームにいるリンに、あえて皮肉めかしてそう言った。

 その言葉に、彼女は慌ててバスルームから出てきた。歩きながら彼女は、ぽつりと「疲れる」と言ったように聞こえた。一瞬のことで、それは聞き間違いかもしれなかったけれど、僕にはそう聞こえたのだ。

「え? 今、疲れると言った?」

「そんなことは言ってないわよ」彼女はすぐに否定した。

 大人気なく僕は、「いや、そう聞こえた。でも気にしなくていい。それならそれで、僕も気にせず寝ることにする。おやすみ」と言った。

 疲れる人だと言われた気がした自分は、これまで彼女に抱いた疑いが噴出し、同時に自分が彼女に抱く愛情を無碍むげにされた気がしたのだ。

 ふて寝をするように、ベッドの端で彼女に背を向けて布団をかぶった。リンが慌てて僕のそばに駆け寄った。リンはその背中に寄り添って状況を取り繕おうとしたけれど、僕は「もういいよ」と投げやりな言葉をかけて、そのまま寝たふりをした。

「あなたがそう聞こえたなら謝るわ。でもそんなことは言っていないわよ」

 さっきの言葉は本当に聞き間違えだったのかもしれないと思った。けれど、自分が問題にしているのはそんなことではない。僕は、彼女に背を向けたまま言った。

「この問題は、その言葉を言った言わないにあるんじゃない。帰国して明日からまた離れ離れになるという今の二人の時間が、あなたにとって貴重かどうかが問題なんだ。あなたにとって貴重じゃないなら、はっきりそう言って欲しい。送金のことは気にしなくていい。あなたの返答が何であろうと、僕はそれを継続する。あなたの本当の気持ちを教えてくれるだけでいい」

 彼女はその言葉に、憤慨した。

「またその話し? わたしはあなたを愛しているわよ。あなたはわたしの気持ちを信じられないの? どうしてそうなの?」

 彼女の声が少し大きくなった。それに対し自分の声は、ますます静かになった。

「言葉で何と言われても信じられない。口ではどうにでも言える。僕はあなたの日頃の言動から感じることを、正直に話しているだけなんだ」

「どうしてそんなふうに考えるの?」

「今だってそうじゃないか。しばらく会えなくなると思ったら、普通はこの時間をもっと大切に考えると思う」

「普通って、あなたは誰かとわたしを比べているの?」

 リンが何と言っても、僕は既に相当根性が捻じ曲がっている。

「違うよ。僕がこの時間を、大切に過ごしたいと思っているだけだ」

「わたしはあなたを愛しているわ。どうしてそんなことを言うの? わたしはどうすればいいの?」

「そんなことを訊かれても、僕に分かるはずがない。もし僕が具体的にこうして欲しいとお願いし、あなたがその通りにしたとしても、その行為は既に作り物だ。だから僕は、あなたにこうして欲しいと伝えようがない」

 僕の静かな口調による物言いは、彼女に冷たく映ったかもしれない。それでも彼女は、できるだけ冷静になるよう努めていた。

「わたしの態度で気分を悪くしたのなら、ごめんなさい。たぶんわたしが悪かったわ」

「たぶん? あなたには、僕の言いたいことが理解できないと思う。明日は朝が早いからもう寝よう。今日のことはもう気にしなくていい」

 僕はそんなことを言いながら、実はリンが、後ろから寄り添ってくることを期待していた。

 しかしそこまで言ってしまった自分に、リンは僕から少し離れて寝てしまったようだ。

 僕は気まずさと混乱のせいで、ホテルを出発するまで全く眠れなくなった。ベッドの上で、朝まで色々なことを考えたのだ。しかし整理のつかない思考は、何も生むはずがない。憤慨や落胆や虚しさや、そういったものが自分の中でとぐろを巻くだけで、朝を迎えても僕の気持ちは悶々としていた。

 朝の五時、二人は一緒にロビーへ降りて、チェックアウトを済ませた。その間、ずっと口をきかなかった。僕はホテル前に待機しているタクシーに無造作に乗り込み、リンも無言で反対側のドアから車に乗った。

「マクタンエアポート」

 その一言だけをタクシードライバーに告げ、僕は隣に座わるリンを無視するように、窓の外を流れる景色を眺めていた。こうした状況でフィリピンを離れるのは、とても虚しいと思いながら。

 空港が刻々と近づく。外の景色を眺めながら、僕はどうしたらいいかを考えていた。このまま意地を張り続けて空港で別れるか、それとも自分の大人気ない態度を謝ってしまうか。

 結局一言も口をきかずに、もうじき空港という場所に差し掛かった。僕は自分のバッグから現金の入った封筒を取り出し、無言でリンに差し出した。米ドルで一ヶ月分の生活費が入っている。セブに行くなら、銀行で高い手数料を払って送る必要はなく、それを日本で用意して持ってきたのだ。

 リンもそれが現金だと察し、ありがとうと言って受け取り、中味の確認をせずに自分の鞄にしまった。

 空港に到着すると、お互い気を付けてという言葉を掛け合って別れた。ホテルから空港までの間、僕が発した言葉は、本当にそれだけだった。

 空港で一人になると、重苦しい空気から解放されてほっとする気分と、喧嘩をした気まずさに包まれ、心中は複雑だった。この複雑な心境は、帰国した自分の中に、しばらく居座ることになる。

 日本に帰国し自分の部屋に到着すると、僕は電話で無事自宅に着いたことをリンに伝え、自分の態度について謝った。それに対して彼女も謝った。

 表向きはこれで和解だ。しかしこの問題は、僕の中で根が深かった。

 僕は、実験に失敗したのかもしれないと思い始めていた。次の挑戦で成功を狙うことにも、少し疲れている。いずれにしても少し休みたい。

 その後リンとの国際電話で、敢えてこの喧嘩の原因や内容に触れないようにした。加えて二人の間に波風を立てないよう、他の件でも文句を言うのを一切止め、表向きは穏やかにそして寛容に、全ての話しを丸く収めた。その代わり、自分の気持ちを彼女から少し遠ざけていた。

 遠ざけてみれば、何があっても腹が立たず、心配もせず、自分はいつでもいい人になれた。

 そして僕は、疲れることが少なくなった。

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