棺桶を見ている
逢雲千生
棺桶を見ている
名前を刻むこの時間が、私には、最も大切に思える時だ。
人一人が
薄暗い部屋の中には、私だけ。
邪魔する音も、声を掛けてくる人もいないこの空間は、私だけのものになるのだ。
私の職業は、
読んで字の如く、亡くなられた人が入る棺桶を作るのが仕事だ。
今でも現役で残る職業ではあるけれど、ご遺族と直接関わることはほとんどないため、それほど知名度はない。
知る人ぞ知る、というのが正しい職業なのだ。
海外と違い、日本はほとんどが火葬となるため、棺桶はそれに合わせて作られている。
作る職人によって、使う材料や作り方が違うと言われてはいるけれど、今はそれほど違いはないらしい。
土葬であれば、それなりに飾り立てられるのだが、火葬となれば、いろいろと制約が出て来るからだ。
燃えやすく、炭になりにくい素材を加工し、出来る限り薄くして軽くする。
少人数でも持ち上げやすく、火葬しやすいようにとの配慮からだった。
かつては
自分と同じ棺桶職人であった
私の曽祖父は、地元で有名な棺桶職人だった。
土葬が主流だった時代、棺桶は最後の安らぎだという考えを持っていたため、丁寧で細やかな装飾が施された曽祖父の棺桶は、新聞に載るほどの人気だった。
私が幼い頃には、すでに八十を超えていたのだけれど、それでもなお、現役で棺桶を作り続ける背中はかっこよくて、女の私にとって憧れの存在だったのだ。
両親は嫌な顔をしていたけれど、私は曽祖父の家に通っては、いつも棺桶作りを見ていた。
曽祖父は、棺桶作りを一日に三箱までと決めていた。
それ以上は体が持たず、それ以下だと葬儀に間に合わないからだったらしい。
だけれど、例外として夜通し作られる時があったので、それを目当てにお泊まりを繰り返していたくらい好きだったのだ。
私は曽祖父を「
だけれど、棺桶作りの間だけは、大じいちゃんは私に構ってくれなかった。
一心不乱に作り続け、食事もそこそこに、水もほとんど飲まず、ただひたすら作り続けるのだ。
その姿を怖いと思った事はない。
真剣な表情で、真っ直ぐに棺桶と向き合うその姿は、今でも鮮やかに思い出せるほど大好きだったからだ。
けれど、あの夜だけは違う。
初めて、例外の棺桶作りを見たあの夜だけは、大じいちゃんを怖いと思ってしまったのだ。
その日は、夕方から大じいちゃんの家に遊びに行っていた。
すでに仕事を終えていた大じいちゃんは、
大ばあちゃんが出たその電話は、近所のお兄ちゃんが亡くなったという訃報だった。
なんでも、バイク事故で即死だったらしく、次の日の新聞に大きく載っていたほどの大事故だったらしい。
遺体は損傷が激しく、夏だったこともあり、できるだけ早く葬儀を挙げたかったらしいのだけれど、残念なことに式場に空きがなく、何日も待たなければならなくなってしまったというのだ。
このまま置いておくわけにはいかないと、お兄ちゃんの両親は判断したらしく、順番を入れ替えて、先に火葬を済ませたいのだと、大じいちゃんに依頼をしたのだそうだ。
大じいちゃんは話を聞くと、すぐに真剣な顔に変わった。
大ばあちゃんも慣れた様子で、急いでお握りを握ったり、お茶を準備したりすると、大じいちゃんの後に続いて仕事場に入っていった。
私もこっそり入ると、大ばあちゃんは支度を済ませ、足早に出て行ってしまった。
私は物陰に隠れて息を潜めると、鋭い眼差しで道具を手に取った祖父を見つめた。
棺桶作りは、簡単なように見えて繊細だ。
ほんのわずかな違いで歪んでしまうし、見た目も悪くなってしまう。
ご遺体を入れる箱ではあるけれど、亡くなられた人が最後に眠るベッドのように、丁寧に繊細に、何よりも愛情を込めて作らなければいけないのだ。
職人は、亡くなられた人のデータを細かく受け取り、場合によっては、故人の生前の趣味や好みを反映させることもある。
大じいちゃんの場合は、亡くなられた人の大きさや重さだけでなく、女性か男性か、年齢や職業、家族構成までを知った上で仕事に取りかかっていた。
今回亡くなったお兄ちゃんは、私もよく知っている人で、高校二年生のやんちゃな人だった。
バイクが好きで、よく走りに出かけていたけれど、カーブを曲がりきれず転倒した際に、対向車のトラックに全身を
当時は、今のようにドライアイスは普及しておらず、氷では遺体を傷つけてしまうため、夏に人が亡くなると、すぐに葬儀が行われていた。
しかし、彼の場合、式場が押さえられず、親戚や参列者もすぐには集まれなかったため、やむを得ずの判断だったそうだ。
大じいちゃんは一心不乱に箱を作り、微調整を繰り返していく。
現在では金属で作ったり、機械などで圧縮することで、接着剤による板同士の強力な接着を可能にしていたりするのだけれど、大じいちゃんは違っていた。
職人の中には、木製の釘などを使ったりもしていたけれど、大じいちゃんの場合は、特殊で細かい組み合わせを板同士に作ることで、釘も接着剤も使わない、特別な棺桶を作っていたのだ。
その組み合わせを作る事に、とても時間がかかるため、一日に作るのは三箱までと決めていたらしい。
だけれど、今回のような場合は、四箱目でも五箱目でも、一晩中かかってでも作っていたのだ。
いつもは追い出されるので見れなかったけれど、初めて見る夜の棺桶作りは、寒気がするほどの
ある程度見たら、もう寝よう。
急に怖くなったので、そう決めて仕事を見ていると、突然、
部屋には私と大じいちゃんだけなので、誰も音をたてられないはずなのだけれど、確かに音が聞こえたのだ。
恐る恐るそちらを見ると、薄暗い隅っこに、誰かの足が見えたのだ。
ジーンズに独特の革靴。
上半身には革ジャンを羽織っていて、夏には似つかわしくない格好の人だった。
あれは誰なのだろうと思ったけれど、暗すぎて顔までは見えない。
ただ、その人は男で、じっと、大じいちゃんが作る棺桶を見ていることだけはわかったのだ。
こんな時間に、どうしてこんな所に人がいるのだろうか。
そんな疑問が思い浮かんだ時、急に寒気が強く感じられた。
今夜は熱帯夜になるほど暑いはずなのに、この仕事場だけは真冬のように寒く感じられる。
これはまずいと思って、こっそり部屋を出ると、私を探していた大ばあちゃんに見つかり、怒られた。
大ばあちゃんはひとしきり怒ると、私と一緒に夕飯を食べながら、亡くなったお兄ちゃんのことを残念がっていた。
悪ぶっているような人だけど、根は優しい人で、いつも家族を大事にしていたし、たまに会う私にも優しくしてくれた。
お菓子をくれたり、家まで送ってくれたこともあったので、大ばあちゃんと二人、淋しい気持ちを抱えながら眠りについた。
次の日、大じいちゃんの棺桶に入れられたお兄ちゃんは、静かに火葬場へ送られていった。
数時間後にはお
大じいちゃんは疲れから眠っていたけれど、午後には起き出して、今日の分の棺桶を作っていた。
そこで、私は聞いてみたのだ。
「昨日の夜、大じいちゃんの棺桶を見ていた人って誰?」
大じいちゃんは黙って彫刻刀を持つと、模様を削りながら、珍しく答えてくれた。
「あれはな、亡くなった兄ちゃんだよ。自分が眠る棺桶を、見に来ただけだ」
サリサリ、コリコリと、彫刻刀が木を削る音だけが聞こえる。
後日行われた葬儀の席で、私は全てを知ることが出来た。
あの夜に棺桶を見ていたのは、やはり亡くなったお兄ちゃんだったのだ。
「事故に遭った日は、暑いからってタンクトップだったけれど、少しでも涼しいと、いつも革ジャンを羽織っていたの。あの子、革ジャンとジーンズの組み合わせが一番好きだったから」
お兄ちゃんのお母さんの話で、ようやく服装の謎も解けた。
その事を大じいちゃんに話すと、やはり何も言わず、黙って棺桶を作っていたけれど、その横顔はどこか寂しそうだった。
そしてそれから数年後、大じいちゃんは亡くなった。
仕事場で、棺桶に寄りかかるように亡くなっていたらしく、その寄りかかっていた棺桶が、大じいちゃんが作った、最後の棺桶になったらしい。
そしてまた後日、ようやく気持ちが落ち着いた大ばあちゃんから、大じいちゃんの昔話を聞いた。
「……あの人はね。昔、戦争で大勢の人を殺してしまったそうなの。まだ十代で若かったけれど、仲間や友人も戦争で失って、無事に帰ってきてからも、ずっとずっと苦しんでいたらしいわ。そんな時に、棺桶職人にならないかって知人の紹介を受けて、罪滅ぼしのためかどうかは知らないけれど、それから棺桶を作るようになったそうなのよ」
大じいちゃんが十代の頃、日本は世界と戦争をしていた。
世界中で大勢の人が巻き込まれ、亡くなり、深い傷を残したその戦争は、大じいちゃんにも大きな影響を与えていた。
大じいちゃんは海外に渡り、たくさんの仲間が出来たけれど、大勢の人の命を奪ってしまった。
近所の幼なじみや、学校時代の友達も大勢亡くし、終戦を迎えてからも、しばらくは動く気力を取り戻せなかったらしいのだ。
そんな頃に、知人の知人に棺桶職人がいて、人手が足りないからと、話が舞い込んできたそうなのだ。
大じいちゃんはその話を受け、それからずっと、休みなく棺桶を作り続けていたらしい。
大ばあちゃんと結婚しても、祖父が生まれても、孫が生まれても、毎日決まった数の棺桶を作り続けていた。
当時は、それくらいたくさんの人が、生まれては死んでいたのだ。
大じいちゃんの棺桶は、大じいちゃんの知人の孫が作ってくれた。
大ばあちゃんのもだ。
祖父母の時は、いろいろな事情が重なって式場に任せてしまったけれど、その時に見た棺桶の姿に、私はがっかりしてしまった。
大じいちゃんが作っていた棺桶は、重くて厚かったけれど、温もりがあった。
細かい装飾と、個人の名前が刻まれた専用の棺桶は、確かに、最後の場所として、ふさわしい安らぎを感じられたのだ。
それを作れた大じいちゃんは、もういない。
あの戦争を経験した人も、今ではもう、ほとんどいない。
だから私は決意したのだ。
大じいちゃんのように、最後の安らぐ場所を作ろうと。
そして今、私は棺桶職人として、ようやく安定した地位を築いてきたところだ。
仕事は速くないし、一日に作れるのは二箱が限界だ。
けれど、繊細で丁寧な装飾と、故人に合った棺桶が評価され、世界中から依頼を受けるようになれた。
土葬が主流の国からは、生前からの予約がしたいと言われているほどだ。
棺桶本来の形は変えず、温もりを宿す棺桶。
まだまだ大じいちゃんのような棺桶は作れないけれど、私が家族を見送る時までには、少しでも近づきたいと思っている。
時々は、赤ん坊や幼い子供、未来ある若者の棺桶を作らなければならないけれど、だからこそ、暖かい場所にしたいのだ。
もう温もりを感じられないけれど、もう二度と話すことも、目を開けてくれることもないけれど、ご遺体は、たしかに生きていたのだから。
明日、この棺桶に
部屋の隅の薄暗いところに、明るい色のワンピースが見えた。
淡い色の靴と、春らしい薄着の彼女は、やはり顔が見えない。
その視線は私の作る棺桶に向けられていて、何も言わず、静かに完成を待っているようだった。
今なら大じいちゃんの気持ちがわかる。
大じいちゃんが黙って仕事をしていたのは、真剣だったからだけじゃない。
余計な言葉や慰めは、特に、事故などで急に亡くなってしまった人を傷つけることがある。
だからこそ大じいちゃんは、自分の仕事で誠意を示していたのだ。
名前の最後を彫り切ると、立っていた女性はゆっくりと消えていった。
窓の外は
棺桶の装飾を確認し、名前の部分をしっかりと磨き上げると、私は棺桶に手のひらをのせた。
そして優しく撫でると、振り返らず、黙って一歩を踏み出したのだった。
棺桶を見ている 逢雲千生 @houn_itsuki
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