夏の日、橙色の空、まだ遠い日の自分まで

神崎 ひなた

夏の日、橙色の空、まだ遠い日の自分まで

 まったく、2020年の夏はどうしてこうなってしまったんだろう? ベットで寝返りを打ちながら、何度同じことを考えたか分からない。

 新型コロナウイルスが世界中で流行している。日本も緊急事態宣言が発令され、八月中旬となった今も収束する気配がない。

 学校が閉校したのはありがたかった。しかし同時に、今年の陸上大会は軒並み中止となってしまった。

「まったく、2020年の夏はどうしてこうなってしまったんだろう?」

 わざとらしく口にしても、何も変わらなかった。

 早朝なのに部屋は蒸し暑く、苛立ちばかりが募っていく。



 小学生の頃から走ることだけが得意だった。自分の体をどう動かせば最も速く走れるのか、誰に教わるでもなく知っていた。スターターブロックやスパイクも、その有用性を理解し、すぐ使いこなせるようになった。同級生たちの多くがそうでないことを知ったのは、中学校に入学した後だった。

 中学生になって陸上部へ入部すると、コーチに単距離走の適性を見出され、地区大会で優勝した。以来、全国大会にも何度か出場したが、結果を残すことの方が多かった。

 足が速い。たったそれだけのことで居場所ができた。勉強が苦手で、愛想もよくない俺だったが、それでも周囲から尊敬の眼差しを向けられた。

 走ることは自分の存在意義だった。だから走った。周囲の期待に応えるために。自分で在り続けるために。そのために、陸上大会は必須だった。

 しかし2020年の夏に限っては、どんな大会も行われない。体育祭も無い。オリンピックさえ延期が決定した。残っているのは大学受験に向けた勉強という何の価値も見いだせない苦行だけだった。

 足が速い。たったそれだけのことで居場所を手に入れた俺は、この夏にすべてを失ってしまうのではないか。

 どこで何をしていても、不安が消えなかった。


 家にいても悶々とするだけなので、気分転換のためにランニングすることにした。不要不急の外出は禁じられているが、近くの公園を走るくらいなら三密には当たらないだろう。

 アシックスの腕時計を見ると、16時32分だった。やっと太陽が弱まり始めて、生ぬるい風が住宅街を吹き抜ける頃だった。汗をかくには最適な時間だった。

 足がなまるのが怖かったから、日々のランニングは欠かさなかった。むしろ部活をしていた時よりも、自分を追い込んでいる気さえする――なんのために?

 今年の夏は、もう終わったのに。

 考えても仕方ないことを忘れたくて、必死で走った。

 しばらく夢中で走っている内に、いつの間にか自分の通っている高校の前にいた。まるで帰巣本能だと、一人で笑ってしまう。

 喉が渇いていたので、グラウンドの水飲み場に向かった。水の味なんてどこも同じはずなのに、懐かしい味がした。同時に、部活に明け暮れた日々を思い出す。たった数か月前のことが、とても懐かしく感じる。

 久しぶりにグラウンドを走りたくなった。どうせとがめる人もいないと勝手に決めて、小走りでグラウンドに向かう。

 意外なことに先客がいた。それは女子だった。

 彼女は棒高跳び用の助走路で、今まさにポールを構えて走り出すところだった。

「うおおおおーーーーっ!!」

 急に叫んだかと思えば、勢いよく駆け出す。ボックスめがけてポールを突き、その反動で高く、天に向かって体を突き出し――

「おっ……ぬああああああ!!」

 ――バーに突っ込んでいった。そのまま、ぼすんっとマットに落下する。見ている方が清々しくなるほどの“失敗”だった。

姫鶴ひめづる。相変わらず、豪快なジャンプじゃないか」

「人をバカにしたようなその声……先輩ですか?」

 バーにぶつけて痛むのか、鼻をさすりながら姫鶴は答えた。

「なにしてるんですか?」

「それはこっちのセリフだ。家で大人しくしてろって先生に言われなかったか?」

「先輩だって、ここに来てるじゃないですか」

 姫鶴は嬉しそうに笑った。

「それより先輩、ちょっと距離が近いですよ? 密です、密」

 掌を前に出し「みつ~~」と謎の電波を発する姫鶴。こいつにご時世を説かれるのはしゃくだったが、三密は大事なので二メートルほど距離を取る。

「はい、よくできました」

 年下のくせに、そんな風に笑うのだから調子が狂う。

 正直、俺はこいつが苦手だ。



 忍足おしたり姫鶴ひめづる

 同じ高校に通う、二つ下の後輩だ。

 背は高く、凛としたポニーテールがよく似合う。いつも楽しそうに笑っていて、その快活さは男女問わず人の心を惹きつけた。誰とでもすぐ友達になってしまうという特技を持った、まるで絵に描いたような後輩だ。

 しかし、実力だけは絵に描いたようにはいかなかった。

 姫鶴は中学生の時から棒高跳びをやっている。だが、地区大会以上に進むことは一度もなかったらしい。

 なのに、いつも楽しそうだ。

 誰よりも結果が出ていないのに、誰よりも楽しそうに。

 その理由が、俺には分からなかった。

 ランニングの意欲が消沈した俺は、しばらく彼女の練習風景を見ることにした。

 姫鶴は熱心に練習に取り組んだ。しかし、ポールを突くタイミングが合っていないことは、素人の俺ですら分かった。だから手に無駄な反動が返ってきて、ボロボロになる。

 彼女の手にはテーピングが巻かれていた。が、そのテーピングすら破れかけている。よく見ると、手が震えていた。

 自分の体をどう動かせばいいのか分かっていないのだろう。逆に、その感覚さえ掴めれば一気に化けるかもしれない。しかしこの様子では、それがいつの日になるかは分からない。

「なぁ姫鶴。どうして陸上をやっているんだ?」

 姫鶴は大きく首を傾げた。

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。棒高跳びの才能が無いこと、自分でも気づいてるんじゃないか? このまま続けても手を痛めるだけ……いや、手だけで済んでいる内はいい。棒高跳びは危険な競技だ。そのうちもっと大きなケガを負うかもしれない」

「先輩、もしかして心配してくれてるんですか? ふふっ、なんだか意外ですね」

 言いながら、姫鶴は再び助走路で構えた。ポールを真っすぐに構えて、正面のバーを見据えながら。

「先輩の言う通りです。私には才能がない。このまま続けても、卒業するまでに満足できる高さを飛べるかなんて分からない。……でもね、先輩。そんなことは関係ないんですよっ!!」

 勢いよく駆け出した数秒後、ガッという鈍い音が――ボックスとポールの衝突する音が響いた。今日何度も聞いた音だ。だから分かる。また“失敗”したのだと。

「おおおおおおおっ!!!」

 だが、姫鶴は諦めなかった。体が宙に浮くその瞬間、二本の手で強引に体を支える。ポールがしなる。まだしなる。だがその手は、がっしりとポールを掴んだまま、背筋、腹筋、大殿筋へ順番に力を伝えていく。

 ――上手い。俺は思わずその場から立ち上がって見守る。

 あとはポールを押しこんで、返す力でバーを越える。それだけだ。

 しかし最後の最後で、姫鶴の体制が崩れた。ぐらり――傾いた先には、

 棒高跳びは危険な競技だ。

 時には大きなケガを負う可能性も――ある。

「姫鶴っ!!」

 直前に立っていたことが幸いして、一瞬で最適の加速ができた。

 たった二メートルの助走では、大した速度は出ない。

 それでも、女の子の体くらいなら――ぎりぎり、マットに押し返すことはできる。

 重なり合うようにマットへ倒れこんだ俺たちは、互いに「ぐおーーっ」と悲鳴を上げた。肺に溜まった空気が、一気に押し出される感覚。

「だ、大丈夫か、姫鶴……」

「大丈夫じゃないですよ……先輩と濃厚接触しちゃいました……」

「よし平気だな」

 軽口が叩けるなら安心だろう。俺は一息ついて、マットから起き上がった。

「先輩」

 と、マットに倒れこんだまま姫鶴が言った。

「才能があるとか無いとか……そんなことは関係ないですよ。だってほら、今日はいつもより高く飛べたでしょう?」

 姫鶴の眼に、橙色の眩しい空が映っていた。

「――それが楽しいんですよ。楽しいから、やってるんです」

 その表情に浮かんだ笑顔は、一度見たら忘れられないほど綺麗だった。



 昔から、走ることだけが得意だった。それだけで、俺には居場所が出来てしまった。

 だから走るという意味を、いつの間にか自分で変えてしまったのだろう。

 高校最後の夏はこのまま終わる。もう戻ってこない。

 今後どうなるかも分からない。

 ――だけど、変わらないものもある。

「楽しいから……今まで走ってきたんだよな」


 どうしようもない2020年の夏も、始まる前に終わった陸上の大会も。

 終わった夏に縋りついたままでは、いつまでも前に進めないから。


 まだ見えない遠い日の自分へ、真っすぐに走っていこうと思った。


※ 


「行っちゃった……」

 グラウンドを離れる先輩の後ろ姿を、忍足おしたり姫鶴ひめづるは大きく息を吐きながら見つめていた。何度呼吸を整えようとしても、心臓は早鐘を打ったままだ。

 ――ひと目惚れだった。

 初めて先輩が走る姿を見た、その瞬間から。

 今日だって先輩の前だから、いいところを見せたくて頑張ったけど、結局は空回りに終わってしまった。どころか、あんな風に助けられてしまうなんて。思い出すだけで、また心臓の鼓動が速くなる。

「……バレてないかな?」

 先輩に距離を取ってもらったのも、ご時世なんて関係なくて――本当は、汗臭いって思われたくなかっただけだ。


 ――ごめんさなさい、先輩。

 私、一つだけ嘘を吐きました。


(陸上を続ける理由……それが、先輩の走る姿を近くで見ていたいから、なんて……)

 夕日に照らされた彼女の頬には、ほんのりと赤みがさしていた。

(いつかきっと、もっと高く飛べるようになりますから……)


 その時は、きっとこの気持ちを伝えられると思うから。


「――なんてね」


 姫鶴はそんな風に笑って、先輩の後ろ姿にポールを向けて「ばきゅん」と囁いた。


 ――いつか、日常が戻ってくるその日まで。

 まだ見えない遠い日の自分へ、真っすぐに走っていこうと思った。

  

 

 

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