白鶴は雪景色の中に

稀山 美波

白鶴は夜を行く

 俺は、気がついたらそこにいた。

 上野発、青森行の夜行列車、その車内に。


 夜中に上野を出たばかりの車窓からは、煌めくビル群がとめどなく流れていた。しかし今は、列車の進行方向とは真逆に流れてゆく雪と、純白の絨毯に覆われた田畑が認められるのみである。


 あと数日で師走となる日頃ではあるが、東北は一足先に真冬がその足音を強めている。陽は駆け足で陰り、街は暗闇にその身を落とす。数秒間隔で通り過ぎていく電灯の光だけが、車外の吹雪いている様を照らしてくれていた。


「ねえ、おじさん」


 夜行列車、そのA寝台個室。そこに俺たちはいる。

 くたびれたスーツに身を包んだ、くたびれた目をした俺。そして、列車の揺れと同時に目を覚ましてしまった、くたびれた様子の男児。その二人が。


 平日の夜行列車には似つかわしくない俺たちを威嚇するように、ぷわあと大きく警笛が鳴る。男児への返事はその音に任せ、俺は冬に染まり出した東北の情景をただ見つめていた。


「おじさんってば」

「なんだよ」


 男児は車窓から俺へと目線を変えて、再度俺を呼ぶ。俺は車窓から目を逸らすことなく、ぶっきらぼうに溜息混じりの返事をした。


「この電車、どこ行くの」

「上野を出るときに言ってただろ。青森だよ」

「ふうん」


 まるで親の真似事をするかのように、男児は俺と同じように車窓へと視線を戻した。薄暗いガラスには、俺と男児のつまらなそうな瞳がうっすらと映っている。外に重く広がる雪のように、冷たく白い目であった。


「青森ってどこ?」

「遠くだよ。東京よりもずっと北の、遠く」

「今はどこにいるの?」


 そう言われて、ちらりと腕時計を見る。その長針と短針はちょうど真上で重なっていて、きっかり深夜零時を指し示していた。定刻通りに列車が進んでいるとすれば、あと半刻もしない内に次の停車駅のはずだ。


「もうすぐ郡山――福島だよ」

「ふうん。福島ってどこ?」

「遠くだよ」


 窓に映った姿を介して、俺たちは単調な会話を繰り返す。凝り固まった表情の中、互いの口元だけが交互に動く。青森も福島も知らぬ男児に辟易した俺は、大きく溜息をつく。その息で窓は白く濁り、二人の顔と雪景色とを見えなくさせた。


「ねえ、おじさん。お腹減った」


 腹の虫の声を代弁するかのように、車体が大きく揺れる。俺も男児も、思えば昼から何も口にしていない。一定のリズムで枕木を叩く音だけを聞き、ビルと田畑と雪とを見て、硬い座席の感触を味わってきたのみだ。


「車内販売はねえんだよ。我慢しろ」


 興奮と後悔とが過ぎ去った今、男児の言葉を聞いてようやく空腹を思い出す。車体が揺れる度に、腹の中にわずかに残ったものが次々に消化されていくかのような錯覚に陥っていく。


「いつまで我慢すればいいの?」

「青森に着くまでは我慢しろ」

「いつ青森ってとこに着くの?」


 先ほどと同じように、男児は質問を繰り返す。そして俺も同じように、煩わしさを口から大きく掃き出し、窓を曇らせる。なぜ、なぜ、と聞くのは未就学児の習性で仕方のないことなのかもしれない。


「朝だよ」

「朝のいつ?」

「朝は朝だ。お日様が顔を出したくらいの朝にだよ」


 多少の苛立ちと多数の諦めの感情を乗せ、俺は吐き捨てる。窓はすっかりと白く濁り、俺たちの顔色を窺うことはできない。だがきっと、二人とも疲れた表情を浮かべているに違いないだろう。


「待てないよ」

「待つんだよ。無理なら寝てろ」

「こんなところじゃ寝れないよ。寝れないし、ここはつまんないし」


 男児は不貞腐れたように、足を何度もばたばたと動かしてみせる。彼がそうするたびに、俺たちが横並びで座る狭い座席は揺れた。子供というのは辛抱できない生物で困る。子供のこういうところが、俺は嫌いなのだ。俺の身体が今小刻みに震えているのは、座席の揺れによるものか、それとも苛立ちによるものか、判別がつかなかった。


「ちっ」


 苛立ちを隠すよう、懐から煙草を取り出し、火を付ける。すぅと大きく息を吸い、腹の底に溜まった様々な感情と共に吐き出した。曇りが薄くなった窓に吹きかけると、再び雪景色は姿を隠す。


 自らの姿を映し出さんばかりに、眩い雪。

 煌めくそれを見たくなくて、純白なそれを俺の姿で汚したくなくて、その姿を隠すよう何度も煙を吐きかけた。


「退屈なら、折り紙でもしてろ。そうすりゃ眠くもなってくるだろ」


 喫煙が深呼吸代わりになったのだろうか、多少気持ちが落ち着いてきた。これまでよりも低くゆっくりとした口調で、俺はそう言ってやる。けれども、男児の顔を見ることはしない。子供の大きく澄んだ瞳には、きっと俺は醜く映っていることだろうから。


「折り紙?」

「なんだお前、折り紙も知らねえのか」

「知ってるけど、やったことない」


 不思議そうな声で俺の言葉を復唱する彼に驚いて、初めて彼に向き直った。俺の胸ほどまでしかない座高、両の掌で包めてしまいそうなほど小さな顔、真珠の如く丸く澄んだ瞳。じっくりと彼の顔を見たのは、これが初めてかもしれない。


 そしてその顔は、人の遺伝子というものを嫌でも感じてしまうほどに、ひどく似ている。


「お前の母ちゃんとやったことねえのか」


 彼の母親――あの女に。

 

「お母さん、家に全然いないもん」

「そう、だな」


 あの女のことが頭によぎったのを、男児から目を逸らすことで誤魔化してみる。俺の脳裏にこびりついた姿をかき消すよう、二本目の煙草に火を付けた。

 煙が肺で暴れ、ニコチンが頭を駆け巡る。多少ではあるが冷静さを取り戻すことができたので、隣に腰かける小さな彼の姿をもう一度ちらりと見る。


 彼も、俺と同じなのだ。

 あの女に人生を翻弄された被害者という意味では。


 そう思うと、どこか親近感というか、同情や哀れみにも似た感情が沸いてきてしまう。俺は窓に煙を吹きかけることはせず、半分ほど背丈を残した煙草を灰皿に押し当てて、車窓に目をやった。


 力なく焦燥した様子の、くたびれた男が二人、そこにはいた。


「よく見てろよ」


 足元に置いたビジネスバッグから手帳を取り出し、罫線のみが描かれたページを一枚破ってみせる。バッグを膝に置いて机代わりにして、それを丁寧に二つ折りにし、はみ出した部分をゆっくりと切り取っていく。


 先ほどまでの荒ぶっていた心が嘘のように、神経が研ぎ澄まされていくのを感じた。そのきめ細やかな所作を、男児は身を乗り出して俺の手元を覗き込んでくる。いつの間にか、煩わしくてしかたなかった夜行列車の揺れや枕木を叩く音は気にならなくなっていて、ただひたすらに紙を折ることに集中していたと思う。


「ほらよ」


 淡い記憶と拙い手つきを頼りに、俺は黙々と紙を折っていく。列車が枕木を叩く度に、一折。列車が揺れる度に、一折。車窓から街灯の光が伸びていくのが見える度に、一折。


 列車が駆動する音と、俺たちの呼吸する音と、紙が擦れる音。今この場には、それしかなかった。冬の厳しい寒さに世界すら凍りついてしまった――そんな錯覚すら覚えてしまう。


 その冷たくも柔らかい時間は、まるで悠久にも感じられた。


「そらできた」

「これ何?」


 凍りついた世界の均衡を破ってみせたのは、一通り紙を折り終わった俺の言葉だった。ずいと身をさらに乗り出してこちらの手元を覗き込む男児に、俺は完成した代物を手渡してやる。


「鶴だよ、鶴」


 両の翼を広げ、鋭い嘴をこちらへ向けた折り鶴が、男児の掌にちょこんと乗る。綺麗な、とはとても呼べる代物ではないが、一応それなりに形にはなっている。


 ノートの切れ端を使って作った鶴は、その肌は白く染まっており、まさに人々が想像する鶴そのもののように見えた。その肌に時折覗かせる罫線が、脈のようにも見えてくる。


「鶴ってなに?」


 小さな掌の上で身の丈ほどある翼を優雅に広げる鶴を、まじまじと見つめている。嘴の先から翼の先まで、余すところなく観察しているようだ。鶴も知らないのか――とは、もう言わなかった。


「鶴ってのはな、鳥だ。全身が白くてな、綺麗な鳥だよ。この列車の名前にもなってる」


 俺の言葉に返事をするよう、車体ががたりと大きく揺れた。


 上野と青森とを結ぶ夜行列車――『はくつる』。青と赤のずんぐりとした車体に、白く細いタンチョウのエンブレムと名前を冠する、国鉄有する寝台特急だ。


 かつて渡り鳥であったタンチョウが、こうして本州の中心と北端とを、夜に飛び交うのだ。それは生き場所を探すように、あるべき所へ戻るように、あるいは逃げるように、あるいは突き進むように、白鶴は夜を行く。


「ぼく、こんな鳥見たことないよ」

「そらそうだ。タンチョウ――俗に皆が言う『鶴』は、もう日本にほとんどいない。北海道で数十頭がひっそりと生きてるだけだ」


 北海道ってどこだ、と彼は聞かなかった。

 俺の言葉に耳を傾け、ひとつも聞き漏らさないという気概すら感じる。思えば、俺たちはここにきて初めてまともな会話をしたことに、今更になって気づく。


「鶴ってのはな、『渡り鳥』ってんだ」

「渡り鳥?」


 彼の期待に応えるよう、俺も言葉を紡ぎ続けた。

 齢五つか六つの児童が聞いていても楽しくない話のはずだが、彼の興味はすっかり白い鶴へと移っているように見える。


「もっとずっと遠い寒いところで生まれて、冬になると日本にやってくるんだ。生きるために、暖かい日本に来るんだよ」

「どのくらい遠く?」

「もう、俺たちが考えられないくらい遠くからだ。生きるために、必死になって空を飛ぶんだよ」


 俺は『はくつる』車内の天井を仰ぎ見て、自らの生態すら捨てひっそりと生きる鶴たちに思いを馳せる。


 純白の雪景色の中を、純白の鳥が舞う。

 細い体躯を風に乗せて優美に、生を渇望しながら泥臭く、空を。


 その姿を、この『はくつる』に重ねる。


「大昔にはな、東京にも来てたんだそうだ。けど、鶴が暮らす場所がなくなって、生きていけなくなった」

「みんな死んじゃったの?」

「ほとんどはな。けど、鶴たちは生き方を変えたんだ。海を渡らずに、ひとつのところに留まってひっそりと暮らす。そんな生き方にな」


 かつて、青い海と青い空の間で優雅に飛んでいた鶴は、もういない。白い雪の中で、自らの存在をひた隠しにするよう、縮こまって生きている鶴がいるのみだ。


「北海道、てところで生きてるの?」

「そうだ。数は少ないけどな。優雅に舞うこともせず、ただ生きるために、ただひたすらに足掻いて、ただひっそりと、生きてるのさ」


 そこまで言って、はっと気づく。

 鶴の姿を重ねてきたのは、この列車ではなかったのだ。優雅に北や南へ飛び交うこの『はくつる』は、あくまでも昔のタンチョウの姿だ。


 逃げに逃げ、北へ辿り着き、そこでひっそりと死を迎えようとしているタンチョウの姿を重ねてきたのは、他でもない――俺自身だ。


 憎しみの炎にその翼を焼かれ、数少ない仲間と連れ添って、北へ向かう。飛ぶことを忘れた鶴とは、まさに俺のことではないか。


 ガラス一枚を隔てて、外には雪、内には飛べない鶴がいる。

 窓に映る俺の顔が、雪原と重なる。それはまるで、力を失い地に落ちた鶴が、雪に埋もれて死にゆく様に見えた。


「ねえ、おじさん。鶴の折り方、教えて」


 茫然自失とする俺を雪の中から掘り起こしたのは、小さな男の子の声だった。

 我に返った俺は、勢いよく彼に降りむく。これから大空へ羽ばたくであろう、幼子の鶴。こともあろうに俺は、天へ昇る彼の足を掴み、地へ引きずり下ろし、翼を焼こうとしていたのか。


「あ、ああ」


 目尻から涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、俺は再び手帳から一枚、紙をちぎって彼に手渡す。彼の小さな手を取って、折り方を順々に教えていった。


「ねえ、おじさん。北海道ってどこ?」


 不細工ながらも、かろうじて形になった鶴を眺めながら、彼はそんなことを聞いて見せた。その掌に乗る鶴は、嘴は折れ曲がり、翼はよれてしまっている。とても飛び立てる姿ではない白鶴を見てもなお、彼の目は窓の外でちらつく雪のように煌めいていた。


「北だよ、ずっと北だ」

「青森よりも?」

「そうだな」


 表情から感情を悟られるのが嫌で、俺は再び煙草に火を付けて、窓に煙を吹きかける。悔やむ念に苛まれる酷い顔を隠すよう、できるだけ濃い煙を、窓に。

 白く流れいく雪景色よ、どうか俺の姿を映さないでくれ。


「じゃあさ、青森に着いたら、北海道に行こうよ。ぼく、おじさんと一緒に鶴が見たいな」


 濁った煙で自らの姿をひた隠しにしている最中、小さな子供の声が、俺の姿を露わにさせた。煙は散り、雪景色の中にくたびれた鶴の姿が灯る。


「北海道に着くまでに、ぼく頑張って鶴を折れるようにするよ。鶴が飛ぶところ、見たいな」


 小さな彼の背に、大きな翼が生じて見える。

 彼は俺とは違う。彼は飛べるのだ。地に落ち、あとは死にゆく俺とは違って、青く澄んだ空を舞うことができる。


 その翼を焼く権利が、どうして俺にあろうか。

 よれたスーツの袖で目元を拭いながら、俺は手帳から何枚か紙をちぎって、彼に渡してやった。


「ああ、そう、だな。練習、しなきゃな」


 それから、彼は黙々と折り鶴を作ることに熱中していた。

 彼の小さな手では小奇麗な鶴を折ることは叶わず、ぼろぼろの嘴をした鶴だけが幾つも重なっていく。


 ただ、翼だけは、どれもしっかりと天を見据えていた。


「坊主、だいぶ上手になったじゃねえか」

「…………」

「坊主?」


 その何匹もの鶴にしばし魅入っていて気づかなかったが、いつの間にか彼は眠ってしまっていた。気づけば、すでに深夜一時を過ぎている。手先を動かし、目先の紙に集中し、疲れ果ててしまったのだろう。


「北海道、俺は一緒にいってやれねえよ」


 俺は自嘲気味にそう呟きながら、彼にそっと毛布をかけ、頭を撫でてやった。自らの片手で掴み上げられそうなほど、小さく、か弱い頭をしていた。



 ◆



『まもなく終点、青森です。本日はご利用――』


 それから俺は、一睡もすることなく、ただ流れゆく雪を眺めていた。それも段々と日の光に照らされ始め、その白さをより濃いものとしていく。一点の穢れもない純白が日の下に広がったその最中、白い鶴が翼を休める旨を伝えるアナウンスが車内に響き渡った。


「坊主、起きろ。青森だ」


 男児の肩を何度も揺すると、彼は目をこすりながらゆっくりと瞼を開いた。窓から差し込む光に目を細めていたが、やがてそこから除く純白の絨毯に、しばらく時を忘れて目を奪われていた。


「すごいや」

「北海道はもっとすごいぞ。行けたらいいな」

「そうだね。おじさん、早く降りようよ」


 興奮冷めやらぬといった感じで、彼は俺の手を強く引く。すると、まるでその様子を見ていたかのように、列車はこれまでにない大きな警笛を鳴らしながら、段々と減速していった。


「坊主――えっと、名前をまだ聞いてなかったな」

「太一」

「そうか。太一、降りるぞ、忘れ物するなよ。しっかり俺の手を握ってろよ」


 彼――太一の眼前に、すっと手を伸ばす。太一は抵抗することもなく、それを強く握りしめた。この小さな手を、大きな翼を、俺は引きちぎってならない。彼は大きく、これから羽ばたくのだ。


 飛ぶことを忘れた白鶴の手から、北の地で止まった『はくつる』から解き放たれ、雪景色を眼下に優雅に飛ぶ。その雪景色の下に、俺のような汚い鶴の屍体が眠っていることなど、意にも介さなくていいのだ。


 そのことを俺は胸に秘め、太一の手を引いて、列車の扉の前に立った。吐息にも似た機械音が響く中、それはゆっくりと開いていく。


 扉の先には、晴れ渡った瑞々しい空と、流れることを忘れた透き通る雪景色と――



「川尻健三、だな」



 青い服に身を包んだ屈強な男数名が、俺たちを出迎えた。


「ああ」


 俺はすべてを諦め、すべてを手放す。

 北海道で鶴を見る夢も、心を焦がした復讐の炎も、太一の小さな手も。


「確保――!」


 ゆっくりと両手を挙げ、目を瞑ったその瞬間、怒号にも似た声と同時に男たちが俺を床へと叩きつけた。不思議と痛みはなく、ただひたすらに太一の様子だけが気がかりで、コンクリートの床で頬が擦り切れるのも厭わず、首を動かして太一を探した。


「午前七時五分、川尻容疑者の身柄を拘束しました。同時、誘拐されていた島崎太一ちゃんとみられる男児を保護。外傷等は見受けられません」


 視界の隅で、何やら無線に向かって話す警官と、屈んで太一の身を庇う警官の姿が確認できた。太一はきゃろきょろと周囲を見渡し、困惑の色を表情に浮かべている。


 自らの伯父を名乗っていた男が、警察にその身を伏せられ、今まさに手枷をつけられようとしているのだ。一緒に北海道で鶴を見ると約束した男が、警察に体を無理やり起こされて、連れていかれようとしているのだ。


「おじさん!」


 二名の警官に両脇を固められ、駅のホームを去ろうとする俺を、太一は必死に呼び止める。俺の下へ駆け寄ろうとするところを、必死に警官が抑え込む。静かな朝の雪景色に、太一の悲痛な声が、染み入っていった。


 すまない太一。

 俺はお前の伯父さんではなく、本当に縁もゆかりもないただのおじさんなのだ。


 縁があるとすれば、お前の母だ。

 俺はお前の母に、すべてを奪われた。愛していた、婚約していた、なのにあの女は、金や印鑑や通帳もろもろを奪って、立ち去ろうとしていた。


 生きる意味も、生きる場所も奪われた。

 だから俺もあの女から、何かを奪ってやろうと思ったんだ。あの女が唯一自前で手に入れたもの――太一を。


 俺もあの女の息子も、同時に葬ってしまおうと、『はくつる』へ駆け込んだ。遠い北の地まで、あの世まで、白い鶴になって雪景色を駆け抜けようと。


 だけど、どうしてそれができようか。

 お前には、翼があるというのに。飛べない鶴は、生き場所を奪われた鶴は、一匹で十分だ。


「おじさん――!」


 太一の声が段々と遠ざかってゆくのを背中で感じながら、俺は涙が溢れるのを堪えることができなかった。駅のホームに微かにこびりついた雪に、涙が滴って、薄い染みを作っていく。


 血が滲むほどに下唇を噛んで、俺は必死に体の震えを止めた。

 そして、これから空を舞うであろう小さな鶴の大きな翼に、思いを伝える。

 


「太一、お前は飛べよ」



 俺はもう、飛べないから。



 ◆



 あれから、三十余年ほど経った。


 俺は然るべき手順で、然るべき判決を受け、然るべき年月を塀の中で過ごした。太一はあれからどうしているだろうかと気にならないはずはなかったが、その資格は俺にはない。


 判決だとか服役に、まったく文句はない。

 それほどのことを俺はしでかした、自らの翼を自らで焼いたのだ。


 俺が飛ぶことは叶わなくとも、時代は移ろう。

 俺の最後の思い出――国鉄や『はくつる』、その姿はもうない。新幹線の台頭とともに寝台列車は役目を終え、段々と時代の波に飲まれていった。それはまるで、住処を奪われ地に足を付けた、タンチョウに似ている。


 そして飛べない鶴であるまた俺も、地へ還るその時を迎えようとしていた。


「川尻さん、検温の時間ですよ」


 服役の期間を終えてすぐ、大病を患った。難しいことはよくわからないが、医師曰くそう長くはないらしい。入院することとなってから数ヶ月、自らの体を動かすこともままならなくなり、意識もはっきりとしない時間が増えた。


 結局、俺はどうあろうと飛べない運命であったのだ。

 タンチョウがその生態を変えて細々と生き長らえているように、『はくつる』がもう夜の雪景色の中を駆けていくことがないように、一匹のくたびれた鶴はここで終わりを迎える。


 今は一月、時節は冬。

 この東京でも、先日は大雪が降った。空から散る結晶は、やがて白い粒となり、それは地を覆った。病室の窓からは雪化粧が施された街並みと、純白の絨毯に覆われた中庭が見える。


 まだ十八時を回ったばかりではあるが、日はすっかりと落ち、空は闇に覆われ、電灯が白く染まった世界を照らしている。それを見て、俺はあの数十年前の出来事を思い出す。二匹の白鶴が、雪景色の中をひた走った、あの夜を。


 あの大きな翼を携えた鶴は、太一は、飛べたのだろうか。


「そうだ川尻さん。なんかね、差し入れが届いてるんですよ」


 二度と交わらぬ人生に思いを馳せている最中、検温に訪れた看護師が私に話しかける。今日は思考だけは比較的はっきりしているが、体はどうにも動かせない。それをわかっている看護師は、私の返答を待たずして矢継ぎ早に言葉を続けた。



「千羽鶴、ですって。匿名の方から届いたとか。気味悪いかもわかりませんが、とりあえず窓際に飾っておきますね」



 鶴――その言葉を聞いて、俺の指先はぴくりと動いた。


 数多の鶴に囲まれて死を迎えるだなんて、俺にぴったりの冥途の土産ではないか。翼を失くした鶴の下へ、大空を舞う色取り取りの鶴たちが迎えにやってくる。最高か、それとも皮肉か、口元は動かせないがにやついてしまいそうになるではないか。


 最後の力を振り絞って、俺は首を窓の方へと動かす。

 千もの、大きな、色とりどりの鶴が――



「――はく、つる」


 

 そこには、なかった。

 窓際で佇んでいたのは、どれも純白の、白鶴であった。


 外の雪景色に溶け込むような、純白の体。

 二千枚にもなる、大きな純白の翼。


 窓のカーテンレール部にぶら下げられた白い千羽鶴を、ベッドに横たわりながら下から見上げる。その姿はまるで、数千里を超えてやってきた、雪景色の中を飛ぶ白鶴の大群に見えた。


「あ、ああ……」


 かつて大空を我が物にした、優雅な姿が、そこにはある。

 霞みゆく意識の中で、俺には確信があった。家族も知人もいない俺に、白鶴の千羽鶴を送る人間など、一人しかいないと。


 震える腕を必死に伸ばし、千羽の内一匹の鶴に手をかける。そしてそのまま、その折り鶴をゆっくりとほどいていった。


 この白鶴を形成していたのは、小さな罫線ノートの切れ端であるようだった。これもまた、俺には見覚えがある。そしてその小さな紙の隅に、ノートに印字されていたものであろう文字が、俺の目に飛び込んできた。



『タンチョウ保護研究グループ』



 そうか、あの小さな鶴は、力強く羽ばたいたのか。

 その羽ばたきは自らのためでなく、仲間のために。

 その翼は、かつての『はくつる』と同じく、北へ。



「太一、お前、飛んだんだな」



 伸ばした腕から力が抜けると同時。

 千と一羽の白鶴が、窓の外に見える雪景色の中に、翼を広げて飛んで行った。

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白鶴は雪景色の中に 稀山 美波 @mareyama0730

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