ありふれた蝶

 それから2年近い時が流れた。

 どうして彼が死を選んだのか、その理由は未だによくわからないけど――彼はきっと蛹になりたかったのだろうと私は思っている。

 もしくは美しいものを――自分自身を彼が美しい女たちにそうしてきたように壊したくなったのか。

 多分、両方だ、そうでなければわざわざ鏡の前で死ななかっただろう。

 あの後の事は何にも覚えていないけど、溶けた彼を見つけた後、私はあの屋敷を脱出したらしい。

 それでその後警察に保護されたらしい――少女連続殺人犯に監禁されていた被害者として。

 事情聴取とかされたらしいけど、一切合切覚えていない、記憶がすっ飛んでいる。

 凶悪な殺人鬼に半年以上捕らえられていた上にあんなものまで見たのだから仕方がない、と医者は言っていた。

 ブツ切れの記憶が正常になった頃には、3月の末になっていた。

 その頃になって、身体と心が日常に戻ることを欲したので社会復帰することにした。

 大学2年生だった私は普通にダブることになったけど退学はせずに復学することにした。

 元々一人暮らしをしていたアパートに戻る事を、可愛い次女が殺された両親は大反対したけど、それでも押し切った。

 だって、実家から大学はすごく遠いのだ、ギリギリ通えないこともないけど、それでもものすごく面倒だ。

 そういう理由でゴリ押して、私は自由のない監禁生活から悠々自適な一人暮らしに戻ったのだった。

 世間一般的には美しく悪魔のような妹が唐突に襲撃してくる苦痛のない一人暮らしは、とても不謹慎だけど気が楽で、なんだか楽しくて前向きになれた。

 妹がいなくなったことで、私はどうやら真っ当な人間になることができたらしい。

 今まで1人もいなかった友達ができた。

 私のことを心配して話しかけてくれた優しい娘、いつもなら妹が有る事無い事吹き込んで遠ざけてせせら笑っていたのだろうけど――死人に口なし。

 優しい子は誰に何を吹き込まれる事なく、友達のままでいてくれた。

 それからどういうわけか自分でも意味不明なんだけど………………………………恋人ができた。

 大学三年生、本当なら四年生になる年にバイト先の書店で出会って――どうしてこうなったんだろうねホント。

 いやあなんかバイト始めてから数ヶ月後に急にゴリ押されたんだよな、意味不明なんだけど。

 断ろうとしたけど断りきれずになし崩し的にこうなってしまった、一体こんな醜女のどこに好きになるポイントがあるというのか……

 詐欺か内臓売られるかのどっちかだと思ったんだけど、今のところは何もない。

 ああ、でもバレンタインだからと高級チョコレートをせがまれた。

 1ヶ月後の謝礼であるという高級中華のフルコースに目が眩んで普通に買ってきてしまった。

 これで高級中華がなければ完全に詐欺である、随分としょぼい詐欺だけど。

 でも詐欺だったら超激辛唐辛子パウダーをあのグラサン坊主頭の口の中いっぱいに詰め込んでやろうと思う、軽犯罪で私がひっ捕らえられそうだけど。

 高級チョコレートを携えて恋人のアパートに急ぐ。

 八つ時に着けばちょうどいいけど少し早くに着きそうだ。

 少しの間てくてく歩いて、奴のアパートにたどり着く。

 高級チョコレートを手渡して終いだと思っていたのだけど、坊主頭の恋人に部屋にあげられてしまった。

 視力に問題があるということで、部屋の中でも彼がグラサンを取ることはない。

 そんなに悪いのだろうかと少し心配になる時もある、だからこんな醜女を恋人にしようと思ったのかなとも思う。

 目が悪いのであれば醜女も美女もなんの変わりもないのかもしれない。

 なんて考え込んでいたらコトリと目の前に温めた牛乳が置かれた。

 ついでに私が買ってきた高級チョコレートも数粒置かれる、どういうことだと顔をあげたら、一緒に食べよう、と。

 なんか甘そうなのばっかり押し付けられたなと呟いたら、お前はカフェオレすら飲めない甘党だろうと言われた。

 確かにその通りではあるのだけど、彼にそれを言ったことがあっただろうか?

 まあいいかと思って、チョコレートを一粒口の中に放り込む。

 美味しい、甘い。

 流石高級チョコレート、と思いながら温めた牛乳を一口飲んで、チョコレートをもう一粒、といったところで目の前に座る自分の恋人の奇行に気付いた。

 彼奴はその指先で、私がせっかく買ってきた高級チョコレートを潰してドロドロに溶かしていた。

 なんかこれ、どっかで見たことあるな?

 ――あれ?

 ――あれれれれ?

 こちらが硬直したことに気付いた恋人が、口元を吊り上げた。

 それもどこかで見たことのある笑みだった、具体的にいうと2年くらい前に。

 ――蛹。

 あの水槽は、多分蛹だった。

 薬品でドロドロに溶けた『彼』が『彼』であると断定されたのは、残っていた髪が殺人の現場に残っていたそれと同じものであったから――であるらしい。

 芋虫は、一度ドロドロに溶けてから蝶になる。

 あれが『蛹』であったのなら、その先がないのは確かにおかしかったのだろう。

 ああ、話のオチが見えてきた。この人は確かに『綺麗』に生まれ変わったのだろう。

「そういう、ことですか……」

 深く息を吐く出すようにそう言うと、殺人鬼は笑みを深めてこちらに指先を伸ばしてくる。

 その指先は私の唇をゆっくりとなぞって、口の中に入ってくる。

 その指先は、あの日と違って苦かった。

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蛹の中身はチョコレート 朝霧 @asagiri

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