創作三国志短編集

神崎あきら

夏侯惇1800年周忌 薫風

 草原を駈けていた。

 眩しい太陽の光を受けて若草が大海原のようにどこまでも広がっている。向こうには小高い丘が見える。


 あの丘に登れば雲に手が届きそうだな、と曹操が言った。幼い夏侯惇はそれが何だかすごいことに思えて、小さな目を輝かせて七つ年上の従兄を見た。


「惇、あそこまで競争しよう」


 曹操が丘を指差しながら言った。うん、と大きく頷いて夏侯惇は走り出した。曹操も軽やかに駆け出す。小さな夏侯惇はすぐに追い抜かれてしまった。曹操の背中を必死で追う。足がもつれそうになり息が上がってくる。どんどん遠くなる曹操の背中をただ見つめながら走った。


「遅いぞ!惇」


「待ってよ、孟徳!」


 曹操の背中はいよいよ小さくなり、とうとう見えなくなった。まだ丘は遥か遠い。夏侯惇は立ち止まって曹操の姿を探した。何処にもいない。空を見上げると透き通るような青空が眩しくて目を細める。不意に悲しくなり、夏侯惇はぽろぽろと涙を流し始めた。足の力が抜け、膝から崩れ落ちる。


「もーとく、孟徳…!」


 夏侯惇は曹操が消えた方に向かって手を伸ばす。


行 か な い で …!



 身体は横たえられている。何度か瞬きをすると、見慣れた天井の文様に徐々に焦点が合ってきた。寝台の上に横たわり、腕を伸ばしていることに気付く。節くれだった己の手の甲を眺めながら夏侯惇はふと笑った。


「夢か…」


 懐かしい夢だ。もう記憶の彼方に消え去った幼少の記憶。何故そんな夢を見たのだろう。ああ、そうだ。少し前に同じように悲しい気持ちになったからだろうか。


「…!」


 夏侯惇の伸ばした手を誰かが握った。


「孟徳?」


 寝台の傍に曹操が佇んでいる。温かな曹操の手の温もりに夏侯惇は握る手に力を込めた。


「泣いているのか?」


 曹操の声。何故か懐かしかった。意志の強さを感じさせる、しかし穏やかで優しい声。俺が泣いている?気がつかなかった。曹操の指が夏侯惇の目尻をそっと撫で、涙を拭った。


「孟徳、どこに行っていた」


 夏侯惇は起き上がろうとしたが、叶わなかった。どうしたことか、体が泥の中に沈み込んでいく鉛のように重い。ゆっくりと曹操の方へ頭だけを向ける。曹操は穏やかな笑みを浮かべている。しかし、やがて視界がぼやけて滲んできた。


「遠くだ、だがお主を迎えにきた」





 気がつけば、曹操と二人草原に立っている。薫風が頬を撫でる。白い雲がゆっくりと北へ流れてゆく。曹操と繋いだ手の温もりは確かだ。


「あの時も、お主は泣いていたな」


「孟徳がいつの間にかいなくなるからだ、…でも戻って来てくれた」


 あの時、泣きじゃくる夏侯惇のところに曹操は走って戻って来て、そして一緒に手を引いて歩いてくれた。ごめんな、とばつの悪そうな顔をしながら謝ってくれた。


「俺はいつも孟徳の背を見ていた」


 夏侯惇が草原の彼方に見える丘を見つめながら言う。


「お主が側にいたから、儂はずっと駆けてゆけたのだ」


 曹操が夏侯惇の頬に手を添える。夏侯惇はその手に頬を寄せ、己の手を重ねた。


「一緒に行こう」


「ああ」


 ふたりは歩きだす。


―どこまで行く?

―どこまでも、一緒だ。

 



 柔らかな夏草が風に揺れていた。



*延康元年4月25日*

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創作三国志短編集 神崎あきら @akatuki_kz

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