2話-1 甘やかな郷愁

 ユーグの幼い頃の記憶は白黒だ。曖昧で、色がついたものなど何もない。多分、母親がいて妹がいた。父親は知らない。そこで幸せだったかも分からない。というのも顔すらぼやけてしまうほど昔に母は死んで、妹とともに国の孤児院に送られたのだった。妹は早くに引き取り手が見つかったがユーグは見つからなかった。その時の感情は覚えていない。別に感情が欠落していたなどとかそういったことはないから、多分普通に悲しかったのだろう。兎にも角にも、よく覚えていないのだ。

 記憶が鮮明になるのは八つの時から。よく覚えている。その時のことだけは、はっきりと。



(天使だ)


 紛れもなく、そう、思った。

 ユーグは朝起きて、みんなに配られる毎日同じ味のパンを胃に入れた。輪郭すら分からない白黒の友達とかけっこをして遊んでいた。陽の光さえ薄く差し込んだ白だった。

 走っている間にユーグはいつの間にか転んでいた。そこにすっと手が差し伸べられた。驚いた。小さな手のひらがあんまりに可愛らしくて綺麗で、現実のものと思えなかったから。


「ねえ」


 鈴のような声。

 顔を上げると、そこには天使がいた。よく覚えている。世界に色がついた瞬間。

 甘い夢のような柔らかい薄紫の髪は緩く波を描いて肩に落ちる。溶け落ちそうな桃色の瞳はとろんと笑みに合わせて細まった。顔の美醜なんて今まで気にしたことがなかったけれど、紛れもなく、ユーグの短い生の中で一番綺麗なヒトだった。


「? ねーえ、聞いてる?」

「あ、え……」

「ほら、起き上がって! 立って!」


 ぐいと手を引かれるままに立ち上がると、同じ目線で天使は笑っていた。暖かい手のひらがポンポンとユーグの肩や足に触れて土を払い落としてくれる。その間も胸が動悸で張り裂けてしまいそうだった。

 天使は大きい瞳でじぃっとユーグを眺めてから、桜色の唇に弧を描かせて高らかに声を上げた。


「決まった! この子がいい!」

「え?」


 その一声で、天使の背後にいた沢山の大人たちが一斉に動き始めた。孤児院の職員たちも何故だか嬉しそうに、わあだとか、きゃあだとかという声を上げた。ユーグはただ目を白黒させて、目の前のうつくしいひとにただ視線を注ぐしか出来ない。


「俺は君を迎えに来たの」


 天使はそう言ってまたにっこり笑った。

 これが間違いなく、ユーグの人生の正しい「はじまり」だ。

 その後、天使に対して感じた非現実感とは裏腹に、当たり前のトントン拍子に孤児院の引き取り手続きは決まってユーグは慣れ親しんだ世界から送り出された。友達とのさようならは少し寂しかったけれど、それ以上の深い感慨はなかった。天使──彼と一緒に暮らせる、彼に選ばれた、という喜びだけが胸の内を支配していた。


「僕、君に選ばれて良かった」

「そう? じゃあ、俺も君を選んで良かった!」


 彼の家に行く馬車の中、その立派な内装や大人たちがぺこぺこと彼の言うことを聞く様に吃驚しながらぼうっと呟くと、そう返された。


「名前は?」


 どんどん移りゆく窓の外の景色にはしゃいでいると、それをにこにこ眺めていた彼にふと聞かれた。そんな初歩的なことすら知らなかったことに吃驚して、慌てて席の上で姿勢を正す。


「えと、ゆ、ユーグです」

「ユーグ! じゃあゆーくんね」


 簡単に名を縮めた愛称は擽ったい。


「俺はヨエル。ヨエル・マキラだよ。よろしくね」

「マキラ?」


 流れるような秀麗な響きに息をつくより先に、どこか聞き覚えのある名字が耳にひっかかる。何か、有名なものだったはずだ。ただ有名なわけではない、その響きは、特別な──。


「そろそろ着くよ!」


 考えてる間にヨエルはきゃっと声を上げて馬車の窓から身体を乗り出した。つられるままユーグも彼が見る方へ目を向ける。


「えっ、う、うわぁ……!」


 大人の背の丈の二倍ほどもありそうな大きな門が、馬車が向かうと同時にゆっくりと開く。その装飾。立派な扉。ゆっくりと馬が歩いていくその庭には花が上品に咲き乱れていて、眩暈がするほど広い敷地のずっと遠くに巨大な邸宅があるのが見えた。

 この庭だけで村一つありそうだ。ユーグは呆然としながらだんだんと大きくなってくる邸宅を指す。


「こ、これが君のお家?」

「そうだよ? そう言ってる。さっきの門からはもう家だけど、屋敷が遠くて面倒なんだよねえ。敷地内に別宅もあるからそこに泊まってもいいじゃん? と思うけどよく分かんない規則で制限されてるし!」


 ヨエルはさも当たり前のように愚痴を漏らす。

 思い出した。

 マキラとはこの国の神官の名だ。

 ユーグがいた孤児院は王都近くだったこともあり巫女信仰に基づいた教育が行われていた。毎日のお祈り、そして週に一度の勉強の時間。その名は毎回とは言わずとも頻繁に出る重要単語だった。

 この国を守るのは機械仕掛けの神であり、またそれと同化しうる預言者である巫女である。しかしそれだけではない。巫女はある役職によって支えられる。それが神官だ。神官とは他国のように神職全般を表すものではなく、この国では巫女が変わるごとに選ばれるたった二人の人物のことを指す。

 それは少々特殊な引き継ぎ方をしている。神官の家系というものが存在していて、神官は必ずその家系の男から選ばれる。もう一人は、地位や身分に関わらずその神官の家系の男が選んだ人物が成る。血脈での代替わりと公募に近い代替わりが同時に行われているという訳だ。

 その神官の家系の名が、マキラである。

 本当だとすると、ユーグは王族を除く国で一番の名家に引き取られたということになる。先程から驚きに口を開きすぎて顎が外れそうだ。

 覚束ない足取りで馬車を降りると、ヨエルは待ちきれないといった風にぐいぐいとユーグの袖を引っ張った。「こっちだよ」と言われるままに歩くと、絢爛なシャンデリアが下がるお城のような玄関が表れまた目眩がした。飾ってある彫刻や絵画も、一々高価そうで気が休まらない。ヨエルは慣れきった様子で(彼の家なのだから当然だ)螺旋階段を登った先で手を振ってきた。


「こっちだよ! 俺の隣の部屋に用意させたんだ」

「待って、ヨエル」


 頬を蒸気させて彼が廊下を走り出す。ユーグの方を見ながらつんのめって走るものだから不安になって声をかけるも、その思いも虚しく派手な音を立てて彼はすっ転んだ。誰かにぶつかったらしい。


「痛ぁ!」

「おい、前見て歩けよ!」

「いたぁい……」


 キンキンした声が鋭く響く。泣きそうなヨエルのもとに慌てて駆け寄ると、衝突した相手は二人を見下ろしながら「お前かよ」とため息をついた。

 二人より少し年上の少年だ。薄く日に焼けた肌や健康的な太さの足は自分にはない溌剌さを感じさせる。短く切りそろえられた茶髪の下で、青の瞳がユーグを捉えて不信げに歪んだ。


「誰お前?」


 少年はそう言ってじろじろとユーグを頭から爪先まで眺めた。

 そして、顔を顰めて一言。


「へー、汚いの」

「は……」


 唐突な罵倒に思考が追いつかない。少年は最早興味を失くしたようで、ついと顔を背ける。


「ミハエル、行こうぜ」


 茶髪の少年はそう言って壁の影にいたもう一人の少年の手を引く。少年より一回り小さな影は申し訳そうな顔をしながらもユーグとヨエルにぺこりと小さく会釈をして、共にいなくなっていった。

 ヨエルが風船のように頬を膨らませる。


「失礼! 本当に酷い!」

「あれは誰?」

「んっと、あの人はウィルテッドさん。えっとね、俺の兄様の友達? かな。嫌な人だからあんまり近付かないようにね。あと、さっきウィルさんと一緒にいたのが兄様。ミハエル・マキラだよ」


 言われて、壁の影にいた少年の顔を思い出そうと思ったが上手く描けなかった。ヨエルと同じ薄紫色の髪をしていたことは何となく覚えているが、顔はあまり似ていない。


「いいよ、あの人たちの話は。はーぁ。それよりも」


 彼は頭に上った血を引かせるようにパタパタと顔を手で仰いでから、ユーグの顔を覗き込む。


「ゆーくんは兄弟いた?」

「んー……」


 妹がいたことは確かであるが、名前くらいしか知らなく、よく覚えていない。何しろ生まれたてと言っても過言ではないくらいの赤ん坊だったのである。それを兄妹と言っていいかも微妙だったので、ヨエルには曖昧に笑って誤魔化しておいた。


「そっか。でも兄弟がいたとしても、これからは俺が、俺だけがゆーくんの家族だよ。あと友達!」


 全てを塗り替えるような可憐な声音は、優しくユーグを包み込んだ。家族。与えられた名前からじんわりと暖かさが伝わってくる。思えば、今までまともに家族と呼べるような人はいなかったかもしれない。その一番初めに名を連ねるのは、このうつくしい少年なのだ。

 ただこくこくと頷くと、彼は満足そうな色を浮かべてユーグの手を引いた。その先には立派な扉が二つ並んで鎮座していた。


「これが俺の部屋。隣がゆーくんの! ここ!」


 開けられた扉の先には今まで寝ていた部屋のゆうに三倍はありそうな、個室が広がっていた。


「にしても、荷物何もなくて良かったの? 一応必要そうなものは全部揃えてあるけど」

「う、うん」


 元々共用のものが多く、ユーグ個人のもので大して大切なものなどなかったから置いてきただけなのだが、持ってこなくて良かったと心底安堵した。きっとこの部屋に置いては見劣りするようなものばかりだったからだ。

 その後二時間ほど、探検と銘打って屋敷を案内してもらった。見慣れない世界はどこをとっても新鮮な驚きだったが、一通り歩き終わってふたりきりで夕食を食べてお風呂に入ってと日常の動作を行っているうちに早鐘を打つ心臓も落ち着いてきた。


「じゃあ今日は寝ようか、疲れたね」


 丁寧に隅から隅まで案内してくれたヨエルは、少し疲れた顔をしながらも終始楽しそうに笑顔を崩さなかった。その笑みが「また明日」のときに少し翳ったのがチクリと胸を刺す。


「ねえ、ヨエル」


 だから、何も考えず口を開いてしまった。自分より少し小さい綺麗な手のひらを、自分の手に重ねる。


「あの、今日はね、今日だけでいいから」

「ん? うん」

「いっしょに寝ていい?」


 まだいっしょにいたいから。たどたどしく希望を伝えると、ヨエルは一瞬きょとんとした顔をしたがすぐに顔を明るくして首がちぎれるほど激しく頷いた。


「もちろん!」


 上等な寝間着に身を包み、ヨエルの部屋に入る。ユーグに用意されたものと大して作りは変わらなかったが、おもちゃやぬいぐるみでごちゃごちゃとしていて、それでも何だかいい匂いがした。

 二人でふわふわのベッドの中に入り込む。天使だと思った、今でも天使だと思っているヨエルの綺麗な顔が目の前にある。彼は無邪気ににこにこ笑って、毛布の中で足をばたばたと動かした。


「誰かといっしょにおやすみするの初めて! 楽しいね、毎日やろう!」

「うん……」


 微睡みの中、ぱちぱち動く彼の柔らかい睫毛を目で追った。暗闇の中で毛布をかぶっていても、彼だけが光を灯したように明るい。

 何で君は僕を選んでくれたの? 同じくらいの年の君が、わざわざ子供を選ぶ意味は何? お家に理由があったりする? わざわざこんな僕を、どうして?

 様々な問いが頭に浮かんだけれど、それをいざ口にしてしまうと魔法が一瞬で溶けてしまいそうで、ユーグは何も言えなくなった。


「ねえ、ゆーくん」

「なに?」

「名前を読んで?」

「……ヨエル?」


 桃色の瞳が笑みに合わせてとろりと溶ける。


「うん、そお」


 半分寝かけたほわほわとした喋り方のまま、嬉しくてたまらないといった様子で彼はクスクスと笑った。小鳥が鳴いてるみたいな笑い声だ。その甘い響きに作為も何も感じない。


「俺、たぶん、ずっと君に会いたかったんだあ」


 願いは宙に浮いて揺蕩う。


「ゆーくん、俺とずっといっしょに……」


 ふっと声は不自然に途切れた。見るとあどけない顔で寝息を立てている。

 はしゃぎすぎた幼児のようだとユーグは小さく笑って、ずれた毛布をかけ直してあげた。いそいそとヨエルの隣に身体を滑り込ませ、自分も瞳を閉じる。不思議なことはあっても、目の前のヨエルが愛しくて仕方なくて、初めて会ったとは思えなくて、これから何より大切な友達になると確信することができた。

 こんな夢のようなことがあるだろうか。三人集まっても寒いような薄っぺらい布団で寝苦しさを誤魔化し誤魔化し眠りについていた自分が、身体全体が沈み込みそうなふかふかのベッドで天使と見まごうような少年のそばにいる。

 浮ついた気持ちのまま眠りに落ちると、紫と桃色の色彩に溢れた、華やかで可愛らしい夢を見た。それでも目を覚ますのが待ち遠しく思うくらい、本当に楽しくて嬉しくて、幸せだった。

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シュプレヒコールが終わらない 伊予 @iyoiyoku

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