1話-3
「巫女姫」
扉を開ける。巫女は寝転がったまま緩慢に瞳を開いて、訪れた男の名をゆっくり呼んだ。
「ユーグ」
「元気?」
「しらない」
「知らないことはないでしょ、自分のことだよ」
からかうように笑うも、彼女は反応を返さなかった。緩く波打つ亜麻色の髪は、彼女を守るように丸く広がっている。人形のようなその様に彼は小さく肩をすくめ、お構いなしに彼女の隣へと腰掛けた。
男は、ヨエルと対になるような形と色の格好をしているが、彼とは違って大きく服を着崩しているためおおよそ真面目な印象は受けない。それでも、この国にいる神官の正当なる一人である。
ユーグ。平凡な緑の髪と、血のような赤の瞳。名字はない。
「巫女姫、今日の晩御飯のリクエストはある?」
「……ミ、」
「巫女じゃない姫じゃないは聞き飽きたよ」
そう先んじると、彼女は小さく唇を尖らせた。もぞりと起き上がって、ユーグの方へ頭を移動させてまた寝転がる。ヒトというより犬や猫などの愛玩動物のようだ。
「なんでも」
「分かった。じゃ、そう伝えとく」
「ねえ」
「ん?」
「なにをしたの」
なにって、何? と笑顔で返そうとする前に、瞳で射抜かれた。大して珍しくもない焦茶の大きな瞳孔が真っ直ぐにこちらを見据えてくる。これは真面目な質問であるのだと。
この瞳が嫌いだった。懸命に隠している何もかもを暴かれてしまうようで。
「ヨエルに、なにをしたの?」
彼女が神官の片割れの名を添えて、もう一度言い直す。顔が引き攣るのを感じた。
「何か言われたの?」
無言。
「……あいつが来たの? 一人で?」
出来るだけ一人の行動は慎めと言っているはずなのに。
返ってきたのは小さな首肯。
「ああ、そう……」
生返事をしながらその事実を咀嚼する。大したことがないように思われる。ヨエルがここに来た事自体は。問題は人に対してあまりに鈍感な巫女までが彼の違和を感じ取ってしまっていることだ。小さな綻びから全ては崩れる。それを忌避した上での言いつけのはずだった。
疑問を持たれている? 暴かれた?
ぞっと背筋が冷える。
──だが、それがどうした? だからといって、彼らに何ができる? 余計なことは考えるな。ただ、前だけを見ろ。
ふっと首を振って無駄な考えを取り去る。巫女が真ん丸な瞳でこちらを見つめてきていて、ああ、言葉を待っていたのかとようやく気付いた。にこりと笑う。
「説明する気はないよ、意味ないでしょ?」
「じゃあなんで」
彼女が緩く脚を曲げるとガシャリと重々しい音が鳴る。機械仕掛けの脚は大層な仕掛けが施されている割に満足に歩けるわけでもない。
「サイキン、さわがしいの」
さっきの「じゃあ」は話題の切り替えだったのだと気付く。分かりづらい。
「分かる? こっちもわりと忙しいんだ。まあ、僕にはあまり関係ないけど」
名家、ラスキン家の当主が逃亡したとの噂で城内はもちきりとなっている。彼が起こした「不祥事」と共に。ユーグには跡取りだの思想の扇動だの宗教的犯罪だのよく分からなかったが、彼も一種の被害者だと思った。タイミングや情勢や諸々が上手く噛み合わなかっただけで、彼は普通に生きていけることが十分に可能な人だったろうと思う。変化に飲まれてしまった。それでも、可哀想に、という感情以外沸かない。上手く自分を操れなかった時点で負けは負けに違いない。
「気にしなくていいよ。もう一度言うけど、“意味ない”よ」
嘘はない。気にしなくていいのは本当。意味がないのも本当。ただ、『ユーグ』には関係がないが、『巫女』たる彼女には関係がある話だった。笑顔の靄で曖昧にして、彼女の顔にいくつものヴェールをかける。
ヨエルにもそうしているように。
「……」
「どうせ出れない」
この国でただひとりの巫女。ふたりきりの神官。静謐の中の閉ざされた世界で、宝物のように囲われる。慈しみに優しく浸される。
そんなの、監禁という暴力と何も変わりない。よく分かっている。だからこそ、こうしている。
巫女は静かにユーグを睨みつけた。
「やな、ひと」
「そうだね」
笑う。確かに巫女に相対する自分は間違いようがなく「嫌な人」だ。そういう人を目指したから、そう成った。弱い自分を強く装うためには、自分よりも弱い者を虐げなければならない。これは強くなることとは違う。でも、今の自分に必要なのは簡単に分かりやすく自分と他人を騙せる人格だった。結局これも、借り物に過ぎないが。
(……僕は、上手くやる。やってみせる)
この国には既に、巫女も神官もいない。
ただし、それを知らない人間が二人だけいる。それがヨエルと巫女。これが真実だ。神官と巫女、たった三人のコミュニティでユーグは二人を騙し続ける。
「巫女姫」
「なに」
「ずっとそのままでいてね」
その目的は、郷愁に基づいた復讐だ。
目を閉じる。
瞳の底に蘇った景色では、ヨエルと同じ顔をした悪魔が、天使のように清らかに微笑んでいた。
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