1話-2
真っ白な空間だ。壁も、床も、ただ一つある円形の寝台も、全てが色を宿さない。空間自体が円錐状で、上に行くに連れて緩やかに狭くなっている。神秘的というより無機質なその部屋で、唯一色を持つ少女はうずくまって静かに眠りについていた。天井から差す光は祝福のように透明に降り注いでいる。
「巫女様、失礼いたします」
その停止した世界に波紋を起こしたのは、若い男の声だ。綿菓子のような薄紫色の髪をした男は、寝台へ向かって膝をついた。裾の長い服が床に広がる。重く厚く、風通しも悪いその布が形作るのは伝統的な神官の服だ。
神官とは、巫女の補佐となり、彼女が伝え聞いた神の言葉をさらに民へと伝える、預言者の預言者である。神官は王の代替りごとに二人ずつ選ばれる。
その片割れである彼、ヨエルは眉を潜めた暗い表情のままもう一度寝台へ声を投げかけた。
「巫女様、起きていらっしゃるのですか」
「……ミコじゃない」
もったりとした幼い声が投げかけられる。シーツの中に潜り込むようにして眠りに落ちていた少女がようやっと目を覚まして、ゆっくり、ゆっくりと身体を起こす。
「……ミコじゃない」
その響きを真正面から受け止めて、ヨエルは困ったように眉尻を下げて笑った。仕方がない。自分は彼女の名前を知らなかった。ただ彼女の役職通り巫女と呼ぶしかない。
「申し訳ありません」
「なんのよう」
「少し相談に乗ってもらいたかったのです」
巫女はずりずりと這うように移動し、ヨエルのそばへ寄ってくる。座らないのかと目で問うてくるので、恐る恐る端へと腰掛けた。近くで見る寝台は、彼女が転がるように移動するせいでシーツがぐしゃぐしゃになっており、特に清浄でもなかった。
「なにもできない」
「聞いてほしいだけです。あまりお気になさらず」
「ふうん」
喋るのが得意ではないらしい巫女の言葉は、一つ一つの発音に抑揚がなく、切れ目もあまりないので聞きづらい。言葉自体をあまり理解していないようだ。
彼女は身体を起こす気さえ起こらないらしく、ただ仰向けのままぼうっと天井を見上げている。ヨエルが見る彼女はいつもこういった調子だった。基本的に巫女は生きているのかいないのか、それさえも分からないような曖昧な反応しか示さない。それが自分にとっては都合が良かった。
ゆっくりと口を開く。
「私には、記憶がありません。記憶喪失なのです」
しん、と静寂が満ちる。ゆっくりと深呼吸をしてから、再び口を開く。
「信じられないと、言われるかもしれません。でも本当です。私は数ヶ月前に生まれ落ちたと言っても過言ではないのです。私は身の回りのことも、自分自身すらも分からない」
声は掠れるように消えていく。巫女が頭をもたげた。無垢な瞳でじいっとヨエルを見回し終わると、興味なさげにまた寝台へと倒れ込む。
「わからない」
意味が、と頭の中で補完した。
手をゆっくりと閉じ、開き、自分が自分であることを確かめた。感触は確かにそこにあったけれど、それは確たる根拠とするにはあまりに不確かだ。震えを抑えるために目を閉じ、言葉を継ぐ。
「人をその人と定義づけるのは一体何なのでしょう? 私には分かりません。身体が私ですか? 心が私ですか? それとも、記憶だけが私を形作るのでしょうか? 複製された私は私足りうるのでしょうか。今の私は、泥人形以下の存在なのかもしれません」
ましてや雷に撃たれたわけでもない。
もう相談しようなどという意志はなかった。ヨエルはヨエル自身を保つために、言葉を紡ぐことで整理を試みている。巫女は愚か、白い壁も無感動にそれを反響させるだけで、自分を助けようと何かが動くことはなかった。
「巫女とは……」
知らず、声が懇願するようになる。
「巫女とは、神をその身体の一部に宿すもの。全知全能たる『機械仕掛けの神』の権能を与えられしもの。直接言葉を賜り、世に伝えるただひとりの人」
目を閉じても、眠りに落ちても、ヨエルに蘇る記憶は何一つない。夢を見た覚えすらない。真っ白で、虚無に対する恐怖だけが日に日に膨張していく。
縋るように巫女を見る。
「貴女ならば、私のことを知っているのではありませんか?」
彼女は一つ、瞬きをしただけだった。
「しらない」
「あ……」
我に返る。あっという間に顔が熱くなった。すぐに姿勢を正して、ぎこちなく笑顔を形作る。
「そう、ですよね」
伏せた長い睫毛が濃く影を落とす。
「すみません、巫女様に聞かせる話ではありませんでしたね。巫女様の言葉を求めている人は沢山いるのに、私だけ抜け駆けしようとするのも良くないですよね」
早口に誤魔化したのは自分自身の気持ちだ。巫女を何より大切にしなければいけないということは分かっている。神を何よりも敬わなければいけないとは分かっている。自分は神官なのだから。けれどその全てを破ってしまいたいとも思う。
ヨエルは目覚めて初めて、自分が神官なのだということを教えられた。そのために生まれてきた人物なのだと。だがその言葉を信じられるのか? 答えは、信じるしかない、だった。自分はその役目に縋って生きるしかない。だって何も覚えていないのだから。
もし『彼』が嘘を言っていたとしても。
「サイキン」
唐突に巫女が口を開いた。
「さわがしい」
白い部屋の、一つだけある窓をぼうっと彼女は眺めていた。窓と言っても、まともな景色が見られるわけではない。城下を眺めるにはこの巫女の部屋は高すぎた。遠く映るのは淡い色の山々。
「さあ……そうなのですかね。私は、外に出ることができないので」
「おなじ」
彼女が短く同意する。
騒がしいと言われてもよく分からないのは本当だった。出られないのもそうだが、ヨエルには比較対象がない。
少し無言の間が開く。物静かな彼女の隣にいるのは苦ではなかったが、今の自分が欲しいのは無の静謐より気を紛らわす情報だった。
「申し訳ありません、長々と居座ってしまって。では、これで失礼しますね」
「まって」
読みかけの本を読みに自室へ帰ろうと腰を上げかけた瞬間、声がかかる。呼び止めるだけ呼び止めて巫女は口ごもる。何事かを考えている風だった。
「あなたはあなた」
結局、長い時間をかけて彼女が口にしたのはそれだけだった。そうして彼女は諦めたように首を降って目を閉じる。それは何かの拒絶のようにも見えた。
「私は、私」
譫言のように繰り返す。頭の芯がぼうっとしていた。そうしてもう一度脳内だけで問う。自分を自分足らしめるものは何なのだろうか?
ヨエルは立ち上がり、巫女に向き直って礼をした。彼女はそれを無感動に眺める。
「ありがとうございました、巫女様。少し気持ちが軽くなったように思います」
「ミコじゃない」
「……ええ、そうですね」
きっと、彼女にとっては「巫女でない自分」でも自分の証明になるのだろう。それは、酷く羨ましい話だった。
「失礼しました」
「さようなら、ヨエル」
重い扉を開ける途中、男は一瞬寝台を振り返った。いつの間に起き上がったのか、彼女はまるで手を振るかのように身体を左右へとゆっくり揺らしている。それもそうだ。彼女には振る両腕がない。そのまろい額からは異形の角が生え、脚は精巧な機械に覆われていた。
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