最終回 さきゆき③

 国分寺で降りると、駅構内の人だかりに、少々辟易しそうになる。

 心療内科へ通いだした当初は、最寄りの駅から国分寺に来ることさえ嫌がった。

 道中、電車のシートに座る人々や、立っている人たちからの視線、声などが気になり、そうした被害をなるべく避けたかったからだ。

 この日も曇天に見舞われた。駅を出て群衆を抜けると、心療内科のビルが見えてくる。

 受付を済ませ、時間とともに診察室へと入り、椅子に腰かける。

 早苗が言っていたことと、自分の病との関わりはどのようなものか医師に尋ねた。

 白髪混じりの医師は、眼鏡の奥から穏やかな視線を送った。

「自分を認める、それは確かにいいことだと思います。大切なことでもあるでしょう。他人から悪口を言われ、ひどく気にしてしまうのは、自分が他人の意見に影響を受けやすいというのがあって、裏を返せば、自分の意見がないということでもあるのです。だからこそ自分をしっかり認めてあげることで、少しずつ自信をつけていくことは、大切だと思いますよ。ただ……」

 駆は医師の次の言葉を待った。

「あなたの場合、その声というのは自分の中で発生しているものです。立ち向かおうとする相手が外にいるとは限らない。現実にはっきりとその声が誰が発したものかわかればいいですが、とても厄介なものと向き合う形になってしまう。加え、あなたの中で、自分への劣等感やら、声に対する考え方、声が出てくる原因などと言ったものが、もう普通に根付いてしまっているので、自分を認めるといっても難しいものになってしまうでしょう……。ですが、自分を認めてあげるというのはいい考え方でもあるので、できれば実行し、続けていってほしいですね」

 早苗の言っていたことに感謝はしたい。話を聞いてくれたことも、ありがたいことだった。

 しかし、医師に話を聞けば、それは一筋縄ではいかない事柄だった。

 何となく自分でもわかっている気がした。

 そう易々と、自分の将来に光が差すということはあることではないのだろう。

 思っていると医師からこう申し出があった。

「どうでしょう。次、仕事を見つけるのであれば、障がい者雇用で探してみるというのは?」

「障がい者雇用ですか……」

「雇用の幅を広げ、より仕事を見つけやすくするという狙いがあるのですが……」

「個人的には、そこまで障がい者って訳じゃない気もするんですが……」

「抵抗感を感じるのもわかります。長らく普通の雇用でやってきたあなたなら自信はあるのでしょうが、あえてそういう環境に受け入れてもらいつつ、社会というものによりなじんでいくために、一度そうした雇用で見つけるのもありではないかなと、私は思ったのです……」

 医師には少し考えさせてくださいと述べ、診察は終わった。

 クリニックから出ると、そのまま国分寺にある、就労センターへと向かった。

 一階のロビーを抜け、階段を上がると、両側に部屋を設けた廊下へと出る。

 片側には受付と、もう片方は自由に仕事を閲覧できるパソコン室があった。

 受付の隣の部屋には、相談室もあった。そこで相談員と仕事や自分のことなどを話し就職活動に役立てるという意図があった。

 そっと相談室を覗くと、人いきれからか少し空気がこもっている感じがした。仕切りでいくつもスペースが区切られ、その内側で相談員と一対一で話す。駆もパン工場で働く前に、幾度かここのシステムを活かそうと相談を持ちかけたことがあったが、そのときはやりたいことがないと言って、すぐに出てきた。

 自分の他にも、働き口を探している人は何人もいる。

 自分と同じ悩みを持つ人も、大勢いる……。

 それは決して自分と他者との比較を強制的に行うということではない。

 他者と同じものを自分も持っているのなら、現実の難しさも案外なんとかなるのではないか、と思えるのである。

 そう思えるのも、ある種の共闘感があるような気がしなくもないからだった。

 この病にしてみてもそうだ。

 もし悪口を言ってくる人や、すれ違う人の中に、自分と同じ症状を持つ人がいたとしたら……。

 元々、駆自身も自分が病であると認めるのに抵抗があった。

 今でこそそれを認識しつつ、時として自分の勘違いではないか、と少し自分と距離を置いて自らを見つめられることもある。

〈人はみな平等である〉

 どこかの誰かが悟ったようなこの言葉の存在を、心の奥底から掬い上げようとするなら、心持ちはいくらか楽になる。

 一方で、パソコンで仕事を探していると、給与の安さと自分の境遇に、平等とは何なのか、考えを改めなくてはならなくなる。

 落胆しつつ、ここに来る前に飲んだ缶コーヒーと昼に食べた牛丼の臭いのついた息を吐く。誰も寄せ付けない、異常なまでに臭い息だ。

 ――結局、給料の良し悪しに行き着くと、勉強してこなかった自分を責めることになるんだよな……。

 運転免許の資格は取っており、まだ働き口の幅は広い方だろう。だがペーパードライバーでもあるため、運転免許を活かせる職場に入っても事故を起こしそうで怖い。

 では、勉強をしっかり頑張っていれば順風満帆か、というと、脳裏に過るのは早苗の顔だった。

 ――勉強頑張って就職できても、先生のようになる場合もあるわけだし……。

 パソコンの画面に食い入るように見つめていた駆は、画面から顔を離し宙を見つめた。

 声が泳いでいる。

 人の心から出てきた声が、別の部屋から迷い混んできたのか。ノイズのように軋む音を立てながら虚空で浮遊する。

 単なるノイズならいいが、耳から心へと入り込み、何らかの影響を与える厄介な音だ。

 生きた魚のように、その宙で泳ぐ声はゆらゆらと潮の流れに身を任せているようだった。

 瞑目し、再びパソコンの画面に視線を注ぐ。

 ――それでも生きていかなくちゃならないんだよなあ……。

 施設から出、道を歩く。

 食べていくには、仕事を選んではいられない。

 自分の尻を叩き、速やかに見つけ出す必要がある――。

 曇天の隙間から、陽光が射し込む。

 生きていくために、人は何度も悩みに直面する。

 苦しくても、楽しくても、分厚い黒い雲に未来が覆われようとも、やがて希望の光は照らされる。誰の元にも朝が訪れるように。

 人生の途上だった。

 日が射すだけでもまだ良い方だろう。

 灰色に蠢く雑踏の中を駆は進んでいった。




 はしれはしれ

 光をめざして


 誰のために働くか

 僕自身のため

 生活のため

 潤いのため


 光をつかんでも

 止まることは許されない

 

 疲労の重しを

 体に乗せて

 僕よりも

 豊かな生活を送る人に

 見下ろされる


 傷心にひたる間もなく

 傷ついたら傷ついたで

 こうして言葉を綴る


 いつ終わるんだ

 どうすれば

 満たされるんだ


 はしれはしれ

 心ははやる


 一日を

 一週間を

 一ヶ月を

 通り抜けても

 ずっと

 満足できないまま

 結論が出せないまま


 みんな大変だ

 まだ報われているほうだ

 より過酷な人はいる


 わかっているさ

 それでも

 心に穴があいたように

 欲を欲で埋め立てても

 病かわからない

 胸の鼓動を感じながら

 僕は渇いていた

 他者の得た光を

 うらやんでいた


 はしれはしれ

 ゴールは遠ざかる


 僕は僕を燃料にして

 幸せという幻を

 追い続ける


                    

 宙を泳ぐ声     了


 最後まで読んでくださりありがとうございました!

 今後も作者の作品をよろしくお願いいたします!


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宙を泳ぐ声 ポンコツ・サイシン @nikushio

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